第6話: 七転び八起き、まだまだこれからです!




 ──不幸中の幸いにも、一番状態が悪かったのは千賀子で、千賀子以外は筋肉痛こそあるが、ほとんど負傷はなかった。



 強いて挙げるならば、多少なりガラスで切り傷を作ったぐらいだろうか。


 しかし、家族は熱を出すことはなく、千賀子が寝ている間、後片付けやら店の再開、近所のお手伝いにと朝から晩まで動いている……とのことだった。



 どうやら、本当にたまたま千賀子の運が悪かっただけのようだ。



 それとは別に、他の人よりも気が抜けた反動が大きかったせいだろう……と、千賀子は思ったが、おそらく半分くらいは当たっているのかもしれない。


 なにせ、他の人達とは違い、千賀子はこの台風が来る事を事前に予感していた。


 つまり、それだけ長時間の間、強いストレスに晒され続けていたわけである。しかも、そのストレスは、死の可能性を含む強烈なモノだ。


 千賀子でなくとも、気が抜けて熱が出てもなんら不思議ではない。実際に熱は出たし、そのタイミングで余計な病気も発症してしまったのだけれども。



 とまあ、そんな千賀子の下には、だ。



 見舞いに来た父と母と祖母は、それはそれは安堵のため息を零し、祖父からは、『たぶん、額を切ったせいだな、血が良く出るし』とのことで、氷砂糖を持ってきてくれた。


 これがまあ、非常に有り難かった。


 というのも、この時代の病院食なんて、お粥か重湯かのどちらかで、味や栄養に関する意識というか、精神的なケアに対する認識は高くない。


 要は、病人なのだから治るまで辛抱するのが当たり前、というやつだ。


 足を折った(手術の必要無し)とかその程度の入院ならまだしも、動けない者は、大人しくベッドの中で辛抱するのが仕事だと言わんばかりの対応である。



 もちろん、それが悪いとは千賀子も思っていない。それが、今の常識だからだ。



 現代のように、手術(程度による)をした翌日からリハビリが始まるなんてのはありえない。


 多少なり身体が衰えても、傷が塞がるまではおとなしくしていた方が良いという考えが医者だけでなく、人々の中にも浸透しているからである。


 まあ、そこらへんは、それまでの流れで考えたら、さほど不思議な事ではない。


 怪我をしたなら大人しく、痛む場所は動かさず安静に、出血した場所は動かさない……ぶっちゃけ、方法としては間違ってはいない。


 あくまでも、適切に処置が出来るのであれば、出来うる限り早いリハビリが望ましいというだけのこと。


 それが出来ないのであれば、素直に安静にしているのが一番なのだ。


 それは、現代と違って薬の種類が豊富にあるわけでもなく、電話一本で翌日(場合によっては即日)には薬が届くような時代の事情も関係しているが……っと、そろそろ話を戻そう。



(未来ではたしか、逆なんだよなあ……ん? 病気とかの場合は、普通に休んだ方が良かったっけ?)



 目が覚めれば、回復も早い。人間、やはり身体が重くとも辛くとも、身体を起こして少しは動かねば駄目なようだ。


 さすがに病院の外に出るのは駄目だというお達しなので、運動がてら病院の中をぐるりと回る。もちろん、邪魔にならないよう気を付けながら。



 あとは、食事。味気のない粥と、薄い味噌汁。



 食べられるだけ有り難いと思っているから、追加で出してくれた牛乳の味に感動して、思わず涙が滲んだぐらいであった。


 そんな感じで食事を取って、軽く動いて、ベッドに横になる。


 そうすれば、生きようとする身体は勝手にコンディションを整える。


 熱も下がり、倦怠感も消え、目覚めてから3日後には、『もう、大丈夫でしょう』とのことで、退院許可が出されたのであった。



 ……。



 ……。



 …………兄の和広? 



