第7話: 当人にとっては、教科書とかで見た歴史(誤差有り)




 ──戦後の昭和という時代は、言うなれば日本史において最も消費が拡大し、同時に、国民たちが最も強く消費を求めた時代でもある。



 理由として色々あるが、戦争という死を間近に感じる日常が続いたからで、実際に国土に空襲を受けたからだろう。


 人間、命の危機を覚えることのない平和な環境に置かれると、次がある、今じゃなくても次に……という、意識が働くようになるものだ。



 それ自体には、悪い事はない。



 いや、むしろ、それだけ平和な環境であり、明日の命を心配しなくて良いという幸福の中に居ることだから、全体的に見たら悪い事は無い。


 しかし……言い換えれば、その分だけ消費という『欲』に心血を注がなくても良いという証でもある。



 今を我慢したら、もう二度と手に入らない。


 目の前のコレを食べなかったら、もう二度と食べられない。


 コレを今成さなかったとて、明日生きている保証はない。



 些か誇張的な表現ではあるし、国民全員がそうだったわけではない。


 しかし、少なくない者たちが、『欲しがりません、勝つまでは!』の反動から、『我慢なんてくそったれだ!』という無意識を抱えていたわけだ。



 同じ日本とはいっても、国土は広い。



 空襲警報を聞いて震え上がる経験を何度もした者も居れば、気付いたら戦争が始まって、気付いたら終戦を迎えていた……という者も居る。


 前者が5万人10万人だけだとしても、その影響は無視出来ない。


 5万人以上もの人間が、『我慢なんてくそったれだ!』と思って一斉に消費へ動けばもう、それは十分な起爆剤なのだ。


 そう、消費行動というのは、よほどの例外を除いて一か所では終わらない。必ず、そこに至るまでに様々な者が関わっている。


 どこか一か所から始まったことでも、そこから薄く大きく、染みわたって……ゆっくりとではあるが、確実に広がってゆく。


 しかも、我慢に我慢を重ね、今日食う者すら困窮して餓死する者が現れてもなお、我慢を強いられてからの反動だ。


 加えて、現代とは違って、戦後からそこまで時間の経っていない昭和の時代には選択肢が無い。



 そう、選択肢だ。


 食べ物もそうだし、娯楽もそう。


 服だって同じで、兎にも角にも人口に比べて何もかもが足りなかった時代だから、売る側も買う側も選択肢を増やしようがなかった。



 ──が、しかし。



 戦争が終わり、時を経るに連れて傷痕も風化してゆき、それに反比例するように、それまで見たことも聞いたこともなかった物が次々に現れ始めたら……どうなるか。


 抑圧された人々の無意識は、自然と開放する方向へ動き出す。


 奇しくも、日本人の国民性も良い方向に合致した。


 どん底ならば後は這い上がるだけ、これ以上悪くなることはない。今は苦しくとも、いずれ必ず暮らしが豊かになってゆく。


 誰に言われたわけでもなく、実感として……大半の国民は実感するようになっていた。



『外国に追い付け! 外国を追い越せ!』



 合わせて生じ始める、外国への反発心。敵対心ではなく、何時までも見下されてたまるかという反骨精神。


 それらが、正しく奇跡的としか言い表しようがない絶妙な力加減で混ざり合った結果。


 日本は、後の世からすれば『ボーナスタイム』としか言い表しようがない、近代史において3本の指に入る好景気……いわゆる、『高度経済成長期』へと突入していたのであった。






 ──で、そんな中で、千賀子は何をしたかというと、だ。



「お父さん! これ、このゴキゴキホイホイってのは売れる! 売れるから仕入れて、お願い!」

「お、おう……いや、でもこれ、売れるのか?」



 とりあえずは、だ。


 今後新たに仕入れる商品をどうするか、父の隣でチラシなどを眺めていた千賀子は……その商品を目にした瞬間、ほとんど反射的にそれに食いついていた。


 いや、だって、アレだぞ。


 前世の現代社会においてもなお売れ続けている化け物的ロングセラーであり、保存方法にそこまで気を使わなくてもOKという……そんなの、オネダリしない方がおかしい話であった。



 ──その商品の名は、ゴキゴキホイホイ。



 ゴキ○○ホイホイと書けば誰もが知っているアレで、どうやらこの世界ではゴキゴキになったようだ。


 彼女が知る由もない(まあ、マニアじゃなければ知っているわけもないが)ことだが、前世の史実に置いて、ホイホイが販売されたのは1973年。


 この世界では今から10年以上も後になるはずなのだが、どうやらこの世界ではもう販売されるようで、販売店向けのチラシに載せられたようだ。


 で、商品の中身だが、単純明快。


 粘着性の強い接着剤が一面に塗られた紙の中央に、ゴキを強く惹きつける臭いを放つ物質を散布しておくだけ。


 外からは中が見えないよう箱型になっており、捨てる時には箱の上部に取り付けられた持ち手を摘まんで、捨てるだけ。



 ……昭和の時代に、果たして売れるのかって? 



