第68話: 思い出は、消えず
それからの日々は、何時もと変わらなかった。
いや、というより、祖父が変えようとはしなかった。父や母の反対を鼻で笑って、昨日と同じ日常を送った。
祖母は、いつも通りだった。まるで、祖父がもうすぐ死ぬということなど知らないかのように、何も変えなかった。
違うのは……兄の和広が戻ってきたこと。両親が、連絡したのだろう。
ただ、そんな和広に対しても、「馬鹿だな、練習しねぇでどうする?」と祖父は笑うだけであった。
本当に、いつも通りだった。ちゃんと食事は取るし、吐血するといった異常は起こっていない。
ただ……巫女としての感覚を持つ千賀子には、どうしても分かってしまう。
平気な顔をしているが、痛みを堪えていることに。
病院に運び込まれた日のような激痛こそ生じてはいないようだが、ジクジクとした痛みがあの日からずっと続いているようで、熱も出ているようだ。
それなのに、祖父は何も言わない。
平気な顔で仕事をして、平気な顔で挨拶まわりをして、平気な顔で……千賀子にも、おはようと挨拶をしてくる。
それが……千賀子には、堪らなく辛かった。
「……ねえ、お爺ちゃん。お爺ちゃんは、もっと生きたい? 助かるなら、助かりたい?」
だから、堪らず、千賀子はそう尋ねずにはいられなかった。
「ん~……まあ、生きてぇなあ。でもまあ……他のやつにでもやってくれや」
それなのに、祖父から、そう言われてしまった千賀子は……どうしたら良いのか、分からなくなった。
──場所は、『冴陀等旅館』。
サラサラと、『麦と肉』の新たに判明した調査結果を書き記し、あるいはレポートをまとめながら……キッパリと、告げる。
「本体の私、分身の私に相談する意味がないことぐらい、分かっているでしょう?」
黙って、2号を見つめていた千賀子は、そのまま静かに項垂れた。言われるまでもなく、千賀子は分かっていた。
「神通力は、そりゃあ使い勝手の良い力よ。でも、万能ではない。出力さえ満たせば、天候を変えられるし、大地だって動かすことが出来る……けれども、出来ない事はある」
そこで、2号は手を止めた。
「失われる定めにある命を回帰させることはできない。そう、それは神の領域。私たちには、どうする事も出来ない」
「……病気を治すだけなら」
「治せない、分かっているでしょう。物を動かすのとは、ワケが違う。たとえ『巫女服』を
「神通力、なのに?」
「神が如し力、そう、どこまで行っても、近いだけ。真の意味で現人神に至れたのであれば、まだ……でも、本体の私はまだまだその域に至れていない」
その言葉と共に、2号はレポートを見やり……机に置かれた牛乳瓶へとチラリと視線を向けて、また、千賀子を見る。
「コレを使うのも、止めた方がいいわよ」
コン、と、2号の指先が、液体の入った牛乳瓶を叩いた。
「ご存じの通り、現存しているこれらに、病気の類を治すモノは一つも無い。また、改善させる類のモノも無い」
「これは、あくまでも伸びしろがある人にこそ効果を発揮する。既に何もかもが衰え、病に蝕まれた身体に投与したところで、無駄に苦しみを長引かせるだけ」
「そう、私たちとは違うの、本体の私。私たちはもう、普通とは違うのよ、本体の私」
「本来、女神様の恩恵を受けられるのは私たちだけなの。『麦と肉』は、女神様より与えられた恩恵を、無理やり他者に与えるという能力に過ぎない」
「資格が無い者が奇跡を得るには、相応の代償を支払わなければならない。そして、お爺さんにはもう、代償を支払うだけの余裕が無い」
「それでも、本体の私が無理をすれば……ほんのわずかとはいえ、命の火を灯らせ続けることは……出来るとは思うけど……」
そこまで話したあたりで……ふと、俯いてしまっている千賀子に気付いた2号は。
「御神木に実っている桃を持って行きなさい」
「病が治るわけじゃないけど、痛みは軽減されると思う。味も消化も良いし、食べやすいでしょうから」
「でも、覚えておいて、本体の私。私は、貴女の側面に過ぎない。その私が貴女に告げるということは、貴女も本当は分かっているのよ、心の奥底ではね」
ただ、それだけを告げて、それ以上は何も言わなかった。
──場所は、道子の家。
相談したい事があると、道子と明美に話を切り出してから、十数分。
突然のことに、2人は困っただろう。
肉体的には同年齢である思春期の二人に、こんな相談を持ちかけることに、千賀子は恥じ入りたい気持ちでいっぱいだった。