 いちおう見舞いには来てくれたが、ほとんど会話らしい会話をせずに病室を出て行ってしまって、二度目はなかった。


 まあ、元々仲が良いわけではなかったので気にしなかったし、あんな極限状態でなければまともに会話すらしない程度の仲だ。


 今は家の事で手一杯だろうし、下手に余裕が出てこっちにちょっかいを掛けられたら堪らない。


 そんな思惑もあって、あえて千賀子は兄については触れなかった。








 ──そうして、退院当日。迎えに来た祖父と共に、千賀子は帰路に着いていた。



「わざわざ迎えに来なくても、1人で帰られたのに……お母さんも心配性だな……」

「まあ、そう言うな。病院に運ぶ前のおまえさんは、それはそれは酷い有様でな……アイツが心配するのも分かるぞ」

「そんなに酷かったの?」

「おう、身体は火が点いたかのように熱かったのに、顔色は真っ青でな。息も荒くグッタリしていたから、そりゃあもう心配しとったぞ」

「う~ん、そう言われちゃうと、何も言えなくなるよ……」



 テクテクと、2人でダラダラと歩きながら……千賀子は、記憶にない当時のことを想像する。



 祖父曰く『正直、助からないかもと思った』らしい。



 なんでも、身体が燃えるように熱くなっていて、ぜえぜえと息は荒いのにグッタリしていて、顔色は悪く唇も青く、手足がカタカタとケイレンすらしていたらしい。


 我ながら、それでよく生き延びられたなと思うぐらいに、当時の千賀子は酷い状態になっていたようだ。


 そう考えれば、だ。


 目覚めてすぐに医者から言われた『抗生物質ペニシリンが効いた(確認)』という言葉が、実は『抗生物質ペニシリンが効いた(安堵)』という意味合いだったというのが察せられる。


 医者からすれば、気が気で無かっただろう。


 そんな状態で抗生物質が効かなければもう、本人の体力に全てを任せるしかない状態だったわけで……生と死の境を、正しく間一髪分だけ生きる方へ動いてくれた結果である。


 ……そう、間一髪だ。


 己が今、こうして生きているのは、そんな程度の違いでしかないことを……千賀子は、眼前に広がっている景色を前に、これでもかと思い知らされていた。




 ──台風が過ぎた後の空は、嫌みを覚えるほどに青天が続いている。




 祖父曰く、『あれから一度も雨は降っていない』らしい。


 だから、嫌でも良く見える。日本史上最大最悪の台風がもたらした、その爪痕を。



 まず、道路が酷い有様だ。



 何処から飛んできたのか不明だが、何かの破片や折れた枝葉なんかが至る所に散らばっており、路肩に転がったままの、乾いた泥まみれの看板が哀愁を誘っている。


 折れている電柱が幾つも見られ、垂れ下がった電線が水溜りに浸かっている。幸いにも通電は止まっているようだが、大掛かりな交換が必要だろう。



 祖父が自転車を使わずに歩いて迎えに来て、歩いて自宅に帰る理由だ。



 ただぬかるんでいるだけでなく、割れたガラス片などが紛れている危険性がある。靴を履いて歩く分には問題ないだろうが、自転車だと到着までに何回かパンクしてしまうだろう。


 加えて、道路のいたる所に積み上げられたガラクタ……瓦礫がれきと呼ぶには忍びない様々な私物の残骸が、穏やかな青空の下で静かに佇んでいる。


 おそらく、どこからともなく飛ばされた誰かの私物……あるいは、雨風を受けて破損したか、泥水に浸ってしまったかで、使い道が無くなった物を一か所にまとめているのだろう。


 道路がこんな有様なのだ。回収が追い付かず、なんとも表現し難い悪臭が漂っている場所もある。


 現代とは違い、昭和の中頃ではまだゴミ収集に特化した車などはない。というか、現代ですら、こういう時は山積みでしばし放置せざるをえない。


 そのゴミ収集だって、現代と同じ感覚で考えてはいけない。


 専用車が開発されるまでは、せいぜい中型のトラックを代用しているぐらいで、場所によってはまだまだ人力で回収しているところもあった。


 なので、道路がちょっと酷い有様になればご覧の有様だ。


 天日干しして再利用出来るモノを除いても、全て撤去されるまで何カ月掛かるか見当もつかない。



 次に、立ち並ぶ家々の状態。



 瓦が剥げていたり、壁が剥がれていたり、屋根が無くなっていたり、はっきり言って、パッと見回しただけでも被害の形跡がそのままな家が多いように見える。


 まだ台風が過ぎ去って日が浅いからなのだろうが、おそらく、あまりにも被害が広範囲……日本全国におよんでいるせいで、修理の手が全く回っていないのだ。


 中には無事っぽい建物もあるが、良く見ると壁に『破片注意!』と書かれた板や、『落下物注意!』と書かれた板が無造作に置かれている。


 比較的、コンクリートの建物は被害が軽微だが、それでも0ではない。窓ガラス全てが割れている建物もあれば、近くの電柱の下敷きにあって外壁にヒビが入っているのもあった。