 それが、売れるのだ。


 そりゃあ、現代の人達と比べたら、男も女も比較できないくらいに図太い。しかしそれは、誰しもがそうというわけでもない。


 やっぱり、嫌なモノは嫌だし、現代人より耐性があるとしても、やっぱりゴキブリなんかは見たくないのだ。



「ん~……しかし、売れるか? ゴキブリなんて、潰せばすぐだろう?」

「え、潰せば良いけど、潰すのは嫌だよ。出来るなら近付きたくないんだけど?」

「そんなに怖いのかい? あんなの、踏み潰せばお終いじゃないか。この商品は前の集まりの時に営業の人から説明を受けたけど、同業の皆からも、あんまり良い評価は得ていなかったよ」

「えぇ……そ、そういうものなの?」



 父の話を聞いた千賀子は、率直に驚いた。


 あまりにメジャーな商品という意識がある千賀子には分からなかったが、どうやら、この世界ではまだその売れ行きは好調とは言い難いモノらしい。


 正直、なんで売れていないのかが千賀子には不思議でならなかった。ぶっちゃけ、性質の悪いジョークかなとすら思った。


 でも、商売に関して父は一切冗談を言わない。


 その肩には家族の生活が掛かっている以上、いくら可愛い娘のお願いだからといって、首を縦に振るような男ではなかった。



「──で、でも、お父さん! ゴキブリってどこに出るか知っているの?」



 とはいえ、そこで『はい、分かりました(退散)』といった感じで引き下がるわけにはいかない。


 なにせ、目の前に黄金の鯛がユラユラしているような状況だ。


 一つ一つの儲けは小さくとも、『あそこは便利なモノをいち早く売っている』という評価が得られる、このチャンスを逃す気は、千賀子にはサラサラなかった。



「ん? そりゃあ、台所だろう?」

「そう、台所。それじゃあ、お父さんたちがコレの説明とかを受けた時、そこに女の人はいた?」

「そりゃあ、いるわけないだろ。お父さんみたいに、店を任されている者のあつまりだからね。用も無いのに集まりに行ったら、誰の奥さんだろうと怒鳴られるぞ」



 その言葉に──思わず、パンと千賀子は己の膝を叩いた。



「──それ、それだよ! だって、コレはお母さんみたいな人こそ、あったら良いなあ、出来るなら欲しいなあと思う物だもの!」

「……どういうことだい?」



 興味を持ったのか、姿勢を正して向き直ってきた父に「単純に、知らないだけだよ」千賀子は、キッパリと告げた。



「男の人が欲しいものと、女の人が欲しいってものが違うのと一緒。お父さんが欲しいものと、お母さんが欲しいもの。お爺ちゃんが欲しくて、お婆ちゃんが欲しいもの、ぜ~んぶ、違うってこと!」

「……なにが、どう違うんだい?」

「う~ん、私もどういうふうに説明すれば良いのか分からないけど、とりあえずは……」



 首を傾げる父に、千賀子は指を立てて説明する。


 千賀子が話したのは、現代で言う『マーケティング』の基本的な考え(専門家ではないので、うろ覚え)と、それに付いて回る『ターゲット層』の概念についてだ。


 マーケティングとは、ざっくばらんに商品やサービスが売れる仕組み、一連のプロセス全てをまとめてマーケティングと呼ぶ。 


 そして、ターゲット層とは、その名の通り、物やサービスを売る際に対象となる顧客層のことだ。


 現代では類似する商品があまりに出回り、また物が飽和しているため、このマーケティングとターゲット層の考えが非常に重要とされているが……昭和の現在では、商人であろうとまだまだこの考え方は根付いていない。


