第4話: 人は神にも仏にも成れないのだ
──ぶっちゃけてしまえば、台風に対して千賀子が出来る事など何も無いに等しい。
なにせ、相手は災害だ。それも、ただの災害ではない。
前世の世界において、観測史上最大級の……いや、観測史上最大の被害をもたらし、未曽有の被害を生み出した……『伊勢湾台風』である。
あまりの風速によって消防車がなぎ倒され、巨木すらも根っこから引き剥がし、建設中の橋はおろか、停泊中の貨客船(7400トン)を砂浜に打ち上げ、幾つもの防波堤や堤防を決壊させたほどだ。
その被害範囲は現代に至ってもなお類を見ないほどに広く、影響範囲は日本全域も同然。
行方不明者を含めて、分かっているだけで5000名以上、被害額は3000億以上に達したとされている。
この3000億というのは、あくまでも、もっとも被害の多かった地域だけでの金額だ。
全体の被害額は約5000億とも推定されており、当時の日本のGNP(国民総生産)が約1兆3190億だから、如何に被害が甚大であったかが窺い知れるだろう。
ちなみに、今日ではその名が知られている『災害対策基本法』を制定するキッカケとなったのが、この伊勢湾台風なのだが……で、だ。
何度も言うが、そんな災害を相手に、千賀子が出来る事など無い。
それは、千賀子が子供だから……ではない。大人であったとしても、どうしようもない相手なのだ。
『ガチャ』という力を持ち、前世の記憶というアドバンテージがあったとしても、結果は同じ。
所詮、千賀子は人なのだ。
他者から見れば心から羨ましいと思われる力があっても、この星が生み出す自然の力の前では、無力も同然である。
それに……仮に、台風をどうにか出来るような能力があったとしても、対処は難しかっただろう。
と、いうのも、だ。
台風に限らず、自然災害という結果には、必ずそこへ至るまでの幾つかの原因と幾つもの条件が重なっており、それは世界規模で連動している。
そして、その結果は被害をもたらすが、地球全体で考えれば起こるべくして起こる必然であり、起こらない方が後々の大きな問題に発展してしまう可能性が高い。
つまり、仮にそういう力が千賀子に有ったとして、だ。
眼前に迫りくる脅威を除いた結果、向こう10年に渡る被害を別の場所で生み出しかねない話で……それゆえに、どうにもならない問題なのであった。
(──だからといって、このまま座して待つものか!)
だが、それで、『はい、わかりました!』と終わらせてしまうわけにはいかなかった。
(幸いにも、ここは湾岸からも離れている。少なくとも、一番被害が大きかった場所ではないのは確かだ)
とはいえ、油断は出来ない。
前世の記憶によって『伊勢湾台風』を知っているとはいえ、あくまでも大まかな概要をうっすら覚えているだけのこと。
そう、せいぜい、愛知県や三重県などが特に被害が大きかった&堤防が決壊したとか船が打ち上げられたとか、その程度の情報しかなかったのだ。
まあ、それを責めるのはあまりに可哀想というものだ。
当時の被災者や、被災地の出身、あるいは専門的に勉強したならともかく、教科書などでサラッと勉強した程度の知識なんて、そんなものでしかない。
でも、それは、自暴自棄になる理由にはならない。
無力であっても、どうにもならないと分かっていても、人間である以上は頭が使える。前世の記憶を含め、先人たちの知恵を活用出来る。
なればこそ、今の己で出来うる範囲の備えはしておかねばならない……そう、千賀子は己を奮い立たせたのであった。
……そして、翌日。
何時もり早く起床した千賀子は、先に起きて朝食の支度をしている母への挨拶をそこそこに、タンスの上に置かれているラジオのスイッチを入れた。
目的は……台風の状況を知るためである。
というのも、前世と同様にこの世界でも起こったらしい
もしもこの世界で室戸台風(あるいは、それに匹敵する台風)が起こっていなかったら、おそらく『警報』という雑な括りのまま今に至っていただろう。
ただでさえ、現代よりも情報伝達のタイムラグが大きいのだ。リアルタイムで情報を仕入れられない以上は、出来る限り早く知っておきたい。
