第105話: 坊主憎けりゃ袈裟まで憎い、されど、坊主に救われて
──なんだかんだ言いつつも、千賀子は誰かしらに妬まれたり恨まれたりすることには慣れている。
理由としては、単純に千賀子が美人だから。
人というのは、なんともワガママなもので。
不細工ならば妬まれたり恨まれたりはされない代わりに、度々邪険な扱いや粗末な扱いをされるが、美人はその逆。
何時でも不細工よりも上等かつ周りから優しく扱われるが、妬まれたり恨まれたりする。
千賀子が何かをしたから、そうなるのではない。勝手に妬んで、勝手に恨んで、勝手にその行為を正当化しているだけなのだ。
そう、千賀子とて、例外ではない。
千賀子より感じ取れる雰囲気(あるいは、空気?)を前にして真正面からナメた対応を取ってくる者は少ないが、陰口を叩く者は本当に多い。
学生時代では色々と勝手な噂を立てられたし、同性異性問わず、チラチラとこちらを見ては、なんとも下品な雑談をしているのも、幾度となく目にしてきた。
もちろん、美人である事が苦痛だと思ったことはない。
いや、嫌気が差したことは何度かあったが、不細工に埋まれるよりははるかに恵まれていることは分かっていたので、総合的に見たら、そうだという話である。
なにせ、千賀子には前世の記憶があるから、余計に。
(……でもなあ、これは妬みとか嫉妬の類じゃないんだよなあ)
まあ、そうだとしても、だ。
さすがに、初対面の相手からいきなり怒りや恨みといった経験は数少ないので、慣れている千賀子も正直戸惑った。
これが地元ならば、まだ分かる。
ある意味では千賀子は有名人なので、千賀子が知らなくとも、相手は千賀子のことを知っているという話はチラホラあった。
だが、今回は地元どころか、千賀子を知る者なんて関係者以外はいない、遠く離れた地だ。
親方ですら人伝の人伝といった感じで、千賀子から説明しなければ分からなかったぐらいなのだ。
(ん~……知らんなあ、誰だろう?)
当然ながら、千賀子には覚えがない。ジッと、他とは違う視線を向けてくるので、千賀子もまた見つめ返す。
照れ隠しのあまり睨みつける……パッと見たばかりだと、周囲からはそう見えるかもしれない。
しかし、注意深く見れば、すぐに照れ隠しではなく、憎々しい感情のままに睨んできているだけなのか、誰にでも分かってしまう。
「……おい、
それは親方を始めとして、他の力士たちが気付かないわけもなく……戸惑う仲間たちを他所に、さすがに見過ごす事を良しとしなかった親方より、怒声が飛んだ。
親方が怒るのも、当たり前である。
言うなれば、理由も無く、わざわざ申し出てくれたスポンサーを社員が一方的に睨みつけているようなものだ。
いくら相手が若いとはいえ捨て置くにはあまりに失礼であり、この場で千賀子が激怒して話を白紙に戻してもなんら不思議ではなかった。
「……なにもしていないっす」
「本気で言ってんのか、てめえ?」
「なにもしていないじゃないっすか、稽古しましょうよ」
「てめぇ──っ!!」
そして、そんな失礼な態度を取ったというのに、ふて腐れた様子で言い訳を述べれば、親方が激怒するのもまた、当たり前である。
言っておくが、これは親方が怒りっぽいからではない。あまりにも、潤高と呼ばれた力士の態度が悪過ぎたからである。
「おい、潤。どうしたんだよ、いつものお前らしくないぞ」
「そうだよ、なにか有ったのか?」
「親方、ちょっと待ってやってください。実はさっき、急に潤のやつ態度がおかしくなって……」
ただ、それはそれとして、同じ釜の飯を食った仲間の力士たちは、怒るよりも前に困惑した様子であった。
おそらく、普段はこんな失礼な態度を取る様な人ではないのだろう。
その証拠に、稽古部屋の外……廊下の方からこっそり様子を伺っていた女将も最初は怒っていたが、すぐに他の力士たちと同様に困惑した様子で。
激怒していた親方も、「ん、ん~、そりゃあ、そうだが……」その点については不思議に思っているようで、一旦は怒りを引っ込めた。
「──すみません、千賀子さん。潤のやつ、普段はあんなことをするやつじゃ……」
「かまいませんよ、誰しも、そういう時、そういう頃はありますから」
