壱ノ弐 飄々と交わる
巌力(がんりき)は先日の反省を生かし、更に雑然とした店を選んで噂話を集めようと思った。
「雑夫(ざっぷ)溜まりに足を踏み入れるのは、滅多にないことでござるが」
斜羅(しゃら)の街なかでもあまり治安の良くない区域の一つに、雑夫溜まりと呼ばれる一角がある。
港湾の日雇い労働者が利用する安宿、安居酒屋が狭い中にひしめいており、行儀のいい人々は寄り付かない。
巌力も元はと言えば環家(かんけ)という豪商の使用人から皇城の宦官に身を転じた経歴があり、そこまで極端な貧民窟、スラムに足を運び入れる機会はなかった。
ありていに言えば、育ちが良いのだ。
「しかし司午(しご)貴妃殿下のため、麗女史のためにも、雑踏を敬遠している場合ではない」
その一念から、普段は訪れないようなところにも積極的に顔を出してみようという心構えが生まれたのである。
と言っても州都、斜羅の中で比較的ごみごみしているというだけで、その区画が無法地帯というほどのことはない。
ずんずんと小路を進む巌力に、雑居する人々はぎょっとした視線を送り、店に入って行くまでの一挙手一投足を、まさに珍獣見物する好奇心で見つめていた。
「らっしゃーい……って、わぁ! な、ななななんだいあんた! どういうことなの、その体は!」
来店した巌力に対応した女将は、文字通り目を剥いて腰を抜かしてしまった。
「落ち着いて酒を飲みたいだけにござる。席は空いておりますかな」
「え? あ、ああ、客かい……てっきり地の下から鬼が迎えに来たと思っちまったよ。どこでも適当に座ってくんな」
この国では悪人は死後、地下の昏い世界に連行され、そこで生きてる間の罪に応じて様々な責め苦を受けると人々に語られている。
冥府の使いに怯えるということは、この女将もなかなかえげつない商売をして、日々の罪悪感と戦っているのかもしれなかった。
「かたじけない。奴才(ぬさい)……いや、拙者はこの街に来たばかりの、巌(がん)と申すものでござる。港で荷揚げの日雇い人足(にんそく)でも募っていまいかと、お噂を聞きに足を運んだ次第にて」
巌力は、流浪ものの巌さんという仮の身分を自己紹介し、相手の警戒心を和らげる作戦を採用した。
なにものか知れない大男が黙って酒を飲んでいるより、自分はこういうものであると周囲に簡単にでも知らせた方が、場の空気は安心する。
その意味では効果的な一手と言えるだろう。
変装や身分の偽りにどうも縁のあることが多いな、と巌力は心中で苦笑した。
人は理解できぬものを怖れ、理解の範囲にあるものに安心する性質がある。
実際に「職探し中の流れものである」というプロフィールに納得し、興味を持った女将は、笑顔を見せて言った。
その手の客は、数えきれないくらいに店に来るのだ。
「その体なら、どこに行っても仕事はあるだろうさ。日の出た頃に港に行って、偉そうにしてるおっさんたちに声をかけてみなよ。喜んでこき使ってくれるよ」
なにものでもないよりかは、偽りであっても「なにか、誰か」に成りすました方が良いのである。
充実した体を持て余している、無職の巌さん。
そう自己を定義し直した巌力は、すんなりと場末の飲み屋に居場所を得た。
「ご助言、感謝いたす」
「それより飲んでくんだろ? その図体で一杯二杯引っかけて帰るだけ、なんて言わしゃしないよ。軋んだ椅子を買い替えられる程度には飲み食いしてもらわないと」
巌力に害意がないとわかり、女将も口が滑らかになった。
確かに巌力の体重を支える木製の椅子は、少し蹴られたら足が折れそうなくらいに頑張っており、そろそろ買い替え時期と言えそうだ。
「拙者も、それほど持ち合わせがあるわけではござらぬが」
「だったら身に着けているものをなにか置いて行きな。ツケ払いにしてあげるから。ほらほらとりあえず飲んだ飲んだ」
木製の大きな杯に、女将はなにでできているのか全く分からない酒をなみなみと注いで、巌力の目の前に出した。
ちびりと口に含む。
特に嫌な味はしないので、飲んで問題があるわけではなかろうと思い、巌力はぐびりと一杯を空にした。
「では、ゆっくりさせてもらいまする」
「はいよ。つまむものも適当に運ぶからね。要らなかったらそのときに止めてくんな」
どうやらこの店は、客の皿や杯が空いていればどんどんと女将が飲食物を運んでくる形式のようだ。
周りの客を観察するに、食いたくないものが来たときは卓の端に寄せる流儀である。
そうすると、女将がその皿を他の客に回すという、実に大雑把な商売をしているらしい。
客もそれで文句を言っていないので、これはこれで合理的なやり方なのだろうと巌力は感心した。
もっとも、彼に食べ物の好き嫌いはないので、生まれた氏族のトーテム、タブーである牛肉以外であれば、なんでも食べられる。
「ふむ、これはこれで」
素材不明の魚肉団子をつまみながら、巌力は酒を重ねる。
最初の内は巌力の挙動に注目していた他の客も、特に怪しいところはないようだと判断したのか、自分たちの雑談に戻って行った。
「うちのかかあが飛び出して行ってから、もう半年だぜ」
「昨日、船から落ちて鮫に噛まれたやつがいたそうじゃねえか」
「北のほうは覇聖鳳(はせお)が死んじまった後、どうなってるんかねえ」
今日は視線を泳がせず、ただ耳だけで巌力は客の噂話を拾う。
