第7話 死闘の決着

 カインバルトとクザロの死闘は最終局面を迎えた。

 岩陰に隠れてタイミングを見計らっていたシグフリアは、倒れ伏したシャツァルに駆け寄る。大急ぎで走るさながら、驚きに満ちた竜眼が、死闘を演じる二人の剣士を捉えた。凄まじい速度で刃が舞っていた。変則的な猛攻を繰り出すカインバルトに対し、クザロは完成された正当な剣術で反撃している。

 重なり合った剣から火花が散り、遠く離れたシグフリアの皮膚を振動させるほどの衝撃音が轟く。どちらが優勢なのかすら素人には分からない。しかし、断言できることはあった。シャツァルやシグフリアに構っている余裕がない。


(互角以上に渡り合っているわ。すごい⋯⋯! カインバルト⋯⋯。辺境の用心棒がこんなに強いなんて⋯⋯。でも、おかげで師匠の治療に専念できる! お願い⋯⋯! お願いだから、目を覚まして。師匠⋯⋯!!)


 その間にシグフリアはシャツァルの助命を試みた。蒼刃で貫かれた心臓を回復魔法で癒やす。


「師匠⋯⋯! 傷口を塞ぎました⋯⋯!! 息を⋯⋯呼吸をしてくださいっ!」


 シャツァルの瞼が開いた。魔法で心臓の傷は完治させた。シグフリアが最も得意とする魔法は治癒だった。自分の才能に今ほど感謝した瞬間はなかった。


「良かった⋯⋯! 大丈夫です! 出血は止まりました。 絶対に、絶対にっ! 師匠は私が助けます⋯⋯!」


 両眼からは涙が溢れ出していた。傷口は塞いだがシャツァルは血を流しすぎている。生命維持に必要なマナも魔力に変換したせいで、刺し貫かれた心臓が動こうとしない。


「すまんな。シグフリア⋯⋯。生きるのじゃ⋯⋯。生き延びて⋯⋯遠くへ⋯⋯」


 宮廷魔法使いは最後の弟子に告げた。瞳孔が開き、呼吸が止まった。老魔法使いの肉体から魂が抜けていくのが分かった。


「待って⋯⋯っ! ダメ⋯⋯! お願い! 待って⋯⋯。置いていかないで⋯⋯! おじいちゃん⋯⋯!! 返事をして! おじいちゃん!!」


 シグフリアは泣き縋る。卵から孵化した幼竜を育ててくれた優しい宮廷魔法使い。祖国に反旗を翻して、自分を守ってくれた親にも等しい存在を亡くしてしまった。


「⋯⋯⋯⋯」


 泣き腫らした瞳でドラゴンの娘は、死闘の結末を目撃した。

 跪いたカインバルトは握っていた長剣を手放した。肺に溜まった血液を吐き出している。激しく咳き込みながら地面に両膝をついた。


「カインバルト⋯⋯!」


 蒼刃の魔法剣を振り上げたクザロは、最後の力を振り絞り、止めを刺そうとしていた。


(私のせいで⋯⋯死んでしまう⋯⋯)


 好きになれなかった無礼な用心棒。だが、全力を尽くして戦ってくれた。相手は帝国騎士団で最強と名高いクザロ。魔法と剣技の両方を極めた魔法剣士。兄弟子として慕っていた相手でもあった。カインバルトの敗北はシグフリアの死を意味する。

 死に対する恐怖は強かった。だが、自分を殺す相手がクザロで良かったとも思った。苦しまずに死ねるはずだ。


「ぇ⋯⋯?」


 追い詰められ、絶体絶命のカインバルトが手を前方にかざした。クザロの表情は驚愕で固まっていた。


 太陽が山々の稜線に重なり、岩滓がんさいが転がる〈冥府の河原〉が夕焼けに染まった。真紅の強光でシグフリアは目を逸らした。次の瞬間、クザロの右腕が地面に落ちた。無理やり固めていた血液が流体に戻る。蒼刃の魔法剣が転がった。