「そ、そうですか、それでも、本当にもうしわけありません。後で、よ~く言い聞かせますので……」
気にした様子がない千賀子の姿に、心底安心した様子の親方……それを見て、千賀子は内心にて苦笑をこぼした。
親方の顔色が変わるのも、これまた当たり前である。
なにせ、親方から見たら、千賀子はただの小娘ではない。
恰好からして常人には見えないが、それとは別に、馬主資格を持っている時点で、並大抵の人物ではないのが分かる。
親方とてサラッとしか千賀子より聞いただけだが、それでも、そんじゃそこらの御嬢様なんて話じゃないのは察せられる。
つまり、そういった上流階級と繋がりのある女性……恰好からして神職の類だろうが、相当な女性であるということ。
そして、そんな階級に居る女性に失礼な態度を取って怒らせてしまえば……事は、この場に収まらず、下手すれば後援会の方にも影響が出てしまう可能性だってある。
そんなの、冷や汗が出て当たり前である。腕っぷしでどうにかなる話じゃないのだ。
こんなつまらない事で、『穂高部屋』の今後を左右してしまうかもしれない問題が発生した時点で、ある意味では親方の方が被害者であった。
(……さて、と。潤高とやら……何が理由で私に敵意を向けるのかな?)
だからこそ、千賀子は気にしなくて良いと親方を慰めつつ、視界の端でニヤニヤ笑いながらこちらを見下ろしている女神様に(お座り! お座りですよ女神様!)と念を送りつつ……改めて、千賀子は潤高と呼ばれた力士を見やる。
「──なんだよ? 言いたい事があんなら言ってみろや!」
すると、見られていることに改めて気づいた潤高は、気分を害したのか声を低くして、ノシノシと千賀子へと──が、そうはならなかった。
「おい馬鹿止めろ! 何やってんだお前!」
「いい加減にしろ、馬鹿野郎! 部屋を潰す気か!?」
何故なら、さすがにヤバいと思った他の力士たちが慌てて止めに入ったからだ。
これには、事態が上手く呑み込めていなかった他の力士たちの顔色も明らかに変わった。
怒鳴りつけただけでも冗談ではすまない大問題なのに、万が一にも胸ぐらを掴んだりなんてしたら……怪我だけではすまない。
一発で相撲部屋は解散、それに加えて、そんな事件が起こった部屋の力士なんてどこも引き取ってはくれない。
それほどの行為をしようとしたのだ。
そりゃあ、力士たちも困惑から怒りに顔色を変え、潤高を力づくで抑え、そのまま拳で黙らせるぐらいはする勢いであった。
(そうですよ、女神様! ステイ、その場にステイ!)
なお、当の千賀子はそんな事よりも、なんだかテンション上がり始めている女神様をなだめるのに意識が向いていたが……とにかく、だ。
このままでは埒が明かないと判断した千賀子は、数人掛かりで押さえ込められている潤高を改めて見つめ、その心を探った。
……。
……。
…………あ、なるほどね。
そうして、時間にして10秒ほど。
マグマのように怒りが沸き起こっている潤高の胸中の奥を探った千賀子は……う~ん、と内心にて唸った。
──簡潔にまとめると、だ。
潤高が千賀子を一方的に敵視しているのは、彼の幼少期からの家庭環境に起因していた。
具体的には、宗教や占い……そういったスピリチュアルな事に彼の母親が傾倒してしまい、それが原因で彼の家庭は崩壊した。
母親の所業は、数え上げるとキリがないが……育児放棄に、使い込みに、浮気に……幼少期の彼は、母親のせいで、それはもう肩身の狭い日々を送っていた。
しかも、最後は彼と父を捨てて浮気相手と行方を眩ませ……そのうえ、借金まで父に背負わせて消えたのだ。
おかげで、朝な夕な働いた父はなんとか借金を返し終えた頃にはもう身体を壊してしまい、穂高親方の目に留まった潤高が相撲部屋に来る事が決まった時にはもう、天涯孤独の身になっていた。
……幼少期より彼が味わった絶望、母への恨み、原因となったソレらへの憎悪は、とてもではないが言葉で言い表せられるほどではない。
なにせ、人々を救うとされるそれらは何一つ潤高に幸せを与えず、何もかも奪うだけでなく、その未来にも暗い影を落としたのだ。
