幼いころの記憶

 港区に移動した。「もう一つ、付き合って」と楓胡ふうこが言った。

 それが父方祖父が入院している病院だとすぐにわかった。あるいははじめからここに来ることが目的だったのではないかと思う。

 祖父に面会する際、俺はウイッグだけ外した。外してしまえば普段着を着た俺だ。

 その日買ったものは全てマンションまで配送してもらえるようにしていたからほとんど手ぶら状態で、見舞いの花だけ病院の一階にある花屋で買った。

 祖父は二人の孫が訪ねてきたことを素直に喜んだ。

 祖父はほとんど喋ることはなかったが、楓胡が学校のこと、マンションでの四人の共同生活などを語るのを目を細めて楽しそうに聞いていた。

 こういう時に祖父の表情を和らげるのは四人の孫の中で楓胡が最も秀でている。こればかりは誰も真似はできないだろう。

 そうして三十分ほどで祖父の部屋を出た。

「じいさん、お前が楓胡だとすぐにわかったな。泉月いつきと区別がつかないかと思ったのに。やっぱりただ者ではないのかもな」

 楓胡と会ったのも今日でようやく三度目だったようだ。二度目の俺と大差はない。

「泉月ちゃんはすぐにわかるのよ。泉月ちゃんでないとわかれば難しくはないでしょう?」

「まあ、そうかな……」

「もう一人、会いたい人がいる」それは叔父だった。

 叔父は叔父の私室にいた。

 叔父は前回と同じく、顔色ひとつ買えずに楓胡と俺を迎えた。

「理事長に会ってきたのかい?」

「ええ」楓胡は優雅な所作で勧められたソファーに腰かけた。俺と違い、すでにセレブリティが板についていた。

 やはりこいつは女優だと思う。

 叔父は相変わらず冷たい目をしていた。泉月はこの叔父の影響を受けているに違いない。

「君が見たいものは用意した」と叔父は楓胡に言った。それはDNA鑑定書だった。

 先日俺はこの病院を訪れた際に採血を受けた。あくまでも確認のため、という理由で祖父との血縁関係を調べる検査が行われたのだ。

「泉月を含む君たち四人が理事長の孫であることは九十九パーセント以上の確率で間違いない。私は君たちの父親とは一卵性双生児の関係にあるが、私の遺伝子情報と君たちとのそれを見ても、親子関係は間違いなかった。そして楓胡君の要望で行った鑑定で、君たち四人の間でも血のつながったきょうだいであることはほぼ証明された」

「実は血はつながっていなかった、ということはないということですね?」楓胡が念を押すように訊ねた。

「そうだ」

「お手数をかけました」楓胡は頭を下げた。


「それが知りたかったことなのか?」

 病院を後にして二人きりになってから俺は訊いた。

「そうよ」楓胡は少し前の道を見ながら答えた。明らかに口数は減っていた。

「鑑定が不服だったみたいだな」

「うん」

「東矢一族でない方が良かったのか?」

「て言うか……」そこでやっと楓胡は俺を振り返った。「火花ほのかちゃんと姉弟きょうだいでない方が良かった……」

「え?」

火花ほのかちゃん、私と会ったこと、忘れてるでしょ?」

「ああ、たしか法事で会ったとか言っていたな。しかし昔のことだと記憶も曖昧で……」

「お母さんの七回忌だったわ。小学校に入る前の年よ」

「六歳くらいか?」

「私はお祖母ちゃんに連れられて佐原まで行った。多分それは私が覚えている限りたった一度のお母さんのお墓参り……」

「すまん、俺、墓参り自体、したことねえわ。というか、母親の墓とか教えられていない」

「ええ?」

「じいちゃんや叔父貴がなんて考えていたか知らないが、親のことに触れるのはタブーみたいになっていた」

「そうだったの……」

「俺たちの母親の墓、佐原にあったのか?」

「小さかったから具体的にどことまではわからないけれど、お祖母ちゃんに連れられて行ったのよ。でもその時、そこがお母さんのお墓だとはわからなかった。何か親戚の集まりだと思っていた。七回忌だとわかったのはずっと後になってからよ」