 クザロは仰向けに倒れた。宮廷でシグフリアを可愛がってくれた心優しい騎士は力尽きた。カインバルトは息を吹き返さないように、死体の首を長剣で貫いた。


「クザロお兄ちゃん⋯⋯」


 自分を殺しにきた刺客が返り討ちに遭った。それだけのこと。だが、クザロに対する親愛の情は捨てきれていない。

 帝都の宮廷で暮らし、魔法を学んでいた平穏な日常。戦争に出陣したクザロが帰ってきたときの喜び。今までの暮らしに嘘偽りはなかった。全ては運命に翻弄された結果だ。古代遺跡に記されていた不穏な予言さえなければ、ずっと幸福な日々が続くはずだった。

 傷だらけの用心棒は立ち上がり、ふらつく足取りでシグフリアに近寄ってくる。


「立て。シグフリア⋯⋯。悲しんでる暇はない」

「カインバルト⋯⋯。酷い怪我⋯⋯。目が⋯⋯。き、きずを⋯⋯! 傷を見せて! 動かないでください。私の魔法で治しますから」

「やめろ。無駄だ。俺に回復魔法は効かない。それよりも爺さんの治療を優先しろ。ゴホッ! ゴホォッ⋯⋯! うぐっ! はぁ⋯⋯はぁ⋯⋯」

「師匠は⋯⋯息を引き取りました⋯⋯」

「そうか。爺さんは死んじまったか⋯⋯。妬ましい死に顔をしやがって⋯⋯」


 カインバルトは羨ましげに老魔法使いの死に顔を見下ろした。


「とにかく止血を⋯⋯。こんな傷で動いたら死んでしまいます。お願いです。治療をさせてください」

「この程度の傷なら俺は死なない。とにかく移動するぞ。ここから離れる」

「そんな身体で⋯⋯無茶です⋯⋯!」

「戦いが終われば死臭を嗅ぎつけた魔物が寄ってくる。いくら俺でも、この状態だとろくに戦えない⋯⋯。ここでは俺の指示に従え。何のために休ませてやったと思ってるんだ。お前を無駄死にさせるわけにはいかない。足を動かせ」

「⋯⋯はい」

「帝国騎士クザロからの遺言だ⋯⋯。『守ってくれなくてすまなかった。妹のように愛していた』だとさ。⋯⋯ちゃんと伝えたぞ。ごほっ! ごほぉっ! クソ野郎め⋯⋯。肺にデカい穴を空けたくせに、遺言まで押し付けやがって⋯⋯。俺を何だと思ってやがる」


 シグフリアに寄りかかったカインバルトは吐血を繰り返した。


「はぁ⋯⋯はぁ⋯⋯。ごほっ! がぁ⋯⋯。うっ⋯⋯! ごほっ!! うぐぅっ⋯⋯はぁ⋯⋯。二人の死体は⋯⋯運べない⋯⋯。爺さんとクザロの弔いは諦めろ。それも分かってくれるよな」

「はい。分かってます」

「悪いな⋯⋯」


 魔物が死体を貪り食っている間に、逃げる時間ができるとまでは言わなかった。しかし、シグフリアは気付いているようだった。あえて分かっていない振りをしてくれた。


「代わりにこれをやるよ。帝国騎士クザロの魔法剣だ。シグフリアに譲るそうだ。俺の左目を潰した憎たらしい蒼刃の武器⋯⋯本当なら叩き折ってやりたい⋯⋯」


 カインバルトは血塗れの魔法剣をシグフリアに押し付ける。魔法騎士クザロの愛剣であり、宮廷魔法使いであった師匠が創り上げた国宝級のアーティファクトである。魔法剣の柄をシグフリアは握り締めた。


「あぁ、最悪だ。雨が降ってきやがった⋯⋯」


 大粒の雨が大地に降り注ぐ。バウシュビッシュ渓谷は暗雲が立ちこめ、雷雨の気配が色濃く漂い始める。ふらつくカインバルトを支えながら、シグフリアは歩み始めた。




 ◆ ◆ ◆




 シグフリアはカインバルトの指示通りに進んだ。ずぶ濡れになった二人の足取りは重たかった。雨水を吸って重たくなった服が肌に張り付いた。

 朽ちた大樹のうろに辿り着いたのは、完全に太陽が沈む直前だった。

 樹齢数百年を超える霊樹はすでに枯れている。だが、死してなお、根は大地に深く張っていた。

 根の隙間は人間が屈んで通れる大きさで、空洞となっている内部に、雨風は入ってこない。魔物除けの銀鎖が巻かれており、魔物は近づけないようにされていた。


「物好きな魔女がいたんだ⋯⋯。ろくでなしの変人⋯⋯。結界術の腕は確かだった。この隠れ家を知ってるのは、ほとんどいない。⋯⋯バウシュビッシュ渓谷では比較的安全な⋯⋯ごほっ⋯! はぁはぁ⋯⋯。物資を地面に埋めてるから掘り出してくれるか?」


