壱ノ参 喧噪を判ず

 翌日も夕方から、巌力は雑夫(ざっぷ)溜まりに顔を出した。

 百歩、およそ80メートル四方ほどの広さの中に、飯屋や服屋、道具屋、そして雑魚寝スタイルの最下層宿屋が並んでいる。


「世知に長けた三弟(さんてい)であっても、かような場所に足を踏み入れることはなかったに違いない」


 兄弟のように一緒に過ごした主家の子弟、環(かん)椿珠(ちんじゅ)のことを思いながら、巌力は気ままに観察の歩を進める。

 一画は目に見えて貧しく汚くもあるが、活気に満ちていた。


「しみったれた顔してんな、クビにでもされたか?」

「お生憎さま、お前さんと違って暇もねえくらいにキリキリ働かされてるよ!」


 その日は仕事にありつけなかったもの、あるいは仕事から帰って来たものたちが狭い小路を行き交いしては、気軽で乱暴な挨拶を投げ飛ばし合っている。


「よう、巌さんじゃねえか。昨日はご馳走になっちまって悪かったな」


 共同の井戸端で他愛のない世間話を耳に拾っていた巌力に、声をかけるものがいた。

 先日の飲み屋で知り合った、役人の三男坊を自称する得(とく)さんである。

 巌力としては飲み代を奢ったつもりなど微塵もないのだが、言っても話がこじれるだけなので諦めた。


「お気になさらず。今日も飲みに向かうところですかな」


 ちなみに得というのが名前なのか姓なのか、あるいはそれと関係のないあだ名であるのかすら、巌力は知らない。

 素性を隠して「流れ者の巌」と名乗っている時点でお互いさまであるので、余計な詮索をすることもなかった。


「飲みたいのは毎日のことなんだがよ、今日は先にちょっとした厄介ごとを片付けてえんだ。誰かが手伝ってくれりゃあ助かるんだが」


 チラッチラッと巌力を横目に見ながら、頭をぽりぽりと掻き毟る得さん。

 断る理由もないので、特に渋る表情も出さずに巌力は申し出た。


「拙者で力になれることがあるなら、ぜひ」

「そうかい? いやあ助かるねえ。ならさっそく一緒に来てくれるかい」


 得さんは巌力を連れ、雑夫溜まりの境界、西北の角地へ向かった。

 そこでは男性同士が、言い争いをしている声が響いていた。


「俺のかかあに手を出しやがって、ただじゃ済まさねえからなァ!?」

「てめえが奥さんを殴ったから俺の部屋で匿ってただけだろうが!」

「あ、あれはたまたま手が滑って当たっちまっただけだ! 家のことに他人がしゃしゃり出て来るんじゃねえ!」


 痴話喧嘩であろうか。

 片方の男は、昨晩に巌力と同じ酒場にいたはずである。

 確か連れ合いに出て行かれて、しばらく帰ってこないとかなんとか、愚痴っていた客だった。

 消息の掴めない奥さまは、別の男の部屋にいたというわけか。

 ほとぼりが冷めるまで匿っていただけだとは言っても、男女がそれなりの期間、同衾していたというのだから、なにもなかったでは済まされまい。

 なるほど得さんは巌力の威圧感でもって、喧嘩を止めてもらいたいと連れてきたのか。

 しかしこれはややこしい話になりそうだなと、巌力は思う。


「おめえさんたち、いい加減にしねえか。こんなところで騒いでも周りの店に迷惑がかかるだけだろうが」


 得さんが右足を引きずりながら、言い合う男たちの間にひょこひょこと割り込んで行った。