けれども、2人はそんな千賀子の勝手に文句の一つも言わず……真剣な顔で話を聞き終えた後で、ポツポツと話してくれた。
「千賀子は、お爺さんの気持ちを無視してでも生きていてほしいの?」
「そ、それは……」
「千賀子の話を聞く限り、そんなふうには思えなかったけど……それならもう、覚悟するしかないんじゃない?」
「…………」
「結局、他人事だけどさ……お爺さんとちゃんと話をした方が良いよ。助けられる手段、あるの?」
「……あるには、ある」
「じゃあ、それを伝えるか、黙ってやるかの二つに一つじゃないかな……ごめん、私にはそれぐらいしか言えない」
「ううん、ありがとう。こっちこそ、こんな話をしてごめんなさい」
そう話したのは、明美。
「……お爺さんの気持ち次第だけど、お爺さんが少しでも嫌がったら、もう受け入れるしかないと思うの~」
「そう、するしか……ないのかな?」
「それは……その、上手く言えないけど……どうしようもない事だと思うな~、私はね~」
「どうしようもない事?」
「だって、千賀子は……その、例えばだけど、お爺さんがやっぱり死にたいと言い出した時、どうするつもりなの~?」
「え?」
「生かしたのは、千賀子でしょ? なら、千賀子が責任を持って、お爺さんを死なせるの~? それとも、説得して生かし続けるの~?」
「それは……」
「迷うなら、駄目だよ。しちゃ、駄目。この先、ずっとそうやって延命させ続けるの?」
「それは……それは……っ!」
そう話したのは、道子。
2人は、勝手な言い分だけど……と一言添えただけで、それ以上は何も言わなかった。
最後の場所は、『神社』。
超常的な存在である女神様は、どんな答えを返してくれるのか……未だ迷いが晴れぬ千賀子は、女神様にも相談した。
──では、死なないようにしますか?
そして、最初の返事が、それであった。
「死なないって、どういう意味で?」
──死ななければ、愛し子は悲しまないのでしょう? だから、死なないようにします。
「……それって、不死身ってこと?」
──はい、何をどうやっても死なないようにします。嬉しいですか? 喜んでくれますか?
その言葉を、千賀子は考える。
言葉だけを聞く限り、不死身の説明をしているだけにしか思えないだろうが、千賀子は察した。
女神様の語る『死なない』というのは、本当に死なないだけだ。
どんな姿になろうが、どんな形になろうが、どれほどの苦痛の中に取り残されようが、死なないだけ。
それこそ、全身の肉が腐り落ちて、もはや自分がどんな状態になっているのかすら分からなくなっても、死ねずに意識が残り続ける……そういう存在になってしまう。
「お願いだから、止めて!」
──はい、愛し子が言うなれば、何もしませんよ。
それを察した千賀子は、力いっぱい止めた。すると、女神様は特に気にした様子も無くあっさり身を引いた。
以前にも分かっていたことだが、女神様にとって、人間というのは『千賀子』か『それ以外』なのだ。
いや、それどころか、『千賀子』か『全ての生命体』というふうにしか捉えていない気がする。
だから、愛し子である千賀子が死んだ時、その魂を自分の下へ呼び寄せるつもりらしいけど、悲しい事は悲しいらしくて。
対して、千賀子以外が死ぬことには、特に思うところはないらしい。せいぜい、『あら~、死んじゃったんだ』といった、軽い感じ。
女神様にとっては1人死のうが1兆人死のうが同じ事らしく、千賀子の祖父がもう間もなく死を迎えると聞いても、首を傾げるばかりであった。
「……ロウシはどう思う? どうしたらいいかな?」
──ブフフン。
なので、女神様と同じく、ロウシにも来て貰って相談したのだが……ロウシの返答は、単純明快。
『──
それだけであった。
動物であるロウシは、どうにも感性が人とは違う……まあ、もしかしたら、ロウシが特別なのかもしれないけど……っと。
──愛し子は、どうしてそんなに悩むのですか? ただ、死を迎えるだけではありませんか。
考え込んでいると、女神様が不思議そうに……顔を手で隠しているので分からないけど、そんな雰囲気を醸し出しながら、尋ねてきた。
その瞬間……千賀子は反射的にキレかけたが、それを表に出すことはしなかった。
何故なら、女神様は人とは基準が違う。
女神様にとっては生死など、スーパーに並んでいるジュースを眺める程度のこと……そう、千賀子は思っていたのだが。
──命はいずれ、同じ場所に辿り着き、再び世界を巡るだけ。姿形、有り様が変わるだけのこと……いったい、何を悲しむのですか?
