朝の挨拶
一昨日より早めにマンションを出た。
二人でエレベーターに乗った。二十九階だからはじめは二人だけだ。
途中二度、下の階の住人が乗ってきた。三十代の男と四十代くらいの女だった。
「おはようございます」と俺は挨拶し、見知らぬ住人たちも挨拶を返した。
桂羅は俺を頼りにしているかのように会釈するだけだった。
黒ぶち眼鏡をかけ、眼鏡にかかるくらい前髪を下ろした俺は不気味に見えただろう。そんなコミュ障らしき高校生がのそっと挨拶したのだから初顔合わせの住人は戸惑ったに違いない。
四階で降りる。無人のロビーを通って別のエレベーターに乗り換える。そうしないと一階へ行けないのだ。面倒な仕組みだった。
奥に乗っていた俺と桂羅が、四階で降りる際は最後になるから、四階から乗るときも最後に乗り込む。見知らぬ住人が先に乗り込んでいて、俺と桂羅を迎える形になるのだが、予想通り彼らは桂羅の方に目を奪われた。
当然だ。すれ違う者が振り返るような美人だからだ。
妹でなければ俺もじっと視ているだろう。性格はともかくとして。
「ご
「妹です」と俺は答えた。
桂羅は無表情だが戸惑っている。こいつは正真正銘の内弁慶だ。知らないひととは一切喋らない。
「髪を切ったのね」女性は好奇心をあらわにして訊いた。
「いえ、私は切っていません」桂羅は答える。
「そうなの?」
「別の妹でしょう」俺が代わりに答えた。
楓胡の可能性もなくはないが、桂羅と間違えるのは
「他にも妹さんがいらっしゃるの?」
「はい、何しろ四つ子ですから」
「まあ、四つ子!」
一階に着いた。それでこの話はそれきりになった。マンションのエントランスを出たところで俺と桂羅が足を止めたからだ。
女性は名残惜しそうに駅に向かい、男の方も足早に去った。
「あんた、そんななりして話しかけられるタイプだったのね?」桂羅は驚いていた。
「話しかけたのはお前に、だろう。俺、この姿で知らない人に話しかけられないし」
一人では話しかけられないが、二人だと話しかけられるのだと思った。
「四つ子って答えて良かったの?」
「仕方ねえだろ、髪の長いのもいるといずれはわかるんだし」
ゆっくりと歩き出した。エントランスから次々と別の住人が出てくる。
「エレベーターは一人ずつ乗った方が良いのかもな。二人以上だと話しかけられやすい。訊かれて答えると、一緒に乗った別の住人にも知られることになる。そのうち超絶美人姉妹が住んでいると評判になるな」
「何それ超絶美人姉妹って」桂羅は呆れていた。
「お前、目立つからな。電車に乗って視線を感じないか?」
「そういえばじろじろ見られていた。人も多いし、電車通学は怖いと思ったわ」
「すれ違っても振り返られるだろう?」
「そんなこともあるね、何でかな」
「きっと美少女高校生としてこれから鑑賞対象になるな」
「気持ち悪い……」桂羅は口を噤んだ。
どうも桂羅は自覚がないようだ。
学園最寄駅に降りてからは少し距離をおいて歩く。
桂羅を先に行かせて五メートル程後ろを歩き、まわりの様子を観察した。
駅から百メートル程歩くと、まわりは御堂藤学園の生徒ばかりになった。
彼らはほぼ例外なく桂羅を見かけてハッとしたような顔になった。おそらくは泉月かと思ったに違いない。よく似た転校生がいることは始業式とその翌日で知れ渡っただろうから、髪型の違いで泉月でないと判断しただろう。
そしてその後は桂羅の美貌に見惚れるのだ。それは男子生徒ばかりでなかった。数で圧倒的に上回る女子生徒、特に下級生がうっとりと見つめる様子が窺われた。
まあそうだろう。血が繋がっていなければ俺もそうする。
美貌に自覚がない桂羅はまわりの視線だけを感じて少し身を縮めたように見えた。
そうして校門の前まで来た。
今日もまた校門の手前三十メートルあたりから教師と生徒がずらりと並んで立っていた。「おはようございます」の挨拶をしながら登校する生徒の服装チェックをしているのだ。
生徒会と美化風紀委員まで巻き込んだこの規模の挨拶は四月いっぱい続くのだと楓胡から知らされている。
そのため泉月は四月いっぱい毎朝早く登校するようだ。そして五月以降も生徒会は交代で朝の挨拶に立つから週二回はこれを続けるらしい。
女子生徒たちはくすくす笑っているようだった。しかし大っぴらに笑えないのは少し離れたところに泉月が立っているからだ。
泉月は朝マンションを出るときの髪型でいた。ロングヘアを髪留めで一本に束ねて背中に落としている。オールバックの額出し。綺麗な首筋があらわになっていた。
無表情で丁寧なお辞儀が却って威厳を見せていた。
桂羅は泉月を無視するかのようにその前を通りすぎた。
いちいち全員に挨拶するわけにもいかないから多くの生徒は五人くらいに纏めて挨拶している。それでも泉月にはほとんど全員が挨拶していたから桂羅の無視は目立った。
こうした行為が後でいろいろ噂になると俺は思った。ただ、俺自身も泉月の前を挨拶なく通りすぎてしまい苦笑することとなった。
校内では赤の他人を装うのだから仕方がないと言い聞かせた。
桂羅の姿は、いつの間にか見失っていた。
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