「得さん、止めてくれるなよ!」

「おう、コイツの仕打ちに奥さんはいっつも泣かされてたんだ! 何発かぶちかましてやらねえと気が済まねえ!」


 今にも殴り合いが始まりそうな雰囲気であり、火の点いた感情の前には他人の諫めなど効果もない。

 ふむ、と巌力は場を一瞥し、得さんに提案した。


「お互いの気の済むまで、やらせてみてはどうかと拙者は愚考いたす」

「お、おいおい巌さん、そりゃあ物騒ってなもんよ。血を見るだけじゃ済まねえぜ」


 大怪我をしてしまうではないかと、得さんは危惧しているのだ。

 しかし巌力は安心させるように、得さんの肩に手を置いて言った。


「やり過ぎにならぬよう、卑怯な真似が行われぬよう、拙者が固く見張っておりまする。ご婦人を痛めつけるのも非道、しかし、よその婦女を自分の部屋に招き入れるのも道に外れたことにござる。両者に咎があるのならば、対等の条件で決着をつけるしかありませぬ」


 幸いにもここはちょっとした広場になっており、男二人が喧嘩をするくらいのスペースは確保されている。

 ヤクザものへのケジメのため、自分の一物までをも斬り飛ばし。

 その後には北の梟雄、覇聖鳳(はせお)との対決の傍らに二度も立ち会った巌力である。

 彼にとって、町人同士の素手の喧嘩など、それこそ子どもの遊びと同じレベルでしかない。

 体格や振る舞いを見たところ、二人ともひょろりと痩せていて、特にこれといった武術、軍歴の経験もなさそうである。

 取っ組み合っても大した怪我にはならず、泥仕合が繰り広げられるだけだろうと巌力なりに分析していた。

 それでも危なくなれば、自分が身体ごと飛び込んで止めればいいだけだ。

 大真面目に巌力が言うので、得さんは呆気にとられながらも。


「……それも、いいかもしれねえな。よしおめえら、好きなだけ殴り合え! 官吏が来ても俺が適当に誤魔化してやらあ!」


 景気よく叫んで、男二人を煽り、焚き付けた。


「おのおの、男の道に恥じぬよう、正々堂々と励むこと。よろしいですかな」


 巌力が腕を組んで仁王立ちし、男たちを睨むように見張る。


「お、おう……やってあらあ!」

「吠え面かくんじゃねえぞ!」


 離れた位置で対峙した二人は、どちらともなく走り寄って距離を詰め、下手くそな蹴りや拳打をぺちぺちと応酬する。


「やりやがったな!」

「コノヤロー、痛えじゃねえかよ!」


 ゴロゴロともつれ合って地面に転がり、また立ち上がり、いまいち気合の入らぬ攻撃を交わし。


「ひい、ふう……」

「しぶてえ野郎だぜ……」


 巌力の予想した通り、深刻な怪我をする前に両者の体力が尽きかけて、動きが鈍くなった。

 勝負らしい激しさを失った、そんなとき。


「あ、あんたたち! もうやめておくれよ!」


 野次馬の陰から一人の女性が飛び出して来て。


「お前……」


 自分の夫を庇うように、身体を被せて抱き締めた。

 状況だけを見れば、浮気相手よりも正式な亭主を選んだのだと考えられた。

 もっとも、夢中で割って入っただけのことであり、そのようなそろばんをはじいた結果ではないかもしれない。

 双方ともに暴力の気配を引っ込めて、地べたに座り込んだ。

 揉め事はどうやらここで終了であるようだ。

 しかし、間の悪く、ある意味では当然のこととして。

 

