第49話: なお、千賀子視点では何もしていない



 ──この夏は、冴陀等村に掛かりきりになるかも。



 そんな感じで居た千賀子だが、実際にずーっと掛かりきりなるかと言えば、そんな事はない。


 食糧関係だけは疎かにすると危ないので、疲れて足を運べない時を考えて、それだけは常に余分に用意してある。


 なので、最悪飢え死にすることはないだろう。


 水や寝床だって、いちおう女神様からは緊急的には良いと大目に見てもらえているし。


 面倒を見るつもりでいるが、何もかもが手取り足取りは出来ない。


 千賀子は千賀子で色々とやることがあるし、冴陀等村の人達のために生きているわけでも、居るわけでもないのだ。



 ……それで話を戻すが、千賀子はいくつかやる事が出来てしまった……というか、不思議な事がいくつか起こった。



 その中でも、一番不思議だったこと──久しぶりに、東京の店を開いた時の事を話そう。


 ここしばらく、『止めろよ、フリじゃないぞ』といった感じの予感がしていたので、東京に行くのは控えていたが……先日、久しぶりに予感が消えたので、店を開くことにしたのである。


 正直、こっそり安堵の溜め息を零した。


 なにせ、借り物だから。


 友達ゆえに色々と融通を利かせて貰っているし、稼げる時に稼いでおこうと千賀子が考えるのも当然だろう。


 まあ、千賀子自身に蓄えがある(神社に保管してある)ので、数ヶ月ぐらいなら店を閉めていても大丈夫だけど。


 こういう時、1人経営の強みが……いや、千賀子の場合、強みなんて言葉を使うのは嫌みにしかならないだろう。


 なにせ、千賀子の場合は原価がタダ、立地代が格安、その他諸々のランニングコストも抑えているという、反則技があってこそのアレなのだ。


 これで他の人達と同列に考えてしまえば、そういう反則技無しで戦っている人たちより恨みを買うどころか、下手すれば死人が出るような話になって……さて、話を戻そう。



「いやあ、やっぱりここのは違うね。新鮮っていうか、濃厚っていうか」

「そりゃあ、うちのは混ぜ物なしだしね。せいぜい、好みに応じて牛乳を混ぜるぐらいだし」

「その牛乳だって、他とは違って乳臭くなくて飲みやすいんだって……でもさ、前から不思議に思っていたんだけど、この値段で利益出るの?」

「趣味を兼ねているし、伝手のおかげで、ぼちぼち出ているわよ」

「ふ~ん、そっか……そういえば、最近ずっと閉めていたけど、なにかあったのかい?」

「占いの結果がよろしくなかったので、控えていただけだよ」

「へえ、それじゃあなんか占ってくれない?」

「残念、他人を占う事はしないの。自分への願掛けみたいなものだから」

「ふ~ん、残念だなぁ」



 そんな感じで、久しぶりに店が開いていることを聞きつけた……というより、大半はたまたま近くを通って気付いた人だが、とにかく客はけっこう入っていた。


 客の一人の言う通り、千賀子の店は特別である。


 この店の客はまさしく千差万別。


 傍目にも分かるその筋の強面こわもてもいれば、ガチガチにお堅い仕事をしているっぽい人もいるし、たまたま立ち寄っただけの作業着の者もいる。


 それがどうしたと言われそうだが、実はこれ、けっこう凄い事である。



 と、いうのも、だ。



 この頃(1960年代)の日本というのは、現代人の感覚では信じられないぐらいに、男と女の世界、大人と子供の世界、カテゴリーに応じた世界に分かれている。


 現代のように、大人も一緒に、子供と一緒に、男女一緒に、なんてのはほとんどなく、明確に排除されるとまではいかないが、暗黙の了解というものがあった。


 これはまあ、当時の常識というか、国民の意識にも原因がある。


 店側が気にしなくとも、客が気にしてしまう。


 ぶっちゃけてしまえば、空気を読まない場違い者として、客の方が白い眼で見てしまうのだ。


 これが1970年、1980年と時が進むにつれて、だ。


 隔てる壁が小さく薄くなってゆき、誰でも気軽に入りたければ入れば良いというのが当たり前になっていくのだが……今はまだ、そうではなかった。


 そうではないからこそ、千賀子の店は稀有なのである。


 そのうえ、忙しい時はジュースしか頼めないが、他の店なら倍以上はするどころか、時期によっては飲めないし食べられない果物が食べられるのも、この店だけ。


 そんな店、客が途切れるわけがない。


 千賀子の自覚が薄いからなのもあるが、分かっている者は、いかにこの店が異常なのかを分かってるからこそ、おとなしくしているのであった。



「──もし、座れるかい?」



 そして、そんな時であった。


 一目で、一般サラリーマンとは一線を凌駕する高品質、お高いスーツに身を包んだ男と、その男より少し劣るが、十分にお高いと思われるスーツを着た男が店に入って来たのは。


 明らかに、普通の客ではない。


 パッと見た感じ、社長と秘書、か。


 雰囲気が、そんな感じ……もちろん、ヤクザの類ではない。


 そんな二人の入店に、チラリと先客たちが視線を向ける。


 秘書っぽい男は一瞬ばかり視線をさ迷わせたが、社長っぽい男は気にした様子もなく、出入り口に背を向けてテレビを見ている千賀子を見つめた。



「あら、運が良かったわね。さっき、席が二つ空いたところよ」

「おや、それは運が良か──」



 そして、何気なく千賀子が振り返れば、男は……言葉を失くしてしまったかのように、ポカンと呆けて動きを止めた。



 それを見て、客たちは……1人の例外もなく、ふふふっと笑みをかみ殺した。



 そう、これは、初めてこの店を訪れる者の洗礼みたいなもので、誰しもが千賀子の美貌に見惚れ、足を止めてしまうのだ。


 別に誰かが決めて始めたわけではないが、あんまりにも誰も彼もが同じ反応をしてしまうことから、何時からか、この店の暗黙の風物詩として扱われるようになった……というわけである。