せめて、母が傾倒したそれらが『本物』で、人知を超えたナニカによってこうなってしまったのであればまだ、諦めもついた。
人ではどうにもならない、天災の類だと己を慰められたから。
けれども、結果的に残ったのは、いかにも怪しいツボや安っぽい絵に、有り難い石やら石像やらで、それらは何一つ彼の境遇を助けはしなかった。
つまり、潤高からすれば、だ。
仏教とかキリスト教とか、西も東も宗派も関係ない。
スピリチュアルに属する全てに対して、憎んでも憎みきれない怒りを抱えており、視界に入るだけでぶん殴りたくなるぐらいに嫌悪する……そういう存在でしかなかった。
──ただのやつ当たりでしかない話だが、当の千賀子はけっこう同情していた。
潤高からすれば、正月の催しですら本当はやりたくない。
表面上は隠していたが、かつての母親がそうだったように、これ見よがしな恰好をした者が現れたら……その憤りは、想像するまでもない。
けして忘れられない怒り……年月という蓋で塞いでいた怒りが爆発し、若さもあって抑えきれないのも致し方ないことなのかもしれない……というわけだ。
(う~ん、全てにおいてやつ当たりでしかないわけだが……それはそれとして、この人が私を憎むのもまあ、分かるのがなあ……)
だから、正確には千賀子を憎んでいるわけではない。
潤高が心から嫌悪する恰好、宗教やら何やらを想起してしまう姿だから、どうしても怒りをぶつけずにはいられなかった……というわけだ。
(……まあ、私には関係ないし、こんな事で支援の話を無しにすると、彼の居場所がなくなってしまうし……仕方ねえ、精神年齢はずっと年上なわけだし、見て見ぬふりをしよう)
とりあえず、そう結論を出した千賀子は……チラリと壁に掛けられた時計を見やり、ハラハラと様子を見守っている女将へと顔を向けた。
「女将さん、お腹が空きました」
それは……客観的に見たら、なんとも奇妙な光景というか、肝の座った話である。
なにせ、女からすれば大男と言っても過言ではない力士より真正面から怒声をぶつけられたというのに、欠片も気にした様子も無く食事の催促をしたのだ。
普通ならば恐怖で気が動転し、過呼吸を起こしてうずくまってもおかしくはない……そんな状況ですらあった。
「え、あ、はい、只今ご用意を……」
「ところで、女将さんはマグロの解体のやり方は御存じ?」
「え? は、はい、私一人では力が無いので無理ですけど、手順とかはちゃんと……」
「そう、それなら私がやる必要はないのね」
だから、呆気に取られたのは、女将だけではない。
「そこの、潤高とやら」
「あっ?」
「あんた、女将を手伝いなさい。小さい頃に、死んだお父さんから色々と手解きをされたのでしょう? 何も知らない素人よりは助けになるでしょうから」
「……は?」
「は、じゃない。この中ではあんたが一番知識もあるのだから、手伝うのがスジでしょうよ。釜も使ってお米を炊きなさいな」
どうやって事態を収拾させたらよいのか青ざめていた親方も、同じく青ざめた顔で潤高を押さえていた力士たちも……当の、潤高すらも、ポカンと呆けるぐらいであった。
「ほら、皆様方も呆けていないで、女将さんを手伝って。せっかくのマグロなのだから、新鮮なうちに食べましょう」
ただ1人、千賀子だけは……相変わらず気にした様子はなく、にこやかな笑みを浮かべたのであった。
……。
……。
…………さて、そんなこんなで女将と潤高の手で用意された出汁茶漬けだが、絶品の二文字であった。
最初ばかりはお客様ということで千賀子が啜り、「私に遠慮せず、いっぱい食べて血肉をつけなさい」と告げれば、後はもう食欲と食欲の戦いであった。
普段は現役力士に率先して食わせる夫妻も、新鮮かつ旬なクロマグロなだけあって、これは美味いと舌鼓を打った。
普段は力士たちの間にも上下関係はあるが、この時ばかりは千賀子の意向もあって、先輩後輩関係なく、無くなるまで早い者勝ちといった流れになった。
……そんな中で、ただ一人。
椀に注がれはしたが、一口も箸を伸ばさない潤高を前に……1人、また1人、気付いて気を使い、箸を止める力士が現れ始め……そして、ついに。