「巡回中の衛士だけどね。おっさんたち、なんの騒ぎ? 喧嘩? 頭冷やす?」


 騒ぎの気配を聞きつけて、軽装の若い武官が一人、呆れた顔でその場にやって来た。

 街の治安を守る衛士部の役人だろう。

 先に言っていた通りに、なにか上手い言い訳でもあるのか、得さんがその対応に当たった。


「いやいやご苦労だねえ、衛士の兄さん。もう終わったし、帰ってもらっていいよ」

「そうは言われても、こっちも仕事だしな。取り調べくらいはしないと。怪我人はいる? 揉めてる原因はなに?」

「ほんと、大したこっちゃねえんだ。まあちょっと聞いてくれってなもんよ」


 若手衛士と得さんは人波から外れ、聞こえない程度の声量でなにやらこしょこしょと話している。

 途端に衛士の青年は表情を真面目なものに変えて、言った。


「か、解決したのであれば、小官からはなにもありません! みなさま、仲良くしていただきますようにお願いいたします!」


 二言三言、得さんからなにか言われただけの衛士は、すっかりかしこまって挨拶だけ残し、この場を去った。


「得どの、今のは」

「話が分かる衛士さんでよかったぜ。さ、お開きだお開きだ。酒でも飲むべえよ」


 巌力が尋ねても得さんは詳細を語らずに、昨日と同じ飲み屋へ向かうのだった。


「しかし巌さんよ、見事な心配りだったな」


 席に着き、なし崩しに酒を伴にする巌力。

 振られた話の真意を掴めず、真顔で聞き返した。


「なんの話でござるか」

「あの二人への対応だよ。やるなら堂々とやっちまえってお前さんが言ったからこそ、怒りがしぼんだに違いねえ。誰だって、止められるとムキになるが、やれと言われたら気が萎えるもんよ」

「ああ、そのことでござるか」


 巌力が揉めている二人をけしかけたのは、それなりの計算あってのことである。

 人は、自分がやりたいと思うことに対して純粋な感情を動機にした場合、歯止めが利かずに感情の暴走するまま、やりすぎる場合が多い。

 そういう場合は、止めるのではなく、大いにやってしまえと外野が囃し立て、煽るのも一つの手なのだ。

 喧嘩が発生しそうになっていた男性二人の感情を、ただ道理を説いて止めようとしたところで、鎮まるアテはない。

 却って火に油を注ぐことにもなりかねず、実際に男二人は得さんの制止も振り切ろうとしていた。

 ならばどうするか。


「大いにやっていい、しかし、自分が審判をしよう」


 巌力はそう申し出ることで、嫉妬や怒り、憎悪が中心だった純粋な感情のぶつかり合いを、男二人の力比べ、腕比べに変えてしまったのである。

 巌力というジャッジが勝敗を評価する以上、あの男たちは生身の感情だけで闘うことができなくなったのだ。

 つまらない町人の喧嘩というものは、勝った負けたという判定よりも感情の発散が目的である。

 しかし巌力はそれを、勝負ごとの理屈に書き換えてしまったのだ。

 加えて、別ベクトルのアプローチもあった。

 自分がやりたくてやっていたことを、他人にあれこれ評価され口出しされると、途端にモチベーションが低下するということは、誰にでも経験のあることだろう。

 宿題をやろうと思っている子どもに、親が「早く宿題やりなさいよ!」と言ってしまうことで、子ども自身の動機が阻害される例に似ている。

 やろうと思っていたのは間違いないが、いざ、他人から「やれ」と指示されると、途端にやる気は減衰するものなのだ。


「そのようなことを、泰学(たいがく)で読んだことがありまして」


 巌力は上記のようなたとえ話を交えながら、得さんに説明した。

 他者の評価や報酬、余計な忠言と言った外的要因が、本人の心にある純粋な内的動機を邪魔しうる場合がある。

 行動心理学の一つである。

 はぁー、と得さんは感心した顔で巌力の話に聞き入っていた。


「巌さんは、泰学をよく読んでるんだなあ。いやあ大したもんだぜ」

「まだまだ、学童の手習いと同じでござる」


 誰の影響で、この歳になって改めて泰学を読み込もうと思ったのか。

 そんなことは、この夜は語らなかった。

 巌力が尊敬している猫背の少女の話をしたところで、他人には信じてもらえないだろうと思ったからだ。

 静かに飲み、語る巌力の心を覗き込むように、得さんはじぃっと目線を向ける。


「なあ巌さん、あんたを見込んでの話なんだが」


 ひょうきんな顔のまま、目つきだけを真剣に変じた得さんが、小声でそう話し始めた。

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