第5話 騎士と死神

 黒旗軍兵団レギオンの防衛陣を崩し、蒼刃の切っ先が老魔術師の右肩を切り裂いた。水を操る魔法は、大魔法防護によって弾かれる。だが、物理的な攻撃は有効だった。肩甲骨が絶たれ、寸断された動脈から血飛沫が上がった。老体には致命傷の一撃である。


「――うぐぅっ!?」


 クザロは苦悶の表情で、師匠の心臓を刃で貫いた。殺し合いであれば勝つ自信はあった。しかし、生け捕りにしようとすれば足下をすくわれる。実力差はあっても、その差は紙一重ほどの微妙なものだ。


「お許しください⋯⋯。先生⋯⋯!」


 皮肉にもクザロが振るう蒼刃の剣は、師匠からの贈り物だった。クライド王国との戦争に出陣する際、愛弟子に与えた魔法剣。剣を受け取ったとき、「必ず帰って来てほしい」と泣きじゃくる少女の姿もあった。

 妹のように可愛がっていた妹弟子。竜の角と尻尾が生えている以外は、人間と何ら変わらなかった。せがまれて剣の使い方を教えもした。古代遺跡の碑文に、世界を滅ぼす存在だと記されていなければ、平穏な日常を帝都で過ごせていたはずだった。


「はぁ⋯⋯はぁ⋯⋯。気にするな⋯⋯。クザロ⋯⋯。お前は⋯⋯自身の役目を全うしただけじゃ⋯⋯」


 大魔法防護が解除された。レヴァンティール帝国でもっとも強大な魔力を持つ老魔法使いであったが、古代魔法の常時発動に加えて、大技の度重なる連発。魔力がついに底をついた。


 ――クザロは勝利を確信した。


 勝利の余情などはなかった。あるのは恩師を殺めた罪悪感。しかし、戦闘不能に陥った老人は、まだ絶命していない。心臓を貫いたが、大魔法防護が切れて血液を操れるようになった今なら、救命できるのではないか。そんな迷いが生じてしまった。


(先生の魂が肉体から離れる前に、回復魔法で治療すれば⋯⋯!)


 皇帝の命令には逆らえない。妹弟子は殺さねばならなかった。だが、宮廷魔法使いブラウトは可能な限り生かして連れ戻せと言われている。


 ほんの一瞬だけ、クザロは気を緩めてしまった。


 油断と言えるほどの隙ではなかった。刹那にも満たぬ警戒感の緩み。探知魔法を展開していたことも仇になった。生き物には必ず魔力がある。魔法使いでなくとも、人間は微細な魔力を身体に宿しているのだ。どれだけ抑え込んでも、小さな波長は残る。いわば、魂の足跡だ。


「⋯⋯!?」


 クザロの驚愕と恐怖は言い知れぬものだった。突如として背後から現れたカインバルトは、帝国騎士の首を刎ねようとする。瞬間移動で現れたような突然の強襲。即座には対応できなかった。


(⋯⋯この男っ! 逃げたはずじゃ⋯⋯! どこから湧いて出た⋯⋯!?)


 カインバルトの目論み通りであれば、クザロを容易に仕留められる唯一無二の機会だった。

 実際、クザロは死を覚悟した。カインバルトが仕掛けた奇襲のタイミングは完璧だった。いくつもの死線を潜り抜けた百戦錬磨の帝国騎士であろうと、恩師を手にかけた瞬間だけは警戒が緩む。


「――ちっ! やはり、こうなるか?」


 振り落とされた凶刃はクザロの頸動脈を掠める。反応がほんの少しでも遅れていれば、クザロは絶命していた。


「昔から俺は運が悪い。上手くいかないものだ。これで首を落とせれば儲けものだった。切り飛ばせたのは耳だけか」


 カインバルトの長剣はクザロの右耳を切り落とした。狙いを外してしまったが、落胆はしていなかった。こうなることは予想ができていた。


「よほど弟子が可愛いらしいな。シャツァルさんが押え付けてくれれば仕留められた。いや、宮廷魔法使いのブラウトと呼ぶべきか? いや、どちらでもいいな」


 クザロの命を救ったのは、心臓を貫かれて死にかけのシャツァルだった。無意識であったのだろうが、庇うように身を乗り出し、カインバルトの凶刃から愛弟子を逃してしまった。


