第3話
俺はビールをひと息に飲んで勢いをつけた。
「
井上が一瞬顔をしかめたような気がした。しかし、すぐさま「そんな話聞いたこともない」と笑い飛ばし、そのままトイレに消えた。俺の思い過ごしか……いや、彼は何か知っている、俺はそう確信したがそれ以上踏み込むのをためらった。今煙たがれるのは得策ではない。
「今田君さ、三月は覚夜夢でお祭りやるって知ってる?」
トイレから戻った井上は何事もなかったかのように壁のポスターを指差して言った。そこにはトリを中央に配したカラフルなポスターがあり、大きな文字で「生誕祭」と書いてある。
「生誕祭?」
「そう、生誕祭。創設記念の周年祭だねえ。色々なイベントがあってさ、結構盛り上がるんだよ。書く人も読む人も、ポイントの稼ぎ時だしね」
「ポイントって、覚夜夢で必要なあの?」
「そうそう。ここでの暮らしには基本的に金がかからないのは知ってるよね? さっき受け取ったカードキーに必要最低限のポイントが入っていて、それをかざすだけで何でも手に入るからね。でも、大食漢もいれば酒飲みもいる、女なら化粧品とかも必要かな。そういうある意味贅沢品は自分で稼いだポイントで楽しむんだよ。普段は活動すればするほど溜まっていくんだけど、この期間はポイントゲットのイベントが目白押しなんだよ」
「へええ、面白そうですね!」
「後でタブレットを見るといいよ、詳しく載ってるから」
「はい、そうします」
俺はトリの質問などしなかったように様々な暮らしのアドバイスをもらい、他の客が来たのを機に店を後にした。噂に関する収穫はなかったが、それは追々調べればいい。火照った頬に冷たい風が心地良くて、俺は上着を着ることなく歩き出した。新しい家は目と鼻の先のはずだ。
大通りから路地に入って五分と歩かないうちに俺の部屋は見つかった。ドアには「Ꮪ-23」とある。この辺りの家は全て長屋造りの平屋で、コンサートホールの椅子のように雲影タワーに向かって円形に並んでいる。五軒繋がった中央の部屋が俺の新しい住処だ。両隣は空いているのか留守なのか灯りが点いていない。トリあえず面倒な挨拶は当面しなくて済みそうだ。
俺は渡されたカードキーを出して重い扉を開けた。微かにカビの臭いがする。居酒屋の店長に教えられたとおり玄関脇のカードホルダーに鍵を差すと、家中にパッと明かりがついた。左手には台所、狭いが
正面の引き戸を開けると八畳ほどの洋室になっていた。正面に窓がありカーテンがかかっている。その前には大きな机、座り心地の良さそうな肘掛け椅子、左の壁は一面収納で、右手前には清潔そうな布団が掛かったベッドがある。少し古びた印象だが、これまで住んできたどの部屋よりずっといい。ここを自由に使っていいなんてどうやって収益を上げるのか今更ながら疑問に思える。
何はともあれ今日からここが俺の城だ。カーテンを開けると、遠く雲影タワーが見えた。微かに色を変え揺れるように輝いている。この街はどの家からでも塔が見えるような作りになっているようだ。俺はバックパックを下ろして椅子に座りぼんやりと外を眺めた。
「え、何だ?」
俺は身を乗り出して目を凝らした。「雲影タワー」の電飾の一部が定期的に消えている。よく見ると、何かが塔の周りを回っていて電飾の前を通るたびに消えたように見えるのだとわかった。昼間はあんなものはなかった気がする。夜だけの仕掛けなのか、それとも……
そのとき、目の端が一瞬明るくなった。塔の右奥辺りで何かが光ったようだ。その直後、今度はすぐ近所でバンッと何かが弾ける音がした。俺は目を凝らし耳を澄ましたが、その後は何事もなかったようにしんと静まり返った。俺は塔に視線を戻した。いつの間にか電飾の点滅も起こらなくなっていた。誰も騒がないところを見ると珍しいことではないのかもしれない。俺は暫く路地を眺めていたが、窓を閉め、カーテンも閉めて椅子に座り直した。途端に部屋がしんと静まり返る。遮音性がいいのか、そもそも音を発する物がないのか、この世にひとりだけ残されたような気分だ。俺は椅子のリクライニングレバーを引いた。そして天井を眺める間もなく深い眠りに落ちた。
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