第16話:遠い日の思い出
私が師匠こと「ソースケ」に出会ったのは10年前の寒い冬の日。
捨て子だった幼い私を育ててくれていた人が亡くなり、食べるものを手に入れる術も無くしてしまったのでスラム街の隅で横たわっていたところ、彼が手を差し伸べてくれました。
「君、生きてる?大丈夫?」
服装こそこの国らしいものを身につけているが髪の毛や目の色は黒く、どう見ても異国人。
そしてボロボロになった服と鞄を身にまとっている様子から、彼もここにいる人たち同様にろくな生活ができていなさそうでした。
「いき…てる」
声にもならない掠れた音を捻り出しながら手を伸ばすと、それに答えるように彼は優しく私を引き寄せて抱きしめてくれました。
ああ、このまま幸せな気分で眠りたい。
彼の温かな胸の中でそんなことを思いながら身体を小さく丸めたことは今でも鮮明に覚えています。
それから、とんでもなくお人好しな彼は私を自分の泊まっている古宿に連れて行き、味の薄いわずかなスープと硬すぎるパンを分け与えてくれました。
正直、美味しさなんてものは少しも感じられなかったのですが、あれを超えて思い出に残る食事にはいまだに出会えていないです。
美味しくない食事をしながら彼は自分自身のことを話してくれて、冒険者として日銭を稼ぎながら記憶の片隅に残る故郷へ帰る手がかりを探してヴェルダリア中を旅して回っているのだとか。
魔法の才能もなく、若くもなく、体力もない。
それなので報酬が良い依頼は受けられず、いつもお金に困っていたそうです。
「まあ、そんな訳で贅沢な暮らしはできないけれど、ここで凍え死ぬくらいならおじさんと一緒に旅をしないか?」
「…うん!行く!」
「いい返事だ。おじさんは宗介っていうんだけど、君の名前は?」
「えっと…名前は…ない…」
この時、私には名前と言えるものがなかったのです。
育ててくれたおばあさんは物忘れが激しくなってしまって毎回違う名前で呼んでいたし、2人での生活はそれでも不自由がありませんでした。
それなので、名前がないことに不便を感じたことはなく、そんなことよりも明日をどう生きるかを考えていました。
でも、普通の人は生まれた時から当たり前のように名前がありますよね。
今まで気にもしてこなかったのに急に名前がないことが辛くなってきて、がつがつと食事を貪っていた手を止めて縮こまりながら下を向いていると、彼は少し悩んだ後にこんな提案をしてくれました。
「それならおじさんが考えてもいいかな?」
「いいの?」
「もちろん。ちゃんといい名前を考えるから、楽しみに待っててよ」
「うん!ありがとう!」
それから昼間はソースケの依頼を手伝い、夜は古宿の狭いベッドに2人で身を寄せ合って眠る生活が始まりました。
古宿の居心地はお世辞にも良いとは言えなかったのですが、あの寒い日の冷たい地面と比べると天国のようでした。
2人旅を始めて数ヶ月が経った頃、彼は酷い高熱と全身に湿疹ができる流行病にかかってしまいました。
「はは…僕の人生もここまでか…」
「そんなことない!ぜったい助かるから、ソースケまでいなくならないで…」
こんなにも優しい人が苦しまなければいけないなんて。
私なんかはどうなっても良いから、彼だけは、どうか助けてください。
苦しむソースケの手を握りながら私はずっと神様にそう祈り続けました。
その必死な祈りが天に届いたのか、私の手から温かな光が溢れ出し、その光に触れたソースケからは少しずつ湿疹が消えていったのです。
これが、私が生まれて初めて使った魔法です。
ほんの数分でソースケは苦しんでいたのが嘘かのように回復して、出会った時よりもはるかに生き生きとした元気な姿になりました。
ソースケが元気になったことへの安心と、張り詰めていた緊張が一気に解けたせいで私は彼にしがみつき、わんわんと泣きじゃくってしまいました。
そんな私の頭を優しく撫でながらソースケが換気のために開けていた窓の外を見ると、枯れ木の先端に花の蕾がひとつだけ付いていたそうです。
「春来たる…。よし、決めた。君は今日から『ハルコ』だ」
彼の住む国の文字では「春来」と書いて「ハルコ」。
私との出会いが彼にとっての春であり、この先の旅が春の訪れのように穏やかで良いものになるようにと願いを込めて決めてくれたそうです。
私がこの国の人間なのに「日本」の名前なのはそういうことがあったからでした。
魔法が使えるようになり、名前をもらってからの私は自分で言うのも何ですが、凄まじかったです。
上位回復魔法の使い手として幼いながらに多くの依頼をこなしながら、魔法学園の奨学生としての推薦の話をもらったので、一般的な教養の勉強が始まり…。
