第2話 冥府の河原

 一日目の野営は何事もなく終わった。

 カインバルトとシャツァルが交代で不寝番を行い、シグフリアにはたっぷりと休息を取らせた。

 気遣われた当人は大いに不満だったようだが、これから先の過酷な旅路を思えば、序盤で体力を消耗するわけにはいかなかった。

 朝露あさつゆで濡れた天幕てんまくたたみ終えると、カインバルトは旅慣れていない二人に指示を飛ばした。


「野営の後始末はしなくていいぞ。痕跡は消せない。焚火の灰を埋める時間すら惜しい」


 矢継ぎ早に理由を説明する。


「追跡者がいるのなら、どうにもならん。ここから先は邪魔な草木を切り倒して進む。どうやっても道中に痕跡が残る。一秒でも早く出発して距離を稼いだほうがいい。今日は休憩無しで進むつもりだ」


 雨の予兆はない。だが、バウシュビッシュ渓谷の天候は変わりやすい。峻厳しゅんげんな大自然が生み出した要害をカインバルトは睨みつける。予知はズレることがある。見立てを外したことは一度もないが、カインバルトは用心深い。自身の能力を過信しない性格だった。


「あの⋯⋯。そんなに急ぐのなら、昨日のうちにもっと進めばよかったのではありませんか? 今さら言っても手遅れですけど」

「昨日は休む必要があった。理由はいずれ分かる。最善の選択をしているつもりだ」


 シグフリアはまだ納得がいかないようで、下唇を噛んで子供っぽい不満顔をあらわにする。カインバルトの真意に勘付いたのはシャツァルだけだった。老魔法使いは年季が刻まれた白杖を握り締める。


「なぜ急ぐのじゃ?」


 シャツァルは声量を抑えて訊ねる。シグフリアは会話に気付いていない。意図を察してカインバルトも小声で答えた。


「追手だ。昨日の夜、魔物の断末魔が聞こえた。夜間も突き進む命知らずが距離を詰めてきている。アンタらの敵だろうな。つまり、俺の敵だ」

「⋯⋯そうか。ならば⋯⋯位置を探ろう」

「待て。索敵魔法は使うな。魔法を使うのは必要なときだけだ。最初に決めただろう。ここでは俺の指示に従ってくれ」

「⋯⋯⋯⋯」

「あの嬢ちゃんをクライド王国に逃したいのなら、雇った用心棒を信用してほしいもんだ。まだ距離はある。すぐには追いつかれない」

「そうじゃな⋯⋯分かった。お前さんに従おう」


 シャツァルは白杖に込めた魔力を鎮めた。


(とんでもない手練れだな。夜通し進んで、俺達の痕跡を追ってきている⋯⋯。まさか単独で⋯⋯?)


 バウシュビッシュ渓谷を縄張りとする盗賊はいない。襲われるのは街を出たときから目を付けられていた場合だ。初日にすぐさま野営したのは、尾行の有無を確認するためであった。

 シャツァルとシグフリアは帝国の関所を通れない事情を抱えている。逃げ道が断たれた状況で、後方から迫る脅威は大きい。


(情報の出所は酒場だろうな。俺をシャツァルに紹介した店主は金で転ぶ男だ。いくら積んだかは知らんが⋯⋯)


 追手が夜に街を出立したと仮定し、追いつかれるまでの時間を逆算する。


(急げば何とか間に合うだろう。⋯⋯だが、時間との勝負だ。今夜は雨が振る。なんにせよ、運命の別れ道だな)


 眉間に皺を寄せたカインバルトは、長剣の柄に手を添える。剣を使わずに済めばいいが、避けられない戦いもある。


「ここから先に進めば、もう戻れないがそれでも進むか?」

「え? 今さらですか?」

「うむ。もはや戻る選択肢はなかろう。なぜ今になってそんな質問をするのじゃ?」


 カインバルトはシグフリアとシャツァルに告げる。


「最終確認だ。バウシュビッシュ渓谷を越える依頼を受けたとき、必ずここで確認してる。引き返す選択肢がないのないのは、嬢ちゃんだけな気がしてな」


 カインバルトはシャツァルだけに語りかけていた。申し訳なさそうに顔を伏せているシグフリアの反応を見れば分かる。厄介事の原因は間違いなくこの少女だ。シャツァルは損な役目を押し付けられた人間。カインバルトには容易に想像できた。


