仕上がり・時借り・言いたがり

 現場でかち合って味方という証明もしてこなかったので仕方なくぶん殴った相手の顔をよくよく見たら知り合いだった。何となく流していたラジオから聞こえた派手な仕事の主犯の名前がどうやら馴染みのものだった。夜道で背後から殴りかかってきた相手と縺れ合ってどうにか地べたに押し倒して殴り潰してやろうと思った面にどうしようもなく見覚えがあった。

 そういう状況に遭遇した人間ならするかもしれない、そんな類の顔をして、カガミはアダカさんを見ていた。

 その表情が面を剥ぐようにばっさりと消えて、片眉だけが器用に持ち上がる。

 カガミは俺とアダカさんを順繰りに見ながら、いつものように右の口の端だけを吊り上げてみせた。


「忙しいんじゃなかったのかい、アダカくん」

「……忙しいから、厄介ごとが増える前に対処しに来たんだ」


 座ったパイプ椅子を軋ませながら、アダカさんはいつもと同じ平坦な調子で答えた。感情も思考も一滴さえ滲ませない、刃物のような声だ。

 檻越しにも分かるくらいにカガミは大袈裟に肩を竦めてみせた。


「わざわざ手下の仕事ぶりを見に来たのか。昔から仕事には真面目だったけど、まるで兄貴か父親みたいじゃないか。そんな年でもないだろうけど」

「余計なことを言うな、中年」

「君だってそんなに遠くないだろうに……まあ、三十過ぎたら中年おじさんなのは確かだね」


 鎖を弄りながら、朗らかでさえある口ぶりでカガミが続けた。視界の端では見慣れた靴先が床を叩いている。

 俺は恐る恐るアダカさんを見上げる。

 相変わらず真っ黒い目は半眼のまま檻を見つめていて、薄い唇が僅かに歪んだ。


「無駄口叩いてないでいつも通りにやれ。そのための視察だ」


 カガミは相槌とため息が混ざったような音を吐いてから足を組み替える。じゃらりと鎖が派手な音を立てた。

 傷跡じみた痣が刻まれた足の甲をこちらに向けて、カガミは口を開いた。


「じゃあ、いつも通りの質疑応答といこうか。イヌカイ君としては今回の話で気になったところはあるかい?」

「そいつはちゃんと仕返しはしたのか」

「ん……死んでから原因の個人にってことか。祟ったかって言うことを聞いているなら、恐らくないんじゃないか。事務所の人間で見たやつがえらいことになったってのは、まあ。それだって曖昧だけども」

「じゃあ本当に意味がないだろ、それ」


 せっかく死んで化けて出て、そこまでの手間を踏んでおいて、やることが無関係の人間を脅かすだけ。それではあまりにも甲斐がない。それなら生きている間にちゃんと怒鳴りつけるなり刃物を持ち出すなりしても同じ効果が得られただろう。死ななくて済むだけ安上がりでさえある。


「殴っても怒鳴っても来ないもんがどうして怖いんだ」


 その辺りをどうにかひとまとめにして問えば、カガミが大仰に首を傾げた。


「まあ──そうだね。命の危険に繋がりそうな物事への反応として恐怖を感じるなら、実力行使をしてこない相手に対しての評価はそういうものになるか。一応聞くけど、血みどろの人間がイヌカイ君の前に現れたとしたらどうする?」

「事務所の人間だったら事情を聞く。それ以外はとりあえず動けなくしてから素性を調べる」


 相手が身内で、その血が自前のものだったら風呂なり呪医なりに担ぎ込む必要があるだろうし、返り血だったならその血の出所を確かめる必要がある。そうでなければ単純に邪魔で危険なので叩きのめす。

 取るべき対応が明確になっている以上、恐怖を感じる理由がないだろう。

 カガミは眉間に皺を寄せてから、すぐにいつもと同じ緊張感のない笑みを貼り直してこちらを見た。


「確かにイヌカイ君の稼業ならそういう対応が正しいか。対処法、解決手段が設定されているなら怖くない。それも間違っていない」


 カガミが首を傾げる。そのまま少しだけ間を置いて、言葉が続いた。


「ただね、俺の居た世界だとそういうわけにはいかなかったから。あんまり血を見る機会はなかったし、それこそ血まみれの人間が目の前にいるなんて状況、医者か警察でもない限りは遭遇する機会がないんだよ。基本的には」


 檻越しに伏せた視線が俺の横──アダカさんへと向けられて、そのまますぐに床へと逸れた。


「けど、生きてる側の都合によっては血みどろで立ってるだけでもそれなりの効果はある、と俺は思うよ」

「手も出してこないのに?」

「出してこなくてもさ。関係がある、あるいは明らかにこちらに敵意を持っているであろう相手が、尋常じゃない様子で突っ立ってたら……まあ、想像するよね。何をされるか、どんなことになるかってさ」

「心当たりがあるかってことか」

「そういうことだね。疚しかったら、ねえ」


 カガミが右の口元だけを吊り上げる。その口の端に添えられた黒子を眺めながら、俺は理屈を受け入れようと頭を回す。

 因縁がある相手の縄張りを歩く時のようなものだろうか。その感覚なら理解ができる。こちらに殴られるだけの理由があるときは、ことが起きていない間でさえもどこか落ち着かない。

 いつでも致命的な一撃を与えられる場所から狙いをつけられているのに、その相手の所在も得物も何ひとつとして明らかになっていないような不安感──ただ自分が危険の中にいるということだけが確かだというのは、成程嫌なものだろう。


