第106話: 決着でなくとも、区切りをつけるのが大事
※暴力表現有り、注意要
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──その、千賀子の手など容易く握りつぶしてしまいそうな大きな拳が、だ。
大きく振り被られ、千賀子の顔面へと叩きつけられるのを──それに気付いて止められた者など、この場にはいなかった。
あっ、と誰かが声を上げた時にはもう、遅かった。
誰しもがサッと血の気を引かせて──力士たちだけでなく、親方すらも怒鳴る事を忘れて、殴り殺してでも止めようと動いた。
なんでかって、力士の拳……張り手だとしても、その力は容易く人の命を奪う。
体重を増やして稽古を積んだ力士相手ですら、時には失神させるほどの腕力だ。
一般の成人男性どころか、傍目にも華奢なのが見て取れる女性の顔面に……明らかに手加減抜きで拳を振り抜いたとなれば、場合によっては致命傷となってもなんら不思議ではないのだ。
「──それは、誰に対する怒りかしら?」
が、しかし、その時、不思議な事が起こっていた。
「いったい、誰を思い浮かべて殴ったのかしら?」
この場の誰しもが……凶行に及んでしまった潤高すらも想像した、顔が陥没してしまった千賀子の姿は、どこにもない。
あるのは、涼しい顔のまま……そう、確かに、顔面を殴ったはずの千賀子が、先ほどと何一つ変わらないまま、姿勢すら崩していなかった。
それは、にわかには信じ難い現象であった。
当人である潤高は、激昂して暴力を振るってしまった……それを遅れながら認識しつつも、己が体感している不可解な現象に、一瞬ばかり怒りを忘れて困惑するしかなかった。
拳には、確かに叩いた感触が残っている。
誰かを拳で殴ったことなど遠い昔の話だが、それでも、間違えようがない。確かに、硬い物を殴って、寸止めなどしていなかった。
それは……凶行を見ているしかなかった他の者たちも、その目で見ていた。
確かに、潤高の拳が千賀子の顔面を殴った、と。
寸止めなんて行われておらず、間違いなく、凶行は果たされてしまったと。実際に、硬いナニカを、ごつん、と殴りつけた音を、誰しもが聞いていた。
それなのに、起こるはずの結果が起こってはおらず、起こらないはずの結果が、現実のモノとなっている。
「……『信心が足りないわね』」
そんな、正月早々、狐に化かされたかのように誰しもがポカンと大口を開けて呆けるしかない中で。
「『おまえがもっと信心深くなれば、お母さんもこんな事をしなくて良いのよ』」
ポツリと千賀子は、まるで子供に言い聞かせるかのように呟いた──瞬間、再び拳が千賀子の顔面を叩いた。
そして、それは──一度では終わらなかった。
二発、三発、四発、何度も何度も、潤高は握り締めた拳で殴りつける。
それも、最初とは違って、今度は……なんだろうか、感情を爆発させたかのような、文字には表せられない、そんな叫び声であった。
その、あまりの勢いと共に再び始まった凶行。
それも、先ほどよりもより凶悪なソレに、遅れてようやくハッと我に返った親方たちは──だが、彼らは誰一人として動けなかった。
何故ならば、動かなくて良い、と。
現在進行形で殴られ続けているはずの千賀子が、涼しい顔のまま親方たちを手で静止したからで。
それはもはや、奇妙を通り越して異様としか言い様がない、不可思議な光景であった。
拳は、確かに手加減抜きだ。ゴツ、ゴツ、ゴツ、硬いモノと硬いモノがぶつかる鈍い音が、稽古部屋に響いている。
だが、よくよく見れば……見るに撤したことでようやく親方たちは気付いたことなのだが……当たっていないのだ。
いや、当たってはいるのだ。
ただし、見えない壁に。
殴りつける拳、その全てが、見えない壁を叩くだけで、肝心の千賀子の身体には届いていなかったのだ。
そう、まるで千賀子の身体を包み込むようにしてあるかのような、膜のような、殻のようなナニカによって、クリーンヒットには至っていなかった。
