第67話: いつか訪れる結末

※ 今回短めです



――――――――――――――――――




「──これは、思わしくないね」



 病院に運ばれた祖父を診察した医師の、そう、立派な髭を生やした老年の医師からの最初の一言が、ソレであった。


 医師は、あくまでも淡々とした態度で、祖父のレントゲン写真を電光ボードに張り付ける。病院以外では見た覚えのない、ライトで照らせるやつだ。



「えっと、こっちは健康な男性の身体。ちょっと分かり難いと思うけど、ここが心臓、ここが胃で、ここが腸。で、これが肺ね。綺麗なものでしょ」



 右側に健康な人のレントゲン。



「で、こっちが秋山さんの方なんだけど、分かるかな? これが心臓で、ここが胃、こっちが肺なんだけど……分かる? 色が濃い影があるでしょ?」



 左側に祖父のレントゲンが貼られる。


 医師の説明の通り、素人である千賀子の目にも一目で分かるぐらい、違っていた。


 いや、千賀子だけではない。


 真剣な顔で祖父のレントゲン写真を見つめる父も、医師の言葉に真剣な顔で耳を傾ける母も……気付いている。


 祖母は、この場には居ない。


 全員が言っても仕方がないと、家に残る事を選んだからだ。その事で、気にしなくていいと両親が言ったけど、祖母は家に残った。



「それがね、ココと、ココと、ココ……ここもそれっぽいけど、なんとも分からない。とにかく、可能性が極めて高いのが、二つ三つは出ているね」



 医師の語る濃い影とやらが、千賀子が見る限り……片手では数えきれないぐらいにある。点々と、まるで寄生しているかのような、黒い点がいくつも。



「──癌ですね。それも、全身に転移しているうえに、既に相当に進行しているね。さっき尿の色を見たけど、ちょっと血尿が混じっていたから、かなり悪い」



 そして、何も言えなくなっている千賀子たちを尻目に、医師はあくまでも淡々と説明を続けた。



「いちおう、抗がん剤と呼ばれる癌治療薬はある。でも、これはまだ臨床試験の段階でね……副作用も大きいから、おススメはしない」

「治療薬が、あるのですか?」

「あるには、ある。でも、おススメはしないよ。副作用が相当に苦しいって話だし、使ったからといって治る保証はない」

「それは……しかし……」

「治療費も高額になる。一度使えば、そのまま病院から出られず……という可能性も否定はしない」

「そんな……」

「入院するかどうかは、本人と相談して決めてください。ただ、入院しても大した治療は出来ないことは、頭に入れておいて」



 硬く、強張った父の声。ぼんやりとした意識の中で、千賀子はそれが父の声である事に気付くまで、少し掛かった。



「父は、そんな事は、不調なんて一言も……」

「癌は初期の段階から強く痛みが出る場合もあれば、末期に入るまで無痛の場合もある。秋山さんの場合は、些細な違和感だったのでしょう」

「……父は、この先、どれほど生きられるのですか?」



 けれども、その質問だけは、すぐに理解出来た。


 ハッと我に返る千賀子の視線の先には、千賀子と同じく顔を上げた母と、悲痛に唇を噛み締める父の横顔があった。



「……はっきりとは断言出来ませんね。レントゲンを見る限り、相当に悪い。今すぐ急変してもおかしくないし、痛みは出るけど数ヶ月は生きられるかもしれない」

「それでも……」

「ふ~む、そうですな……私の見立てでは、長くても春先までが余命でしょう。ただ、それは体力が保たれた場合ですよ」



 ──春先まで。



 その言葉に、ずぐん、と。千賀子は己の心臓がひと際強く鼓動したのを感じ取った。



「先ほども言いましたが、尿に血が混じっている。おそらく、表には出ていないけど、内出血も起きているのでしょう。つまり、急性的な貧血の症状が出やすくなる」

「あまり、体重のある方ではありませんから、余計に強く出るでしょう……痛みや熱も出るでしょうし、体調の悪化は避けられません」

「年齢の事もあるから……覚悟と、心の準備だけはしておいた方が良いよ」



 それから、ポツポツと、あるいは淡々と、医師から今後の事が話されたけど……千賀子は、不思議とそれらが耳に入って来なかった。



 ──死ぬ? 


 何故なら、千賀子の脳裏を。



 ──お爺ちゃんが、死ぬ? 


 祖父が死ぬという、避けられない未来で埋め尽くされていたから。



 ──昨日まで、元気だったのに? 