 シグフリアはカインバルトが指差した場所を掘る。地面に埋まっていた木箱には、飲用水と固形食料が詰め込まれていた。傷口を縫うための医療針と縫合糸、血止めのガーゼや包帯などの医療品もあった。


「あの⋯⋯。本当に治療薬は使えないんですか⋯⋯?」

「使ってもいいが、薬の浪費になる。俺は毒が効かない体質だ。そのせいで薬も効かない」

「薬が効かない体質⋯⋯?」

「魔法が効かないのと同じ原理だ」

「ごめんなさい。回復魔法や治療薬も使えない場合、左目は⋯⋯」


 シグフリアは申し訳なさそうにしているが、痛々しく潰れたカインバルトの左目は、回復魔法を使ったとしても元通りにはならない。


「謝らなくていい。分かりきっていたことだ」


 クザロの魔法剣で深々と突き刺された。侵入角を絶妙に調整しなければ即死していた深手だった。


「脳に達してないだけ上出来さ。左目を犠牲しなければ、クザロの心臓を貫けなかった。片目程度なら安い代償だ」

「お強いんですね。失礼ですけど⋯⋯私は⋯⋯。その⋯⋯カインバルトがクザロさんに勝てるとは思っていませんでした」

「本当に失礼な奴だな⋯⋯。だが、そりゃそうだな」

「私は師匠よりも強い魔法使いを知りません。でも、そんな師匠でさえクザロさんには勝てないと言っていました。自分よりも弟子が強くなったと喜んでいたくらいです」

「シグフリアの抹殺が命じられる前までは、喜んでいられただろうな。あんだけ強い帝国騎士が味方なら心強いだろうさ」


 止血用の綿を左目に詰め込む。右胸に空いた穴は既に塞がりつつあった。


「信じられない。出血が⋯⋯もう止まってる⋯⋯」


 シグフリアはカインバルトの驚異的な治りに驚きを隠せなかった。


「傷口が綺麗だったからな」

「胸部の傷は塗っておきますね。縫合すれば治りは早くなります。内臓にも細菌が入らないようにしないと⋯⋯」

「水で身体を貫かれたのは始めてだ。刃物で切り裂かれるよりはいいかもしれないな」

「濡れた服を脱ぎましょう。指先が冷たくなってます」


 火を熾して風雨に晒された身体を暖める。カインバルトとシグフリアはずぶ濡れの服を脱いで薄着になった。シグフリアは恥ずかしそうに胸元を隠す。出会って三日と経っていないが、相手は命懸けで戦ってくれた恩人だ。素肌を晒したくないなどと我が侭は口にしなかった。

 むしろ大怪我を負ってまで戦ってくれたカインバルトに、自分はどんなお礼ができるのかと悩んでいた。


「本当にごめんなさい。⋯⋯最初に会ったときは失礼な態度でした」

「気にするな。警戒心はあったほうがいい。これから先はもっと必要になるぞ。愛想のほうも使い分けていけ⋯⋯」


 カインバルトの吐血が収まってきていた。出血が止まり、右肺に溜まった血液を吐き終えた。吸い込んだ空気が漏れるものの、もう片方の肺が機能している。身体を休めれば問題はなさそうだ。


「報酬の件ですが⋯⋯」


 シグフリアが差し出してきた金貨入りの小袋をカインバルトは受け取らなかった。


「成功報酬は半分でいい。依頼を完遂できなかった。それと受け取りはバウシュビッシュ渓谷を越えてからだ。まだ街道に辿り着いていない」

「いえ、受け取ってほしいです。それだけの働きをしてくれました」

「その金は必要だ。クライド王国に逃げ延びた後はどうする気だ。その金は必要になる。持っておけ」

「⋯⋯どうしてそこまで⋯⋯親切にしてくれるんですか?」

「これだけ必死に戦ったんだぞ。生き延びてもらわなきゃ丸損だ。俺だけじゃない。宮廷魔法使いの爺さんは生涯をかけて積み上げた地位を捨て、命を犠牲にしてまで、シグフリアを守ろうとした。帝国騎士クザロも苦渋の決断って顔をしてた。⋯⋯無意味に人が死ぬのは間違ってる。意味を持たせろ。それがせめてもの義務だろ」