いったい、何がどうなっているのか──状況について行けず唖然とするしかない親方たちを尻目に、潤高は変わらず殴り続ける。
1分。
2分。
3分。
プロボクサーですら息継ぎなしでは酸欠を起こしてしまうような、強烈な無酸素運動……それは、潤高とて例外ではない。
「ぜえ! ぜえ! ぜえ!」
理性を飛ばして暴走したとて、生物の限界は越えられない。ついに、主の意志を遮るほどに悲鳴を上げた大脳が、身体の身動きを停止させた。
その顔色は、チアノーゼ一歩手前と診断されてもおかしくないぐらいに青ざめていて、冷や汗と脂汗が顔中から噴き出していた。
言うなれば、息を止めたまま激しく身体を動かし続けたようなものだ。如何様な超人とて、同じ結果へと辿る。
太く大きな手は真っ赤に腫れて、擦り切れた部位から血が滲み、握り締めた指の爪も食い込んで、傷が出来ていた。
折れているのか、いないのか。
素人目には分からないが、少なくとも、しばらくは箸を持つことすら難儀してしまうような……それほどの怪我だというのは察せられる有様であった。
「落ち着いたかしら?」
対して、汗一つ掻いてない千賀子は、変わらず涼し気な様子で……逆に、凶行に及んだ潤高を労わる姿すら見せていた。
……荒く、必死に息を整える潤高の呼吸音以外が静まり返った、そんな中で。
たっぷり5分ほど……酸欠のあまり失神寸前まで悲鳴を上げていた身体にも酸素が行きわたり、合わせて、気を入れ替えるかのように、潤高は大きく深呼吸をした後。
「……なんなんだ、あんた?」
不可解なナニカを前にした子供のように、どこか怯えを含んだ眼差しを千賀子へ向けた。
「性質の悪い女神様に愛された巫女でございます」
もちろん、その程度で怯まない千賀子は気にせず、ジッと潤高の目を見つめた。
「少しは、気が晴れたかしら?」
「……どういう意味だ?」
「溜め込み過ぎよ。仕方ないにしても、どっかで破裂しないで良かったわね」
聞き返す潤高に、千賀子はフフッと笑みを零した。
「振り上げた拳を下ろせないまま、見て見ぬふりをしたって消えはしない。どこかで下ろさないと、どこかで爆発してしまうわ」
「……何が言いてえんだよ」
「本当は、ろくでもない母親を殴りたかったのでしょう? 手の皮が破れ、血が滲み、骨が折れてもなお……そうしたかったのでしょう?」
「…………」
「さすがに、まともに殴られたら死んでしまうからね。力士の迫力は凄いわ……いや、本当に」
言われて、潤高は……己の、ボロボロになってしまっている両手に視線を落とす。
ジワジワと自覚し始めた指先の痛み。まともに、力が入らない。とてもではないが、気合でどうこうできる状態ではない。
自分がやった事とはいえ、これでは当分……下手すれば、相撲は続けられても力士としては終わるかもしれない……そんな状態であった。
「──こら、スッキリした顔で自己完結するな」
だが、千賀子の言葉に、ハッと我に返った潤高は……クイッと指差された先の……そう、神妙な顔で己を見つめる親方たちの姿に、ギクッと身体を震わせた。
「潤高」
「はい」
「ここまでやったんだ。全部、俺たちにも話せ」
「……はい」
これまでの怒声とは違う、穏やかではありつつも、有無を言わせぬ、力強い問い掛け。
「おまえらも、良いな? 飯は一旦中断だ、潤高の話を聞くぞ……良いな?」
「──ウッス!」
「それと、救急箱だ。見た感じ、折れてはいないようだが……痛みや腫れが酷くなるようなら……念のために、な」
「あいよ」
「……そういうわけなんで、千賀子さん。申し訳ないんですが、食事は……」
「御気になさらず、手を出した以上は待ちますよ。たぶん、私がいないと変にまた誤魔化すだろうし」
仲間たちの息を合わせた返事と、親方夫妻の変わらぬ態度に……潤高は、この時になってようやく……罪悪感などに、シュンと肩を落としたのであった。
……。
……。
…………それから、ポツポツと潤高が語った内容は、千賀子が勝手に読み取ったモノと同じ。