「いいかげんにしろ、潤高。てめえ、本当に破門にされてえのか?」
「………………」
「おまえのやっている事は、失礼なんて話じゃねえ。力士としても、人としても、無礼が過ぎるぞ」
「……破門にしたければ、してくださいよ」
「──っ!? 潤高……おまえ、本当に今日はどうしたんだ? いつものおまえは、何処に行ったんだ? いったい、何がしたいんだ、おまえは?」
我慢の限界というか、もはや見過ごせないと判断した親方より、最終通告がなされたのであった。
これには、場の空気も凍った。
なにせ、破門だ。単純に部屋を追い出されたなんて話ではない。
己の所業で破門された力士を迎えてくれる部屋なんて、何処にもない。事実上の引退……相撲界からの追放を意味しているからだ。
それに、噂というのは嫌でも広がる。
人の繋がりというのはけして馬鹿に出来るものではない。少なくとも、ここら周辺ではまともに仕事は見付けられないだろう。
でも、潤高は理解している。
それを分かったうえで、半ばやけっぱちにも見える潤高の姿に、親方も、力士たちも、どうしたらいいのか分からなくなってしまった。
……。
……。
…………けれども、まあ、それは。
「そうね、貴方は何がしたいの? 私にやつ当たりをしたところで、ナニカを取り戻せるわけでもないのに」
千賀子からしても、同意見であった。
「貴方のその怒りは、恩がある親方や女将の顔に泥を塗ってでも、良くしてくれた先輩力士たちの顔に泥を塗ってでも、突き通さなければならない意地なの?」
その声は、よく響く。軽やかに、それでいて、穏やかに。
返事を期待していない声だったが、場が静まり返っていたこともあって、あっさりと潤高の耳にも届いた。
「……あんたに、何が分かる?」
「貴方自身にも分かっていないことを、私が分かるわけがないじゃない」
凝り固まったナニカから、ようやく絞り出した言葉……しかし、千賀子には関係のないことである。
「……はあ、仕方がないわね。これは神経を使うし疲れるのだけど」
けれども、ここまで拗れてしまったのを分かっていて……それも、当人だけの責任ではないのが分かっている千賀子には、見て見ぬふりなどできなかった。
──ちょっと、通しなさい。
そう千賀子が告げれば、自然と力士たちが場所を開けてくれる。
人数が多く量も多いので、基本的に床に鍋やら何やらが直で置かれており、それらを囲うように力士たちが座っているので、移動は楽だ。
親方夫妻からの心配げな眼差しにウインクを返した千賀子は、どっしりと座り込んでいる潤高の前に腰を下ろした。
「手を、お出しなさい」
「は?」
「貴方が本当に知りたかったこと、その一部を教えます。だから、私の手に、貴女の掌を重ねなさい」
「…………」
心底嫌そうに……けれども、改めて千賀子より差し出された……自分のモノよりも一回りも二回りも小さい華奢な掌を見て、罪悪感でも湧いたのか。
「これで、いいのかよ」
「それで良いわ。じゃあ、ちょっと集中するから静かにしていてね」
「……その前に、一つ教えてくれ」
「ん?」
「どうして、俺が親父から手ほどきを受けていたって分かったんだ? 親父と会った事があるのか?」
「そんなわけないでしょ、私がそんな年上に見える? 会わなくても、貴方から分かる事よ」
「どういう意味だ?」
「あまり話の腰を折らないでちょうだいな……さあ、始めるから、静かになさい」
そう言うと、千賀子は目を閉じて……沈黙する。
それは──なんとも表現し難い、不思議な静けさであった。
親方夫妻も、他の力士たちも、当の潤高ですら、黙ってしまった千賀子に声を掛けることができず、静かに待つだけしかできなかった。
……そうして、時間にして、2分ほどだろうか。
誰もが何も言えず、固唾を呑んで様子を見守るしかできない中で……千賀子は、ゆっくり目を開けると。
「──安心なさい。貴方のお父さんは、貴方を恨んでなどいないわ」
「え?」
「貴方の父親で良かったって、そう言っているわ」
そう、告げたのであった。
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