実践、解答、時期尚早

 喉元に押し当てた金属バットを、そのまま顎下から脳天へと思い切り突き上げる。

 水気交じりの呻き声に重ねて廃屋の朽ちかけた床を踏み抜いたような音がして、これだと話が聞けないということに気付いて俺は舌打ちをする。


 琺瑯典の口八賭屋に通い詰めた揚げ句に負け分を放り出して逃げた二人組を捕まえてこいという、ありふれた現場仕事だった。

 本来ならこの辺りの賭け事にまつわる話は九箆クベラ青衆が掛け取りなり切り取りなり引き取りなどを取り仕切っているのだけども、青衆の方もこのところは人員不足と予算不足で手が回っていないらしく、古くから付き合いのあるうちの事務所に話が回ってきた。そうしてただの現場仕事暴力沙汰なら大丈夫だろう、と事務方や権限のある連中が判断して、俺がいつものように金属バット片手に潜伏先の安宿の一室に押し入ってひと暴れ業務を遂行することになったのだ。


 勿論今日とて昼間にカガミの監視という仕事を終えた後ではあったが、俺のような立場の人間が否を言えるわけもない。そもそもカガミのやつは脱走を企てるとか自傷に走るとかいった手間のかかるような真似はせず、ただ延々と怪談だかうわごとだか分からなくなるような話をしているばかりなので、雑に相槌を打っているような自分がくたびれるわけもない。

 それに仕事の内容としてもちょうどいい。馬鹿の顔を覚えて手際よく殴って捕まえておけばいいだけなので、気分転換になる。


 棒のように床に倒れ込んだ男を眺めてから、念のためにその左脛に勢いよくバットを振り下ろす。

 やけに甲高い悲鳴のでき損ないのような音がしてから、すぐに啜り泣きだけが延々と聞こえてくるだけになった。立ち上がる気配もない。どこかしらの骨を折ったり割ったりすると、大抵の人間はやる気を失ってくれる。面倒がなくていい。色んなところを割られても気を失わないあたりは感心するが、この状況ではただ痛いのが長引くだけではある。

 別段相手をいたぶるような趣味は俺にないが、逃がさないためには足を潰すのが手っ取り早い。丁寧な仕事のときは獣咬縛縄を用いるのが常ではあるが、あれはそこそこ値段が張るし手間がかかる。事務所から支給がなかったということは、こいつらにそこまでの費用をかける価値はないという判断だろう。そもそも無傷でという指示もない時点でそんなことは分かり切っている。恐らくは青衆に引き渡してから、千腹商会臓肉解体屋に回しておしまいだろう。それなら五体に派手な欠けさえなければ文句は出ないはずだ。値が付くのは腹の中身だ。


 それにしても分からない。俺は手にしたバットを床に突き、足元で呻く男を見下ろす。

 借りた金を返す、提示された額を期日までに揃える、面会の約束の時間を忘れない。互いに取り交わした契約を履行すると言えば大げさかもしれないが、要は約束を守れということだ。

 ただそれだけのことができない連中が多いのはどうしてなのか。俺ですらできることをやれないという道理はないだろう。

 そうやって世間に不義理を働いた結果、半端な月が雑な切り絵のように中天に貼り付いた蒸し暑い夜に、こんな場末の宿で俺に金属バットでぶん殴られるような羽目になるのだ。世の中というのはそういう具合に帳尻が合うようになっている。調整要員として駆り出される身としては面白いものでもないが、これも仕事だ。世界の道理だというなら尚更だろう。


 溜息を吐こうとした途端に背後から怒声が湧いた。


 猛烈な勢いで突っ込んできたの方を振り返る勢いのまま、水平に構えたバットを振り抜く。ちょうど腹の位置に思い切り打ち込めたようで、怒声どころか悲鳴も上げられずにそいつは海老のように背を曲げる。

 そのまま動きが止まったところを、膝横を巻き込むように蹴ればあっけなくそいつはひっくり返った。

 倒れた胴体の胸をちょうどいい具合に踏みつければ、肺から抜けた空気が粘った嗚咽を鳴らした。

 背後に視線だけを向ければ、開いたままのドアの奥に浴槽らしきものが見えた。

 風呂場から飛び出してきたのだろう。隠れていたところでどうせ家探しをする予定ではあったが、抵抗しなければこちらだって必要以上に殴る気はなかった。飛びかかってきたからそれなりの対応をすることになっただけだ。


 とりあえずもう一人と同じように足を潰そうかと構えて、ふと思いついて手を止める。踏みつけた足の力加減を保ったまま、床に倒れた男を見る。

 ぐすぐすと鼻を鳴らして顔中が涎だの涙だのの体液で汚れてはいたが、意識はあるようだ。薄っぺらい胸板を踏み割らないように、それでも身を起こせない程度に体重をかけて、俺はその充血した目を覗き込んだ。


「なあ、お前まだ口が利けるだろ。聞きたいことあるんだ。答えろよ」

「お前、真化芭んとこの──」


 また喚き出しそうな気配があったので、俺はそいつの左腕を持ち上げてから肘のあたりを適当にぶっ叩く。ただやかましいだけの悲鳴が上がったので、相応に不愉快になった。


「そういうことを喋っていいとは言ってない。聞いたことに答えろ」


 男は目を剥いたまま痙攣するように頷く。

 余計な質問をしてくるのは不愉快だったが、意味もないことをぎゃあぎゃあと喚かないだけマシな方だった。宿の人間に話は通っているとはいえうるさくし過ぎると騒ぎになるし、そうすると説明だの口止めだので事後処理が増える。そうすると俺が仕事を手間取ったことになり、巡り巡ってアダカさんに叱られる。それはものすごく嫌だった。