けれども、女神様から掛けられたその言葉に……千賀子は「えっ?」と目を瞬かせた。
「……でも、それはもうお爺ちゃんじゃないよ?」
──???? お爺さんですよ?
「え、なんで? どうしてそうなるの?」
──どうして? 姿が変わっても、肉体を失っても、その魂が輪廻しても、お爺さんは変わりませんよ?
その言葉に……千賀子は、大きく目を見開いた。
それは……言葉では説明出来る感情ではなかった。
ただ、何かが……そう、己の中で渦巻いていたナニカが、僅かに解れたのを……千賀子は感じ取り。
「女神様」
──はい。
「……ありがとうございます」
──!?!??!? ふ、ふひ、ふひひ、ふへへへ……。
気付けば、千賀子は女神様に頭を下げたのであった。
──そうして、時は流れ……祖父が倒れてから、3週間の時が流れた。
その間も、祖父はいつも通りであった。
父からの、母からの、和広からの心配を他所に、普段通りに起きて、普段通りに仕事を……まあ、さすがに和広が仕事を変わったので、祖母と一緒に過ごす時間が増えたけど、変わらなかった。
もちろん、千賀子も……それとなく、祖父に問い掛け続けた。
少しでも長く生きたくないか、病気を治すためには……その問いに、祖父の答えはいつも同じだった。
『そりゃあ生きたいが、俺の順番が来たってだけさな』
けして、延命を望まなかった。
痛みが軽くなるという桃だけは『こりゃあ美味いからな』と喜んでくれたが、それ以上は何も受け取らなかった。
……そうして、その次の日には、祖父は布団から出られなくなった。
死んだわけではない。
ただ、熱と倦怠感が出ただけで、当人からも『今日は寝とく』と話しただけで、それ以上は何も言わなかった。
……その次の日も、祖父は布団から出られなかった。
その次の日も、その次の日も……少量の水と、桃一個を一日掛けて食べるだけで、祖父は何も……だが、寝込んでから4日目の昼過ぎに。
「……千賀子。久しぶりに、魚釣りに行かねえか?」
以前の、元気ハツラツだった祖父の声とは思えない、掠れた声で……祖母の手を借りて起きたその身体は、すっかり痩せ細っていて……ああ、そんな提案をされてしまった。
もちろん、父も母も和広も、千賀子からも、止めた方が良いと止めた。
だって、まだ春にすらなっていない。雪こそ解けているけど、魚釣りをするには……とくに、今の祖父には辛すぎる季節だ。
けれども、「頼むよ、最後の頼みだ」と祖父から言われたら……もう、誰も止められなかった。
──千賀子がガキの頃に乗せていた、あの自転車に乗せてくれ。
そう祖父より言われた千賀子は準備をしてから外に出る。sると、ピカピカに磨かれた自転車を出して来た和広に、思わず目を瞬かせる。
「爺ちゃんからよ、寝込むちょっと前に、整備しておいてくれって。荷台には、新品の座布団を括りつけたから」
「……そう、ありがとう、お兄ちゃん」
自転車を受け取った千賀子は「なあ、千賀子……」、顔をあげる。
「千賀子には、不思議な力があるんだろう? 爺ちゃんから、聞いたよ。千賀子を怒らないでくれって、一緒に言われた」
その質問に、千賀子は……静かに首を横に振る。
「私にも、どうにも出来ない。お爺ちゃんも、それを嫌がっているし……ごめん」
「……謝る必要なんてねえよ。ごめん、変な事を聞いて……俺よりも、おまえの方がずっと辛いのに、何も出来なくてごめんな」
ポン、と。
背中を叩かれた千賀子は……そのまま、かつて、子供の時に使っていた釣り道具も持って、玄関まで。
そして、立ち上がることすらままならなくなっている祖父を、神通力で運んで……荷台に座らせた。
目視では確認出来ないが、祖父の身体は神通力でガッチリ固定されている。万が一にも、落ちる事は無い状態だ。
「……行くよ、お爺ちゃん」
「おう、安全運転で頼むぞ」
祖父の膝に、神通力で重さを一切感じさせない状態で釣り道具を乗せつつ……千賀子は、かつて幾度となく通った『小川』へと向かう。
かつては、遠い道のりに見えたのに……今では、こんなにも近く思えてしまう。そんな道を、記憶の中には無い光景が入り混じる中を、進む。
「懐かしいなあ、千賀子」
ポツリと、祖父は行った。
「あんときは、俺が千賀子を後ろに乗せていたっけなぁ」
「うん」
