第55話: 所詮は女神、所詮は人間、それだけのこと
※ 暴力的表現あり、注意要
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初めて──愛し子より殴られた──いや、少し違う。
己という存在が生まれ出でたその時から初めてであると同時に、愛し子より向けられた暴力を受けた女神が、最初に思考を過った事。
『…………?????』
それは、困惑であった。
2発、3発、4発。
愛し子の丸くて可愛らしくて、目の中に入れても痛くも痒くもない、ちっちゃな手が己を殴ってきている。
その意味が、分からない。
女神は、理解している。愛し子より行われたこの行為が、いわゆる暴力であるということを。
分からないのは、なぜ、愛し子から暴力を向けられたか、その一点に尽きる。
何故なら、女神は愛し子を愛しているからだ。
女神にとって、愛し子から向けられる暴力は、暴力ではない。ただの、愛らしくじゃれて来ただけのスキンシップに過ぎない。
暴力を受けているのは分かっている。だけど、女神にとってそれは、暴力の範疇には入らない。
己を押し倒す形で飛び乗り、そのまま何度も愛し子は殴りつけてくる。
その可愛らしさときたら、女神の語彙では説明が出来ず、思わずその頭を撫でてあげてしまうぐらいに、可愛らしい。
だから、撫でちゃう。あんまりにも、可愛いから。
でも、どういうわけか、愛し子はなんだか気に入らないようで、ますます殴ってくる速さが増してゆく。
「──嫌いだ! 嫌いだ! 女神様なんて、大嫌いだ!!」
──その言葉は、とても悲しい。
本当に、悲しい。
思わず撫でていた手が止まるぐらいに悲しく、涙が手の中から零れ出る。それぐらいに、悲しい。
だから、代わりにいっぱい好きだと伝える。
止まっていた手を動かし、良い子、愛しい子、その想いが伝わるよう、愛情を込めて囁いてあげる。
「私が! 俺が! いったい何をしたの! どうしてそんなに私を苦しませるの! なんでよ! なぜだ!?」
──苦しいの? なら、助けましょう。
「いつも! いつも! いつも! 何をしたいの! 何をさせたいんだよ!」
──何をって?
「そんなに産んでほしいなら、さっさと産ませればいいだろ! さっさと産ませろよ! そうしたいんだろ!!!」
──???? すぐに産まないのでしょう???
どういうことなのか、分からない。愛し子の言わんとしていることが、よく分からない
愛し子が、子を産むことに抵抗を抱いているのは分かっていた。
だから、無理やり産ませるようなことはしなかった。
でも、可愛いから、身籠ることが幸せになるようにした。
悲しい気持ちを楽しい気持ちに変えて、辛い気持ちを幸せな気持ちに変えたら、とても喜んでくれると思ったからだ。
……残念ながら、効果を発揮する前にどれも駄目になってしまったけど、とにかく、女神は愛し子の幸せが大事なのだ。
だからこそ、女神は悩んでいる愛し子の背中を押した。
愛し子が、そのいじらしさがゆえに孫を見せられないという事を、心の奥底では本当に悩んでいた事を知っていたからこそ、女神はその背中を押したのだ。
そう、愛し子は奥手だから、そこがまた可愛いのだけれども、とにかく、可愛い。
もちろん、女神は鬼ではない、女神である。
いきなりは愛し子も不安に思うと思って、人間に近しい姿にした。もちろん、愛し子をモデルにして。
生まれてくる子も一般的な赤子よりも少しばかり小柄で、安産に済むよう色々と処置は済ませておいた。
なので、後は時間が過ぎるのを待つだけで、ほとんど苦しみを覚えることなく赤子が出てくる……ようにしていたのだが、まさか、愛し子があそこまで嫌がるとは思っていなかった。
だから、赤子は消した。
愛し子の赤子が生まれてくるのは楽しみだったけど、愛し子が涙を流してまで嫌がるのなら、消した方が良い。
また、新しく作れば良い。その前に、愛し子が勇気を出して子を作るのであれば、もっと良い。
そんな意味を込めて、慰めたつもりなのだが……いったい、どこで間違えてしまったのだろうか。
──泣かないで、愛し子。私を傷付ければ、貴女の悲しみは和らぐの?