「なぜ⋯⋯どうして逃げなかったのじゃ⋯⋯!?」

「逃げたところで、どうせ追いつかれる。単純明快な結論が導かれるわけさ。爺さんには悪いが、こいつを殺すしかない。弟子のうち、一人は死ぬ運命だ」


 カインバルトの両眼がクザロを捉えていた。古びた長剣からは鮮血が滴っている。


「貴様は⋯⋯。街で雇われた用心棒だな⋯⋯?」

「ああ、そうさ。カインバルトと名乗っている。アンタが殺しがっている爬虫類娘を安全な場所まで逃がす。それが俺の仕事だ」

「命が惜しくないのか? 貴様を殺せとは命じられていない。見逃してやる。ただし、ここで起きたことは口外するな」

「いいのか? あと少しで首を落とされていたというのに⋯⋯。寛大な騎士様だ。くっくくくくく⋯⋯。お人好しばかりだな」


 ニヤつきながらカインバルトは長剣に付着した血液を払い飛ばした。切り落としたクザロの右耳を念入りに踏み潰す。


「どういうつもりだ? まさか戦うというのか?」

「それはアンタ次第だな。同じ言葉を返そう。今なら見逃してやらんでもないぞ。依頼は護衛だ。帝国騎士を殺せとは命じられていないからな」

「金欲しさか? 貴様は命が惜しくないのか? 死に急ぎの馬鹿が⋯⋯」

「どうだろうな。自分でもよく分からん」


 相手は無名の用心棒。奇襲で手傷を負わされてしまったが、帝国騎士団の最精鋭が遅れを取るような相手ではない。クザロは恩師の血で濡れた蒼刃の魔法剣を構える。


(やはりだ。おかしい。こいつの身体には魔力が通っていない⋯⋯。接近に気付けなかったのは魔力を感じ取れなかったせいだ。探知魔法が阻害されている)


 探知に一切引っかからない。魔法使いの研ぎ澄まされた鋭敏な感覚器官をもってしても、カインバルトの肉体に宿っているはずの魔力が感じ取れない。


「――うぅッ!?」


 クザロはとてつもない重さの剣撃を受け止めた。特殊鉱石で鍛え上げられた蒼刃が悲鳴を上げている。刃先が赤熱を帯びて発光する。ギリギリと不快な摩擦音が右腕に伝わってきた。


(何なんだ! この重さは⋯⋯!? 異常だ! 速さだけでなく、膂力りょりょくも化物染みているっ⋯⋯! くぅうっ! 魔力で強化しているのに、私が押し負けているだと⋯⋯!!)


 間合いが一瞬で制圧された。クザロの反応がわずかにでも遅れれば、黒革の鎧に施された護りを切り裂き、胴体を真っ二つに割っていただろう。


(魔力強化も使わずにこの剛力⋯⋯!? 素の身体能力がずば抜けているのか⋯⋯!? このままでは不味い⋯⋯!! 受け流さなければ、腕の間接が外されてしまう!)


 蒼刃が軋んでいる。魔法剣でなければ折られていた。クザロは剛剣の一撃をどうにかしのぎきる。だが、衝撃を逃がすために後退を余儀なくされた。


「アンタは帝国騎士の筆頭らしいな。名誉だけにとどまらず、実戦経験も豊富ってわけだ⋯⋯。はてさて、俺の薄汚い戦法はどこまで通じるかな?」


 大柄な体躯に相応しくない軽快な足捌きで、カインバルトは攻め立てる。不規則に咲き乱れる剣撃は、防戦の帝国騎士を翻弄する。


「何だ! 何なんだ! 貴様は⋯⋯!? どこの者だ⋯⋯!?」

「アンタと違って、俺にたいそうな肩書きはない。ああ、そうそう。この剣は戦場での貰いモノだ。クライド王国の人間ってわけじゃないぞ」


 猛攻の最中、カインバルトは足下に転がっていた岩石を爪先で蹴り上げる。


(岩を⋯⋯!? なにをする気だ?)


 カインバルトは宙に浮いた石を裏拳で砕き、粉塵をクザロの顔面に浴びせかけた。


「ぅぐっ⋯⋯!?」

「どうした? 目に砂でも入ったか? そいつはお気の毒だ」


 剣技は我流、戦法は卑劣。帝国騎士とは真逆の戦い方であったが、一つだけは断言できた。


(戦い慣れしている。やられた! この用心棒⋯⋯! 戦い方が私とは正反対だが⋯⋯文句なしに強い⋯⋯!!)