ましてや、今はまだ気象衛星など無い時代。
電子計算機などが使われているだろうが、その進路予測はこれまでのデータを基にした、気象予報士たちの予測にて行われる。
これが普通の台風で終わるならともかく、本当に伊勢湾台風レベルのそれならば、誤差は出来うる限り減らしたい……そう、千賀子は考えていた。
「──ん? どうした、朝からラジオを点けて……なにか気になる事でもあるのか?」
ダイヤルを合わせ、天気予報をやっているのを見付けて、耳を傾けていると……起床してきた父より、そんな言葉を掛けられた。
「天気予報を聞いているの」
「……? 運動会でもあったかな?」
「ううん、道子から、台風が近づいているって聞いたから」
「え、そうなのか……でも、こんなに早くからかい?」
首を傾げる父に、千賀子は曖昧に笑って誤魔化した。
前世の知識とか、そういうのは千賀子だけの秘密だ。
それこそ、親から懇願されても、千賀子は絶対のそれを誰かに伝えるつもりはない。
実際に未来が記憶のそれと同じ結果になるかは不明だし、未来を知っているという真偽不明の噂でも、悪意を持った者が集まってくる。
前世の記憶があるゆえに、人間のそういった醜さと愚かさを知っている千賀子だからこそ、千賀子は曖昧に笑うしかなかった。
「なんかね、虫の知らせってやつ? どうにも落ち着かなくて……」
「はは、千賀子は心配性だな」
「心配し過ぎて損は無いでしょ?」
確かに──そう言いつつも、父は愛らしい者を見るかのように微笑んだ。
「そんなに心配しなくても大丈夫だよ、千賀子」
「どうして?」
「だって、ここは海からは遠いし、地滑りが起こっても山から距離もある。小川が溢れても、方向が違うからこっちに来ることはないよ」
「……そう、だよね」
父の意見は、間違いなく正論である。
実際に千賀子の家である『秋山商店』は海から遠く、地滑りが起こっても被害を受けない程度には離れていて、小川が溢れても直接的な被害はないだろう。
絶対というわけではないが、気にし過ぎたらキリが無い……そう言えるぐらいには、父の言葉を何一つ否定は出来なかった。
「でも、不安なの」
だが、それでも、引くわけにはいかなかった。今回ばかりは、父の言う事を素直に聞くことは出来なかった。
「……そうか」
そんな……普段とは違う、頑なな千賀子の反応に、なにかしら思うところがあったのか。
「それなら、気の済むまでやりなさい。ただし、それが悪さに繋がるようならすぐに止めるよ」
「え?」
「学校も、それまでなら休んでいい。ただし、台風が過ぎたら、その分だけしっかり勉強をするように……いいね?」
「い、いいの!?」
「なんだかんだ、千賀子は真面目だからね。自分から勉強もするし、普段の行いのおかげだと思えばいいさ」
父は、なんと学校を休んでまで、自由にして良いという許可も出してくれた。
その事実に、思わず声が普段より高くなるぐらいに千賀子は驚いた。
と、いうのも、だ。
昭和の時代というのは、現代に比べて学校に対する意識が違う。
病気や家庭の事情ならばともかく、何の理由もなく学校を休ませるなど言語道断という認識が強いのだ。
それは、女子であろうと変わらない。
下手すれば不良扱いされても不思議ではなく、だからこそ、そこまで許可を出してくれたことが、当人である千賀子すら信じられない思いであった。
「あなた、何もそこまで……」
実際、こっそり盗み聞きしていた様子の母が、苦言を呈した。
母は、父とは違ってそういう甘さは無い。同性ゆえに躾ける所はちゃんと躾ける方針なのだ。
「いいんだ、これで。それに、この調子だと、無理やり学校に行かせてもまるで身が入らないと思わないか?」
「そりゃあ……そうは思いますけど」
チラリと、千賀子の様子を見やった母は、否定をしなかった。
「心がふわふわと舞っている時には何をやらせても駄目だよ。ある程度は、気の済むまでやらせるのが一番だ」
「……もう、分かりました、私の負けですよ」
でも、そんな母も、いちおう納得出来る理由を言えば理解はしてくれる。
これも、父の言う通り、日頃の行いというやつか……嬉しさに思わず笑顔を浮かべた千賀子は、両親に頭を下げた。
