丙の巻 草原の群狼
参ノ壱 慰霊、そして次の命
角州(かくしゅう)半島の国境を越えた北側一帯に、広くその地はある。
かつては青牙部(せいがぶ)と呼ばれた。
君臨していた首領が変わり別の男が統治することになってからは、白髪左部(はくはつさぶ)と呼ばれるようになった区域だ。
「ご遺族への挨拶が遅くなったことを、ここに陳謝する」
新たな頭領、斗羅畏(とらい)という名の二十代半ばの若者が、頭を下げた。
ここは区内でも重雪峡(じゅうせつきょう)と呼ばれる、山と谷の深い場所。
派手な色のテント型住居、包屋(ほうおく)の中に斗羅畏は座っていた。
彼に正対する、包帯だらけの全身を厚い衣服で隠した女が、フフンと笑って答えた。
「なに言ってんだい。あたしらの怪我がひどくて今まで会えなかっただけじゃないか。あんたが謝ることなんて微塵もないよ」
彼女は、前頭領の覇聖鳳(はせお)、その正妻である。
名を邸瑠魅(てるみ)と言い、故人である亭主と同じく、あるいはそれ以上に武芸の腕で鳴らした、いっぱしの女戦士だ。
昨年の秋に行われた戦(いくさ)で、敵に散々打ちのめされて、全身骨折の憂き目に遭った。
ようやく喋られるまでに復活したので、今こうして、斗羅畏に面会しているというわけだ。
この気丈な様子ならば、いずれ怪我の具合も快方に向かうだろう。
実際に会ってそれを確認できた斗羅畏は安心して、話を前に進めた。
「覇聖鳳が持っていた大刀と、あなたの姉である緋瑠魅(ひるみ)が持っていたのであろう薙刀を回収したので、今日はそれを返しに来た」
斗羅畏が言うと、脇に控えていた部下が二振りの見事な武器を、邸瑠魅の前に丁重に置いた。
刃渡りだけで人の背丈ほどはあろう片刃の大刀と。
長柄の先に見事な虎と龍の彫刻が入った刃を持つ、大薙刀。
武に生まれたものであれば、誰もが固唾を飲んで見つめ欲するであろう、その素晴らしい宝刀たち。
斗羅畏は遺族である邸瑠魅に返却すべき宝だと以前から考えていて、こうして持って来たのである。
「姉ちゃんの薙刀も、見つかったのかい」
寂しげに慈愛の籠った目で、刃を見つめた邸瑠魅が訊いた。
真面目な表情を崩さずに、淡々と斗羅畏が説明する。
「郊外に狩りに行く移動中に、俺の部下が林で異変を感じて探り当てた。緋瑠魅の遺体は覇聖鳳の墓の近くに埋めた。事後報告になって済まない」
「いや、良いんだよ……ありがとうね、なにからなにまで」
自分の身体がまともに動かないことを悔しがるように。
邸瑠魅は自分の夫と姉を、斗羅畏が丁重に弔ってくれたことへの感謝を、涙混じりに伝えた。
床に並べられた二つの武器を間に挟んで、静かに見つめ合う、邸瑠魅と斗羅畏。
少し離れた、包屋の幕の近くには、別の年老いた女性が座っている。
覇聖鳳の実母である、鼬梨都(ゆりと)であった。
重雪峡が麗央那(れおな)たちに襲われた折、背中と腰に大怪我を負ったせいか、はたまた愛息子の覇聖鳳を失ったショックからか、廃人のように呆けていた。
二人の会話にも混ざらず、気の抜けた顔で中空を眺めるのみであった。
義母のそんな様子にも胸を痛めながら。
先代の頭領の妻として、恥ずかしくない振る舞いをしなければならない。
邸瑠魅は威厳を演出したキリッとした表情で、斗羅畏に告げた。
「その刀は斗羅畏、あんたが持つべきだよ。覇聖鳳に後を託されたあんたしか、そいつを持つ資格はないからね」
その言葉を受けて、さすがの斗羅畏も緊張した。
刀剣を、継承する。
それは、ただ武器を譲り受けたというだけではない、別の大きな意味を持つことだった。
刀は軍事と裁判という、人を統治する力の象徴である。
それを受け継ぐということは、覇聖鳳の治めていたこの土地を、政治経済の責任を、斗羅畏が正式に引き継ぐということを意味する。
逆を言えば、覇聖鳳の遺族代表者である邸瑠魅が納得し了承して刀を渡した以上、斗羅畏がこの地を治めることに誰にも文句を言わせない、口を出させないという意思表示でもあるのだ。
「……本当に、それでいいのか」
確認するまでもないことであるとわかっていながら、敢えて斗羅畏は声に出し、尋ねた。
皮肉っぽく冷笑して、邸瑠魅が答えた。
「他に、どうしようもないじゃない。あたしが元気なら、あんたに一騎打ちを申し込むけどね」
軽口の類ではなく、本心だろう。
勝敗はともかくとしても、一度はそう言う場を正式に設けない限り、邸瑠魅が完全に納得することはあるまい。
斗羅畏を認めるための通過儀礼というやつだ。
しかし今の邸瑠魅にはそれを実行する力がない。
馬にも乗れず、刀も握れず、痛みと麻痺に震える四肢を、如何(いかん)ともできないのだ。
「わかった。慎んで受けるとしよう」
座礼して、斗羅畏は部下たちに武具を撤収させた。
あの刀にふさわしい男に、果たしてなれるだろうか。
自身の背丈には長すぎる覇聖鳳の刀を見つめながら、先行きはまだ遠いのだと斗羅畏は決意を新たにした。
斗羅畏は、一回り程度に覇聖鳳に比べて体格が小柄なのである。
