第3話: とんびが鷹を生んだような気持ちよ(by 千賀子母)




 ──脱脂粉乳の利点は、もう一つある。それは、あまりの後味の悪さに、食後の眠気も吹っ飛ぶというものだ。



 実は、なんとか気合を入れて千賀子が脱脂粉乳を飲み干す理由の一つである。もちろん、栄養面を考えれば呑む方が良いので、という理由もあるけど。


 どうして千賀子が頑張って眠気を飛ばすのか。


 それは、午後の授業を眠らないように……というのもあるが、一番の理由は、居眠りに気付いた教師からの仕置きが嫌だからだ。



 というのも、現代とは違い、昭和の学校というのは体罰上等なのだ。



 さすがにこの学校では警察が出動するような事は起こっていないが、居眠りしていたら拳骨で起こされるのは当たり前。


 あまりに居眠りが続くようなら当たり前のように親が学校に呼び出されるし、その分だけ成績も減点され……まあ、ここらへんは現代も同じか。


 そうそう、同じと言えば、小学生男女の扱いの差もそこまで変わらない。基本的に、どちらも雑にまとめて扱われるのだ。


 強いて男女の違うところを挙げるならば、何か問題を起こした時、だいたいの男性教師は女子に対して少しばかり対応が甘い、ぐらいだろうか。


 例えば居眠りなら、せいぜい丸めた教科書なんかで軽く頭を叩くぐらいだが、女性教師の場合は教科書の角で遠慮なく叩くから、意地でも起きておいた方が良いというのが千賀子の持論である。