「私は世界を滅ぼすドラゴンかもしれませんよ。遺跡に残されていた記述が正しければ⋯⋯私は人々の安寧を脅かす邪悪な⋯⋯存在です⋯⋯」

「そっちは興味がない。馬鹿らしい与太話に思える。仮にシグフリアが世界を滅ぼすとしても⋯⋯。それはそれでいい」

「⋯⋯え」

「俺は戦争で人を殺しすぎた。大勢殺した。殺せるだけ殺して⋯⋯屍の山を作ったよ⋯⋯。正しい行いをしたつもりだったが、実際はどうだったのか分からない。一つだけ言えるのは⋯⋯殺される側からすれば⋯⋯理不尽極まりなかったはずだ⋯⋯」

「私を助けようとしてくれているのは、過去の償い⋯⋯ですか?」

「買いかぶりだな。そんな殊勝な心掛けでもない」

「そんなことはないと思います。助けてくださって、本当にありがとうございます」

「⋯⋯⋯⋯」


 正義を掲げて戦った。だが、戦場には人殺しと死体しかなかった。思い返せば、帝国の辺境で用心棒の仕事を始めたのは、誰かに感謝されたかったからなのかもしれない。


「誰かのために戦って、お礼を言われるのは悪い気分じゃないな」


 左目を失うだけの価値はあった。カインバルトは帝国騎士クザロの最期を追憶する。敗死を悔しがっていたが、死に顔の口元は笑っていた気がした。妹のように可愛がっていたシグフリアを殺さずに済んで安堵していたのだ。

 宮廷魔法使いの老人も満足げに死んでいった。弟子を手にかけたくなかったのだろう。シグフリアを見捨てられず、かといってクザロを殺せなかった優しい魔法使いにとって、全てを終わらせる死を救済だった。

 カインバルトは思わぬ形でシグフリアを託された。世界に終焉をもたらすと予言された竜娘。これから先もレヴァンティール帝国は刺客を送り続けるかもしれない。クライド王国に逃したとしても、根本的な問題は何も解決していなかった。


「シグフリア⋯⋯。変な気は起こすなよ」


 下着姿のシグフリアが寄り添ってきたのでカインバルトは警告した。心外そうな目付きで唇を尖らせた。


「寒そうだったので⋯⋯。それと本名で呼んでくれないのですか?」

「帝国で使ってた名前は捨てるんだ。偽名のシグフリアが本名だ。正体は隠し続けなきゃならんだろ」

「⋯⋯それも⋯⋯そうですね。分かりました」


 シグフリアの竜尾には体温が通っていた。カインバルトは尻尾の先端を摘まむ。


「爬虫類なのに変温動物じゃないのか⋯⋯。蛇や蜥蜴トカゲとは違うようだ」

「あの⋯⋯。命の恩人とはいえ、さすがに怒りますよ⋯⋯? 失礼です。気遣いがありません。まるで師匠みたいです。卵から生まれてきたのに、お臍の穴があるのは変だ⋯⋯。そんなことを大真面目に言う人でした」

「実際、変だな。卵生なら臍の緒はないはずだし、授乳しないから乳首も――」

「そこから先は言わないほうが紳士的ですよ?」


 文句を言いながらもシグフリアは身体を密着させて、カインバルトの冷えた身体を温めてくれた。

 素肌を重ね合うシチュエーションだというのに、カインバルトは首を傾げていた。下着姿のシグフリアを間近で観察できるため、乳首の突起は目視できてしまった。

 成長の余力を残している豊かな胸部。しかし、乳房は哺乳類の証である。頭部の二本角やお尻から生えた竜尾などより、膨らんだ乳房のほうが不可思議だった。


(結局のところ、シグフリアは普通の人間と変わらない。親しい人間が死ねば涙を流す⋯⋯。俺なんかよりも、よっぽど正しい人間じゃないか?)


 カインバルトは、一度も涙を流したことがない。人間性の程度が低劣な己を内心で嘲った。

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