「安心してんじゃないよ。あんたが気を抜いたら、いつでも寝首をかく準備がこっちにはあるんだからね。それが怖いなら、今のうちにあたしらを全員、殺しておくことだよ」
気を取り直したのか、明るく笑って邸瑠魅が殺伐としたことを言った。
「ふん、来るならいつでも来い。俺は逃げん。生まれてこの方、敵から逃げたことがないからな」
不敵な表情で、斗羅畏も返した。
冗談や虚勢ではなく、それが真実なのだと邸瑠魅もすぐに理解した。
斗羅畏は、なにがあっても逃げない男だと、不思議とすんなり伝わるものがあったのだ。
「かあちゃーん! こっちにいるのかー!?」
奇妙な共感のもとに邸瑠魅と斗羅畏が話している、その場。
包屋の中にトテトテと、元気な男の子が突然、割り込んで入って来た。
年の頃にして十に届くか、届かないか。
幼児と小児の中間的なあどけない顔のはなたれ小僧が、斗羅畏と邸瑠魅、ついでに鼬梨都を見比べて、ぶしつけに聞いた。
「なんだこいつ? かあちゃんのあたらしいおとこか?」
生意気にませたことを言われて、斗羅畏はわかりやすく渋面した。
しかし。
邸瑠魅を母と呼んでいる、この男子は。
「覇聖鳳の息子か」
斗羅畏の質問に、男子はいかにも怪訝そうな顔を作り。
「なんだてめー、ひとにものをきくときはなー、じぶんからなのるんだぞ!」
妙にずれた正論をぶちかました。
むすっ、と斗羅畏は口をへの字に曲げて、溜息を吐き、答えた。
「俺は、白髪部(はくはつぶ)の生まれの、斗羅畏というものだ。お前は?」
馬鹿正直に名乗った斗羅畏の態度に面食らったのか。
きょとんとした顔を一瞬見せて、すぐににニカっと笑って、男子は答えた。
「おれは、はせおのじなんの、わんだだ! よろしくな、とらい!」
元気に自己紹介した子ども。
覇聖鳳が邸瑠魅との間に設けた三つ子の真ん中、倭吽陀(わんだ)という名の男子だった。
日に灼けた肌と、カラスよりも黒い髪の毛。
そしてなにより爛々と輝く目玉が、覇聖鳳によく似ているなと斗羅畏は思った。
「なるほど。こいつが育てば、俺の首も危ういかもな」
最大級の賛辞を、斗羅畏は倭吽陀の母である邸瑠魅に贈った。
覇聖鳳は死ぬ前に、草原の狼らしい、強い子を遺した。
こんな子を産んで育てた母も、大したものだと言っているのである。
「ところでとらいは、なにしにきたんだ?」
興味津々の倭吽陀の質問に、斗羅畏は表情を変えずに答える。
「大人の話だ。お前には関係ない」
「なんだてめー、おれをばかにしてんのかー? しょうぶすっか、おぉー!?」
ガルガルと唸ってファイティングポーズを取る倭吽陀。
くっくと笑っている邸瑠魅は、我が子のやんちゃを止める気配もない。
そして、変なところで真面目一辺倒の斗羅畏である。
子どもの戯言といなすことはできず、極めて真剣な目つきで、こう聞くのだった。
「俺とお前で、なにをどう勝負すると言うんだ。倭吽陀、お前が俺に勝てることが、なにかひとつでもあるのか?」
「え、そ、そりゃ」
ギクッとしたように、倭吽陀は固まった。
おそらくは、大の大人にこれほど真剣に向き合ってもらったことが、今まで一度もないのだろう。
子どもは子どもなりに、大人が自分と遊んでいるときは、手加減してくれていることを察知するものだ。
頭領の、覇聖鳳の息子というのであればなおさら、周囲の大人たちにちやほやされて育ったのであろう。
しかし、斗羅畏にその気配はなかった。
遊びの、戯れごとの勝負だとしても。
お前を相手に、微塵も手加減してやることはないし、勝ちを譲ってやることもないと、斗羅畏はその目で強く示していた。
「う、うんとなー、すもうと、うさぎがりとー、あと、うまおいの、とおくらべ(遠比)とか……」
格闘技、弓矢の勝負、そして馬術。
倭吽陀が思いつく勝負の項目はそういったものであり、日常的に仲間や家族と楽しんでいるものだった。
十に満たない子どもであっても、戌族(じゅつぞく)に生まれたからには、身に着けていて当然の技術である。
「良いだろう。男の勝負だ。この斗羅畏、逃げも隠れもしない。全力で来い」
力強く固く言い放って。
斗羅畏は身に着けていた革鎧や膝まである長靴を脱ぎ捨て、包屋の外に出た。
「か、かあちゃーん……」
言いだしっぺは自分なのに。
喧嘩を売っておきながら、いざとなるとヘタれてしまい、半泣きの倭吽陀。
邸瑠魅に助けを求めるも、無駄であった。
「斗羅畏と一対一で勝負できるなんて、最高じゃないか。羨ましいってもんだよ。負けたら承知しないからね」
母は、厳しかった。
男としての生きる道を、父を失った倭吽陀に、これからも躾けて、教育しなければいけない。
言葉にせずともそれを引き受けてくれた斗羅畏の振る舞いに、その背中に。
わっと泣き出してしまいそうな衝動を、邸瑠魅は必死で抑えて、倭吽陀を包屋の外へと追い立てたのだった。
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