 ちなみに、店を開いた時は状況が状況だったので、千賀子の美貌にそこまで意識が向かなかったからで……で、だ。



「……? あ、ごめんなさい、テレビを見たかったのかしら?」



 そう、指差したテレビには、『盤外のプロレス大乱闘! 力道三、またまた留置所で反省会!?』のテロップがデカデカと映し出されていた



「いや、そういうわけでは……ええっと……」

「そこのカウンター席よ」



 千賀子が尋ねれば、ハッと男は我に返り、促されるがまま席へ。



「注文は?」

「えっと、オレンジジュースで……君は?」

「え、あ、はい、でしたら、私にも同じ物を……」

「オレンジジュース二つ、ちょっと待ってね」



 手慣れた動きでジュースを作り始める千賀子を尻目に、男はジッと千賀子を見つめる。秘書っぽい男も、同様に。


 2人が見つめてしまうのも、致し方ない。何故なら、それほどに千賀子は美しいからだ。


 今でこそ化粧っ気のない恰好をしているが、ちゃんとおめかしして繁華街を歩いたならば……間違いなく、一つや二つは騒ぎを起こしそうだと、2人は思ったのであった。



「──あんちゃん、あんまり見惚れているとお姫さんの顔に穴が空いちゃうよ、その辺にしときな」



 そして、ソレがあまりに露骨すぎたからなのか、それとも釘を差す意味なのかは不明だが、強面の客がそう忠告をした。


 それを聞いて、ようやく男は気付いたかのように、チラリと店内に視線を向け……しばしの沈黙の後、「──ですな」ポツリとそう呟いた。



 ──お姫様、か。



 そう、唇だけでその言葉を呟いた男は、理解した。


 千賀子が、この店の……そう、誰の手にも届かないお姫様なのだということを、理屈じゃなくて心で理解した。



「はい、どうぞ」

「ありがとう、つりは取っといてよ」

「いらない、そのお金は恵まれない人たちにでも配りなさいな」

「……そうかい? それじゃあ、代わりに知り合いにでも宣伝しておくよ」

「程々にね」



 目の前に、オレンジジュースが入ったグラスが置かれる。からんと氷が音を立てるソレからは、柑橘の香りがふわりと立ち昇っていた。


 香料ではない。というか、目の前でジューサーに掛けているのが見えていたし……それを、グイッと──それはもう、一気飲みした。


 それを見て、千賀子だけでなく、他の客たちもポカンと呆気に取られた。


 いくら蒸し暑い夏の時期とはいえ、だ。


 現代の感覚で例えるなら、喫茶店にて出されたアイスコーヒーを、ぐびぐびと喉を鳴らして一気飲みしたような状況だ。


 お茶や水ならともかく、それなりに喉が渇いていても、みんな味わいながら飲んでいる……別に嫌というわけではないが、中々に珍しい光景であった。



「……もう一杯、作る?」

「いや、いいよ、御馳走様」



 皮肉でも何でもなく尋ねれば、男は笑顔を浮かべて席から立ち上がる。「ちょ、待ってください!」気付いた秘書っぽい男が、慌てて一気飲みをして、ちょっと咽ていた。



「はい、これ」

「ん? なにこれ、名刺?」



 スッ、と。



 あまりに自然に差し出されたソレを受け取った千賀子は、意図が分からず首を傾げる。


 ソレは、前世(成人した後の話)でもよく見た名刺と、同じで……いや、よくよく見れば、違った。


 具体的には、妙に手が込んだ豪華な名刺である。


 文字が判子や印刷じゃなくて手書き(それも、達筆)なうえに、縁のあたりに金箔が散りばめられており、裏にも同様に。


 厚さも、千賀子の知る名刺より倍近くある。手触りからして、紙の質そのものが、そこらで手に入るモノではないのが感じ取れた。



