第19話: 一方、気付いていない家族が、千賀子は何処へ行ったと探し始めた
──力道三。
そう、改めて名乗った男を前に……前世でも有名人であるその人物の事を、千賀子はほとんど知らなかった。
どれぐらい知らないのかって、それはこの世界では『力道三』というリングネームが、前世では『力道山』という名だったことも分からないぐらいに無知である。
まあ、千賀子がそうなのも仕方がない。なにせ、千賀子はプロレスというものに欠片も興味が無かったからだ。
別に、嫌っているわけではない。
スポーツ観戦ぐらいはしていた。
ただ、プロレスを含めて格闘技全般に関しては、同時刻に、他に見たい番組が放送されている事が多かったため、見る機会がほとんどなかったのである。
そして、それは昭和のこの世界で転生をしてもなお、変わっていない。いや、むしろ、前以上に興味が無い。
と、いうのも、だ。
自宅にある白黒テレビは、基本的に父や祖父、兄の和広が見たい番組が優先される。
その合間に、あるいはどうしても母や祖母が見たい番組がある時はそちらが優先されるが、基本的には男連中が優先である。
そんな男連中……父と祖父が見るのは、主に野球。ニュースなどはよく見ているが、プロレスなどの格闘技はあまり見ない。
見るのは、主に和広だ。
和広も父や祖父と同じく野球を見るが、それと同じぐらいにプロレスも見る。ゆえに、常日頃から細やかに悪い態度を向けられ続けている千賀子が、それに興味を持つはずもない。
(ああ、そういえば、和広のやつが、前に何度か力道三がどうのこうのって話していたな……)
思い返してみても、せいぜいその程度の事しか思い出せないのだから、どれだけ無知なのかが想像出来るだろう。
ちなみに、テレビの優先権がそうなっている理由は……なんだろう、気付いたらそうなっている、といった感じである。
千賀子が普通の女の子の歓声だったならば不満の一つは抱えていそうだが、幸いにも、千賀子の興味を惹くような番組は何一つやっていないので、今は平穏である。
……で、話を戻そう。
前世を含めて、初めて対面するプロレスラー。
千賀子が知らないだけで、この世界でも超有名人の力道三は、困ったように頭を掻くと。
そっと、テーブルの引出しから長方形の薄い木箱を取り出し……パカリと蓋を開けば、中には葉巻と、葉巻用の小さなハサミが入っていた。
「あ~、吸うか? この前手に入ったんだ、上物だぞ」
「……吸いません、お気遣い、どうも」
「おお、そうか。まあ、欲しかったら何時でも言え、奢ってやるぞ」
パッと見た感じの初見は、厳つい男である。
まあ、千賀子がそう思うのも無理はない。
なにせ、眼前の男……力道三は、この頃の男性の平均身長よりも背丈があり、加えて、服の上からでも鍛え抜かれた身体が見て取れる。
それはもう、パンパンだ。大きめのシャツなのだろうが、ちょっとピッチリしている。
昭和のこの頃は栄養学なんて考えが全く根付いていない(そもそも、研究が進んでいない)し、スポーツ学もまた、その名前すら生まれていない。
それなのに、これだけの身体を作っているあたり……相当な努力を積んできたのだろう
(でも、初対面の……明らかに未成年の女の子に、初手で煙草を差し出そうとするあたり……まあ、仕方ないか)
眼前にて、スパスパと慣れた手付きで葉巻を咥えて、プカプカと煙を揺らしている力道三を見て……う~ん、と内心苦笑を零した。
別に、力道三がマナー違反とか、そういうのをしたわけではない。
この頃の日本……遡れば江戸時代からそうなのだが、男も女もプカプカと煙草を吸いまくっていた時代なのだ。
さすがに未成年の女の子に葉巻を差し出すのはどうかと思うが、この頃の大人なんて、だいたいこんな感じである。