私が街を離れられなくなってしまって旅を続けられなくなってしまったのですが、これも経験だからとソースケは嫌な顔をせずに付き合ってくれました。
その頃くらいから、人として尊敬できるソースケのことを私は「師匠」と呼び始めました。
拾ってもらった身でもあったので「お父さん」と呼んでみたこともあるのですが、私がしっくりこなかったのと、故郷にいる実の息子に申し訳ないからそれだけは辞めてくれ、と言われました。
使い倒してボロボロになった手帳に丁寧に挟まれている若いソースケと綺麗な女の人、その真ん中にちょっと嫌そうな顔で立っているソースケに似た男の人の丁寧な絵を、毎日見ては幸せそうなのに辛そうな顔をしているのをよく見てました。
だからこそ、彼は私の父ではなく写真の中の男の人の父なのだと思ったんです。
そんなこんなで魔法学園に通い始め、私は魔法薬という魅力的なものに出会ってしまいました。
卒業をしたらソースケの旅を手伝おうと思っていたのに、学べば学ぶほどに魔法薬の研究をしたい気持ちが日々募っていき…。
正直にソースケに話すことにしました。
「師匠、すみません。私は卒業したら旅よりも魔法薬の研究がしたいです…」
「なるほどね、いいと思うよ。僕のことは気にせず、自分のやりたいことを考えなさい」
そして、打ち明けてからソースケが家にいない日が増えていきました。
自分の夢を追えるので嬉しい気持ちがありつつ、ソースケとの距離ができてしまったことが悲しくもありました。
なんとも言えない距離感になってしまっているまま、あっという間に卒業の日を迎えました。
まだソースケが旅立つ日がいつなのかは聞いていないけれど、私が卒業して自立できるタイミングで行ってしまう可能性は大いにあります。
卒業パーティーを楽しんでから家に帰ると、庭先で育てている薬草をわざとらしく手入れするソースケがいました。
「ただいま…」
「はい、おかえり。疲れているところ悪いんだけど、ちょっとおじさんにも付き合ってくれる?」
「わかりました…?でもどこへ?」
「まあまあ、着いたらわかるよ」
行き先を教えてくれないまま入り組んだ道を行くソースケの後に着いていくと、私が通い詰めていた噴水を中心に魔法に関わる道具のお店が立ち並ぶ広場へとやってきました。
遅い時間なのでどのお店も閉まっているのですが、彼は迷わず一軒のお店のドアに手を伸ばしました。
「改めて…ハルコ、卒業おめでとう。これが僕からの卒業祝いだよ」
「…え?」
一体何を言っているのかよくわからず怪訝な顔をしていると、ソースケは私のことなど気にせず話を続けた。
「ここは最近まで魔法薬屋だったのは知っているよね?実はここ店主も旅に出たいって言っていてね。この店を引き受けてくれる人を探していたんだって。いやー…引き継ぐっていうのも結構大変なんだね」
「つまり…師匠がここの店主になるってこと…?」
「え?違う違う。店主になるのはハルコだよ。ここなら道具も揃ってて研究ができるし、成果物を売れば生活費も稼げるだろう?営業形態は好きなようにして良いって言われてるから、ハルコの好きなようにしていいって」
「そしたら、師匠はどうするんですか?」
「僕?僕はね、旅に出るよ。やっぱり、元の世界に戻る手段は諦めたくないからね」
やっぱり。
もうこのタイミングでお別れになってしまうんですね。
俯く私のことをまるで気にしていないかのように、ソースケは話を続けた。
「あとね、ハルコにはここで情報収集と、もしも『日本』という言葉を知っている人がここに辿り着いたらこの手紙を渡して欲しいんだ」
「『日本』って師匠の元いた世界の…?」
「そう。まだ確証はないんだけど、どうやらこの世界は日本と繋がることが稀にあるみたいでね。僕はその繋げる方法を探す旅に出るけど、もし同じ境遇の人がくることがあれば伝えられる限りの知識を伝えたいんだ。そうなると、特定の場所があってもいいかと思ったんだ」
「…もし、私がお店をやりたくないと言ったら?」
「うーん…その時は僕が帰ってきた時になんとかするかな。ここはハルコに渡すお店であり、僕のこれからの拠点だからね」
拠点、という言葉を聞いて、一気に自分の中にあった不安が消えました。
彼は旅をしつつも、ここに帰ってきてくれるつもりらしい。
「わかりました。私、お店やります。だから師匠は気にせず旅をして…気がついたら帰ってきてください」
「ありがとう。もちろん、ちゃんと帰ってくるよ」
こうして私は師匠から聞ける限りの『日本』の話を聞き、手紙を預かりました。
そして、こうして魔法薬屋をしながらフラッと帰ってくる師匠と、『日本』からこの世界に迷い込んだ人を待っていたのです。
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