第5話: それは、たった一夜の事、されど、一夜の事


※人によっては刺激的なシーン、注意要


―――――――――――――――



 その日の朝は、非常に慌ただしい気配が日本中に広がっていた。



 理由は、数日前より確認されていた台風が、進路を太平洋へ変えることなく、日本列島を横断することが確定したことがラジオ放送より伝わったからだ。


 予測では、夕方から夜間に掛けての到着。風速も以前の室戸台風に匹敵するのではという予測すら立てられていた。


 と、なれば、誰も彼もが慌ただしく動くのは当たり前である。


 深夜に来るならまだしも、夕方以降に来るとなれば、様々な対策を取る事が出来る。



 ある者は、庭先などから風に飛ばされそうなモノを全て撤去し。


 ある者は、玄関などが壊れないよう板を打ちつけて補強を行い。


 ある者は、始めから家を離れて高台の方へ避難したりと、様々な対応を行っていた。



 それは……千賀子が住まう町とて同じで……いや、同じではない、それ以上。



 千賀子の(正確には、千賀子の祖父だが)話がどこまで広がり、どれだけ信じられているかは不明だが……例年に比べたら、念入りな対策を行った者が増えたのは確かである。



 例えば、犬小屋などはもう風で飛ばされるかもしれないと思い、家の中に入れた者。


 例えば、もしかしたらと思って燃料を大目に仕入れて、いざという時のために備えた者。


 例えば、万が一にも煙突が倒れないよう何本ものロープを結び合わせ、上から押さえ込むよう杭で地面に固定した後。


 そのうえで、念には念をと煙突の土台部分に平べったい岩石を置き、それをさらにロープと杭で固定までした銭湯もあった。



 曰く、『自分の家が壊れるだけならまだしも、他人様の家を壊した挙句、人死になんてことになったら、申し訳が立たねえ』とのこと。



 そうして……人々の警戒と不安を他所に、後の世に『伊勢湾台風』と名付けられた、台風15号。


 マリアナ諸島の東海上に発生したそれは、前世の世界と同じく勢力を増大させ、着実に日本列島へと迫っていた。


 少なくとも、L字に……90度の角度で進路を変えない限りは、日本のどこかに強風域が掠めてしまう……そこまで推測出来るぐらいに、風が強まり始めた頃。


 万が一に備え、誰も彼もが早めの晩飯を済ませた……午後6時を過ぎた頃。


 ついに──前世の世界において、死者5000人強、九州の西側を除いて幾つもの爪痕を日本中に残した……日本史上最強最悪の台風が、上陸を果たしたのであった。







 ──時刻、午後8時15分頃。



 その時にはもう、どの家も暗闇に包まれており、一部の家では蝋燭やランプの明かりが弱弱しく室内を照らしていた。


 理由は、暴風による電線の破断。


 東京都心ならまだしも、この時代はまだまだ地方のインフラは弱く、台風が来るたびに停電が起こるなんてのは当たり前みたいになっていた。


 それゆえに、台風が来た時はもう電気が止まるモノと考えている人は多く、何時もより早めに就寝に入る人も多かった。



 ……が、しかし。



 この日、この時ばかりは違った。


 誰も彼もが、起きていた。それは、目が冴えて……いや、違う、そんな生易しくも穏やかな理由ではなかった。



「──このままでは扉が風でぶち破られる! みんな手伝え、押さえるんだ!」



 『秋山商店』の大黒柱である父は、顔を真っ赤にしながら──店の真正面出入り口を抑えていた。


 それは、父だけではない。


 祖父も、祖母も、母も、兄の和広も……そして、千賀子もまた、渾身の力を持って、出入り口を、裏口を、内側から押していた。


 どうして押しているのか……それは、押さえなければ外からの圧力で扉が壊れてしまうからだ。



 もしも扉が結界すれば、どうなるか。


 最悪、いや、確実に天井から上が吹き飛ぶだろう。



 今はまだ外からの圧力だけだが、出入り口が壊れたら最期、内と外の両方から押し上げる形になり……そうなれば、柱などにしがみついて嵐が過ぎ去るまで耐えるしかなくなるだろう。