──っと、その時であった。
「あ? 千賀子、学校休むの? ずりー、なら俺も休んでいいだろ」
のそっと、居間に姿を見せたのは、秋山家の長男であり、千賀子の兄でもある、
和広は、千賀子より3歳年上だ。いわゆる坊主頭一歩手前のスポーツ刈りで、中学校に通っている。
……ちなみに、和広が姿を見せた途端、千賀子はそっと母の後ろに隠れた。
理由は、単純に目を付けられて、いちゃもんを付けられたくないからだ。
和広は妹の千賀子を昔から下僕か何かだと思っている節があり、家族の見ていないところでは、中々に酷い扱いをしてくるからだ。
もちろん、父も母もそれとなく、あるいは正面から注意をしているが、一向に改まる気配はない。
なので、今では矯正を諦め、『アレはもう、そういう性根だ』という、千賀子からすれば『おいおい勘弁してくださいよ……』みたいな状態になっているわけである。
で、話を戻そう。
「おまえは駄目に決まっているだろ」
「はあ? なんでだよ」
考慮するまでもなく父から駄目だと言われた和広は、目に見えて機嫌を損ねた。
その態度は、とてもではないが、ちゃんと育ててくれた親に向けるソレではなく、失礼であった。
いわゆる、反抗期というやつか。あるいは、性根がそうなのかは分からないけど、父は欠片も引かず、逆に白けた眼差しを和広に向けた。
「先日、学校から連絡が来たぞ。おまえ、学校に行かずにどこかでサボっているだろ?」
「──成績は良いだろうが。おれ、学校でも上から数えた方が早いぐらいに成績は良いんだぜ」
舌打ちの直後、ヘラヘラッと笑いながら言い訳を続けた息子に対して。
「点数ばかり良くても、内申点というものがあるからな」
父は、キッパリと告げた。
「頭だけ良いやつよりも、多少悪くても真面目にコツコツ頑張れる者の方が周りから求められるものだ」
「……だから、なんだよ」
「気紛れでサボるような男、何処が欲しがる。おまえに必要なのは成績ではなく、根気強く繰り返す真面目さだ」
「──チッ!」
父の言葉に、あからさまに機嫌を損ねる和広。今度の舌打ちは先ほどよりも強く、ジロリと視線をさ迷わせた。
……おそらく、千賀子に当たってうっ憤を晴らそうとしたのだろう。
「なんです? それが母に向ける目ですか?」
「……うるせえな、偶々視線がそっちに向かっただけだろうが」
けれども、当の千賀子は母の後ろに隠れており、母も素知らぬ顔をしている以上は、和広には何も出来なかった。
なにせ、以前から千賀子への態度を改めるよう再三にわたり注意されている身だ。
さすがに、ここで千賀子を見ただけだと言えば、親からの忠告を真っ向から無視する事になり……それは、分が悪いと思ったのだろう。
「……どこへ行くんだ?」
「学校だよ、行けって言ったのはそっちだろ」
そのまま、何事も無かったかのように……ちゃっかり、台所に置かれていた握り飯を手に取り、家を出て行ったのであった。
……。
……。
…………やれやれ。
そう、呟いたのは誰が最初だったか。
「……それじゃあ、ご飯にしましょうか」
そんな、母の言葉で、止まっていた日常を再開させたのであった。
──まあ、気の済むようにやれば良いと許可が出されたとはいえ、千賀子が出来る事などたかが知れている。
せいぜい、事前の避難経路を確認しなおしたり、高潮や地滑りが起こった時を想定したり、ひたすら頭の中でシミュレーションを繰り返す、それぐらい。
あとは、食料の確保だ。
本当は親の協力の元、米や塩や砂糖、飲み水、その他諸々を大量に備蓄しておいてほしいのだが、それは出来ない。
さすがに、親もそこまではしてくれないだろう。
まあ、砂糖と塩、その二つに関しては日常的に使われているので、倉庫にはまだ備蓄がかなりあるけど。
とはいえ、そこまで求め始めたら、なにかしらの異常が頭に(あるいは、心に)起こっていると思われて、医者を呼ばれそうだ。
常識的に考えて、己が逆の立場だったならば、すぐにでも医者を呼んでいるだろうと千賀子も思っていたので、そこはすぐに諦めた。
本音を言わせてもらえば、明美や道子にも、この危機を伝えたいぐらいなのだ……じゃあ、どうするか?
