弐ノ陸 それより僕と踊りませんか
石棺の中で厳重に保管されていた文書。
洞穴の外に出て、壊れてしまった橋の場所まで戻った椿珠(ちんじゅ)たちは、その内容を軽く確認する。
「うわ、古語だなこりゃあ。想雲(そううん)、任せた」
「僕もそこまで古文は得意ではないのですが……」
難解な語句と言い回し、普段使わない文法に目がくらみ、椿珠は匙を投げた。
じっくり一枚ずつ、噛みしめるように一字一句を想雲は追う。
「天の下に……壙(こう)と、ギ? ビ? 知らない字ですね。ギ南(なん)? という国あり……」
「また壙南(こうなん)王朝の話か」
千年以上前の伝説の王朝、壙南。
その実態を知るものは世間にも少なく、新資料であればこの文書は非常に重要な発見になり得る。
しかし想雲は首をひねり、そうではないと言った。
「い、いえ、この文書の冒頭では、壙とギ南と言う国が、ある時期に並んで別々に存在したということになっています」
「聞いたことのねえ話だな」
商売に関わらない古代史の伝説など、椿珠が詳しいわけはない。
壙南が大きな一つの国であろうが、内情は二つの国の分立王朝だろうが、あまり興味もなかった。
椿珠にとってこの本の価値は、どれだけの説得力を持って世の人を惹き付けるのか、奇書古伝としての魅力がどれだけあるのかという話に収束する。
それを判断する専門的な知識も学術的な見解も、今この場にはない。
「よくわかんねえなら、あの太った宦官のオッサンに聞いてみればいいンじゃね」
軽螢が言うのはもっともだった。
餅は餅屋、本を見るなら読書人に任せるのが得策だ。
「馬蝋(ばろう)総太監(そうたいかん)か。そうだな、かなりの本好きだって話だ。詳しいことを教えてくれるだろう」
皇帝の城に近侍している、宦官の馬蝋奴(ばろうやっこ)のことである。
宦官の身でありながら学問好きが高じて、中書堂(ちゅうしょどう)の事務監督まで任されている彼だ。
きっと正しくこの文書の価値を判断してくれると、椿珠は安心した。
「ふーんむ……?」
想雲は古書の内容を吟味しながら、複雑曖昧な呻き声を漏らしている。
「なにか気になるのか?」
「あ、いえ、いくつか知らない読めない字はあるのですが、文法が難しいだけで、なんとか大意は掴めます」
「ならいいじゃねえか。大したもんだ。勉強の甲斐があったな」
英才教育の賜物であり、誇っていい美点だと椿珠は素直に称賛する。
「そう言っていただけると嬉しいです。しかしですね」
と想雲は、敢えてその部分に疑問を呈した。
「本当に太古の書物なら、字の形は今と大きく違うはずです。僕程度がなんとか読めるということは、この文書はそれほど古いものではないのでしょう」
「言われてみりゃそうだな」
ちゃんと勉強している想雲だから、真っ先に気付いたことである。
人が使う文字の形、書き方は時代とともに大きく変遷するものである。
特に象形文字、表意文字を使用する文化圏においては、数百年間を隔てるだけで、一般人は昔の字を読めないという場合が多い。
ちょっと勉強のできる子どもが、ざっくりとでも読めるということは、そこまで古い文字と文章でない可能性が高いのだ。
現代日本人でも、一般の中高生が平安時代の行書を読めないことがあるように、だ。
「元号とか、書いてないん? 皇(おう)さまの名前とか」
「ちょっと、待ってくださいね。どの字が人の名前なのかも難しいので……」
軽螢の提案はなにげに的を射ていた。
いつどの年代に就いて書かれている文なのかは、皇帝の名前、元号を基に参照することができる。
特に、八つの地を歴史上で統一した王や皇帝の名は、神話の時代から今に至るまで、脈々と語り継がれてきた。
「う、うーん、この『カ九(かきゅう)』という王さまの代で、壙という国は滅びたと書いていますが、聞いたこともありませんね」
王名の記録に存在しない王の名前が出て来ていると、想雲は紙を睨みながら言った。
「分からんことが増えるばっかりだな。ここで話しててもらちが明かん。さっさと都に戻ろうぜ」
椿珠はそう言って、何気なく想雲から文書の一枚を受けとり、見た。
いや、見る前に気付いた違和感がある。
紙の、手触りだ。
「なあ想雲、こいつをヤギが何枚か食っちまったのは間違いないんだよな、美味そうによ」
「はい、僕がその場をしっかり見ました」
「メエ……」
ヤギがしょげているが、どうでもいい。
椿珠の疑問は、紙の材質に関わることだ。
「ヤギが食ったってことは、この紙は草とか木を漉いて作ったもんだ。今の俺たちが普通に使ってるもんと同じでな」
羊皮紙などの動物紙ではなく、植物紙である、ということだ。
「それがどうかしたんかよ」
椿珠の気付いたことに思いが至らない軽螢が、詳しく尋ねる。
「俺は歴史を詳しくないが、骨董品やら美術品やらの扱いで古物の知識は多少はある。こんなに薄くて表面が滑らかな紙が作られたのは、せいぜい昂(こう)王朝に入ってからのことだ。昔はマトモな紙なんかなかったからな。割った竹とか木の板、それか銅板石板に字を彫ったもんだ」
「あ、確かに」
椿珠の言わんことに気付いた想雲が、短く呟いた。
石に眠っていた奇書は、せいぜい古くても二、三百年前までしか、その由来をさかのぼることはないということだ。
さらに怪しい点に気付いた椿珠が続ける。
「ここに書かれてる右上がりの角ばった字、なんか見覚えがあるなと思ったら、あの爺さんの家で見た日記だ。ご先祖をしてた役人が書き残したって言う、あれだよ」
