現場、火種、兄貴分

 栴檀月というのは栴檀有鈎公社の仕切りで月に一度の満月と同じ頻度で夜明けから日付の変わる寸前の一日を期限に催行される市のことだ。

 人から物に禽獣並んで怪異に妖物つまるところ事前と事後に相応の代金さえ払うのならば何を売り買いしようが通るというそれなりに派手な代物で、最初の頃はきちんと栴檀さんの市だの鈎市だのと素直な呼ばれ方をしていたのだが、取り扱う品揃えを何でもありにしてしまったがために持ち込まれた諸々でご近所の同業者与太者連中商売敵警察ども親愛なる一般人銭になるカモへと被害を及ぼすのを防ぐため会場にそれなりの物理的及び呪術的な対策を立てる必要があった。

 そこで力関係付き合いやしがらみなどを鑑みた結果として横部衆を頼ったところ彼らの用いる呪術の都合で満月の日を待っての開催というのが恒例となり、地上の乱痴気騒ぎと夜のべとつく暗闇の最中に冴々とまた絢爛として印象に残る月の名前だけが取り残され主催の名前と合わせて、栴檀月という名称で通用するようになった。


「つまりまあ、思ったより規模がデカくなった地区会企業協賛の縁日みたいなもんで、なおかつ雰囲気で決まった通称というか愛称というか……そういう類ってことだな」


 俺が先日磨いたばかりの事務所の床に転がったまま分かりましたとできるだけの声を出して答えれば、アダカさんは俺を見下ろしたままで薄い唇の右端だけを歪めてみせた。


***


 倉庫に向かう前に顔を出した事務所で顔を合わせたアダカさんはあれから少しは眠ったようで、冗談のような真っ赤な地色に名前も知らないけれども派手な花が柄としてあしらわれたシャツを着ていてもで血まみれの死にかけと見間違えずに済むくらいには顔色が随分マシになっていて、挨拶と経過報告がてら近寄っていけば、人を刺したまま放っておかれて錆び切った包丁の刃みたいな声で調子はどうだとか任せたもんは大丈夫かなどと世間話の皮を被せた仕事の進捗を見慣れた真っ黒い目で尋ねてくるので、その問いには真剣に真っ当に答えながら、そういや俺はあの商品カガミがどう扱われるかを知らないということに気づいてしまったのだ。

 ところであいつはどこで売られるんですかと尋ねれば、咥え煙草のままじろりと視線だけが俺を射抜いたので、自分がどうしようもない油断をして下手を打ったことを理解した。


 そのまま視界が転回し、その中で煙草の火の赤さだけが鮮やかな軌跡を残して過ぎ消える。

 目の前には革靴の擦れた靴底と爪先が丁度いい具合に陣取っていて、そのまま息と鼓動に合わせて蹴り抉られた肋の下が痺れて疼いた。


「自分から聞けるように、疑問を持って動けるようになった。それはいいことだ。問題が起きる前に確認を取るっていうのは厄介ごとが予防できる。とてもいい」


 呟くような、窘めるような静かな声を煙と共に吐き出しながら、アダカさんはじっとこちらを見下ろしている。


「けどなイヌカイ、今回の仕事で……俺はお前に、そんなことを考えろとは頼んでないんじゃないか」


 問題が起きないように気を遣うのは良いことだ。俺如きが余計なことを考えるのは悪いことだ。双方合わせて考えて、その結果として蹴り一発で済ませてくれたんだなと俺は床に転がったまま勘定を合わせる。


「──その、済みません、余計なことを聞きました」


 謝りながら立ち上がれば、アダカさんは微かに頷くように俯いてから、


「栴檀月で売る」


 せんだんづき、と聞こえた単語をそのまま繰り返すと、話が続いた。


「元々買い手は決まってるけど、有鈎さんの方から賑やかしに陳列だけしてくれないかって話があったからな。うちの社長がそれで受けたから、そういう話になった」


 そう答えて煙を吐きながらこちらを見ているので、俺は


「あの……栴檀月っていうのは、その」


 何のことですかと尋ねると、今度は脛のあたりに猛烈な衝撃が走り再び視界が横転する。

 俺は先程よりは少しだけ温くなった床へとシダ肉の塊でも取り落としたような間抜けな音と共に叩きつけられた。


「素直なのはいいけどな、懲りないのはよくないと思うぞ」


 そうして派手な溜息と共にアダカさんの革靴の先が軽く俺の腹に添えられたので、俺はもう一度謝罪の言葉を口にした。


 それでも余計な質問について答えてくれたのは、アダカさんが喋りたかったのが半分、蹴った分で清算が済んでいたのが半分だろう。

 俺が勝手に物を考えたのが咎められたのであって、俺がそれを知ること自体には問題がないとアダカさんは判断したのだ。だから疑問には答えてくれたし、何ならおまけ略称の由来の質問も軽めの蹴り一つで見逃してくれた。自分だって事務所の仕事銭絡みの書類やら外回りやらで忙しいだろうに、そこまで手間をかけてくれたのだ。