「『田中角英たなか・かくえいさん?」

「今はまだ、そこまでじゃないけど、何時か約に立てそうな時があったら、遠慮なく使ってほしい」

「はあ……?」



 首を傾げる千賀子を他所に、男と秘書っぽい男は店を出ようと──する前に、「おい」と声を掛けられた。



「あんちゃん、どういうつもりだい?」



 ギロリ、と。


 強面の男の眼光に、秘書っぽい男はビクッと動き動きを固くする。けれども、睨まれた男は全く動じなかった。



「恩人なんですよ」

「あぁ?」

「足を向けて寝られないぐらいの、大恩人なんです」

「……そうかい」



 それで納得したのか、強面の男はそれっきり何も言わなかった。


 そして、睨まれた男も何も言わず……振り返って、千賀子へ軽く頭を下げると、そのまま店を出たのであった。



 ……。


 ……。


 …………そうして、店のすぐ傍に止めていた車に乗って、しばしの間、無言のままに走らせた後。



 いくつかの信号の前で止まったのを切っ掛けに、さすがに我慢の限界だと言わんばかりに、秘書っぽい男……いや、違う。



「角英先生! 本当に気を付けてください!」

「いや、ごめんよ」



 秘書の男は、いずれ総理大臣になるだろうと目されている男に、進言した。


 秘書が怒るのも、致し方ない。


 なにせ、今は難しい時期だ。


 次期総理大臣の座を狙っているのは1人や2人ではなく、また、何時どこでつまらん記事をでっち上げられるか、分かったものではない。


 本音を言えば、あのような店に行くことすら反対したい気持ちだった。


 しかし、たまには気分転換もせねば、さしものの先生も潰れてしまうと思っていたし、先生が自ら『ちょっと、行ってみようよ』と口に出したから……加えて、だ。



「それにしても先生、どうしてあの名刺を出したんですか?」



 秘書が怒った最大の原因は、『あの名刺を渡した』からだ。


 アレは一部の、超が上に幾つも付くような上流階級の間で使われている道具……の、真似事みたいなものだ。


 意味を簡潔にまとめると、『私にとっての大恩人である。この人への害は、私への害も同じである』という意味のモノだ。


 つまり、アレを持っている人は、それを持っている人と親密な間柄にある……という意味にあり、分かる人が見れば一発で顔色が変わるぐらいの代物なのである。


 それを縁も所縁もない、ただのジュース屋の娘に渡したというのだ。


 いくら真似事でしかなくとも、どこで背ひれ尾ひれが付くか分かったものではない。


 それを知らないはずがないのに、どうして……秘書が声を荒げたのも、そんな思いがあったからだ。



「そりゃあ、あの子が私にとって、本当に大恩人だからだよ」

「え?」

「今の私がこうしてあるのは、彼女のおかげさ。彼女が私の背中を押してくれたから、今の私が有るんだよ、きみぃ」

「えっ、と、それは冗談ではなくてですか?」

「おいおい、こんな冗談は言わないよ。いや、しかし、お姫様、うん、お姫様か。たしかに、私が出会ったあの日の彼女は、絵本から抜け出してきたかのような、お姫様に見えたよ」



 けれども、男は……角英と呼ばれたその男は、ふふっと穏やかに笑うと。



「うん、今日は良い日だ。やっぱり、夏はこうでなくちゃあね」



 困惑する秘書に、そう答えたのであった。



 ……。



 ……。



 …………ちなみに、当人である千賀子は。



(……なんか、前に道子からお遊びで貰った名刺に似ているな……金持ちの間では流行っているんだろうか?)