考えても考えても、どうして愛し子が怒っているのかが分からなかった女神は、顔の手を蠢かし、バリバリと顔を剥がし始める。
それは、常人が見れば、直後に言葉を失くし、恐怖のあまり失禁し、そのまま気絶するほどの、名状しがたき嫌悪の具現化。
「──っ!!」
そこへ、愛し子の拳が入る。
赤い血が飛び散り、硬いナニカが砕ける感触。
バキバキと、女神は己の顔が砕けたのが分かった。どろりと、生暖かい己の体液が愛し子の身体を温めてくれる。
──ああ、愛し子。貴女の心は安らぎましたか?
「──っ、この!」
──遠慮する事はありません、さあ。
「少しは──っ!!」
──貴女の心に、私は寄り添いますよ。
「堪えろ──馬鹿女神ぃ!!」
何度も、愛し子の拳が振り下ろされる。いや、拳だけではない。
神通力によって運び込まれた岩石も、その頭に叩きつけられる。ぐちゃりと、頭が潰れて中身が飛び出す感覚。
──貴女の心を守ります。さあ、もっと、構いませんよ。
けれども、女神の内より湧き出るのは、愛し子が元気に己へ暴力を振るう、その姿を見る幸せだけ。
そう、女神は欠片も堪えていない。
女神にとって痛みは痛みでしかなく、どれほどの痛みが生じたところで、そこに意味などない。
けれども、女神はちゃんと分かっている。愛し子の事は、なんでも分かっている。
何故なら、愛し子のことが大好きだから。
他の何よりも大好きで、大好きで、大好きだから……だから、女神は愛し子の気持ちを分かっているのであった。
……。
……。
…………そして、そんな女神様の気持ちもまた、愛し子である千賀子もまた、分かっていた。
そう、どれだけ怒りを抱こうが、嫌悪感を抱こうが、寵愛を受けた千賀子は理解していた。
己がやっている行為に、意味など無いということに。
仮に、このまま完全に女神様の頭を潰したところで、女神は堪えない。すぐにでも元の姿に戻り、また頭を撫でて愛を囁いてくるだろう。
そして、死ねと命じたところで結果は同じ。
女神様には、『死』という概念が存在しない。そう、女神様は、そういう意味では不変の存在なのだ。
爆弾を使おうが、燃やしてしまおうが、粉々にミンチにしようが、女神様は死なない。如何なる手段を用いても、次の瞬間には元に戻っている。
ならばと『女神を嫌悪する』ことを伝えても、同じだ。
女神にとって、好き嫌いは何の意味もない。
嫌われる事を嫌がって悲しむし、強くショックを受けるけれども、それだけだ。
無限にも等しい時間を存在する女神からすれば、己を嫌悪し悲しむ愛し子の姿もまた、可愛らしくて愛おしいのだ。
そう、こうしてボコボコに殴られている今ですら、嫌いだと連呼されている今ですら、女神様から向けられる愛情は何一つ変わらない。
殴った手が傷付くのを心配するし、涙を流す姿を悲しむし、その心が晴らすためなら、いくらでもその身体を傷付けるだろう。
人の基準では、人の感性では、間違いなく相容れない考え方をしているけれども、それがどれだけ歪で禍々しくても、根底にあるのは愛情なのだ。
だから、仮に『ガチャ』はいらない、全部返すから二度と構うなというお願いをしたとしても、意味はない。
もしもそんな事をすれば、女神様からの干渉は今の比ではない。理屈とか、そんなのは考えるだけ無駄なのだ。
何故なら、神様とはそういうものだ。
愛する者のためにあらゆる手段、人にとっては非道に値する行為を容易く行うけれども、だからといって、人の下僕ではない。
結局のところ、上位者なのだ。それも、人の手ではどう足掻いても届かない位置に居る、絶対的な上位者。
「はあ、はあ、はあ、はあ……」
──疲れたのですか? さあ、私の胸で安らぎなさい。
事実として、今もそうなのだ。
『ガチャ』の恩恵によって体力を得て、神通力を得て、人知を超えた力を得ているとはいえ、結局のところは女神様より与えられた力に過ぎない。
全力でもって、息が乱れて堪らず手が止まってしまうぐらいに渾身の力を込めても、女神様は欠片も気に留めていない。
むくりと女神様が身体を起こした時にはもう、その身体からは傷は消えていて、周囲はおろか千賀子の全身に飛び散っていた女神の鮮血も消えている。
……言っておくが、幻覚ではない。