「要するに……どういうことだってばよ?」
まだ混乱している軽螢。
椿珠の代わりに、想雲が眉根をひそめて答えた。
「……この隠されていた奇書は、日記を書いたお役人さまが、自分で仕掛けた可能性が高いということですね」
「そういうことだ。爺さんの先祖が百数十年前に、このデタラメな本を自分で書いたんだ。そうして岩の中にこっそりと隠して、奇書があり、世間が騒いでいるという、嘘の日記を書き残したんだろうよ! 朝廷も皇帝も大わらわになった、なんて丁寧に情報を補足してな!!」
後半、椿珠は興奮して古書を地面に叩きつけそうな勢いであった。
ぽかーんと大口を開けた軽螢が、まったく分からないという顔で訊く。
「なんでそんな、下らねえことするンだ?」
「後で読んだ人間が、日記の内容を信じて、このインチキ奇書を必死で探す光景を想像したんだろうさ」
他人が嫌がることを好む椿珠だからこそ、わかる。
これを仕掛けている最中の犯人、奇書の捏造者は。
きっと、踊り出したいくらいに楽しかったに、違いない。
どんよりと肩を落として、想雲が続きを受けて話す。
「紙の品質が今の時代と同じく高いこと、墨の文字がそれほど色あせてないこと、書かれている字体がそっくりなこと。そして本当に日記の通りに、南の壙(あな)に奇書は存在したこと。ここまで証拠が揃えば、もう確実でしょうね……」
とんでもない自作自演に巻き込まれ、良いように踊らされてしまった。
嘘の日記と嘘の書を作成した、百数十年は前の小役人に、椿珠たちは思惑通りに振り回されてしまったのだ。
「あのクソジジイ、なにからなにまでこっちをバカにしやがって。いったいどうしてくれようか」
こめかみに血管を浮き上がらせ、目も血走らせて椿珠が唸った。
さすがに本気で、深刻な危害を老人に加えたりしないだろうが、多少のいたずらは必ずやり返してやると決意している顔だった。
どうして自分がなだめる役をやらねばならないのか。
不本意に損臭い思いで軽螢が説得する。
「ご先祖の日記にそんな仕掛けがあるなんて、あの爺ちゃんも知らなかったんじゃねえかな。なんせ昔の、百年も前の話なんだからさ」
「ぐ、ぬう……」
その可能性は確かに高い。
しかし老人に悪気がないとすれば、椿珠の怒りの矛先はどこへ向ければいいかという話になり、忸怩たる思いで歯噛みするしかない。
なににしても、老爺にたちの悪いいたずらを仕掛ければ、気のいいお婆さんも悲しませることになる。
かような状況は避けなければならないと、脇に立つ想雲は彼なりの責任感で、なにか良い案が出せないかと考えた。
元々は、どうしてこんなところに奇書を探しに来たのか。
それは、麗央那(れおな)を喜ばせるため、なにか珍しいものを探そうと、三人が同じ思いを持ったからではなかったか。
「……この、本と言っていいのかわかりませんが。紙束に書かれている内容は、荒唐無稽のようでいて、結構面白いのではないかと、僕は思います。少なくとも、未知に溢れてはいます」
誰も知らない王朝に関しての、妄想の類が書き連ねられているのだ。
顔も知らぬ昔の人が作った、黒歴史ノートに違いない。
未知の塊であるという点だけは、確実である。
「だったらなんだよ。お前が面白いと思っても、こんな出所の怪しいもん、古本屋だって買い取ってはくれんぞ」
すっかりやさぐれてしまっている椿珠が悪態を吐く。
刺激しないように、冷静に落ち着いた口調で、想雲は述べた。
「央那(おうな)さんは、こう言った不思議な物語も好きで読んでいます。これ、そのまま央那さんへの贈り物になるんじゃないでしょうか」
ぽりぽり、と少し恥ずかしそうに想雲は自分の頬をかき、付け足す。
「世に二つとない珍しいものかもしれませんし、僕たちが頑張って手に入れたと話せば、その冒険譚も含めて喜んでくれるのではないでしょうか」
うんうん、と軽螢が腕を組んで頷いた。
男三人とヤギ一匹がドタバタの果てに。
手に入ったのは怪しい文書、名も知らぬ一役人が書いた、恥ずかしくも不思議な物語。
麗央那の趣味には、間違いなく合致している。
納得半分、時間経過による冷静さの復活が半分。
腹を立てているのは自分だけだという自覚が、椿珠の怒りを鎮めた。
ふんすー、と長い息を吐いて、椿珠も目を閉じて首肯した。
「わかった。お前らがそう言うなら、今回はこれで良しとするか」
ほっ、と気が抜けたように安心し、軽螢と想雲は目を合せて笑った。
「ただし」
と椿珠は付け加えた。
「念のために馬蝋総太監には見てもらおう。万が一にでも貴重な発見の可能性はあるからな。複製する必要があるなら、中書堂の兄さんたちに手伝ってもらえばすぐに終わるはずだ」
機嫌が直った椿珠に、細かい心配りを算段する余裕が生まれて来た。
「それは至極まっとうな、いい考えだと思います。さすが椿珠さんです」
「ヤギがいくらか食っちまったことは、秘密にしておこうな」
「メェ……」
こうして彼らは、少し苦労して別の橋を探し見つけた末に、河旭(かきょく)の街へと戻ったのだった。
まったくの不意を突かれて、縁もゆかりもない赤の他人に、良いように踊らされてしまった。
この悔しさは、椿珠の心の底に長く残り続けるだろう。
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