 ……その中でも特に酷いのは、やはり、低所得者層の住宅だろう。


 家の囲いが壊れているぐらいなら良い方で、屋根瓦が落ちていたり、内部が水浸しになっていたり……酷いモノだと、屋根が半分飛ばされて……いや、違った。



「──千賀子、あまり見るもんじゃあないぞ」



 家まで歩いている、途中。


 気付いた祖父が、そっと己を壁にするように千賀子の手を引く。既に見えてしまってはいたが、千賀子はあえて見ていないフリをして、その手に引かれた。


 理由は、考えるまでもない。



 千賀子に……大人びているとはいえ、まだ10歳の千賀子に、絶望に打ちひしがれて項垂うなだれている者たちを見せないようにするためだ。



 ……そう、生死の境をさ迷った千賀子だが、事実だけを並べると、全体的に軽傷で台風をやり過ごせたに等しい。



 祖父から聞いた話では、だ。


 屋根瓦が飛ばされたり飛んできた物などで雨漏りが起こったり、屋根が飛んでしまった倉庫のことなど色々あるが、壊滅的な被害ではない。


 感染症に感染してしまったが、抗生物質ペニシリンのおかげで回復した。商品だって、特に濡れては駄目なモノは事前に自宅の方へ避難させている。



 つまり、やり直すことが出来るのだ。


 しかし、そうではない者たちも居るだろう。



 たとえば、先ほど通り過ぎた、柱が折れて倒壊してしまった家の前で、途方に暮れて座り込んでいる者たちだ。


 彼ら彼女らは、家を失ってしまった。いや、家だけではない。


 その家に溜め込まれていた思い出も、財産も……もしかしたら、大切な人の命すらも失ってしまったのかもしれない。



 ……千賀子の住んでいるところは、前世の記憶において、一番被害の大きかった場所ではない。



 しかし、それでも、これだけの被害が出たのだ。


 そんな者たちに対して……千賀子から掛けられる言葉は、何もない。どんな言葉であろうとも、千賀子は失わず、彼ら彼女らは失ってしまったのだから。



 ……。



 ……。



 …………自然と、無言になった千賀子は、同じく無言になった祖父に手を引かれるまま……足早になるのを抑えられなかった。



 そのまま、どれぐらいの時間歩いただろうか。


 気付けば、千賀子の視界には馴染みのある光景ばかりが広がっていた。


 台風一過によって様変わりした部分も見受けられるが、それでもなお、見覚えのある光景がそのまま残っている場所もあって、千賀子はホッと息を吐いた。



「──あっ、千賀子? 何時の間に退院したの!?」

「え、明美?」



 そんな時であった。


 大きな風呂敷を背負った明美が、人の往来の中から、ヒョイッと姿を見せたのは。


 祖父が頷いて了承したので、駆け寄ってその手を取る。


 ギュウッと握り返される感触と力強さに、千賀子は再びホッと力を抜いた。



「退院したなら、したって言ってよ。病院は遠いからお見舞いに行けないし、学校も休みだから先生から確認も取れなかったんだから」

「それはごめん。でも、今日退院して戻ってきたばっかなの……明美こそ、そっちも無事だったの?」

「無事と言えば無事かな。屋根瓦が何か所か壊れて、ガラスも割れて、天日干しやら掃除やらで忙しいわよ」



 久しぶり……というほど日数は経っていないが、そう思えてならなかった。



「でも、今回の台風は本当に危なかったわ……煙突が倒れないよう重しを置いていなかったら、倒れていたかもしれないってお父さん、言っていたもの」

「──じゃあ、煙突は無事だったの?」

「うん、煙突は大丈夫。建物の方はいくつか雨漏りしちゃっているけど、明日には再開出来るって張り切っているわよ」

「え、そこも無事だったの?」

「運良く、ちょっと建物が壊れただけで、そっちは大丈夫だったらしいから……まあでも、それでも普段のようにはいかないらしいけどね」


 ──まあ、学校もしばらく休みなおかげで、こうしてあっちこっちにお使いに行かされるけど。



 愚痴を零しながらもカラッとした笑みを見せる明美に、思わず千賀子も笑みを零した。



「……あ、そうそう道子なんだけど、あっちも無事だってさ」



 そうして次に、この場にはいない道子に関する話が出るのも、自然の流れであった。