 いちおう、マーケティングの概念は産業革命が起こった19世紀のアメリカで生まれたモノだが……まあ、当時の日本人がそれを知らないのも無理はない。



 なにせ、日本は敗戦国。加えて、戦後からまだ20年と経ってはいない。



 売れる場所で売る、売れない場所では売らない、今のこのタイミングなら売れる、このタイミングでは売れない。


 そういう考えは当時の商人でも、誰しもが考えていることだが、時代が時代ゆえに、とりあえず安くても使えれば売れるという環境でもあった。


 実際、昭和の中頃なんて、現在では一発で警察に捕まるような衛生環境の中で、かつ、禁止されている原料が当たり前のように使われているものがこれでもかと出回っていた時代である。


 どうしてかって、それは需要と供給が噛み合ったからなのと、取り締まる側の手が足りなさ過ぎたからだ。


 高度経済成長期に突入しているとはいえ、誰しもが金持ちになっているかといえば、そんなわけもない。


 ちょっとずつ暮らしが良くなっていっているけれども、全体的に見れば取り残されている者だって多かった。


 そんな者たちからすれば、ちゃんとした衛生の中で基準を満たした商品というのは、お財布事情的には厳しくて、日常的に手を伸ばし辛い。


 その結果、安全性に欠けると分かっていても……っと、話が思いっきり脱線というか、逸れていたので、戻そう。


 とにかく、昭和中頃、ちゃんと大学に出ている者ならともかく、理論として、戦略として、商品の売買とはどういうものなのか……と、考えられる者はあまりいなかった。



「つまりね、お父さん。『包丁』一つ考えても、同じ20代の女性でも、子供が居るお母さんと、独身の女の人とでは、どっちが欲しがるか……やっぱり、子供がいるお母さんの方でしょ?」

「確かに、言われてみれば……」

「男の人だっておんなじ。奥さんや子供のいない男の人は、女の人の気を惹きたいためにお高い腕時計とか付けるけど、お父さんは普段そんなの付けないでしょ? なんでだと思う?」

「そりゃあ、仕事の邪魔だしな。それに、そんな高い時計はあっても付けるのは気が引けるというか……」

「それは、もうお父さんにはお母さんが居て、アイツが居て、私が居るからだよ。腕時計より、みんなが得するようなモノを欲しがっているから、時計を欲しいとは思わないの」

「そ、そうかな?」

「もしも、お父さんにお母さんが居なかったら、どうしてた? 腕時計とか付けたりとか、考えなかった?」

「……いや、考えたと思う」

「もちろん、それでも腕時計を買う人は居ると思うよ。でも、今のお父さんみたいに、お父さんになったからそういうのは後回しにする人だって、大勢居ると思う」

「……なるほど、そういう考え方があるのか」



 娘の言葉に、父は深々と……それはもう深々と唸ったのであった。






 ……。



 ……。


 …………傍目には考え込んでいるようにも見える、その姿。



 実際、千賀子の目には、お父さんすごく悩んでいるなあ……としか思わなかった。


 だが、実際は違う。いや、悩んではいるが、父を悩ませたのはそこだけではない。



(……そうか。これが、親父が前に話していた事か)



 わずかな一時で垣間見えた、才覚の片鱗へんりん。それをハッキリと感じ取った父は、思わず言葉を失ってしまうぐらいの衝撃を受けていた。


 そう、才覚だ。


 持って生まれた資質……自分にはない、先を見通す広い視野。まだ小学校すら出ていない娘が、もうそれを持っていることに……父は、驚きを隠せなかった。



 ……なにせ、千賀子はまだ小学生だ。



 学校の成績が良いことは知っていたが、商業関係の学校に通っているわけでもなく、また、専門の教育を受けたわけでもない。


 せいぜい、家の手伝いをさせたぐらいで、それだって、年齢相応に任せられそうな事を任せただけだ。



 それなのに、千賀子は理解している。



 昔ながらの付き合い、コネという点を除けば、少なくとも、己よりもずっと……『商売』というモノの本質を理解していると父は思った。


 先程の説明が、まさにそれだ。


 所々言葉が詰まるところはあったが、噛み砕いて中身を考えれば、目から鱗なんて話じゃなかった。



 ──同じ人間でも、その立場や環境によって求める物が変わる。



 言わんとしていることは、父とて経験則で分かっていた。だが、ここまで論理的に言葉で理解してはいなかった。



「──あ、あとね、この『天使パイ』ってのも売れると思う」

「え、あ、うん、これは……チョコのお菓子だね? でも、他のお菓子よりもちょっと割高だし、夏場は置けないよ」

「置かなくていいよ、これはチョコだから、比較的寒い時期にしかうちでは置けないし。それに、ちょっと割高だから良いんだよ」

「それは、どうしてだい?」

「ケーキを買うよりは安いけど、他のお菓子よりはちょっと高い。小さな祝い事やご褒美としては、ピッタリだと思う。日持ちするし、今の時期ならチョコが溶ける心配もしなくていいし」