「──お、そうだ」
だが、千賀子は……一つ見誤っていた。いや、というより、気付かなくて当然であった。
「そういえば、天使ちゃんって名前あんの?」
「え、いや、名乗るのはちょっと……」
「あ、そう? そんで話は変わるけど、腹減らねえか?」
「え?」
「飯を食いに行こうぜ。奢ってやるよ、今日はちょっと朝から用事があってな、ちゃんと飯が食えてねえんだ」
「え、いや、私はあまりここを出たくは……」
「うっし、今の時間ならちょうど贔屓にしている店が開いてやがるからな、食わせてやるよ」
「ま、ちょ、話を──」
それは、力道三と呼ばれているこの男が、これまで千賀子が出会って来たどんな人物よりも……はるかに破天荒な性格をしているということで。
「おい、
扉を開けるわけでもなく、大声での呼びかけ。
いやいや、そんなの聞こえてもすぐには……そう千賀子が思った直後、ダダダッと足音が近づいてきたかと思えば、凄い勢いで扉を開けて入って来た……2人の男であった。
2人とも、一般人よりも背丈がある。特に、片方はこの時代では(現代でも、だが)珍しい、2m近い長身である。
双方とも肩幅が広く、プロレスラーの卵……という表現が似合う雰囲気をしていた。
けれども、千賀子の注意を引いたのはそこではない。
千賀子が驚いたのは、あまりに早い登場と、力道三が呼び出した二人の名に、覚えがあったからだ。
──猪気と馬刃。
読みこそ同じだが、千賀子の前世においての2人の愛称は、少し違う。
──アントニオ猪木。
──ジャイアント馬場
その名は、前世においても知らぬ者はいない(世代によっては違うけど)有名人であり、プロレスを改めて世に広めた……スーパースターであったからだ。
そんなスーパースター二人が、扉のすぐ傍で身構えていたかのような速さで突撃してきたのだ。
そりゃあ、驚きのあまり千賀子が呆けるのも致し方ないだろう。
というか、本当に呼ばれる事を見越して準備していたのか……いや、そうでないのは2人の様子が物語っている。
具体的には、2人ともぜえぜえと息が荒れている。加えて、シャツの胸元どころか、全身が汗でべったりと湿っている。
素人目にも、つい今しがたまでトレーニングをしているのが察せられるぐらいで、よく見れば二人とも足がプルプルと震えていた。
「猪気、いつもの店だ。おまえは先に向かって、おまえらの分を含めて3人分出せるよう言っておけ」
「お、おす!」
「それと、コイツは……そうだな、女の子が好みそうな洒落なやつを作ってくれと言っておいてくれ」
「おす、行ってきます!」
返事をすると同時に、猪気と呼ばれた男は部屋を飛び出して……いや、飛び出すというよりは、なんというか。
たぶん、直前までスクワットでもしていたのだろう。
何処となく足取りが怪しい様子の猪気は、ドタドタと……まあ、不恰好な動きで部屋を出て行った。
──行かせる前に休ませた方が良いのではと、千賀子は思った。
だって、明らかに疲れているっぽい顔もしていたし。ていうか、あれでは転んで危ないのではないだろうか。
しかし、千賀子は知らなかった……というより、実体験ではないので気付けなかった。
──昭和のトレーニングには、効率性という考えがほとんど無い。
これは当時の日本だけの問題ではなく、単純に、これらの分野に関する研究が進んでいないせいだ。
──とにかく、苦しんで苦しんで苦しんで、それを耐えたやつが強くなる!
そんな根性論がスポーツ界においては常識レベルにまで信仰を得ており、事実として、それに耐えられるやつは土台が強くて結果を残せることもあって、誰も異を唱える者はいなかった。
(トレーニングでそんなにクタクタなのに、その直後に食事をする……え、牛乳を飲むとかじゃなくて、マジで?)
