痛がり・怖がり・死にたがり
話し終わった男の口元、その左端にもふしだらな黒子があることに気付いた。
「さて。感想とかあるかい」
「何の話だったんだ」
「ん……怖い話、だけどね」
どうだった、と背を丸めながらカガミが問う。
俺は先程までの長話の内容を思い出す。
刺されて死ぬのは痛いと思う。働いているやつに迷惑をかけたのは悪いと思う。
それぐらいだろうか。
あとは何だか師漸寄木の秘密箱の手順じみて回りくどくて面倒なことをやっている──それくらいのことしか分からなかった。
その辺りを正直に伝えれば、カガミはゆっくりと顎を擦った。
真っ黒い目がじっとこちらを見ているのでひどく居心地が悪かった。
「俺が間違ったって顔だな。どう答えるのが正解だった」
「いやまあ、そりゃ怖がってくれたらいいんだけども」
「
それなら覚えは幾らでもある。およそ仕事で金属バットで肘なり脛なりを思い切り叩き折ってやれば、怪異も人間も聞くに堪えない悲鳴を上げるし顔の部品はどうしようもなく歪む。
ことに人間は暴力及び痛みに対して怯えるようにできている、というのはアダカさんから仕事と一緒に教わったことだ。
俺の仕事は死んでも直らないような馬鹿をやらかしたやつからその借り分や落とし前などの未払い分を取り立てるのが主なので、義理と道理が分からないような馬鹿には状況と理屈を分からせるためには初手で手酷く痛めつけてから話を吹きこんでやった方が手っ取り早い。
カガミは俺を見つめたまま、薄い唇を開いた。
「そうだな。イヌカイ君はさ、怖がったことはあるの」
「痛いのは好きじゃない。ひどくすると熱が出るから」
「それだけ?」
「熱が出て嬉しいこともないだろ」
肉を丁寧に叩かれて骨を煮られているような感覚。傷の熱には脳まで灼けるような独特の気色の悪さがある。
いつかの千日河原の大出入りで身の丈に合わない脾波良の大鉈を下げてきた歯西処理事務所の男に太腿のあたりを抉られたときの傷の痛みとその後の顛末を思い出しているうちに、心なしか沈んだような声でカガミが言った。
「まあね、俺の話がつまんないってのもあるかもしれないけどさ」
「つまらないとは言ってないだろ」
べらべらと続いたカガミの話を、頭から尾っぽまできちんと聞いていたのは本当だ。事務所の先輩連中がたまに飯や煙草で逃げられない最中にしてくるような<
「ただ分からないだけだ。怖いというか……その、さっきのお前の話だけども、変なものを集めて死んだんなら、集めなかったらいいだけだろ。死んだそいつは困ったかもしれないが、俺のことじゃない」
自分に起こり得ない、どこまでいっても他人事のそれをどう
痛そうだろうが死にそうだろうが、それは俺のものではない。そんなものが分かってもいいことがない。
排気管の振動音が倉庫内に響く。
単調な唸りの中で口を開いたのはカガミだった。
「……死にそうな相手を見ても、どうとも思わない?」
「ああはなりたくないな、とは思う。痛いから」
荷物の癖に分かり切ったことを聞くなよともう一度格子を蹴りつけようとして、まともに目が合った。
「そういうことか、君」
それだけ言って、視線を逸らさなかった。
俺には言葉の意味もその真っ黒い目が意図するものも
「じゃあね、イヌカイ君。これは提案なんだけど、怖いってのが分かると面白いことになるかもしれないよ」
「は」
間抜けな音がこぼれたと思ったら自分の口からだった。
何が面白いというんだ。
俺の反応を見ているくせに、それでもやけに迷いのない口ぶりでカガミは続けた。
「これは他の人の受け売りなんだけどね、怖いっていうのは死なないための警報なんだってさ」
「何──なに?」
「イヌカイ君、さっき『痛いのは嫌だ』って言ったろう。あれも根っこは同じなんだよ。痛みを感じるような怪我や状況っていうのは危険──死に繋がるだろう」
内容を飲み込むのに少しかかってから、とりあえず頷く。