「それは、そうだが……やっぱり、安い方が売れるんじゃないのか?」

「今はそうだけど、これからどんどん皆が良くなっていくから、ちょっとぐらい高くても普通に買えるようになるから大丈夫」

「そ、そうか……」

「あと、『チキーンらーめん』っていう商品も、ちょっと量を増やした方が良いと思う」

「これは、お湯で作る簡易の麺か……食べたことはないが、これもかい?」

「これから、ドンドン日本は忙しくなると思うの。それこそ、お湯と鍋だけで手軽に作れるコレは、何処の家もこれから常備するようになると思う」

「常備……するようになると、千賀子は思うのかい?」



 有れば便利だけど、それほどか……そんな意味で尋ねれば、娘の千賀子は力強く頷いた。



「うん、絶対になる。これから、テレビも、冷蔵庫も、洗濯機も、皆の家に一つずつ置かれるのが当たり前になる。そうなったら、ううん、そうなるからこそ、これは売れるようになる」

「それは、どうして?」



 テレビ・冷蔵庫・洗濯機、それが家に一つ置かれるようになる……そこまでは、父とて想像は付く。


 しかし、その三つが置かれたからといって、どうして即席麺が売れるようになるのか……いまいち、想像出来なかったからだ。



「この三つのおかげで、余分な時間が生まれるから。まあ、テレビはちょっと違うかな」

「余分な、時間?」

「そう、働く時間とは別の、家事に掛かる分浮いた時間。洗濯機と冷蔵庫のおかげで、それが増える」



 首を傾げる父に、娘の千賀子は頷いた。



「テレビはそのうち皆が寝静まる夜にも放送するようになるけど、お店はそうじゃないでしょ。つまり、夜でも働ける場所が増え始めるけど、夜にご飯が食べられる店が増える方が遅いわけ」

「ふむ……」

「それに、そんな夜更けに毎日ご飯を作るのは誰だって面倒臭い。でも、毎日お店に行けばお金が無くなっちゃう。そこで、お店に行くよりも安く、手軽に作れるコレの出番」



 スッと、『チキーンらーめん』の写真を千賀子は指差した。



「これなら料理を習っていない男の人でも作れるし、ご飯でも卵でも混ぜちゃえば立派な晩御飯。若い人ほど、お金が入ればこういうのでケチって遊びに回そうとするから、売れると思う」

「……そう、か」

「もう10年もすれば、お湯だけで作れるコーヒーとか、家で作れる焼きそばとか、他にもいろいろなモノが出来ていくと思うの」

「……その、それらが出て来ると、千賀子は思うのかい?」

「え? 出てくるでしょ? 私としては、出てこない方が怖いんだけど……?」



 だからこそ、千賀子の口から飛び出した、その予想……そうなることに確信を持っていると思えるほどに力強い、その予想に、父は今更ながらに納得した。



(……なるほど。和広が、千賀子を邪険に扱うわけだ)



 歳が近い分だけ、和広は察していたのだろう。


 自分にはない才覚、10年先20年先を見通している視野の広さ、これまでの常識には囚われない柔軟な考え。


 見た目もまた、親である己が言うのもなんだが、トンビが鷹を生んだと思ってしまう程に整っている。


 実際、まだ小学生なので嫁入り云々の話はないが、『将来は、家の息子と……』といった感じで、仄めかせてくる者が1人や2人ではないのだ。


 惜しいのは、親として自慢であると同時に、千賀子が女であるという一点だが……しかし、和広が千賀子に対して有利に立てる点は、そこだけだ。


 言い換えれば、そこしか和広は勝てていない。


 少なくとも、商人として道を譲るにはどちらかと尋ねられたら……現時点で、父は息子の名を即答することは出来なかった。



 ……。



 ……。



 …………まあ、強いて挙げるならば、だ。



『ぬわぁー! もう足が速くなるのはいらんのじゃい! そろそろSSR来い! こーい!!』



 時折、人の目が離れた時に、なにやらブツブツと虚空へ向かって独り言を呟く癖。



(あの、よく分からん独り言さえなければ、悩まずに千賀子を跡継ぎに考えられるんだがなあ……)



 その悪癖さえなければ良いのになあ……と、思わないわけではなかった。



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