潤高の過去から、今に至るまでの経緯……それに連なる、潤高が抱き続けていた様々な内心であった。
結論から言えば、潤高にとって相撲の世界に入った最大の理由は、生きるための手段であった。
母親の所業や悪評のせいで幼少の時から辛い日々を送っていた潤高は、その母の影響から、地元では働き口が見つからなかったのだ。
親戚筋を頼ろうにも、母親のせいで完全な絶縁状態。潤高も詳しくは知らないが、相当な問題を起こしたらしく、復縁もまた絶望的であった。
潤高に問題があったわけではない。
この時代は、現代よりもはるかに噂や口コミの影響が強かったせいで、それは学校とて例外ではなかった。
また、家柄によって評価が上下するなんてのは当たり前で、親の悪評がそのまま子供の評価に直結するなんてのも、よくある事であった。
そのうえ、潤高にとってさらに不幸なのは、天涯孤独の身になってしまったこと。
つまり、身元引受人となる人物がいないのだ。
この頃はまだまだ学生は『金の卵』と揶揄されるぐらいに求められており、潤高の地元でもけっこうな数の同級生が集団就職をした……が、だ。
それはあくまでも、悪評が無い生徒に限られる。
千賀子が生きた前世……少子化が叫ばれて久しい時代とは違い、この頃は何処を見ても子供&子供&子供ばかり。
ゆえに、母親の悪評を知る学校側も、わざわざ潤高を推薦なんてするわけもなく……そんな時に出会ったのが、穂高親方であった。
あの母親の息子という、色眼鏡でしか周りから見られてこなかった潤高にとって、父親を除けば初めて……潤高自身を見てくれた相手だった。
だから……そう、だから。
宗教その他諸々を心から嫌悪していた潤高も、自分を必要としてくれるならば……そうして、『穂高部屋』に入った潤高は……初めて、生きることを楽しいと思った。
同じ部屋に入った仲間たちはみな、形こそ違うが、潤高と同じく、けして恵まれた生まれや育ちではなく、中には家族とは半ば絶縁に近い人もいた。
そう、相撲は、潤高が幼少の頃から欲していたモノを与えてくれた。
神事であり国技でもあるという点は複雑だったが、幼少の頃から父親以外からは邪険に扱われ、実の母親からは邪魔者として扱われていた潤高にとって、我慢出来ることであった。
死んだ父への親孝行ができなかった潤高にとっては、だ。
こんな自分を見出して手を差し伸べてくれた親方のためならば、強く立派になれと背中を押してくれる女将のためならば、いくらでも辛い稽古に励むことができた。
──見返してやろうと、思った。
色眼鏡で見てきた周りも、けして誰かのせいにはせず、自分の身体を壊してでも潤高に借金を残さなかった父のためにも……そんな時に、だ。
──忌々しい、あの女と同じ格好をした女が、潤高の前に現れた。
「……失礼で無礼だったのは分かっています。でも、頭がおかしくなりそうだった……ようやく、あの女から逃れられたと思っていたのに……」
その後は……もう、潤高自身にも、よく分からなかったらしい。
とにかく、あの女を追い出さなければ……あの女をどうにかしなければ、また俺の人生は滅茶苦茶に……居場所が、無くなってしまう。
そう思った時にはもう、とにかくあの女を……千賀子を追い出さなければ、自分だけでなく、親方たちもかつての自分と父のようにボロボロにされてしまう……と。
「──本当に、すみません。俺が身勝手に、一方的に馬鹿なことをしただけです。どうか、事の責任は俺だけに止めてください、俺が出来ることなら何でもします、どうか、どうか……」
自分よりも一回りも二回りも小さい女に、一般男性よりも一回りも二回りも恰幅の良い男が、身体をギュッと縮めるようにして……千賀子に土下座をした。
その姿に、親方も女将も、仲間の力士たちも……何も言えなかった。
いや、正確には、言おうとは思ったのだ。
けれども、言えなかった。
『家族に何かしらの確執があった、天涯孤独の身』という程度に把握していた者たちの中で、噂程度だが、他の者たちよりも知っていた親方もまた、同じであった。