「──お爺ちゃん、魚釣りに行こう!」
「ん? 千賀子、学校はどうした?」
「台風が来るまでは好きにしていいって。とにかく、魚釣りに行こう」
「……ふむ、まあ、アイツが良しとしたなら何も言わんが……まあ、待て」
朝食を終えて、すぐ。
学校に連絡を入れる母を尻目に、千賀子は早速祖父に声を掛けた。幸いにも、祖父は休むことに対して特に兄も言わなかった。
それから、苦笑している父に視線を向ければ、「すまん、親父。しばらく、相手をしてやってくれ」そう言って頷いたのを見て……祖父は、よっこらしょと立ち上がった。
「あ、待って、お爺ちゃん」
何時もの釣り道具一式の用意をしようとした祖父に、待ったを賭けた。
「今日は、私も背負う。だから、私が持てる容器があるなら、お願い」
「……なんだ、おめえ、そんなにいっぱい釣るつもりなのか?」
「うん、いっぱい。釣れるだけ、いっぱい釣るの」
おふざけではなく、何時もよりも真剣に……千賀子は、祖父の目を見上げた。
そう、やれることなど、始めから決まっている。
ほんの僅かでも、多くの食料を確保しておかねばならない。それが微々たる変化だとしても、やる必要はある。
直撃はしなくとも、歴史に残る被害をもたらした台風だ。
間違いなく道路を始めとして様々なインフラが停止し、食糧を始めとした物資の不足が起こるだろうから。
「……ほうか、わかった」
そんな千賀子を見て、祖父はゆっくりと頷いた
「それじゃあ、ちょっと一緒に来い。爺ちゃんが、おまえでも持てるやつを見繕ってやるから」
「わかった、ありがとう──お母さん、お父さん、行ってきます!」
挨拶をしてから、祖父の後を付いて行き……敷地内にある、『倉庫』へと向かう。
この倉庫は、その名の通り、『秋山商店』で取り扱っている様々な商品などの備蓄を保管してある場所だ。
見た目は、小屋だ。正直、見た目はみすぼらしい。
中は、上から見れば『コの字』だ。
棚が何段にも渡って壁に沿うように設置されており、どちらを向いても棚があるといった感じだ。
実は、倉庫に入るのは数えるぐらいしかないので、祖父より中に通された時、ちょっとドキドキしたのは千賀子だけの秘密である。
なにせ、千賀子はまだ小学生。
大人びているとはいえ、万が一があっては危ないと、許可無しでは入っちゃ駄目だと言われていたからである。
「──千賀子」
けれども、そんな千賀子の淡いドキドキも……祖父の手で、扉を閉めた後。
おもむろに、千賀子の目線に合わせるように屈んだ瞬間……いや、違う。
「隠したいんなら、それでええ。だが、これだけは答えい……今度来る台風ってのは酷いモノになるんか?」
ジッと見つめる……もしかしたら、生まれて初めて見るかもしれない、祖父からの真剣な眼差しを受けて……千賀子は、スッと背筋を伸ばした。
「どうして、そんな事を聞くの?」
「千賀子の目が、戦地で死んでいったあいつらとおんなじ目をしておる」
「…………」
「本音では諦めておるけど、それでも奮い立とうとしている、そんな目だ。ワシも、もしかしたらあの時は、そんな目をしていたかもしれんな」
「お爺ちゃん……」
思わずポツリと呟けば、「来るんだな、どデカいのが」念を押すように尋ねられ……小さく、千賀子は頷いた。
「……分かった。ワシの方からも、今度来る台風は酷いモノになると、それとなく顔見知りに広めておく」
「お爺ちゃん……!」
「だが、良いな、千賀子。これだけは頭に入れておけ。おまえは、何も悪くない」
ぽん、と。
頭に置かれた、皺が目立つ温かい手の感触に、千賀子は目尻にジワッと涙が滲むのを感じた。
「1人の手でやれる事は、その手が届くまでだ。それ以上は、神様や仏様の領域だ。良いな、千賀子……おまえは神様でも仏様でもない」
「うん」
「何が起ころうとも、何も悪くないんだぞ。それで何か言われたら、ワシに言え。そいつのところへすっ飛んで言って、拳骨をかましてやるからな」
「うん」
「良し、それじゃあ急ぐぞ、台風は待っちゃくれんからな」
立ち上がった祖父は、棚の……容器がまとめて置かれている場所を指差した。
「そこにある容器から、背負えそうなやつを選んでおけい。ワシは、釣竿の他にちょっと工具を見て来るから、他の物には触るんじゃないぞ」
「うん、分かった──え、工具?」
唐突に出てきたその単語に首を傾げれば、祖父はニヤッと笑った。
「いざとなれば、天井や扉を破る必要が出てくるかもしれんだろう。まあ、そうならないのが一番だがな」
「お爺ちゃん……」
「良いか、千賀子。生きていれば、なんとかなる。それだけで、既に儲けものじゃぞ」
「……うん!」
力強く頷いた千賀子に、祖父は……皺だらけの顔で、ニカッと笑ったのであった。
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