 考えよう、受け入れよう、現実を認識しようと思っても。



 千賀子は、頭の中にモザイクを詰め込まれてしまったみたいに、何も考えることが出来なかった。



 ……。


 ……。


 …………それは、祖父と顔を合わせた時にも変わらなかった。



「──誰が入院なんてするか! まったく、わざわざ救急車を呼びやがって! そんなにワシを病人扱いしたいのか!」

「でも、親父……」

「……なんでぇ、大の男がよぅ」



 そう、言葉を濁す父の姿を見て、祖父は……一旦、言葉を止めた。けれども、すぐにフンスと胸を張ると。



「……ワシの身体のことは、ワシが一番良くわかっとる! こんな辛気臭いところ、逆に身体を悪くするってぇもんだ!」



 そう、鼻息荒く退院を決めた祖父は、何時もと変わらず元気そうであった。


 祖父が怒るのもまあ、理解出来る部分がある。


 というのも、全国的に救急車が配備されるようになったのは1963年(昭和38年)、たった3年前の話である。


 前世の記憶がある千賀子からすれば、たかが救急車だが、昭和のこの頃の認識は、テレビでしか見たことが無い特殊な車である。



 つまり、目立つ。



 東京ですら救急車が現れたら野次馬が集まってくるのに、千賀子が住んでいる地域のような場所だと、そりゃあもう見世物みたいな扱いである。


 祖父は、それが嫌で(たぶん、恥ずかしかったのだろう)怒っているのだろう。周りから病人扱いされたのが、気に障ったのかもしれない。


 その姿は……今朝の、苦痛に呻いていた姿が幻だったかのように。


 でも、着の身着のままで運ばれた姿と、病院特有の消毒液の臭いが、嫌でも全てが現実であることを見せ付けられたような気がした。


 そうして、プリプリと苛立ちを隠しもしない祖父を、半ば強引に説得してタクシーに……さすがに車内では黙っていたが、車を降りたらもう、不機嫌を隠しはしなかった。



「お帰り、茶ぁ飲むか?」

「おう、心配かけたな。喉乾いたから、温めに頼む」



 対して、出迎えた祖母は普段通りだった。既に、母から祖父の容体を電話にて聞いているはずなのに、いつも通りだ。


 祖父も祖母も、何時もと同じだ。昨日と、その前と、変わらない。


 そう、まるで、全て嘘だったかのように。


 何もかもが昨日の続きであるかのように、そうとしか見えない様子で、祖父はよっこらしょと上がり框に腰を下ろす。



「まったく、朝っぱらから大げさなんだよ……おかげで疲れたぞ、こっちはよ」



 そうして、ぐるぐると肩を回して筋肉を解す……その姿を見て、見た、見てしまった、瞬間──千賀子は、目を見開いて言葉を失くした。



 ──小さい。



 千賀子は、気付いた。いや、気付いていたはずなのに、目を逸らしていたのかもしれない。



 ──お爺ちゃんって、こんなに小さかったっけ? 



 上がり框に座る祖父を、見下ろす形。


 その肩が、その身体が、千賀子の頭の中にある『祖父』よりも、一回りも小さくなっている。



 ──見上げていた、はずだったのに。



 自分が、大きくなったのもある。だが、それと同じくらい、祖父が小さくなっているように見える。



 ──首も、手も、そういえばちょっと細く……。



 それは、老い。祖父の、寿命。


 今さらになって、今頃になって、もはや手遅れであることを……ようやく理解した千賀子は。



「……うぁ、ぁあ……ぁぁぁ、うぁぁん」



 もはや、こみ上げてくる涙を抑えることなど出来なかった。


 ギョッと、父と母が振り返って……驚いているのが、滲んだ視界の端に映る。こちらを見上げた祖父の、ポカンと呆けた顔も、映る。



「うぁぁぁ、うぅぅぁあああ、うぁあああ」



 でも、止められない。


 次から次に、涙がこみ上げてくる。嗚咽も、そう。両手で押さえても、こみ上げてくる激情を欠片も抑えられない。


 分かっている。悲しいのは、本当に辛いのは、自分ではなく祖父なのだ。


 それなのに、自分が泣いては祖父が悲しめない。これではまるで、祖父が死ぬのを認めているかのようではないか。


 そうだ、それを分かっている。泣くべきではないのだ。


 分かっているのに、千賀子は涙を止められない。立っていることすら出来なくなり、その場にしゃがんで……動けなくなってしまう。


 悲しいのだ。


 心が張り裂けてしまいそうなぐらいに、悲しいのだ。


 祖父が居なくなることが、悲しい。高校生になってから、昔に比べて会話する機会も減ったのに……それなのに、これ見よがしに悲しみが前に出てしまう。


 前世も合わせたら、祖父と同じぐらい生きているのに……みっともなく涙を流してしまう己が恥ずかしく、そして、申しわけなくて仕方がなかった。



「……すまねえな、心配を掛けちまってよ」



 だから、気まずそうに視線を逸らす祖父の、その言葉が……逆に、千賀子には辛くて辛くて、堪らなかった。


 だって、祖父は悪くないのだから。


 ただ、みっともなく涙を流す己が。


 気を使わせてしまっている己が。


 悪いのだから……なのに、どうしても、どうしても、どうしても。



「うわぁぁぁぁ、うあぁぁぁぁ」



 千賀子は、涙を止める事が出来なかった。



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