「あの、小さかった千賀子が、今では俺よりもデカくなったもんだ」
「うん」
「重くねえか、千賀子」
「うん」
色々と、話したい。
おそらく、これが最後なのだから。
でも、言葉が出なかった。
不思議なぐらいに胸が詰まって、出そうと思っていた言葉のどれもが、そこで止まってしまってどうにもならなかった。
そうして……あの頃とは違い、誰も居なくなっている小川に到着した千賀子は、祖父を荷台から下ろす。
「あ、餌を持ってくるのを忘れちまった」
適当な岩に腰掛けた祖父は、思わずといった様子で頭を掻いた……でも、大丈夫。
「無くても何とかなるよ」
何故なら、今の千賀子には『N:20分だけ、魚釣りが上手くなる』をストックさせることが出来るから。
久しぶりだけど、身体は覚えていたようで……あっという間に1匹、2匹、3匹と釣り上げてゆく。
「お、その魚は戻せ。骨ばかりで食う所が少ないし、泥臭いからな」
「うん」
「ははは、千賀子は相変わらず釣りが上手いなあ。漁師としても、やっていけるんじゃねえのか」
「うん」
「……懐かしいなあ、千賀子」
「うん」
「あんときも、千賀子の釣り上げた魚を、こうして何匹か川に戻したっけ」
「うん……不味いからって」
「今じゃあ、釣るよりも買った方が安い時だってあるからなあ」
「うん、昔に比べて気軽に買えるようになったね」
そうして、人数分を釣り上げた千賀子は、祖父の隣に腰を下ろす。
あの頃は、隣の祖父を見上げていたし、足が地面から離れていた。その背中は大きくて、覆い被さってもビクともしなかった。
でも、今は祖父を見下ろしている。足だって、地面にちゃんと着いていて、逆に祖父が倒れないよう手で支えている。
とても軽い、着込んだ服越しでも分かる……痩せ細った、骨と皮の感触が、伝わって来た。
「お爺ちゃん、私は、私はね、お爺ちゃんに──」
その瞬間──千賀子は。
「おまえは、何も悪くないよ」
祖父によって、それ以上は言えなくなってしまった。
ハッと見開かれた目で祖父を見やれば、祖父は……遠く、小川を、過去の思い出を見つめていた。
「忘れるなよ、千賀子。1人の手でやれる事は、その手が届くまでだ。おまえは神様でも仏様でもねえ、ウジウジと小せえ事で悩んじまう、優しい子だ」
「……うん」
「俺が死ねばよう……焼かれて、骨だけになるだろうよ。でもよ、名前なんて残らなくても、皆が忘れても……俺はちゃんとこうして生きたし、生きられた」
「……っ、うん」
「俺はよう、最後まで逃げなかったぜ。それで、上等よぉ。死ぬまで俺ぁ、胸を張って生きてやったんだぜ」
「うん、うん、うん……っ」
「だからよぉ、もう自分を責めるな。俺は、俺の好きなように生きて、死ぬ……それだけなんだ」
「うん……っ」
頷く以外、俯いて堪える以外、千賀子には出来なかった。
いま口を開けば、嗚咽と泣き声しか出せないから。
祖父の言葉を聞く事が、出来なくなるから。
「……ありがとうよぉ、千賀子。けっこう、楽しい人生だったぞ」
だから、千賀子は……頭を撫でる、細くて硬い祖父の手を感じながら……必死に唇を噛み締め、祖父の言葉を聞くことしか出来なかった。
……。
……。
…………その日のお昼は、子供の時によく食べた、よく火を通した、釣ったばかりの魚を使った煮魚だった。
あの頃と同じく、祖父はお酒を飲んだ。
あの頃のようには食べられなかったし飲めなかったけど、目を細め、懐かしむかのようにゆっくりと、噛み締めるように味わっていた。
そして、床に就き……たまには、夫婦水入らずで話がしたいと、祖母と二人っきりになった後で。
父に、母に、和広に……1人ずつ呼び出して、話を済ませた後にはもう、夜もすっかり更けていて。
「せっかくだ、千賀子も今日はこっちで寝ぇ」
祖母の提案で、いつかのように、祖父と祖母と一緒に布団を並べた千賀子は。
「お休み、また明日なぁ」
「お休み、お爺ちゃん、お婆ちゃん」
照明が落とされた暗闇の中で、静かに寝息を立て始める祖父と、それを聞いてから寝息を立て始めた祖母を見てから……ゆっくりと、瞼を閉じた。
……それが、千賀子が最後に聞いた……祖父の言葉であった。
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