戌族(じゅつぞく)青牙部(せいがぶ)の荒ぶる頭領、覇聖鳳が斃れた場面を、巌力はその目で見ていない。
詳しい話は麗央那や椿珠(ちんじゅ)がもちろん知っているが、必要以上に細部を聞くことは躊躇われた。
麗央那が、その瞬間のことを話したがらないであろう空気を、彼なりに悟ったのだ。
「なぜ、天はかように小さきおなごに、あれほどの定めを課したのであろう……」
運命というものに、巌力は思いを馳せる。
自分が環(かん)玉楊(ぎょくよう)という女性の傍に侍ることは、それは当然のことであると腑に落ちるものがある。
椿珠や玉楊に幼き頃から良くしてもらい、楽しく幸せな青春時代を送れた自覚があるがゆえに、彼らに人生を捧げるのはなにも不自然な流れではなかった。
しかし、麗央那が神台邑に来たのはたった一年前のことで、しかも数十日しか滞在していなかったと聞く。
そんな、行きずりに立ち寄っただけの邑を覇聖鳳に焼き滅ぼされて。
麗央那は躊躇なく身命を捧げ、仇討ちにすべてを賭したのだ。
巌力が捧げて失ったものは、下半身に下がる男性の宝、それだけである。
しかし麗央那は、文字通りに自分自身の、ありったけを一つも残さず余さず、神台邑の応報に注ぎ込んだ。
「人の強さとは、いったいなんであろうか……」
麗央那より数倍も大きく、数倍も力強いはずの自分が、その難題に想い悩む。
酒が程好く回ったためか、巌力は酒場の会話よりも自分自身の懊悩と感傷に、しばしば浸ってしまうのだった。
「おぉ!?」
客席のざわめきを背景音に愉しんでいた巌力の耳に、明るい、芯のある声が届いた。
日々を倦んで愚痴を垂らす他の酔客とは、明確に声色が違った。
「あら、得(とく)さん! ご無沙汰だったじゃないのさ~!」
女将が喜色を浮かべて、その新しく来た客のもとへ小走りで駆け寄る。
得さんと呼ばれた小柄な中年男性は、気持ち片足を引きずるようにして、店の中に進み入った。
「いやあ済まねえな、女将さんよ。身内のごたごたがあって、足が遠のいちまったぜ。堪忍してくれや」
屈託のない笑みを浮かべて、女将と話しながらも得さんの眼は巌力の席に注がれている。
興味深げに注視されて、なんとなく巌力は目礼を返した。
少なくとも知り合いではない。
「そうかい、今日はゆっくりしてくれるんだろう? 席は……」
女将がぐるりと客席を見回す。
空席は少なく、誰かしらと相席になる必要があった。
「良ければこちら、空いておりまする」
不思議と、巌力は言った。
いや、言わされた。
にこにこと巌力を見つめる得さんの表情に、つい誘われ引かれたような力が働いたのである。
「そうかい、いやあ、すまんね兄さん。静かに一人で飲んでたんだろう?」
右足に麻痺でも持っているのか、庇うような歩き方で得さんと呼ばれた男性は巌力の向かい席まで来て、腰を下ろした。
「いえ、これも酒場の習いであれば、出会いは良い縁となりましょう」
真面目に言って、巌力は自分の杯を掲げた。
得さんも女将の持って来た酒杯を顔の前に突き出すように持ち、ぐびりと呷る。
「しっかしすごいねえ、おめえさん。まるでそびえ立つ肉の山だ。このあたりのもんじゃねえだろう?」
筋骨がまさに切り立った巌(いわお)の如き巌力の体を見て、惚れ惚れする、とでも言うように目を細め、得さんは賞した。
「西の方から来た、巌と申しまする。港であれば力仕事で稼げるかと、斜羅まで参りました」
「そりゃあ正解だ。この街はおめえさんのような男を常に欲してるってなもんよ。俺もお大臣だったら、巌さんをすぐに雇うだろうな」
ケケケとおどけて、得さんは楽しそうに酒を飲み下していく。
「得どのは、どのようなところでお勤めをされておいでか」
少し急に詮索しすぎたか、と巌力は思った。
しかし自分が求職浪人であるという設定からすれば、仕事の話を真っ先に聞くのは不自然でもないだろう。
得さんは怪しむ様子もなく、軽く答えてくれた。
「俺ぁ州の役人の三男坊でな。たまに親父の仕事を手伝ってるくらいで、後はフラフラ遊んでるろくでなしよ。仕事を紹介してやりてえのはやまやまだが、誰も俺の奨めなんざまともに聞きやしねえ、力になれなくて悪ぃな」
それなりにいい歳に見えはするが、放蕩息子であるらしい。
小遣いが乏しいのでこのような安い酒屋に引き寄せられるのだろうか。
その割には、着ている衣服が上等なのが巌力には気になった。
色が地味で、絹ではなく綿の衣服だから目立たないが、縫製も丁寧で裏地、裾や襟元もくたびれていない。
特に足回り、履いている沓が美しく丈夫そうな一級品であり、汚れているように見えるのも表面だけの話だった。
皇都で宦官をしていた巌力は、貴賓はなにより足もとに注意を払うということを経験的に知っているのだ。
「正体を隠しているのは、自分だけではないのか」
酔いに身を預けながらも、油断せず巌力は考える。
混沌の夜の街。
お互いに素性を誤魔化す腹芸に気付かぬ振りをしたまま、肉山の巌さんと役人の三男坊の得さんは、安酒を浴びるのだった。
ちなみに会計の頃には得さんは消えていた。
巌力は手持ちが足りなかったので、帽子と手袋を店に置いて帰った。
「四日以内に来ないと、質屋に流しちまうからね」
女将の冷酷な物言いに、巌力は世界はまだまだ広く、未知が多いのだと思い知らされた。
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