だから、千賀子はかなり困惑した。
前世においても、さすがに吐くレベルの運動などを行った経験はないが、それでも、それは……と思うぐらいの知識はあった。
けれども、だ。
困惑する千賀子を尻目に、力道三は「よし、馬刃! おまえは倉庫から服を持ってこい!」、己より一回りも背丈のある馬刃へ怒鳴り……ふと、言葉を変えた。
「着るのはコイツだから、コイツを隠せるようなやつにしろよ」
「あの、師匠……その子は?」
並みの男であれば、眺めているだけでクラクラっときてしまう美貌の少女。大人ではない、まだ、そこまでではない。
そんな少女が、こんな男の世界と言わんばかりの汗臭く泥臭い場所に居る事に、強烈な違和感を覚えたのだろう。
昭和の常識であれば、どんなに疑問を覚えようが、下は上の指示を済ませるのが先。
まず、指示を済ませる。上が黒と言えば、白いカラスも黒だと言う。
それをせずに口を挟むのは無礼であり、手荒なところでは、拳骨の一つや二つが飛んでも不思議ではない。
それを、馬刃も分かっていた。
分かっていたが、思わず尋ねてしまうぐらいに少女が印象的で、直後に火照っていた身体がサーッと冷めて──だが、この時ばかりは違った。
「おう、ワケありの子だ」
「え?」
「もうすぐ、帰るらしいがな、それまでちょっくら東京を見物させてやりてえのよ」
「は、はあ……」
馬刃は、知っている。
師として仰ぐ力道三の気性を。
何時もならば、怒声の一つや二つは返されそうなのに。
……そう思いつつも、このまま留まっているとそうなりそうな予感がした馬刃は、急いで部屋を後にしたのであった。
「それにしても……えらい、いとしげなこらのー……(すごく、可愛らしい子だなあ……)」
まあ、その際、にんまりと頬を緩めつつ、ポツリと感想を零してしまったのは……まあ、彼もまた男であった。
──さて、そんなふうに、後のスーパースターに思われているなど知る由もない千賀子はというと。
(すごい……たった3年で、ここまで変わるのか)
現代で言うパーカーに近しい形状の衣服を用意して貰い、力道三より半ば強引に外へ連れ出されてすぐに……『東京』の発展具合に圧倒されていた。
……たった3年だ。千賀子が前に東京を訪れてから、たった3年しか経っていない。
なのに、一目で違うと思った。それは、物理的な質量や数量の違いもあったのだろう。
あの頃より、車の数が明らかに増えた。
歩道だってあの頃より整備され、電柱やら電線やらが増え、行き交いしている人の数も明らかに多い。
建物の数や高さだって、そうだ。
3年前には無かったのに、今はある。それも、一つや二つじゃない。現代の姿をうっすらと想起するような、混み具合が見て取れる。
そうだ、行き交う人々の恰好だって、違う。
あの頃は洋服も居れば和服もいた。だが、今は違う。
一目で分かるぐらいに洋服が多く、和服を着ている若者は1人も見当たらなかった。
もはや、3年前とは全くの別世界……目に映る全てが、あの頃よりも更に活気に満ちているように見えた。
「──くっさ」
そうして、フッと──鼻腔に入って来た悪臭に、思わず顔をしかめた。
理由は、パーカーが臭かったから──ではない。
純粋に、建物を出て嗅ぎ取った外の空気が、臭かったのだ。
それも、排気ガスとかそういう……いや、それも臭いのだが、そういう臭いとは違う。
なんというか、生ゴミの臭いだ。
あとは、ヘドロというか、雑菌が繁殖した泥水の臭いというか……とにかく、長居したくない悪臭がどこからともなく漂ってきていた。
……千賀子が顔をしかめるのも、仕方ない。
というのも、これは千賀子の前世の話……いや、何処からか漂ってくる悪臭から察するに、同じ問題が起きているとして、だ。
実は、この頃の東京は、毎年増え続ける移住者や急激な発展の関係から『ゴミ問題』が発生していたのだ。
このゴミ問題……現代で言えば、環境がどうのとかCO2がどうのとかが先に挙げられるが、この時は少し違う。
──単純に、処理できるゴミの量が少なすぎて、街中にまでゴミが溢れてしまったのだ。
とはいえ、一概に政府を責めるのは少々気の毒というものだ。
いちおう、政府はやれるなりに対策を行っていた。回収量を増やしたり、作業員を増やしたり、やれることはやった。
だが、それ以上に東京への移住者が多く、出されるゴミの量も多く、それなのに、不法投棄があまりに多く。
加えて、現代よりもゴミ処理の技術が進んでいなかったこともあって、政府だけが悪いわけではなかった。
「うははは、天使様にゃあ下界は汚すぎるか?」
そんな、あからさまに嫌そうな態度を見せる千賀子に、力道三はガハハと豪快に笑った。
その後ろで、急いで着替えてきたのが、着ているシャツが真新しくなっている猪気と馬刃の姿があったが……まあいい。
「汚いっていうか、臭い……なんでこんなに臭いの?」
「そりゃあ、そこらにゴミを捨てるやつがいるからな……ほれ、あそこを見てみろ」
「え……えぇ? なにあれ、あれ全部ゴミなの?」
指差す先……道路の途中や、電柱の足元に、無造作に放置された残骸……ぶんぶんと、ハエが集っているのが見えた。
正直、直視したくない光景である。しかし、それがここではよくある光景なのだろう。
通行人の誰もが、気にした様子もない。まあ、ハエに近付くのは嫌なのか、少し距離を取っているが……それだけである。
「風向きが悪いとな、こっちに臭いが来るんだよ。それでも、最近は少しマシになったぞ、前はもっと酷かったからな」
「えぇ……」
「それに、ここは川から離れているから楽だぞ。去年は雨があまり降らなくてなあ……そりゃあもう、すごい臭いだったぞ」
「えぇ、そんなに酷かったの?」
思わず尋ねれば、力道三は嫌なモノを思い出したかのように苦笑いを見せた。
……曰く、ただでさえ臭いヘドロが生乾きになったせいで、それはもう堪らなかったらしい。
それを聞いて、なるほどなあ、と千賀子は納得した。
現代に比べて汚水処理が不十分なえに、ゴミの不法投棄はおそらく川にも起こっているのは明言されなくても察せられる。
そこへさらに、日照りによってヘドロが表に顔を出すようになれば……人が多いのも善し悪しだ……っと。
「よ~し、食うぞ、おまえら」
そうこうしているうちに、店に到着した千賀子だが……店はまあ、なんだろう、昭和ではさして珍しくもない普通の飲食店。
いや、飲食店というよりは、喫茶店……かな?
