三日目の朝
翌朝は早く目覚めた。六時前だ。
まだ慣れないから早く目覚めるのかもしれない。
いつもなら二度寝するところだが、のどが渇いていたので起き上がり、キッチンへ向かった。
飯が炊き上がっている匂いがした。
このマンションで三度目の朝だったが、いつも一番早く登校する
冷蔵庫からミネラルウォーターを取り出してコップに注いで一気に飲んだ。少し目が覚めた気がするがまだはっきりとした覚醒までには至らない。
俺は顔を洗うべく洗面所に入った。
なぜか洗面所と浴室の灯りがついていたがあまり気にもとめず顔を洗った。
目の前の鏡に映った自分の顔は、思った通り目が死んでいた。
いや、こんなものだろ!
自虐的な笑みを浮かべた時に浴室の扉が開いた。バスタオルを体に巻いた長い洗い髪の女が出てくるのを鏡越しに見た。
「おはよう……」
女は静かに挨拶し、俺がいるのにもかかわらずバスタオルを外して頭に巻き、籠に用意していた下着を身につけ始めた。
俺は背中を向けていたが女の裸身は鏡に映っている。左の乳房の下あたりに浮かび上がった星形の赤い
「お前……泉月だよな」そう言って俺は目をそらすために下を向いた。
「そうよ、もう区別できるようになったのね」
「だって……」
泉月はショーツだけ穿いてその上に湯上がり用の薄いガウンを着た。タオル生地のワンピースだ。
ノーブラガウンかよ!
堂々としていて、前を隠す様子が微塵も見られない。鏡越しに俺の視界に入っていることを知らないはずはなかった。
頭にタオルを巻いた、膝上丈のタオルワンピースを
いくら同じ腹から生まれたきょうだいだったとしても。
俺は正直なところ、呆れていた。
これが赤の他人の女子だったらラッキースケベと思ったりもするが、血を分けた姉妹とあっては複雑だ。
そう頭ではわかっていても下半身はそれなりに反応する。
一昨日の夜、楓胡と一緒に風呂に入った時は、楓胡が目を輝かせて俺の下半身の変化を珍しそうに見つめケラケラ笑ったのだ。
同じ状況になったとして泉月が笑うとはとても思えなかったが。
再度顔を洗い、リビングに顔を出すと、頭にタオルを巻いたままノーブラワンピ姿の泉月が朝食の用意をしていた。
「簡単なものしか用意できないけれど」相変わらず俺の顔も見ずに体を動かしている。「
四月の間は藤木という家政婦が通いで来ることになっていた。家事を教える役目を叔父に言い遣ったのだ。
それでも豆腐と葱が入った味噌汁は泉月が自分で用意したようだ。
「自分で好きなだけよそってくれるかしら?」
泉月が言うので俺は「お、おう……」と頷いてIHヒーターの脇に置かれたお椀に味噌汁をとった。
「これ、泉月が作ったんだよな?」
「マニュアルに従って、計測して作ったから味は悪くないと思うわ」
豆腐が不揃いで大きかったのはご愛嬌と言えようか。さすがに「オレの方がうまく切るぞ」とは言えなかった。
横に熱いご飯がよそわれた弁当箱が置かれていて、冷ましているようだった。
卵焼きもすでに用意されている。弁当箱に入れるだけでなく朝食にもなるようだ。これもまた少しいびつな形をしていた。
和え物は昨夜家政婦の藤木が用意して冷蔵庫にしまわれていたものを使うらしい。
「これ、タコさんウインナーか?」少し焦げ目がある、膨らんだウインナーが皿の上にあった。
「タコさんウインナーなるものを食べたことはなかったのよ。だから挑戦してみたわ。よく火を通した方が良いと思ったら焦げたのよ。口に合わなかったら食べなくて結構よ」
「いや、頂戴します」
手のかかるものはだいたい家政婦が用意していた。泉月はこの二週間ほどで教えられたものをどうにか再現しようとしたようだ。
ほとんど無表情で冷たく語る泉月が用意した朝食は、ところどころ突っ込みどころのある温かいものだった。昨日の残りのハンバーグに今朝用意したと思われるキャベツベーコンの炒め物。少しずつ弁当に入れて持っていくようだ。
「そういえば納豆がなかったか?」俺は冷蔵庫に納豆のパックがあることを思い出した。
「お好きにどうぞ。私は要らないわ」泉月は納豆を食する習慣がないのかもしれない。
楓胡と
八時半までに登校するには七時五十分にはマンションを出る必要があると楓胡から聞いている。
あいつらもそろそろ起きてくるのかな。
「私は生徒会の仕事があるので先に出るわ」
「いつも何時に起きているんだよ?」
「四時半ね」
「よ、四時半? 何時に寝ているんだ?」
「十二時半かしら」
「四時間しか寝てないのか?」
「生徒会室で昼休みに二十分仮眠をとるから大丈夫よ」
「朝早く起きて毎日風呂に入るのか?」
「ご飯を仕掛けてから、ジョギングに出るの」
「まだ暗いだろ」
「そうね、少し肌寒いわ。二、三十分走って体が温まったら帰ってくるの」
「昔からそんな生活していたのか?」
「叔父様のおうちにいた頃は犬を散歩させていたわ」
「雨の日も風の日も?」
「大雪や台風がひどいのでなければ毎日ね」
「すごいな」
千葉にいる母方祖父のライフスタイルに似ているのかもしれない。朝は早いのだ。
泉月に比べて楓胡と桂羅はゆっくりしている。同居三回目の朝を迎えた俺も徐々に姉妹の違いがわかってきた。