──まさか、ここまで思い詰めていたとは、普段の様子からして夢にも思っていなかったのだ。
普段から何かと気が利く男だが、時々だけど、妙に気が利かない時があり、その時は口数がとても少なくなる。
親方としては、昔に比べて時代の変化が激しくなった昨今、若いから色々なことに思い悩む時期なのだろうと静観していた。
力士として、相撲に対して、どのように向き合ってゆくのか、悩みが出始める時期だ。
言うなれば、『壁』をハッキリと感じ始める時期である。
少しずつではあるが、目に見えて身体が大きく、筋肉が付いて、自分が強くなっていくのを認識出来る時期を過ぎて、成長が緩やかになり始めた……そう、錯覚してしまう時期がある。
己も、かつてはそうだった。
このままのやり方を続けて良いのか、違うやり方を模索するべきではないのか……そんな迷いが出始めているのだろうと、思っていた。
「……千賀子さん。此度の責任は──」
だが、それが間違っていた。
ゆえに、親方は千賀子に向かって深々と頭を下げようと
「はて? 責任とは、何の事ですか?」
したのだが、できなかった。
「潤高さんの昔話を傾聴していただけの私に、何をしたいのかは存じませんが……色々とありましたのですね」
「は? え、その……」
「何に対して、誰に対しての責任なのかは存じませんが、何もされていない私にそのような話をされても困りますわね」
その言葉に、親方は……誰もが、最初は理解出来ず……徐々に、言わんとしていることを察して、一様に頭を下げた。
そう、1人を除いて全員が、頭を下げたのだ。
「親方……女将……みんな……」
ただ一人、潤高だけは……声を詰まらせ、涙を滲ませる、その彼に向かって、千賀子はニッコリと笑みを向けた。
「潤高さん」
「──っ! はい」
声を掛ければ、潤高は慌てて居住まいを正して頭を下げ──そんな彼に、千賀子はキッパリと告げた。
「貴方のお父さんは、貴方を邪魔と思ったことはありませんよ。力士として立派に成長した貴方の事を、誇らしく思っております」
「はい」
「信じる、信じない、どうぞお好きに。ただ、心の片隅に、これだけは覚えておいて……貴方は、ちゃんと愛されておりました」
「はいっ」
「私から言う事は、それだけです」
そう、話を終えた千賀子は次いで、親方と女将へと向き直る。
「なので、潤高くんを罰するのは止めてください。だって、潤高くんは何もしていませんから」
「……千賀子さんが、そう言うのでしたら」
「でもまあ、示しがつかないのならば、新人と同じく一から雑用をさせるとかにしてくださいな」
色々と言いたい事はあるけど……そう言わんばかりな夫妻の表情に、千賀子は仕方がないこととはいえ、苦笑した
それ以上は、千賀子からは言えない。言えるのは、あくまでも、潤高を罰しないようにというお願いだけ。
あくまでも、千賀子の立場はタニマチであり、支援する側。
お願いするだけでも、かなり踏み入っているというか、出過ぎな部分があるので……それが、千賀子ができる最大限であった。
「……あ、そうそう」
「???」
「これは独り言ですけどね」
首を傾げる親方たちを尻目に、千賀子はあえて視線を外して……ポツリと呟いた。
「誰がとは言いませんけど、私のような恰好をしたオバサン……ロクな死に方をしないと思いますね」
「え?」
「たぶんですけど、何年も運良く命を繋いだ後で、腐って爛れた内蔵を尻からビチャビチャ垂れ流す……そんな死に方をするでしょうね」
「……そ、そうなんですか?」
「あと、今年もまあまあ相撲界は荒れます。どうか、恥じない相撲を心がけてください……そうすれば、ちゃんと応援してくれる人たちには伝わりますから」
これで、言う事は全部言ったと……そう言わんばかりに、千賀子はニコッと笑ったのであった。
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