 連戦の疲弊を考慮しても、一筋縄では倒せない相手だと判断する。手加減をするような余裕はない。無益な殺生を嫌う正確のクザロだったが、この期に及んで魔法を出し惜しみはしなかった。


(この用心棒を剣技だけで負かすのは骨が折れる。魔法を使うしかない! 体内の水分を暴走させて仕留めるッ⋯⋯!!)


 対策を講じられていたせいで師匠には通じなかったが、水を操るクザロの魔法は無類の強さを誇る。


(まずは心臓を潰す! 死ねいっ⋯⋯!!)


 体内の水分を支配下に置き、人体急所を破壊する。これまでも格上の剣士を魔法攻撃で葬り去ってきた。


「は? 馬鹿な⋯⋯なぜだ? まさかお前は⋯⋯!? ぐぁっ!?」


 腹部を猛烈な蹴りを入れられて、クザロは地面を転がった。いくつもの岩石を砕き、吹き飛んでいった。


(革鎧に組み込んだ防御術式が砕け散った⋯⋯。単なる蹴りでこの威力⋯⋯。痛烈だ⋯⋯。死ぬほど痛む⋯⋯。意識が途切れかけた⋯⋯)


 常人であれば内臓破裂で即死する。だが、カインバルトは手応えで仕留めきれていないのが分かった。


「綺麗に吹っ飛んでくれたな。蹴り心地は最高だったぞ。それにしても丈夫な肋骨だ。折り損ねてしまった」


 近くに転がっていた岩石を蹴り砕いて、倒れ伏したクザロに破片を飛ばす。クザロは水壁を展開し、超音速で襲いかかってきた岩石の砕片を防いだ。


「ほう。水を操る魔法⋯⋯。無詠唱での発動もできるのか? 厄介な魔法だ。人体の水分も操れると聞いている。単純でありながら殺傷能力が強力。えげつない。さすがは帝国最強の魔法剣士。その評判は間違いではなさそうだな。俺のような人間でなければ魔法の影響下に入った瞬間、勝負が決まってしまう」


 カインバルトの肉体はクザロの魔法攻撃を完璧に防いでいた。身体の調子を確認するが、ダメージは一切受けていない。


「ここまで蹴り飛ばせば十分だな。シャツァルとシグフリアは魔法攻撃の射程圏外。アンタの魔法は強すぎる。だが、魔法術式には明確なルールがある。範囲外にまで影響は及ぼせない」


 舞い上がった砂埃を振り払い、滴り落ちた血の跡を辿る。カインバルトの両眼はクザロを補足し続けていた。


「油断した⋯⋯。私の魔法が効いていないな? 思い出したよ。反魔法体質者アンチ・マジック。魔法史の授業は、もっと真面目に聞いておくべきだった。魔法学院の教本に貴様のような人間がいると⋯⋯魔法を無効化する人間の記述があった⋯⋯!」


 地面に片膝をついたクザロは、痛みが暴れ回っている脇腹をさする。魔力で肉体を強化していたため、肋骨は折れていなかった。だが、衝撃は内臓に損傷を与えている。


「不勉強に助けられたな。反魔法体質者アンチ・マジックは極めて希な体質だ。魔力を持たざる者。戦争で一人だけ見かけた。アンタの気持ちはよく分かる。魔法が効かないのは厄介だろう?」

「いかなる魔法も受け付けない特異体質者⋯⋯! 納得した。通りで貴様の肉体には魔力が微塵も宿っていないはずだ」

「アンタの魔法は水を操る。水を動かす程度の魔法使いは腐るほどいる。だが、人体に含まれた水分すらも支配できるのは、帝国広しといえど、たった一人だけだろう。人間の体は強力な結界。内側に魔法効果を及ぼすのは、言うなれば反則の即死技だ」

(魔法に関する基礎的な知識があるようだな。この用心棒は魔法使いとの戦い方を熟知している。気を引き締めろ。敵を侮るな⋯⋯! この用心棒には殺されるかもしれない⋯⋯!)


 人体の水分を操る高等魔法。クザロの特異な魔力性質がなければ、まず不可能な魔法だった。

 クザロが魔力で生成した人工水は、浸透した液体を絶対的な支配下に置く。古代魔法で人体を防護していない限り、防げない究極の攻撃魔法である。


「いかなる魔法も受け付けない。たとえ帝国最強の魔法騎士であろうとも⋯⋯。アンタの魔法は無価値だ。なぁ、この意味が分かるか?」


 カインバルトに指摘されて、クザロは自身の肉体で生じている凶変に気付いた。

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