「髪を乾かしてくるわ。先に食べていて」
「いただきます」俺は手を合わせた。
形はともかく、味は悪くなかった。いやお世辞抜きで旨い。
正確に計測して時間もマニュアル通りに作った結果だろう。泉月の几帳面な性格がよく表れていた。
さらさら髪を下ろした泉月が戻ってきた。
「うまいよ」俺は素直に褒めた。
「ありがとう」泉月は笑みも浮かべず、席に着いた。
「毎日朝食を用意しているんだな」
「私は夕食の用意ができないから」
「慣れているってか?」
「日常的にご飯の用意をするようになったのはこの二週間ほどよ」
「そうなんだ」
それまではまともに包丁も握ったことはなかったのだろう。通いの家政婦に教えられて徐々に覚えていっているらしい。
俺にも炊事当番が割り振られることが決まっていて、始めのうちは家政婦の指導があるようだ。
楓胡が起きてきた。「
朝から楓胡はテンションが高かった。眼鏡はかけておらず、ボサボサの髪にピンクのルームウェア姿だ。顔を洗いにいって戻ってきた時には髪はきれいに整えられていた。
そして俺の隣に腰掛けた。
こうして見るとやはり泉月と楓胡はそっくりだ。楓胡が前髪を眉のあたりで切り揃えているところが違うくらいだ。表情の多寡で区別する方が間違いないだろう。
「どうしたの? こんな早起きして。泉月ちゃんとジョギングしたの?」
「してねえよ、四時半に起きられるか」
「ちゃんと泉月ちゃんとコミュニケーションとったのね?」
「朝飯用意してもらったし、話くらいするだろ、ふつう」
「まあ、そうよね」
「風呂から出てきたのにはびっくりしたが」
「もしかしてラッキースケベ?」
「きょうだいだから違うだろ」
「でも興奮した?」楓胡の方が興奮している。
「そんな、はっきり見てない」
「背中に目があるわけではないでしょう」それまで静かに朝食をとっていた泉月が口を挟んだ。
「鏡に映ってたけどな」
俺が言うと泉月は一瞬動きを止めた。
「ん」
俺が様子を窺うと、泉月は立ち上がって自分の食器を片付け始めた。
もしや姿見に映っていたことに気づいていなかった?
泉月は食器を洗い場に運んで洗い始めた。
「――やっぱりラッキースケベだったんだ?」楓胡が耳元に囁いた。
「意外とポンコツなのか?」
「そんなことを言わないのよ」楓胡は微笑んだ。
「私、先に出るわ」泉月が楓胡と俺に言い、自分の部屋に入った。
入れ替わるようにして
「おはよう」桂羅もルームウェア姿だったが、膝丈のワンピーススタイルだ。聖麗女学館の寮生の部屋着だと聞いた。
桂羅は、俺がすでに朝食をとり終えてお茶を飲んでいることに驚いたようだ。跳ねた髪を押さえて慌てるようにして洗面所に駆け込んだ。
「桂羅ちゃんは火花ちゃんを男として見ているようね」楓胡は笑った。
「お前や泉月は俺を男だと思ってないみたいだな」
「きょうだいだもの」いや違うだろう。お前も本当は俺を男だと思って見ているはずだ。桂羅とは少し意味合いは違うかもしれないが。
戻ってきた桂羅はショートボブの髪を整え、顔もキリリとさせていた。
「今日は私がいちばん最後か……」まるで俺より遅く起きたことが屈辱のような言い方だった。
「二人とも、お弁当はどうする? 私は朝の残りを持っていくけれど」楓胡が訊いた。
「俺は良いよ。全部食べてしまったし」今日も学食で昼を食べるつもりだった。
「私も朝全部食べてしまうから」桂羅も答えた。
「食べきれるの?」楓胡が訊く。
「あんた、まだ食べられるでしょう?」
桂羅が睨むような目で見てくるので「ああ、食えるよ」と答えた。
「私の残したもの、よろしく」
「はじめからピーマンをはじいてるじゃないか」
「好きでしょ? ピーマン。なんて私は優しいんだろ」
顔には出さないが桂羅が笑っているのはわかった。
やがて登校する準備ができた泉月が部屋から出てきた。髪を後ろで纏めて綺麗な
新品かと思うくらい整えられた濃紺のセーラー服は測ったように膝丈で、清楚で上品な装いだった。
「「おはよう」」
見事に必要最小限のタイミングで泉月と桂羅が目を合わせて朝の挨拶をする。それ以外二人が言葉を交わすことはない。
「行ってきます」
「いってらっしゃい」泉月を見送りに楓胡は玄関まで行った。
俺は「おお」と答えただけだった。
このマンションに来てまだ三日目の朝だが、泉月と桂羅がぺちゃくちゃお喋りをしているのを見たことはない。
基本的にここでは楓胡が
泉月と桂羅はどうも他者とコミュニケーションをとる習慣がないようだった。
「お前、泉月とあまり喋らないんだな」俺はつい桂羅に訊いていた。
「特に話すことないし――」桂羅は目だけ俺に向けた。「――何を喋ったら良いのかもわからないし」
「俺相手には憎まれ口叩けるのにな」
「は? 私がいつあんたに憎まれ口叩いた?」
「そう、それだよ、それ」俺は笑う。
「感じ悪!」
「何を二人でじゃれてるの?」楓胡が戻ってきた。
「――じゃれてないし」桂羅が答える。
心なしかその頬が膨らんでいるように見えた。
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