「あとはねえ、これは俺の感想みたいなもので、さっきも言ったけどね。死んでまでその場に残ってしまったっていうのがね、嫌だな」


 また何か分かり難いことを言い出したので、とりあえず黙っておくことにした。 こいつは放っておけば幾らでも喋るということは、この数日で存分に分からされた。アダカさんも止める気配はない。ならば俺の対応も間違ってはいないということだ。

 カガミは首元に垂れた髪束を弄びながら続けた。


「基本的に生き物って死んだらそれまでだろ。こっちの怪しげなものに関わったりしたようなのは除くけど、病死に事故死に自死やらなんやらと過程の種類はあっても、結果は同じ」


 ちらりと視線がこちらに向けられた。合ってしまったのを逸らすのも面倒で、頷いてやる。

 微かに口元を緩めて、カガミは続ける。


「そうやって終わったものって、いなくなるだろ。肉体的にも精神的にも。肉は朽ちるし魂は消える、三つ数えて目を瞑るまでもない──そういうものが、生前の恨みつらみなんかの感情ひとつで理屈を捻じ曲げてまで形を保って遺ったりっていうのはね、その……執念みたいなものがね、怖いなって思うよ」


 それきりカガミは口を閉じる。話すべきことは済んだ、とでも言いたげなその様子を眺めながら、俺は今の長い話の中で引っかかったものをつまみ上げる。


 死んだら何もなくなる、というのは全くその通りだ。

 普通の人間は大体そうだ。化けて出る、というか幽霊だの怪異だのになるようなやつらは、一部のひたすらに不運なやつを除けば、大概どこかしら常軌を逸した事情がある。

 死んだ程度で存在を失えないほどに、その黒々とした影を現世に縫い留めるもの──そのよすがになるほどの執着があるというのは、およそまともではない。


 覚悟を決めた相手と喧嘩をするのはしんどいようなものだろうか、とも考える。

 以前仕事でぶん殴りに行った相手がそうだった。どうして殴る必要があったのかはきちんと覚えていないが、恐らくは貸した金の返済が滞ったとか商売の関係で支払われるべき代金を拒否されたとかそんなものだろう。俺がきちんと仕事をして金属バットを振り回していたので、とっくに頭は割れて片腕も手慰みに折り捨てる寸前の割箸のような様になっているのに、膝もつかずに立ち塞がるので大層な難儀をしたのだ。

 あとでそいつは弟の逃げる時間を稼いでいたということを、対象一人にてこずって予定時間を大幅に過ぎた俺を一発ぶん殴ってからアダカさんが教えてくれた。勿論アダカさんが別の経路で逃げていた弟をきちんと捕獲して相応の相手捌噛削屋の春栄さんに引き渡していたので、あのしぶとい兄の立ち往生に何の意味もなかったのだけども、普通のちんぴらなら座り込んで身内も売って身も世もない命乞いを始めていたであろう状況でも踏み止まったやつのことは、俺でもたまに静かな夏の夜などに立ち番をしていると思い出すことがある。


「……つまりさ、お前んとこのお化けはさ、恨んだからになったんだろ」

「そうだね。無念ではあったろうし、憎かったとも思うよ」

「死ぬ前にちゃんと殺してやれば、化けて出なくてもよかったんじゃないか」


 自分で死ぬ前に、死にたくなった原因のやつに報いてやればよかったのだ。そもそも他人のために自分が死んでやる義理がない。結局俺はそこから納得できていないのだ。

 カガミはしばらく俺のことをじっと見てから、


「そうだね、それも一つの解法だ。是非はともかく……でもそれがね、できない人もいるんだよ」

「それは何でだ。決まりか」

「決まりもあるけども、ええと」

「向いてないやつもいる。そうだな」


 発せられた声にぎょっとして視線を向ける。

 アダカさんは志鎌乱雨の最中に外回りに出る用事があるときのような顔をしていた。


「できないことを無理にやると、大体ろくでもないことになる。そこの道理は分かる程度に臆病なのに、諦め切れるほど利口でもない。そういうやつを追い詰めると、どうにも面白くない有様になる」


 そういうことだろう、とアダカさんが檻を睨む。

 返事のようにじゃらりと鎖が鳴った。

 アダカさんは一度長々と息を吐いて、パイプ椅子から音もなく立ち上がった。


「帰る。イヌカイも思った以上にちゃんとやってるみたいだしな」

「そりゃ良かった。ご満足頂けたんなら、尚更」

「後はお前が余計なことをしなければ済む話だ。分かるな荷物」


 アダカさんの言葉に、カガミは口元を吊り上げて答えた。


「分は弁えてるよ」


 相変わらず心配性だね君は、と笑い混じりに添えられた言葉の調子はひどく愉快そうだった。

 アダカさんは眉間に深々と皺を寄せてから、そのまま物も言わずに背を向けて歩き出す。

 お疲れさまですと出口へと向かうその背に向かって叫べば片手がひらひらと振られ、俺はそのまま勢いよく頭を下げる。


「律義だね、君もアダカくんも……若者ってのはそんなに真面目なもんなのかね」


 カガミが口にするアダカさんの名前に何となく余計な気配がまとわりついているような気がして、胸がじわりと煮られるような不快感が湧く。蹴るか投げるかしてやろうと思ったが、今はアダカさんを見送るのが優先される。

 背後からちゃらちゃらと弾んだ調子で響く鎖の音を聞きながら、俺は頭を下げ続けた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る