これまでに痛みで死ぬかと思ったのは志羽賭場からの依頼で賭け分を焦げ付かせたやつの住処に取り立てに行って往生際の悪いそいつに右の頭を捌螺鉈で削がれたときだったが、あのときは頭が外側も内側もじりじり痛い上に心臓が動くたびにわらわらと全身に痛みの波が広がるので、アダカさんが回してくれた鎮痛剤らしきものが切れてからは酒で酔い潰れて正気の時間を減らすことでどうにか耐え凌いだ覚えがある。あんな痛い目に遭うのは二度とごめんだし、そうならないようにもっとうまく相手を殴れるようにしておくべきだと反省した。
「で、痛いのって嫌だろう。不快だ。そうして生き物っていうのは自分にとって不愉快なもものをなるべく避けようとする。つまり結果として、痛いこと──命に関わるような怪我や何やを回避することができて、危険からも逃れられるわけだ」
「ああ、まあ……だから何だよ」
怖いってのもそれと一緒だよとカガミは言った。
「君もさ、生きている以上は血を流しすぎたり頭抉られたりすると死ぬだろう。生き物としての本能がそれを嫌がるから、そうならないために怖がる。生きていたいから怖がれるんだな。」
一区切りついたかのように、よく動いていた口が閉じる。
骨張った指先が顎を擦るのを眺めながら、どうやらカガミはしばらくは喋る気がなさそうだと俺は考える。
随分な長話だった。
とりあえずは黙ったまま、特に癇に障った内容について考える。
怖がることで危険を回避できる。危険というのは生き物にとっての致命傷を指す。刺されたり抉られたり埋められたりするのを躱せる──つまり、怖がりほど長生きできる、だから怖がるということを知っておくべきだ、
だからなんだ?
臆病者は長く持つ、ろくでなし連中の間でもよく聞く台詞だ。およそその言葉には嘲りと侮りの色が添えられている。危険に怯え痛みを恐れて長く生きたところで、どうせ面白くもない人生が続くのならば何の意味があるのか。
ゴミ溜めと血反吐に塗れてろくでなしがうろつくこのアカマルという吹き溜まりを這いずり回る時間が長くなったところで何を嬉しがれというのだろう。
カガミは俺の内心を見透かしたように頷いて続けた。
「怖がって、助かったところで嬉しくもない。そういうことを言いたそうだね、君」
「だったら何だ。事実だろ」
「まあね、それも理屈だ。イヌカイ君に、というよりここで『怖がる』なんてものは今更必要がないかもしれない。君がその感覚を持たなくてもそれなりにやってきたんなら尚更だし、生きたがりと死にたがりのどちらが楽かなんてのは適性の問題だ」
少しだけ間を置いて、深く息を吸う。
生白い肌に全く似合わないシャツから覗く薄い胸板が、大袈裟なほどに動いた。
「けど、他人がそういう反応をする理屈を分かっておくと、便利だ。それは俺が保証したっていい」
こちらを見る目は相変わらず黒々としていて、明けきらない夜が凝っているようだった。
他人のことを理解する、そんなことが何の利益になるのか。あまりに分からないことばかり言われて苛立ちが増す。
それでも俺は檻を蹴らなかった。
──全く不本意なことではあるが、
「お前が俺に怖い話をして、俺が怖いってのを理解して……どういう得があるんだ、それ」
「そうだな、相手の怖いものが分かってれば、より効率的にひどい目に遭わせられるとかいうのでどうだろう」
「その理屈は何でだ」
「人の嫌がることをするのが君たちの仕事だろ」
はぐらかすような軽口だが、何となく理があるように思えてしまう。よく喋るだけあってそれらしい理屈を作るのが上手いのだろうと思った。
「とりあえずさ、今後もこういう話をするから適当に返してくれよ」
「怖い話をするのか」
「そう。そんで分かったんなら重畳、そうじゃなくても暇が潰れる。あれだ、俺か君が飽きるまででいいからさ」
その程度の約束だよとカガミが笑う。
細くなった目元が射した日を溜めて一瞬光る。その笑顔のような表情に俺はどんな顔をしてみせるべきかが分からなかったので、足元に転がったままの金属バットに気を取られたようなふりをした。
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