単純に、千賀子が認識出来るよりも速く傷が治り、千賀子が認識出来るよりも周囲の鮮血を消しているだけだ。
するり、と。
愛おしむように抱き締められ、頭を撫でる女神様の手を振り払い、抱き留められた胸元を殴りつける。
だが、もはや、その拳には力が入らない。
それは、拳を痛めたからではない。
既に、先ほど抱き締められた時にはもう、千賀子の手に負っていた怪我や疲労は完全に癒えていた。
力が入らないのは、改めて理解させられたからだ。
本当に、どう足掻いても勝てない。どうやっても、どうにもならない。もう、この時点で心が負けかけていた。
……。
……。
…………ぜえ、ぜえ、ぜえ、と。
今生で一番かもしれない、息苦しさ。
心臓が今にも破裂しそうなくらいに鼓動を繰り返し、吸っても吐いても息苦しさが消えず、指先の末端に至るまで、酸素を求めている。
──良い子、良い子。
汗で濡れて張り付いた前髪を、汗ごと優しく拭われる。その指先の優しさは、本当に言葉には出来ない苛立ちを覚えた。
けれども、その苛立ちすら、女神の前には無意味である。無意味であることを、千賀子は理解する。
それは、人が他の生物に行う事と根本は同じである。
金を得るために死ぬまで繁殖させ、あるいは乳を取るために意図的に子を孕ませ、最後は殺して肉に変えるのと、何が違うのか。
生まれたその時から閉じ込め続け、ただひたすら卵を産み続けさせ、次代の食肉のために繁殖させ、最後は肉に変える……そこに、なんの違いがある?
あるいは、己の心の平穏と安定のために生殖器を排除し、種としての宿命である子孫を残せない状態にして、愛玩するのと何が違うのか。
植物とて、同じこと。
人間が生きるために生まれたモノなど何一つこの世にはない。ただ、人間の都合で、一方的にせん別されているだけ。
愛情の有無なんてものに、意味はない。
苦しみを与えないようになんて言い訳も、意味がない。
生きるためだなんて理屈は、もっと意味が無い。
本当にそれを考えるのであれば、すべからく自死するのがスジなのだ。何故なら、他の生物からすれば、すべからく知ったことではないからだ。
どれだけ言い繕ったところで、どれだけ理屈を並べたところで、本質は同じで、全ては人間の都合でしかない。
規模とやり方と基準が違うだけで、人と女神との間には、そこまでの違いはないのだ。
「……女神様は、どうして私の事をそこまで愛するのですか?」
だから……というわけではない。
せめて、そう尋ねてみれば……女神様は、心底意味が分からないと言わんばかりに、不思議そうに首を傾げた。
──愛おしいからです。
「いや、だから、その理由を……」
──愛おしく思うのに、理由が必要なのですか?
「女神様、時々真理を突くようなことをしますね?」
千賀子は、もう色々と考えるのを諦めたくなった。端的に言えば、どうにもならない事なのだと理解させられてしまった。
やはり、女神様は人の心は分からない。
だが、それは結局のところ、千賀子も同じなのだ。
女神様が、人の心を分からないように。
人もまた、女神様の心を理解出来ない。
それを『心』かどうかを人の基準で身勝手に判断し、不適格ならば心とまでは言えないと定めているだけである。
間違っていると判断を下すのは、人間の傲慢に過ぎない。心なんてものは解釈や基準が違うだけで、なんら特別なモノではない。
心とは大脳であり、大脳が心そのものであると考える、心脳同一説。
心はあくまでも脳というハードウェアを基盤とするソフトウェアとして考える、機能主義。
あるいは、心的性質は物理的性質には還元できないと主張される、つまりは肉体と心は全く別のモノであると考える、二元論。
結局のところ、人の基準で、人の理屈で、理解しようとする行為が、無駄でしかなかった。
(赤子を殺したことも、赤子を孕ませることも、女神様にとっては本当に同じ意味でしかないのか……)
もう、殴る気力が湧かず……されど、傍に居て欲しくもなかった千賀子は、のそりと離れて腰を下ろす。
(……ロウシ、ずっと見ていてくれていたのね)
そうして、ふと……少し離れた場所から、こちらを見つめ続けていたロウシに目を向け──って、駄目だ!