連れられるがまま中に入れば……なんだろう、ある意味、真新しいけれども、昭和レトロな感じの普通の内装だった。
言い換えれば、今なら最先端のお洒落な飲食店……店長はパッと見た感じでは初老の男性であり、客は誰も居ない。
どうやら、事前に猪気が先に話を通してくれていたおかげで、しばらく貸しきりにしてくれるようだ。
「はいよ、いつものね」
給仕の人……たぶん、奥さんなのだろう。
大きな盆に載せられた丼を、力道三たちの前に並べ……え?
(……蓋が、浮いているんだけど?)
それを目深く被ったフードの奥より見た瞬間、千賀子はギョッと目を見開いた。
いったいどうして?
それは、丼に盛られた白飯の量が異常で……正しく、山盛りと表現するにふさわしい量だったからだ。
もちろん、丼が小さいわけではない。むしろ、その逆……千賀子が知る丼よりも、一回りサイズが大きかった。
「はいよ、卵焼き。甘いのとしょっぱいの、二つ作ったからね」
「はいよ、漬物ね。今日は梅干しが手に入ったから、食べてってよ」
「はいよ、味噌汁。味噌汁はおかわりあるから、欲しかったら何時でも言ってよ」
そのうえ、奥さんが来たのは一度だけではない。
今の千賀子基準なら、オカズだけで腹が満腹になるのでは……そう思ってしまう量の卵焼きと、大量の漬物が、大皿に載せられてドカンとテーブルに置かれた。
あまりの量に、「うわぁ……」と、千賀子は呻いた。最後に置かれた味噌汁の椀は普通サイズなのだが、小さく見えた。
けれども、圧倒されたのはそこから先。
なんと、千賀子からすれば思わず胸やけしてしまうような量の白飯を、力道三は……それはもう、凄い勢いでバクバクと平らげ始めたのである。
トレーニングの後でまともに時間を取っていないから、猪気と馬刃の両名は少し苦しそうだが、それでも一般人と同等の速度で食べ進めていく。
体格からして、相当に食べるのは想像出来ていたが……実際に目の当たりにすると、その迫力に思わず唸る。
……さ、さすがはプロレスラー……相当に強い消化器官を持ち合わせているようだ。
もはや、声すら掛けられない。
真剣な様子で食事を勧めていく力道三たちを見つめるばかりであった千賀子は、只々減り続けていく大皿のオカズと、丼の白飯を眺めるほかなかった。
「──はいよ、お嬢ちゃん。ミルクセーキだよ」
「え、あ、ありがとうございま──ミルクセーキ!?」
けれども、テーブルに置かれたグラスを前にすれば、千賀子の意識はあっという間にそちらへ向けられた。
「飲んでみな。旦那はけっこうこういうのも上手に作れてね……これを飲む為にここに来る客も多いんだよ」
「そ、それは──ありがたくいただきます!」
そして、少しばかり触れる指先にて、グラスを手に取り……こくり、と小さな喉を鳴らしてから、クイッと……口に含んだ、その瞬間。
(う、うめぇ~~~!!!)
あまりの美味さに、千賀子は……内心にて、悶絶したのであった。
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