「余計なお節介だったのなら聞き流してくれればいい。どんな形であれ、受けた依頼は完遂する。だからこその最終確認だ。どうなんだ。シャツァルさん」

「まさしく余計なお節介じゃな。シグフリアを会ったばかりの用心棒に預けて儂だけ戻るなど⋯⋯ありえぬだろう?」

「レヴァンティール帝国に愛着があるように見えたが? 帝都の人間だろ。それも貴族のお抱えになれるような立派な魔法使い。違うか?」

「否定はせぬよ。帝国は愛する故郷じゃ。だが、それでも儂は選んだ。会ったばかりの他人に気遣われるほど、儂は迷っているように見えたかのう?」

「迷いが見えなかったからこそ、気になっただけだ。悪かったな。出過ぎた真似だった。⋯⋯すぐに出発しよう」


 カインバルトは荷物を抱える。シグフリアに割り振った分の荷物も、自分の背に重ねる。


「ちょっと⋯⋯! 待ってください! その荷物は私の⋯⋯! 自分で持てます!」

「気遣ってるわけじゃない。嬢ちゃんの荷物を持つのは今日だけだ。明日からは、俺も自分のことだけで手一杯になる。もしかすると手を借りるかもな」

「シグフリア。用心棒殿の厚意に甘えても良いと思うぞ。文句を言うのはそれこそ子供じゃ。を超えておるのだから、年相応の分別を付けねばな」

「⋯⋯はい。分かりました」


 頬を膨らませたシグフリアは、カインバルトを睨んだ。だが、カインバルトが驚愕の表情を浮かべているのに気付いた。


「十七歳なのか⋯⋯?」

「⋯⋯それが何か?」

「てっきり⋯⋯いや、何でもない。嬢ちゃん呼ばわりして悪かったな。今後は改める」

「ええ。是非ともそうしてください」


 シグフリアはちっとも気付いていなかった。だが、人生経験が豊富なシャツァルは、カインバルトの内心を見抜いたようだ。口元をかくして意地悪に笑っていた。


(まさかシグフリアが俺より年上とは⋯⋯。十三歳くらいだと思ってたぞ。思ったよりも年増だった。今さら敬称付ける気にもなれない。仕方ない。これからは呼び捨てにするか⋯⋯)




 ◆ ◆ ◆




 カインバルトを先頭に、シグフリアとシャツァルは秘境の道なき道を進んだ。

 標高が高くなれば樹林帯の終わりが見えてくる。バウシュビッシュ渓谷を越える際、必ず通ることになるのが〈冥府の河原〉と呼ばれる岩屑がんせつの台地だ。

 比較的平坦な地形に岩石の破片が転がっている。

 風雨に晒された渓谷の断崖が崩れ、岩石流の溜まり場になった場所。蘊蓄うんちくが豊富な商人は以前にそう語っていた。


「――ここまでだな」


 カインバルトは荷物を岩陰に置いた。朝から昼休憩なしでの強行軍。シグフリアの表情には疲労の色が浮かんでいた。強がっていたが、慣れていない若娘には荷物無しでも辛い道のりだった。だが、休ませるわけにはいかない。


「座るな。シグフリア。敵に追いつかれた」

「え⋯⋯?」

「索敵魔法でこちらの正確な位置を確認してきた。もうすぐ現れるぞ」


 岩に腰掛けようとしたシグフリアの肩をカインバルトが持ち上げた。老練の魔法使いであるシャツァルは敵の接近に気付いていた。


「どうやらそのようじゃな。この魔力⋯⋯。馴染みの気配じゃ。この悪路ではとても逃げ切れぬ」

「追手は顔見知り? 難儀だな。相手も魔法使いか?」

「魔法と剣技、双方を極めた傑物じゃよ。帝国騎士の筆頭クザロと言えば知っておるかな?」


 カインバルトの顔色が曇った。


「クザロといえば帝国騎士団で一番強い魔法剣士だろ。戦争でも名前はよく耳にした。西部戦線でとんでもない戦果をあげた英雄だ。おい。アンタら何をやらかしたんだ。皇帝暗殺でも企んだのか? それともシグフリアは誘拐してきた皇女か何かか?」