 前世の世界においての総理大臣と同じ名前の人から名刺を貰ったという、なんとも表現し難いプレミア感。


 20年後には高く売れるかな……という感じの、その程度の感覚でしかなかった。






 ──とまあ、そんな感じで、だ。




 嫌な予感を覚えるまで東京の店を営業したり。


 ロウシを連れて、幼少の頃に幾度となく通った川に向かい、ロウシと一緒に釣りをして。


 また別の日には、川で泳いで遊んでいる子供たちを見て羨ましく思い、一緒になって遊んだり。


 その子供たちに気に入られたのか、秘密基地なる場所に招待され、メンコやコマのやり方を教えてもらったり。


 顔を真っ赤にした子供たちに、『内緒だよ』とジュースを奢ってあげたり。


 他にも、回数は少ないけど、明美や道子とも顔を合わせてお泊りのお喋りをしたり……色々とリフレッシュをして、気付けば8月も後半の頃。



「──いいか、急いで、かつ丁寧に、真心を込めてするんだぞ! 下手な仕事をしたら、マジでヤバいらしいからなぁ!!!!」



 気分転換も済ませたし、改めて冴陀等村の事をやらねばと思って現地へ赴いた千賀子の眼前に広がっていたのは、だ。


 前回訪れた時にはいなかった大勢の見知らぬ人たちと、忙しなく指示を出す者たちと、その指示に従って汗水を流している作業員たちの姿であった。



 ……いったい、己が離れている間に何があったのだろうか? 



 何時もと同じく、顔を隠した『サラスヴァティー』に変身した千賀子は、誰にも見つからないよう山中からコソッと冴陀等村の外れにて姿を隠しながら……はて、と首を傾げていた。


 千賀子が知る限り、この村には、土木関係の会社も人員も居なかった。


 なにせ、元々が合法的に搾取されていた村だ。


 下手に関わる人数を増やすとどこでボロが出るか分からないから、そもそも、そういうお金すらも横流しされていた。


 だからこそ、どうしたものかと千賀子は頭を悩ませていたし、長年に渡って横流しし続けていた者たちに憤ったわけなのだが。



(……なんか、思い出したらまた腹が立って来たな)



 それは、千賀子が少しばかり冴陀等村から足を遠ざけた理由でもある。


 この村に居ると、どうしてもその事に目が向いてしまって、今さら怒ったところでどうしようもないと分かっていても、イラついてしまうのだ。


 『サラスヴァティー』などの権能によって知ってしまっているからこそ、余計に……この村の者たちに行った非道を認識出来てしまうせいである。


 まあ、それも、気持ちをリフレッシュしたおかげで、最初の頃よりはだいぶマシにはなっているが……それでも、冴陀等村の現状を思い浮かべるたび、イラッとしちゃうわけで──っと。



「ひ、ひぃぃぃいいいいああああああ!!?!?!??!!!」


(ひぇ、な、なんだ、急に?)



 苛立っていた気持ちが、唐突に冴陀等村に響き渡った……男の甲高い悲鳴に、引っ込んだ。


 見やれば、スーツを着た、皺が目立つ男だろうか。


 作業員たちに負けず劣らず、顔中に汗を浮かべたその男は、遠目にも分かるぐらいにバタバタと慌ただしい走り方で村の中をグルグル回ると──その場に土下座をすると、叫んだ。



「許してください! 許してください! 許してください!」


(え、なにアレは……? (ドン引き))



 突然の奇行に、遠くからでも面食らう千賀子を尻目に……それは、不思議な光景であった。



 いったい、なにが? 



 それは、土下座をしている男の傍を作業員などが行き交いしているが、誰も気に留めていない……いや、違う。


 男が、何度も何度も地面に額を叩きつけている最中、まるで、自分も手を抜いたらそうなると脅されているみたいに、目に見えて作業員たちの動きが速くなったのだ。


 その姿は、遠目からでも『気が触れてしまっているのでは?』と思うぐらいに正気ではなく、神通力を使って遠くから見ていた千賀子は、とってもドン引きしていた。



(え、えぇ……っと。あの人、議員さんかな? 横流ししていた人たちに関わっていた人っぽいけど……何がどうなって、そうなったの?)



 調べようと思っても、どうにも見付けられないというか……とりあえず、男が本気で後悔して、罪滅ぼしのために動いているのだけは、感じ取れた。



 ……。



 ……。



 …………まあ、実際に被害を受けたのは自分ではなく、冴陀等村の人達だ。



 無様に土下座をしている様は、確かにスカッとする部分があるけど……それは、単純に悪者が酷い目に遭っている様を見て楽しう、カタルシスの一種でしかない。


 それはもう義憤ではなく、欲望の発露でしかないのでは……そう、千賀子は思ったわけで。


 まだもうちょっと心の整理が必要だけど、とりあえず、自分が怒るのは筋違いというか、村人たちの判断に任せた方が良いかもしれない。


 そう、結論を出した千賀子は、もうちょっと落ち着いてから様子を見に来ようと、ワープを使ってその場を後にしたのであった。



 ……。



 ……。



 …………その、直後。



 ──ありがとうございます! ありがとうございます! 



 何故か、いきなり感謝の言葉を男が叫び始めたのだが……既に村から離れていた千賀子は、当然ながらそれを知らないのであった。



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