 この時ばかりは、普段の仲の悪さも関係ない。誰も彼もが一丸となって、外からの力でたわむ扉を、懸命に押し返していた。


 対策を怠っていたのか……それは、違う。


 対策は行っていた。扉に板を打ち、店の周囲より飛ばされそうなモノは事前に撤去し、それはもう念入りに行っていた。


 けれども、それでも……駄目であった。全てが、対策の上を飛び越えてしまっていた。



 ──ぐわんぐわん、ぐわんぐわん。



 家が、軋む。叩きつけられる暴風雨を前に、もう駄目だと訴えているかのように、震えているかのような。


 いや、ような、ではない。実際、家は揺れていた。


 背中を押し当て、渾身の力を込めて押し返していた千賀子は、外からの圧力を背中一面に感じながら……こみ上げてくる涙を必死になって堪えていた。



 ……怖い。



 千賀子は生まれて初めて、本当の意味で死の恐怖に怯えていた。


 前世でも、今生でも、これまで災害には何度か遭遇はしていた。


 前世では台風に遭った事も、地震に遭った事も、火災にだって巻き込まれた事もあるし、病院のお世話になるような怪我だってした事もあった。


 だから、初めてではなかった。でも、これは違う。


 文字通り、己の死を明確に予感させる、圧倒的なまでの……地球規模の災害を前に、千賀子は今にも腰が抜けてしまいそうな己に活を入れ、なんとか踏ん張っていた。



 ──まるで、巨大な手で扉を殴りつけられているかのような感覚。



 寄せては引いて、引いては寄せて来るよう。どしん、と雨風がひと際強く叩きつけられる度に、如何に己が矮小で無力な存在であるかを思い知らされる。



 ──ぐしん、がこん、ぐしん、がこん。



 家そのものが巨大な手で揺らされているかのような、そんな異様な想像をしてしまうほどの爆音が、四方八方から聞こえていた。



「──がんばれ! 台風は常に北上している。通り過ぎれば、その後は弱まって行くばかりだ、がんばれ!」



 父の声が、暗い室内に響く。


 普段なら、思わず肩をすくめてしまうぐらいの大声であったが……今は、そう感じない。


 扉越しでも聞こえる、ごうごうと唸りを上げる風音のせいで、父の声はチーチーと喚くネズミのように頼りないモノのように──っ!? 



「いっ!?」


 ぱりん、と。



 何かが割れる音と共に、己の身体に何かが降り注ぐ。


 と、同時に、額を始めとして、身体のいたるところから走った鋭い痛みに、堪らず千賀子は顔をしかめた。



「──イカン! 千賀子、顔を上げるなよ!」

「千賀子!? 何かあったの!? 頭を下げて!!」


 暗闇の中から聞こえてくる祖父と、切羽詰まった母の言葉に、千賀子は反射的に指示に従った。


 ……ゆっくりと、生暖かい液体が額より、瞑った片目の上から頬へと伝って行くのを感じた千賀子は、状況を察した。



(扉は無事だけど、ガラスが耐え切れなかった……!)