「でも、親戚の家がかなり駄目になっちゃったらしくて、とにかく後片付けが大変なんだって。しばらく、学校には行けないって」

「そうなんだ……ん?」



 ちょっと不思議に思った千賀子は、首を傾げて明美に言った。



「道子の家なら、人を雇った方が早くない?」

「それが、このドタバタでしょ? 大工さんに頼もうにも、何処どこ彼処かしこも、ぜ~んぜん捕まらないって話らしいわよ」

「ああ、そっか……そりゃあそうよね」



 言われて、何を当たり前な事を聞いているのかと千賀子は苦笑し……そんな千賀子を見て、「それじゃあ、もう行くわね」明美はバイバイと千賀子に手を振った。



「明日の開店のために、家族み~んなちょっとピリピリしているからさ。あんまり遅くなると、サボっているって怒られちゃうんだよね」

「あ、ごめん、引き留めちゃって」

「ううん、いいよ。でもまあ、今は電気が止まっているし水道も止まっているところ多いみたいでさ……書き入れ時ってやつ?」

「書き入れ時って……」

「壊れた屋根とかの修理で色々と物入りになっちゃったんだもの。しばらく混み合うとは思うけど、お互い頑張りましょうね」



 そう言って明美は軽く手を振ると、そのまま何処かへ向かって行った。泥だらけの靴が、たったかたったか、小走りに離れて行った。


 ……なんともまあ酷い言葉に、千賀子は思わず苦笑する。


 でも、否定はしない。それぐらいのしたたかさ、狡賢《ずるがしこさが無ければ、昭和のこの時代をやってはいけないのだから。



「……うん、そうだよね、何様って話だよね」



 そして、そんな……力強く前を向く友人の姿を見て、千賀子は……自然と俯き気味だった顔を上げた。




 ──空は、晴れている。皮肉の一つや二つは言いたくなるぐらいに。




 そう、俯いている暇は無い。俯いていたら、日本史上において最上位に位置するチャンスを逃してしまう。


 いったい何が……それは、病院での入院中にて小耳に挟んだこと。そして、その時……千賀子は、思い出したのだ。



(伊勢湾台風によって、確かに日本全域に被害は及んだ……それでも、日本は耐えて、さらなる発展を遂げる事が出来た)



 前世において、伊勢湾台風が来襲した、その時期。


 日本は、その歴史において名が残るほどの高景気である、『岩戸景気いわとけいき』の真っただ中であることを。



 ……千賀子が知る限り。



 岩戸景気は、海外の技術革新を得た当時の日本と、ようやく戦後の傷が塞がり始め、余裕を持ち始めた国民の意識が合致したことで生まれた好景気。


 加えて、『岩戸景気』が起こる前には、いわゆる『なべ底不況』と呼ばれる、輸入量の急激な増加によって生じた不況の存在もある。


 人はジャンプをする時、必ず屈んで溜めを作る。より高く飛ぶには、より深く溜めを作らなければならない。


 それと同じ事が、今の日本には起こっている。苦痛に耐え忍んだ準備期間が終わりを迎え、躍動の時を迎えているのだ。


 毎月のように新しい物が生まれ、毎月ごとに給料が増え、月を跨ぐたびに暮らしが良くなっていくのを実感し始めた……そんな時期。



(絶対に逃してはならない……今の時期ならば、多少のリスクがリスクにならないボーナスタイム……!!)



 文字通り、出せば売れる。売れるから出す。


 経済成長を優先した政府の動きによって、日本経済は台風の打撃にもビクともせず、『消費は美徳』という言葉が流行るほどに消費が伸びた……そんな時代に、千賀子は居るのだ。



「……お爺ちゃん」

「なんだ?」



 再び、祖父と並んで歩き出した千賀子は……キッパリと、言い切った。



「がんばろうね」

「……そうだな」



 対して、祖父は軽く笑うだけであった。


 千賀子は気付いていなかったが、この時初めて祖父は……ホッと、肩の力を抜いたのであった。



(くっくっく……全てが前世と同じとは限らないけど、このアドバンテージを生かさない手はないぞ……ふっふっふ……!!)



 ただ、肝心要な千賀子は気付いていなかったけれども。




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