弐ノ漆 いつかどこかへ行ってみたいと思いませんか
首都、河旭(かきょく)の街に戻った三人と一匹。
「ほほう、それはそれは、奇なるものが見つかりましたな」
皇城区画内にある、東庁(とうちょう)という建物。
宦官や役人が詰めるそこで、椿珠(ちんじゅ)たちからの報告を受けた馬蝋(ばろう)総太監(そうたいかん)。
珍品の訪れに随分と好奇心を刺激されたようだ。
「えっ、こんなに貰っていいのかよ」
軽螢(けいけい)が驚くほどの金額。
公的な褒賞ということにはならないが、馬蝋自身のポケットマネーから個人的に三人へ、金一封をプレゼントしてくれたほどである。
「オイオイオイオイ、意味わからんわこれ」
「ほほう、泰照(たいしょう)帝時代の怪文書ですか。大したものですね」
東庁に詰める書生や官僚たちも、興味深そうに文書をじろじろと観察する。
椿珠にとっては昔のヒマ人が作った思いつきの殴り書きとしか思えないが、彼らには別の見方があるのだろうと思った。
あっと言う間に文書は一字一句の誤るところなく写し書きされて、椿珠は複製品を受け取った。
「結局、総太監から貰ったお小遣いで央那(おうな)さんへちゃんとした本が買えそうですね」
ホクホク顔で、想雲(そううん)が足取りも軽く言った。
「そうだなあ。麗央那(れおな)にはもちろんだけど、このゼニで小僧たちにお菓子でも買ってやるかあ」
軽螢は貰った金銭を、角州(かくしゅう)や翼州(よくしゅう)の仲間たちとどう分け合うかを考えていた。
再び、大型書店を訪れた三人と一匹。
想雲と軽螢は、今度こそちゃんとした本を麗央那に買ってあげようと、相談し合って棚を物色していた。
椿珠はここでは買い物をするつもりはない。
この時間、日課の散歩で店の前を通るはずの、ある人物を待っていた。
「お、いやがったな」
いくつか持っている付け髭を別のものに装着し直し、普段より厚着をして着ぶくれする。
念のため、毛糸の帽子も裏返した。
これで、二、三度会った程度の他人からは、椿珠だとわかりようもない別人に変身できた。
「おっとごめんよ、お父さん」
「わっ。気を付けんかいっ」
椿珠は目的の人物と、路上で軽くぶつかった。
年老いた男は鼻息を鳴らし、半身が接触した椿珠に軽い小言を放った。
老人の上着、服の合わせの隙間に、金貨の入った小袋がねじ込まれたが、気付かれていない。
「認めるのは癪だが、全部丸く収まっちまった。ご先祖の奇行に感謝するんだな、爺さんよ」
椿珠は奇書の話を持ちかけてきた老人へ、馬蝋から貰った金一封を、すべて押し付けた。
金を奪うのがスリだとしたら、その逆を行ったのだ。
通りすがりに気付かないうちの、一方的な金銭の押しつけである。
散歩を終えて家に帰り、上着を脱ぎながらお婆さんと世間話をしている途中にでも、大金の入った小袋に気付くであろうと見越して。
「椿珠兄ちゃん、なにやってたんだ? そんな妙な変装して」
「なんでもねえよ」
書店に戻り、軽螢に怪しまれたが、しらばっくれて通す。
老爺に面と向かってお礼を言えないのが、椿珠という男であった。
道中を楽しませてもらったのも、真相に腹が立ったのも、どちらも事実なのだ。
素直に感謝を告げるのは、なにか違うと椿珠なりに思ったのである。
「さ、買い物を早く済ませて、角州に戻る準備をするぞ」
ぱぱっと身だしなみを整え直し、いつもの椿珠がしている顔と服装に戻る。
軽螢はポケットサイズの難読字典をすでに購入済みだった。
世間で普通に使われている文字は、麗央那はほぼ完璧に読めているので、ワンランク上の字典をプレゼントするのだろう。
さすがに麗央那のことを誰よりも知っている軽螢ならではのセレクトだと、椿珠は感心したが。
「そっちは立派な本だな。高いんじゃねえんか」
想雲が麗央那への土産に選んだ、分厚い書籍を見て椿珠は訊いた。
虫が好む花、蜜や香りに特徴のある植物をまとめた本のようだ。
挿絵も多く、ぱらぱらとめくるだけでも楽しい感じの「読む事典」である。
「ええ、少し馬蝋さまから貰ったお金からは、はみ出します。けれど僕も多少は持ち合わせがありますので」
「会計を済ませてないなら、俺に任せとけ。値切れるだけ値切ってやる」
そう言って椿珠は想雲を引き連れ、店員が笑って立つ会計台(レジカウンター)へ向かった。
天が、自分に与えた役回り。
それはまだわからない。
死ぬまでわからないのかもしれない。
けれど、それでも今は、しばらくの間は。
「いくらいいとこの坊ちゃんでも、金の使い方くらいは覚えなきゃいかんぞ」
「勉強させていただきます……」
想雲を偉そうに教導しながら、買い物の極意を実地で見せつける椿珠。
減額交渉は成功し、想雲は余ったお金で自分が欲しい本を一冊、買うことができた。
「さすが、椿珠兄ちゃんは買い物上手だよなあ」
「値切れば通じることもあるというのを、僕は今までまったく知りませんでした……」
軽螢と想雲が、こんな当たり前のことに感心している。
二人とも、都市で買い物をするということの経験値が低すぎるのだ。
その顔を見比べて、椿珠も愉快な気分になり、心から素直に微笑んだ。
今、自分のすべきことは。
きっと、都会に詳しい気楽な金持ちの兄貴分として、いつも通りに自分らしく振る舞うことなのだろうと思った。
自然と、そう思えたのだ。
自分の言葉が、行動が、若い二人になにかしらの影響を与えている。
なにものでもない自分であっても、なにかを残すことはできるのだ。
「まだまだお前らは世間知らずの小僧だからな。俺みたいな保護者、水先人が必要なんだよ」
あえて厭味ったらしく言って、椿珠は書店を出た。
今のままの自分でも、なにものかにはなれなくても。
むしろ性悪で、ねちっこく根に持って、細かいことをウジウジ気にする男であっても。
そんな自分が、前より少しだけ好きになれそうな気がするのだった。
(乙の巻 失われた奇書を求めて・完
丙の巻へ続く)
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