 どうやら、運悪く千賀子が押さえている扉のガラスが、外からの圧力に耐え切れずに割れたようだ。


 ぺろりと舌を動かせば、ツンとした鉄の赤い味がした。


 いや、もしかしたら、千賀子が気付いていないだけで、既に家族の誰かもまた、同じ状況に陥っている可能性はある。


 これが平時ならば、家族の誰かがすっ飛んで来て治療に当たってくれるだろうが……今は、それすらも難しい。


 誰も彼もが、手を放せないのだ。


 短時間ならまだしも、悠長に手当てをしている余裕は無く、兎にも角にも風が一旦は治まるまで耐えるしかなかった。



「──そうだ、畳だ!」



 が、その時、父が機転を見せた。



「和広! 居間でもどこでもいい、親父が出していた工具で畳を引っぺがせ! それを壁板代わりに使う!」

「壁板って、もう外には出られねえぞ!?」

「違う! ガラスに当たらないようにするためだ! 急げ、他のガラスも何時割れるか分からん!!」

「わ、分かった!!」

「和広、ワシが押さえておるから急げよ! 居間の机にあるからな!」

「分かっている、聞こえているってば!」

「みんな聞こえているな! 和広が畳を持ってくるまで、頑張れ!」



 距離があるゆえに、父と兄の和広が、半ば怒鳴り合うように会話し合っている。その合間に祖父の声が入り混じるのは、やはり互いに切羽詰まっているからか。


 その後で、父と母が何やら互いを励まし合っている。夫婦だから何ら不思議ではなく……その最中、不思議と千賀子には聞こえていた。



 ……頼んます、頼んます。



 それは、千賀子の傍にいた、耳を澄ませてようやく聞き取れるぐらいの、か細い祖母の呟きであった。



 ……神様仏様、頼んます。連れていくのは、この婆だけにしてくんさい。



 皆と同じく、体重を掛けて扉を押している祖母は……俯いた姿勢のまま、ぼそぼそと呟いていた。



 ……老い先短い婆だけにしてくんさい。頼んます、頼んます、どうか頼んます。


 ……神様仏様、どうか頼んます。和広はこれから、千賀子はまだ10歳になったばかり。


 ……頼んます、頼んます。連れていくのはこの婆だけにしてくんさい。



 その、呟きをただ一人だけ耳にしていた千賀子は……ぎゅっと、伝った血で汚れた唇を噛み締めた。


 祖母は、普段から物静かで穏やかな人だ。


 家族の誰よりも信心深く、散歩や買い物などで出歩いた際、道祖神などを見掛ければ、かならず手を合わせて行くような人だ。


 そんな人が、一心不乱に祈りを捧げている。自分のためではなく、自分の孫のために……その事実に、千賀子は……そのまま、奥歯を噛み締めた。



 ──死ねない。


 ジンジンと熱っぽい痛みを額より感じながら、千賀子は誓う。



 ──絶対に、死ねない。


 まだ、死ねない。少なくとも、今はまだ! 



「千賀子、そこをどけ!」



 父の声に、ハッと我に返った千賀子は、言われるがまま横に動く。


 直後、どたんと置かれた畳へ、千賀子はグイッと背中を押しつけるように押した。



「もうひと踏ん張りだ、頑張れ!!」



 その言葉と共に、一つ、また一つ、新たに設置された畳を板壁代わりに、家族全員が再び一丸となって押さえに掛かる。


 その、直後であった。


 ひやりと、背筋が震えるぐらいに冷たい水が、誰しもの頭に掛かったのは。



 ──屋根(おそらく、瓦だ)のどこかが破損して、そこから雨水が浸入し始めた。



 でも、どうしようもない。


 こんな状況で応急処置など、出来るわけがない。出来るのは、とにかく扉を押さえるだけで精いっぱい。


 とにかく、通り過ぎれば終わる。


 それは、如何に強い台風とて例外ではなく……誰も彼もが、一秒でも早く時が過ぎ去るのを祈りながら、自分たちが出来ることを精いっぱいやったのであった。



 ……。


 ……。


 …………。



 ……。


 ……。


 …………そうして、轟々と鳴り響いていた風が、どれほど続いたのかは誰も分からなかった。



 気付けば、アレだけ凄まじかった轟音は治まり、叩きつけられるような横殴りの雨も治まっていた。


 だが、誰も外には出られなかった。


 理由は急に弱くなったり強くなったり、非常に不安定な暴風が吹き荒れていたからだ。


 もしも、力を抜いた瞬間に突風が来て扉が壊れたら……そんな不安のせいで、誰もがその場を動けなかった。


 けれども……うっすらと何処からともなく差し込み始めた、外の日差しを目にした瞬間。



「お、おお、夜が明けた……嵐を乗り切ったぞ」



 感慨深く、それでいて心底疲れ切った祖父の呟きを切っ掛けにして、誰も彼もが……その場にぺたんと座り込んだのであった。



(──あ、あれ?)