「面倒事に巻き込んだことは⋯⋯すまんな。謝って済む問題ではないが⋯⋯」

「言っておくが、騎士殺しは重罪だぞ。俺も今日から共犯者か?」

「用心棒であるお前さんにそこまでは求めぬ。儂が残って時間を稼ぐ。その間に逃げるのじゃ。成功報酬はシグフリアに持たせてある」

「二人だけで逃げろと?」

「ああ、そうじゃ。その娘をどうにか逃がしてやってくれ。後生の頼みじゃ」

「やはり厄介事だったな。依頼を受けたときから分かりきっていたことだが⋯⋯。行くぞ、シグフリア。重たい荷物はその辺に捨てろ。邪魔になる。持っていくのは最低限の食料だけだ」


 カインバルトはシグフリアの手を引く。さっさと逃げなければならないが、シグフリアの足は重たかった。


「お師匠様⋯⋯!」

「大丈夫じゃよ。心配するでない。儂は帝国最高の大魔法使いと呼ばれた男じゃ。不出来な兄弟子を追い払ったら、すぐに後を追う」

「はい。お待ちしています⋯⋯」

「感動的なお別れの最中にすまないが、早めに済ませてくれ。追手のご到着だ」


 もたついているシグフリアをシャツァルから引き離したときだった。〈冥府の河原〉に長身の若い帝国騎士が現れた。黒革の軽装鎧に身を包んだ青年は、悲しげな眼差しをシャツァルとシグフリアに向けた。


(あれが魔法騎士クザロ。若いな。兄弟子と言っていたが⋯⋯。なら、この爺さんは帝国の宮廷魔法使いってところか? 皇帝お抱えの大魔法使いが連れてるシグフリアは⋯⋯? ん? どういうことだ? 本当に皇女だったりするのか? 政争に巻き込まれてクライド王国に亡命⋯⋯? いや、もうワケが分からん。今は考えてもどうしようもない)


 カインバルトに課せられた使命はシグフリアの生命を守る。その一点だけだ。


「シグフリア。自分の魔力を抑制できるか?」

「はい。ですが、相手はクザロ様です⋯⋯。わずかな痕跡でも辿ってきます」

「だろうな。戦闘の最中も索敵魔法を常時展開するか?」

「いえ、それは⋯⋯そんな余裕はないと思います」

「同感だ。シャツァルさんが⋯⋯あの爺さんの本名かどうかは知らないが、相当な魔法使いだろ? 相手が帝国の筆頭騎士だとしても、それなりに食らいつく。魔力を隠蔽して岩陰に潜むぞ」

「カインバルトさんは⋯⋯」

「呼び捨てでいい。俺は探知や索敵にかからない。自分の身を守ることに専念しろ。シグフリアさえ生き残れば⋯⋯チッ⋯⋯! 血気盛んな帝国騎士だ。狙いあくまでもこっちか。振り落とされるなよ」

「え! きゃっ⋯⋯!?」


 カインバルトはシグフリアを担ぎ上げて岩場を蹴った。正確無比に放たれた魔法攻撃は、シグフリアの急所を捉えていたが、カインバルトの俊足には追いつけなかった。


「な、なにを! ちょっ⋯⋯!?」

「不可抗力だ。耳元で騒いだりするなよ。射程圏外まで運んでやる。おっかない野郎だ。誇り高い帝国騎士ってのは、名乗りを上げてから攻撃を仕掛けるもんじゃないのか?」


 奇襲を掻い潜ったカインバルトは、さらに速度をあげる。人間を一人抱えての動きとは思えぬ俊敏さであった。


「きゃ⋯⋯はぅっ⋯⋯!」

「口は閉じてろ。舌を噛むぞ」


 岩塊が散乱する足場の悪い環境下で、重力を感じさせぬ軽やかな跳躍で距離を稼ぐ。化物染みた脚力に物を言わせた走法であり、踏み台にされた岩には亀裂は走っていた。振り落とされそうになったシグフリアは、カインバルトの筋肉質な身体にしがみ付いてしまった。


(信じられない⋯⋯! カインバルトの身体からは魔力を欠片も感じないわ。素の身体能力だけで、こんな動きが人間にできるの⋯⋯!? 私を抱えながら、これだけの距離を一足飛びで⋯⋯! すごい高さ⋯⋯!)


 シグフリアが感じた驚愕は敵側のクザロも抱いていた。殺す気で放った魔法を掻い潜られ、飛行魔法を使ったかのような大跳躍で逃げ去っていった。

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