 俺みたいなもの役に立たない下っ端への対応としては破格だろう。


 腹に当てられた靴先に力が籠もったので、俺は慌てて立ち上がる。

 アダカさんは灰皿に灰を落としてから静かな声で続けた。


「今何してる。言え」

「監視してます。そうしろと言われました」

「そうだな、俺はそう言った。監視ってのは何をしている、見てるだけか」

「話を聞いています」


 アダカさんが眉間に皺を寄せた。


「何を聞いている」

「雑談です。その──怖い話を、聞いています」


 眉間の皺が深くなった。

 当たり前の反応ではあるが、アダカさんに嘘をつくわけにもいかないので俺としてもこう答えるしかない。


「……何でだ。頼んだのか」

「違います。向こうが勝手に始めました」


 これも嘘は言っていない。

 暇だから話し相手になってくれ、何なら話を聞くだけでいい──そう言ったのは荷物カガミだ。後付けで細かな理屈を並べてはいたが、大元はそこで間違ってはいない。


「暇潰しだと言っていました。退屈で死にそうだから、世話係だっていうなら雑談くらいは相手してくれてもいいだろうと」

「ああ……」


 アダカさんは一瞬目を伏せてから、少しだけ長く煙を吐いた。

 道端に転がっている片方だけの靴に覚えがあることに気付いたような顔だった。


「それならいい。その程度なら好きにさせろ。引き続きお前に任せる」

「はい。努めます」


 アダカさんは黙って頷いてから、呟くような声で続けた。


「──話を聞いてもいい。ただ、


 指示の意味が咄嗟に掴めず、俺は黙って次の言葉を待つ。

 煙草の火が僅かに強く灯り、煙が緩やかに流れた。


「あれは口が達者だ。何かを吹き込もうとするかもしれないが、信じるな。その場の与太だと聞き流せ」


 それだけ言って、区切りのようにアダカさんは天井へと煙を吹き上げる。

 そうしてひらひらと手を払うように振って、それきりこちらに目も向けなかった。


 俺は分かりましたと答えていつものように頭を下げる。

 黙って手を振られたのは、これ以上は話をする気はないという意志表示だ。アダカさんは話すのが嫌いな方ではないが、自分の気が乗らないときは一言だって口を利かない。

 そういうときに無闇に話しかけると大抵ろくなことにならない。俺は痛いのには慣れているが、別に痛い目に遭うのが好きというわけではない。


 栴檀月のこと、話好きの荷物カガミのこと、今後の仕事のこと──事務所を出て倉庫に向かいながら、得た知識と指示を丹念に思い返す。話を聞くことを咎められなかったのは意外だが、アダカさんの判断に間違いがあるわけがない。


 吹き込まれても信じるな、という警告。あんな言葉が出てくるのが意外ではあった。念押しのように告げられたのは少しだけ不思議ではある。

 俺がアダカさん以外の言うことを聞けるわけもないのに。

 拾われてからずっとそうして生きてきたのだから、今更他のことのしようもない。

 カガミとの雑談など、精々が荷物の売られる間の暇潰しに付き合っているだけだ。仕事としての付き合いであり、荷物と仲良く友達になるような気はさらさらないし──そもそもそんなものが俺には必要ない。

 恐怖が理解できたら便利になる、これはカガミの提案だ。聞き入れはしたが、その主張を全て信じているわけではない。乱暴な話、できなくても問題はないのだし、もしできたとしたら仕事に役立てられるのだから損にはならない。損も利もどちらもなくても、それはそれで荷物の面倒を見るために無駄な雑談に付き合わされたというだけのことだ。不愉快ではあるが失うものは特にない。


 取り立てや追い込みの業務人を殴ったり折ったり潰したりするのが今よりうまくできるようになれば、アダカさんに見捨てられずに済むだろう。それは少しだけ嬉しいことだと思う。

 あの人の役に立ててさえいれば、俺としては満足なのだ。

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