 それは、千賀子とて例外はなかった……のだが、家族とは違う事が千賀子の身に起こった。


 ぐらり、と。


 まるで、足場がいきなり消えてしまったかのように、千賀子は己がどのようにして座ったのかが分からなくなった。


 同時に、サーッと。


 千賀子は、目の前が上から下に暗くなっていくのを認識し……その、直後。


 くたっ、と。


 一晩中冷たい雨を浴びたうえに、緊張感が途切れたこともあって……抵抗する間もなく、意識を失ったのであった。







 ──そうして、次に千賀子が目を覚ました時に目にしたのは、見慣れない天井であった。



 ツンと、臭って来るのは消毒液の臭いか。


 身体が重くて動かせないが、なんとか視線を下げれば、己は病院で見るようなベッドに寝かせられているのが分かった。


 右にも左にも似たようなベッドが置かれており、そこには顔色の悪い人が寝ている。どちらも見覚えはなく、今がどういう状況なのかもよく分からなかった。



「……ここ、は?」



 自分で声を出して、千賀子は驚いた。


 誇張抜きで、己が出したとは思えないぐらいにかすれていて、力無くて弱弱しかったからだ。



(家じゃない、病院? お父さんたちは、何処へ?)



 声すらまともに出せないのに、身体に力が入るわけもない。


 寝返りを打つだけでも億劫だった千賀子は、そのままボケーッと何をするでもなく天井を眺め続けて……っと。



「まだ起きちゃ駄目よ、千賀子ちゃん」



 フッと、横から顔を覗かせた看護師……いや、看護婦に、千賀子は目を瞬かせた。当然、看護婦の顔に見覚えはない。



「待ってて、先生を呼んできますから」



 けれども、看護婦は気付いた様子もなく踵をひるがえして、何処かへ行ってしまった。


 後に残されたのは、何が何だか分からずに天井を見上げるしかない千賀子と、面識のない者たち……っと、思っていると、けっこう早く看護婦が戻ってきた。



 先生……ああ、医者か。



 1人納得する千賀子を尻目に、「ちょっと、確認するよ」医者はパッと身体に掛けられたシーツを退かすと、そのまま手慣れた様子でボタンを外し……露わになった肌に、聴診器をあてがった。


 ……現代なら信じ難い光景だろうが、昭和ではこれぐらい驚くような事ではない。良くも悪くも、子供は子供扱いなのだ。


 あと、別に、前世の記憶を持つ千賀子にとってはなんら恥ずかしくは……いや、恥ずかしくはあるけど、自分の命を天秤に掛けるならば、聞き流せる程度の恥ずかしさだ。


 それに、確認出来る周囲の状況から見て、いちいち恥ずかしいというワガママが言える状況ではないのは察していたので、何も言わなかった。



「……心音、肺音に異常なし。背中側からも、同様。どうやら抗生物質ペニシリンはバッチリ効いたようだ」



 そう言うと、聴診器を外して首に掛けた医者は、コキコキと疲れた様子で肩の骨を鳴らすと、「細かい処置は、やっておいてくれ」そのまま忙しなく何処かへ行ってしまった。



 ……。


 ……。


 …………で、だ。



「声が出せないなら、軽く頷く動きだけでいいわ。どうしてここに居るか、千賀子ちゃんは覚えているかな?」


 ……小さく、首を横に振る。


「なんでも、貴女は台風が過ぎ去った朝にそのまま倒れたそうよ。それから高熱が出たから、家族さんが急いで病院に連れてきたのよ」


 ……言われて千賀子はおぼろげながら思い出し、納得する。


「先生は、傷口からばい菌が入ったせいだろうって。なんでも、雨漏りした水を長時間浴びた時と……あとは、足裏の傷から入ったんだろうって」


 ……足裏? 


「そんなに深くはないけど、ガラスを踏みつけたせいで血だらけだったみたいよ。もうしばらくは、歩かないでね」


 ……一つ、頷く。


「良い子ね。でも、ごめんなさい、今は電話が繋がらなくて……千賀子ちゃんの家族が来たら、目を覚ましたって伝えておくから……今は、ゆっくり休むのよ」


 それで、ようやく看護婦も安心したようで。


「もうちょっとしたら、吸い飲みを持って来るから……良い子で待っていてね」


 その言葉と共に、よく頑張ったわねと手をさすった後、医者と同じく足早に部屋を出て行った。



 ……。



 ……。



 …………そうして、ポツンと1人残された、ベッドの中で。



(……家は、大丈夫なのかな?)



 どうやら、家族に心配を掛けてしまったということを理解した千賀子は……とりあえず、安堵のため息を零したのであった。



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