「……こどもたちだけで遊んだの。何もわからず、無邪気にね。男の子が二人いて、女の子は私ともう一人」

雷人らいと飛鳥あすかだな」俺は従兄妹の名を挙げた。

「名前は覚えていない。泊まりだったから夜はみんな一緒にお風呂に入った」

「なるほど、言われてみれば、そんな記憶がかすかにある」ような――と俺は思い起こした。

 従兄妹たちとはいつも一緒に遊んだ。そこに一人知らない子が混じっていたとしても印象に残っていないかもしれない。

「私はそのお風呂でおへその横に赤いアザがある男の子のことが気になった。私の左の太ももにあるのと同じアザ……」

「例の奴か……」

 マンションに移り住んだ最初の日に楓胡に教えてもらったきょうだい共通のアザ。そのアザを確認するために楓胡は俺と同じ風呂に入ったのだ。

 俺の腹には体が温まったときにはっきりと浮かびあがる星型のアザがあった。ふだんはそれほど目立たない。しかし風呂に入ったりしたら赤くはっきりと浮かびあがるのだ。

 同じものが楓胡の左太ももにもあった。そのアザを確認するために楓胡は泉月とも桂羅とも一緒に風呂に入っている。

「小さいからよくわからなかったけれど、何か運命的なものを感じた……」

 駅へ向かう道はメインストリートを外れていたせいか人はまばらだった。

 誰かに聞かれることもなく、楓胡の口は動いた。

「その男の子とはすっかり意気投合したわ。夜になってみんなでトランプをして遊んだ時もその子のことばかり見ていた」

「すまん、それが俺なのか?」

 なんだかこそばゆい感じがして、そしてまた申し訳ない気持ちも湧いてきた。楓胡はしっかり覚えているのに自分は曖昧な記憶しかないのだ。

「次の日、お別れの時が来たわ。私とお祖母ちゃんは伊豆へ帰らなければならなかった――

「――私はみんなの目を盗んで、その子と二人きりになることに成功した。広いおうちの縁側だったと思う」

 かすかな記憶がよみがえる。はなれの部屋を女の子とおばあさんが借りて泊まっていた。その部屋に行く途中の廊下だと思われる。

 秘密の話とか行って、何かいけないことをしているような、冒険者になったような気分で女の子と短い話をしたっけ。そしてたしか……。

「別れ際にキスをしたわ」

 キスというより「チュウ」という表現の方が合っている。俺は思い出した。

「ああ、した、かもな、チュウ……」あやふやな言い方をしたのは俺の照れだった。

「そう、たしかに、あれはチュウね」楓胡は顔を赤らめて微笑んだ。「その時した話の内容、覚えている?」

「え? 何だっけ?」

「――やっぱり覚えてないのね」楓胡の顔に影が射したような気がした。

「何だろ……」

「いつか思い出すかもね」楓胡は意地悪そうな笑みを浮かべた。

 教えてくれないのかよ。俺は胸の中で叫んだ。

「本当に楽しいひとときだった。でもそれをお祖母ちゃんが見ていたの」

「え?」

「あんなに怖い顔のお祖母ちゃんを見たのは、後にも先にもあれ一度きりだわ」

 幼いこどものお遊びとはいえ、血のつながった姉弟の行為に祖母が衝撃を受けたのはわかる気がした。

「あれ以来、私とお祖母ちゃんがお母さんのお墓参りに行くことはなかったわ」

「そうか……」

 そして楓胡はしばらく喋らなかった。


 帰りの電車に乗り込む直前、楓胡はもとのように喋り出した。「今日はとても楽しかったわ」

「買い物付き合ってくれて、ありがとな」俺も笑い返した。

 電車に乗ってから俺は思いついたことを言った。「そうだ。連休になったら墓参りに行くか」

「え?」

「泉月と桂羅かつらも連れていこう。じいちゃんが会いたがっている」

「それは、名案ね、さすが火花ちゃん」

 泉月と桂羅が一緒に行くかどうかわからない。彼女らにも都合があるだろうし、実の母親に対する思いがどれほどのものかもわからなかった。しかし何となくこの機会に連れていかなければならない気がした。

 最寄り駅に着く頃には日も暮れていた。

 学園がある駅から電車で十分もしないところ、神奈川県相模原市にマンションはあった。駅から徒歩三分だ。

 ふだんなら知っている顔に出くわすことも考えてばらばらにマンションまで歩くのだが、今日は俺も楓胡も学園での姿とまるで違うので気づかれないと思って、二人で帰って来てしまった。

 あとで少し厄介なことが起こるとはこの時の俺たちは考えもしなかった。

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