平手、回答、好奇心

 精一杯伸ばして胴体及び顔から距離を稼いだ腕、その掌を思い切り自分の頬に打ちつければ派手な音と共に視界が揺れて、アダカさんの呆れ顔が左右にぐらぐらと踊った。


「アダカさんは、その──荷物と、カガミと付き合いがあるんですか」


 仕事荷物の監視に出る前に事務所に立ち寄った。良く喋る荷物の世話に必要なものをまとめて通りがかった仮眠室。その前に設えられた年季の入ったソファにアダカさんが下拵えを済ませた蛸のような有様で座り込んでいたので、先日吹っ掛けられた挑発宿題を処理できるのは今しかないのだと俺は腹を決めた。


 アダカさんはいつもの目の痛くなるような柄が一つもない、ただ黒々としたシャツの首元を弄りながら、前に立った俺をただ見ていた。


 まだ何の感情も滲んでいない、冬の曇り空じみて昏い目を見ながら、俺は自分の取るべき手続きを考えた。許可が下りていない内容を尋ねるのはよくないことだ、よくないことをすると殴ら躾けられる──それは全く道理であるのだけども、俺の都合で相手に負荷を強いるのもまた行儀が悪い。殴る方の手も無傷では済まない。間抜けを殴った金属バットがべっとりとした血やら髪やらで汚れるのと同じ理屈で、殴った方の手も痛むのだ。


 一つの間違いに一度の殴打で釣り合いが取れる。

 つまるところ余計なことを聞くのだからアダカさんに手間を取らせなければいいのではないかと考えた結果、俺は自分の横っ面を精一杯張り飛ばしてから質問を投げるという行為に及んだのだ。


 アダカさんはソファにめり込むように座ったままこちらを見上げて、


「痛い目を見たら何を聞いてもいいってわけじゃないんだが──」


 何事かを続けようとした言葉は絶えて、溜息すら吐かずに目を伏せる。面倒になったのだろう。

 しばらく視線が床を這ってから、じろりと持ち上がった黒目が俺のことを正面から射抜いた。


「面識はある。付き合いかどうかは分からんが、商品を扱うのに必要な知識はある。その程度の関わりなら、確かにある」


 それならば、と俺は納得する。自分の扱う品を知らない売人はいない。定期的にここらを管轄縄張りにしている警察アオイヌの連中へと関係維持のために差し出すお歳暮捨て駒ならば未だしも、アダカさんのようにきちんと事務所の一員として実績と能力を示している人がそんな扱いを受けるわけがない。

 だからアダカさんが商品として仕入れたあの荷物カガミのことについて何かしらを知っていても不自然ではないし、引き渡し先が台無しになる度に出戻ってきているならば多少の馴染みがあるのも当然だろう。あいつが思わせぶりな物言いをしただけであって、アダカさんが商品に対して特別な思い入れを持ったということではないのだ。

 あいつカガミは適切な管理と監視が必要な商品であって、それ以外の何物でもない。そういうことだろう。


「ありがとうございます。よく分か──分かりました」


 意外と残る痛みに顔を顰めながら言葉を絞り出して、頭を下げる。アダカさんは微かに充血した目をこちらに向けたまま口を開いた。


「怒っちゃない、ただの疑問だ。だからちゃんと答えろ。何でそんなことを聞いた?」

「聞いてみろと言われたからです」


 いつもより少しばかり疲労の滲む、低く掠れた声だった。

 アダカさんは誰にとは聞かなかった。そのまま眉間に皺を寄せて、靴先で床を叩いている。

 その爪先の周辺、床にうっすらと赤い跡が広がる。

 くたびれた様子からして事務所に来る前に何かしらの仕事厄介を片付けてきたのは俺でも予想がついたが、詳しい内容まで想像しそうになるのを踏み止まる。

 俺が知る必要があることなら、この人はきちんと教えてくれる。

 箍耶蚕の先鋒連中はおよそ炸裂術式を仕込まれているから真正面から相手をせずに鹿場結界の有効範囲を確認しつつ暴れろとか、壕賀三叉路のあたりで四仙昂煙視の看板と屋台を見かけたらすぐに事務所に連絡を入れろとか、三月の二週目だけは事務所に出入りするときにきちんとした格好をしていないと内臓を失くすことになるからどうにか衣装を用意しろとか──知らなければおよそ致命的なことになる事柄についての対処については、いつもの折れ朽ちる寸前まで錆び切った短刀ドスじみた荒れ声で教えてくれる。


 ただでさえ自発的な疑問余計な質問をぶつけたのだから、堪えるべきところは我慢すべきだ。

 一度緩んで駄目になったと判断されたら、それこそどんな扱いを受けるか分かったものではない。役に立たない上に口出しまでする下っ端なんてものに価値などない。


 どんな場所のどんな立場であれ、自分の身の程と役割を見誤ったやつは大抵ろくでもない末路を迎えることになるのは、俺にだって分かる理屈だ。


 革靴の先から擦れて伸びる汚れから目を逸らして、俺はアダカさんの言葉を待つ。


「……今日、これから行くのか」

「はい」

「俺も行く」

「は──あ、い」


 間抜けな音がしたと思ったが、どうやら自分の口から出た声だった。

 アダカさんは微かに口元を緩めてから、すぐにいつもの仏頂面に戻って続けた。


「色々あって今日の予定が飛んでな。ちょうど手が空いてる。また厄介を抱える前に帰っフケて寝るかどうかしようと思ってたが、せっかくだ」


 何か不都合があるわけでもないだろう、そう呟いてからアダカさんがこちらを見る。

 告げられたのは決定事項だ。問われているのはその内容を理解しているかどうかという確認であって、行為自体の可否ではない。それくらいは俺にも判断できるし、その判別を誤ればどうなるかなど考えるまでもない。

 アダカさんの動向に対して俺が口出しできることなど何もないし、都合も不都合も俺が判断するものではない。

 いつも通りの状況で、儀式で、確認だ。それを理解して正しく反応できているうちは、俺が見切られることも捨てられることもない。これまでそうであったように、これからもそうであるはずだ。


「分かりました。よろしくお願いします」


 以前習った通りに、自分の爪先を見るようにして深々と頭を下げる。こうするとより卑屈な具合になるので仕事がしやすいと教えてくれたのもアダカさんだ。

 殴りつける相手なら頭を下げる必要はないが、自分より力のある相手には勝ち筋が見えない限りは形だけでも装っておいた方がいい──アダカさんを殴る予定などあるはずもない。

 だから、こうした動作を行うのは礼儀や敬意といった人間的な理由だと、俺はそう思うことにしている。


 そうして自分の履き古した靴先を眺めているうちに、ふと思考が逸れる。

 予定外の来客に対して、あの荷物は檻越しにどんな顔をするのだろう。

 そんなことを考えると、少しだけ愉快な気分になった。

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