「ロウシ!? 大丈夫、もういいから!!」
──ブフフン!
千賀子が待ったを掛けるのが、僅かばかり遅かった。
颯爽と駆け寄ってきたロウシの、後ろ蹴り。
体重400kg越えから放たれる蹴りを、まともに受けた女神の鳩尾に、ドスンと蹄が食い込んだ。
『 』
そうすると、どういうわけか……女神はそれまでとは裏腹に、蹴られた場所を抱えるようにして蹲ってしまった。
……。
……。
…………!?!?!?
「ロウシ……あんた、いったい……?」
──ブフフン。
「え、無我の境地、我欲を捨て去れば……そ、そう、すごいんだね、ロウシは……」
とりあえず、ピクピクと苦しそうに呻いている女神様の姿に、少しばかり溜飲を下げた千賀子は……それから、深々とため息を零した。
頭が冷えて来て、脳裏を過るのは……これからの事だ。
なにせ、先ほどまで孕んだと家族に説明したばかりなのに、もうその赤子は千賀子の中には居ないのだ。
この事を、どう説明をすればいいのか?
正直、赤子の事を考えるだけでもどんどん気分が落ち込んでくるし、家族への説明を考えるだけでも億劫になるし。
そこに加えて、千賀子の脳裏を過る言葉がある。
(……私の人生、か)
それは、母から言われた言葉である。
考えてみれば、今生の己は、ずっと『ガチャ』に振り回されていたような気がしてならない。
もちろん、『ガチャ』のおかげで得をしなかったとは言わない。『ガチャ』のおかげで助かった部分は、多岐に渡るだろう。
でも、それでも、これまでずっと、まず『ガチャ』が根幹にあって、それをどうするかという事ばかり考えていたような気がする。
(……そういえば、子供の頃はガチャの結果を見て、爺ちゃんに魚釣りのおねだりをしたっけ)
あの頃は、特にそんな事は考えていなかった。
結果が悪かったら『はい、また次回』でしかなかったし、異性に警戒する事もなかったし、与えられた恩恵に一喜一憂することもなかった。
その頃だって、今みたいに将来(子供のこと)の事を考えたりもしていたが……時間が解決するだろうと、軽く考えていたのも否定はしない。
(私の、人生。そうだよな、私は、私のために生きているだけで、誰かのために生きる人生を選んだわけでもない)
でも、時間では解決されなかった。
(……ていうか、そりゃあ私の考えがおかしかったのは分かるけどさ……そもそも、私だって好きでこうなったわけじゃないし……)
そして、つらつらと色々な事を考えているうちに。
(……あれ、なんだろう。なんか、だんだんイライラしてきたぞ)
ふと、千賀子は……胸中より苛立ちが湧き出るのを実感した。
(そもそも、私が勝手に色々やっているだけで、私が勝手に我慢しているだけ……そりゃあ、私が勝手に選んだ事だけどさ、分かっているけどさ、私だって色々とあるんすよ、色々とね)
それは、やつ当たりにも似ていて……というか、半ばやつ当たりでしかなくて。
(それこそ、死ぬまでずーっと……いや、いやいや、そりゃあ周りに気を使うことだってあるけど、死ぬまで気を使い続けるとか……うわぁ、なにそれ……!!!)
そして、ついに限界を超えた千賀子は、ムクリと立ちあがり……境内へと降りて、深呼吸をすると。
「──女神様がなんじゃい! 恐怖の大王がなんじゃい! 私だってなあ、色々あるんじゃい!」
その言葉と共に、高々と両腕を掲げると。
「もう知らん! 好き勝手にやったる! 所詮、私だってただの人間、助けられなかったらそれまでの人間なんじゃい!!」
そう、誰も居ない神社の夜空に叫びながら。
「やりたい事、片っ端からやったる! それで駄目だったら、運が悪かった己を恨めい!」
力いっぱい……これからの己を、宣言したのであった。
……。
……。
…………なお、そんな千賀子の背後で。
──あの、蹴らないで貰えま──アウゥン!!??
──フヒヒン!!
──そ、そこは止めて……!!
──ブフフン!
そんな千賀子も可愛いとにじり寄る女神様の鳩尾に、駄目押しの後ろ蹴りが叩き込まれていたが……千賀子は全く気付いていなかったのであった。
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