 早めに済ませよう、そう考えて俺は改めて問いを口にする。


「お前さ、絵とか描く?」

「い──いいえ」

「喉とか声で商売やってたりとかは」

「ありえません」


 何もないやつだ。珍しくもないが、面白くもない。確かに見て分かるくらいに平凡なツラと面白くもない声をしている。この時点で以前カガミが言っていた『価値の棄損』とやらは難しくなった。そもそも何もないものを損ないようがない。

 不発に終わった質問の次弾を込めようと、またあの荷物カガミが言っていたことを思い出す。他人の意見が伺えるせっかくの機会なのだから、試せるものは試しておきたかった。


「家族とか恋人とか友人とか、そういうもんはいるか」

「家族、恋人、いません。友達は──」


 涙で浸された目がずるりと動く。視線の方向を追えば、先程俺が顎を割った男が転がっていた。刺板虫の羽音じみた呻き声を上げているあたり、まだ気を失い切れていないようだ。

 あちらにも聞くべきか、と一瞬悩んでから無意味だということを思い出す。どのみち顎が割れているのだから、意識があっても物が言えないようなら役に立たない。


「あれ、友達か。じゃああれを失くしたらどう思う、お前」

「あ──俺を助けてくれるんなら──その──」


 期待じみたものを滲ませて見開かれた目がドブに落とした小銭のように部屋の照明に光って、俺は黙って一番下の肋を蹴り込む。紅串屋の來爺さんが仕込みに絞めていたトリとそっくりな声がした。

 失くすことに怯えるどころか取引の材料として差し出そうとするのだから論外だ。 翻ってこの『友達』の価値はこいつにとってはその程度なのだなとも思ったが、それについては俺も人のことを言えたものでもない。なにせそもそも該当する存在がいない。一つでも持っているもののことを手ぶらの人間が笑う筋合いはないだろう。

 ともかく当ては外れてしまった。何の知見も得られなかった。

 男は顔中をべとべとにしながら呻いている。あまり手間取るわけにもいかないのと面倒になったのとで、俺は男の喉元に金属バットの先を押し当てる。本命の質問を一つ、それだけこなして終わりにしようと思った。


「何が怖い。つうかお前、怖いもんある?」


 教えろよと続けようとしたところで、男の黒目がぐるりとひっくり返った。奔放な方向に曲がるようになった腕を振っても反応がない。

 ──これは、怖がられたのだろうか。

 恐怖で気絶する、という反応があるのは分かる。たまに仕事で何も手出しをしていないのに勝手にぶっ倒れたり動かなくなったりするやつがいるからだ。

 いつもより優しくして、それなりに順序立てて物事を尋ねたはずだ。それでいて怖がられるのも納得がいかない。

 確かに何か所かをぶん殴りはしたが、すぐに生死に関わるような殴り方はしていない。アカマルこの辺りにいるような連中なら、ここですぐ殺す気はないと分かる程度の乱暴だ。そうしてきちんと答えやすいような質問をしてやったというのに、こうやって気楽に目玉を引っ繰り返されたら俺の心遣いが徒労になってしまう。

 痛がっていたというのは分かる。痛いように殴ったからだ。そうだとしても言葉で証明して欲しかったが、何も言わずにトんでしまったのだからどうしようもない。 もう一方の友達──顎と膝を割られてツレに売られかけたやつ──はまだ呻いている。俺が質問をしたこいつは痛いのが苦手な人間だったのかもしれない。顎を割るのを逆にしておけばよかったと後悔した。


 とりあえず仕事が済んだことは確かだ。ならば、アダカさんに報告を入れるべきだろう。

 どうせ明日の朝にはまた荷物の監視に出なければならない。それまでに倒れない程度の生活風呂と飯と睡眠を済ませておく必要がある。

 寝不足や疲労でしくじって、たかがこの程度の追加業務もこなせないと失望されるのは嫌だった。

 事務所から支給された端末を手に、俺は長々と息を吐く。仕事は失敗しなかったが、結局怖いというのは実感できていない。


 ──役に立つと思うよ、君の仕事にね。


 檻越しに投げられた言葉が浮かぶ。面白がっているのを隠そうともしないくせに、それ以外の何かを薄く滲ませた声と、こちらをただ見つめる真っ黒な目。

 どうせ明日になれば、嫌でもあの生白い顔と赤々とした痣を見に行くのだ。あれのうわごとの相槌代わりに、今夜の顛末を話してやるのもいいかもしれない。ちょうどいい場繋ぎになるはずだ。暇潰しの雑談ではあるが、仕事である以上はそれなりに対応してやるべきだろう。


 栴檀月はいつなのだろう、とふと気になったが、教えられていないことを考えてもどうしようもない。時期になったらアダカさんが教えてくれるだろう。

 そうしたら荷物カガミは出荷されるし、俺は晴れて監視業務から解放される。あいつの思い付きがそれまでに間に合えばいいとは思う。間に合わなかったとしても、それまでだ。


 そこまで考えて、俺は息を吐く。するべきことはこなせている、指示を正しく守れている、まともに役に立てている。俺は今のところ失敗も見逃しもしていない。任された仕事を想定された通りに進めている、はずだ。殴られても売られても捨てられてもいないのだから、そう考えても問題ない。


 それなのに内臓のあたりに冷たい手を差し込まれたような不快感が貼り付いているのはどういうわけなのだろう。何かをどうしようもなく間違えているのに、それを見過ごしているような、そんな焦りにも似た感覚だ。


 夜と呻き声だけが蟠る室内には、その疑問に答えてくれそうなやつは見当たらなかった。

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