 それに、普段からの素行で印象付けるのは大事な事だ。



 居眠り一つ取っても、普段から居眠りの多い子ならサボっていると思われ、普段はしっかりしている子なら、今日は体調が悪いのかと心配される。


 場合によっては、保健室で休んでおけと指示が出されるぐらいで……そういう思惑もあって、千賀子は意地でも脱脂粉乳を残さないのである。



 ……おまえ、小学生なのに考え過ぎ……と思われそうだが、奇縁な事に、千賀子の中身は前世の記憶を持つ大人のソレだ。



 実家が客商売をしていると、自ずとその家の子たちはバックを……つまり、その背後にある店を見られる。


 考え過ぎと言われたらそれまでだが、素行の悪い子が居る店と、素行の良い子が居る店、どちらを選ぶかといえば、理由が無い限りは後者を選ぶのが人というものだ。


 今はまだ殿様商売(という程ではないけど)だが、それが来年再来年と続く保証が無い以上、周囲からの好感度を稼いでおいて損がないと千賀子は常々思っていた。





 ……そんなこんなで、放課後。



 授業が終われば、さっさと下校である。ただ、そのまま本当に帰る子が居るかといえば、そこまで多くは無い。


 なんでかって、現代とは違って娯楽道具なんて多くないから、家に帰ってゲームでも……なんてのが出来ないから。


 あとは、子供によっては家に居ると親から『暇なら勉強しなさい!』と二言目には怒られる子が多かったので、あえて帰ろうとはしなかった子もいるらしい。



 で、自由時間となった生徒たちの活動は、その名の通り自由に無軌道だ。



 ぶっちゃけてしまうと、現代とはニュアンスの違う意味で放置されるのが基本な状況に加え、現代のように封鎖が成されているわけではない。


 勝手に倉庫からボールを出して遊んでいる子なんてのは優しいぐらいで、中には持参した道具を使って野球を行っている生徒たちすらいた。


 当然、教師たちから注意が入りそうだが、意外な事にそこまで強いわけではなく……時折確認はしているようだが、静観に徹していた。



「……棒切れと玉っころを投げた打ったであんなにはしゃげる男子たちの気持ちが分からないなあ」

「う~ん、私は、ちょっと気持ちが分かるかも~……でも、遠くから見るだけならいいけど、けっこう怒鳴り合っていて怖いもんね~……」

「いや、怖くはないでしょ」

「え~、怖いよ。この前、パパとママと一緒に出掛けた時、電器屋の前でオジサンたちが大声出していたのを見たけど、怖かったよ」

「ああ、うん……あれ、本当に不思議よね。うちの父さんも、野球の勝ち負けで叫んだり落ち込んだりしているけど、何がそんなに楽しいのか分からないわ」

「そうだよね~、うちのパパとママはそうでもないけど、親戚のお兄さんは大の野球好きだから、やっぱり楽しいものなのかな?」

「楽しいんじゃないの? 私としては、テレビを見る度に騒がしくしなければなんでもいいかな」

「明美の家って、そんなにお父さんがウルサイの?」

「……普段は、頑固だけど物静かで優しいよ。でもさ、野球の……ええっと、ながしま? っていう人が出ると、そりゃあもう騒がしいわよ」

「ながしま……あ~、パパも、その人が出る時だけは真剣にテレビを見ているから、覚えているよ~」

「でさあ、そのながしまっていう人って、凄いの? 私、野球はな~んも分からないから、何が凄いのか知らないのよね」

「う~ん、ごめんね~。私も名前だけで、どんな人なのかは知らないんだ~」

「そっかぁ……ねえ、千賀子は知ってる?」



 そんな光景を教室の窓より眺めながら、明美と道子の雑談を流し聞きしながら……ふむ、と頷いた。



「凄い選手だよ」

「凄いって、どこが?」

「将来はミスタージャイアンツって呼ばれたり、監督したり、背番号が永久欠番扱いされたり、殿堂入りしたり、歴史に名が残るぐらい凄い」

「……みすたあ? じゃいあん? なにそれ、口からデタラメって言わない?」

「そうとも言うし、それを言うなら口から出まかせだよ」

 何じゃそりゃあ……と白けた眼差しを向ける明美に、千賀子はニヤッと笑うだけで、それ以上は何も言わなかった。

「なんだ~、千賀子も知らないのね」



 結局、道子のそんな言葉で話題が途切れた3人は、再び何をするでもなく、ボケーッと校庭を眺め始めた。


 下校……すると、道子だけ途中から離れるので、ちょっとばかり教室に居残っての駄弁り。


 教室にはまだ、多数のクラスメイトが残っている。


 おかげで中々に騒がしく、千賀子たち3人が駄弁っていたところで、誰も気にする者はいない。


 そんなわけで、校庭で騒ぎまくる子供たちを眺めていると……ポツリと、今度は道子から沈黙が途切れた。



「そういえばさあ~」

「ん~?」



 今度は、千賀子が目を向ける。


 明美は気が抜けてしまっているのか、聞いているのか聞いていないのか、よく分からない表情を浮かべていた。



「本当かどうかは分からないけどさ、もうすぐ来るかもだってさ」

「なにが?」

「台風」

「……はい?」

「だから、たいふ~う」

「いや、聞こえているから……って、そうじゃないよ」

「ん~?」

「それって本当なの?」

「本当らしいよ。パパのお友達に天気の学者さんが居るらしくて、大きな台風が来るかもしれないってさ」

「へえ、大きな台風か……何時頃?」

「分かんないけど、ちょっと先になるってさ」

「じゃあ、まだ大丈夫か。それじゃあ、早めに色々と準備しておかな……ん?」



 思わず──本当に思わず、千賀子はコツンと己の頭を叩いて再起動させ──直後、サーッと血の気が引く感覚を覚えた。




 ……必ずしも、千賀子が知る前世と同じ事が、この世界で起きる保証は無い。




 しかし、今のところ、聞き覚えのあるような出来事が実際に起こっている。


 時期まで一緒かは前世の記憶にもないから分からない。だが、全てがそうではないにしても、起こっているのは確かだ。


 そして、そんな中で……昭和のこの時期に起こる台風で、わざわざ『大きな』と形容詞が付くような台風と言えば……うん。



(も、もしかして……伊勢湾台風……の、可能性あり?)



 まさか、そんな事は……いや、でも、否定は出来ない……っと。



「……大丈夫~?」



 グルグルと思考が螺旋を描き始める直前、声を掛けられた。


 ハッと我に返って見やれば、心配そうにこちらを見つめる道子と目が合った。



「急にどうしたの? なんか顔色が悪いよ~?」

「あ、本当だ。どうしたの?」



 異変に気付いた明美も、心配そうに千賀子を見やる。


 2人からすれば、心配するのも当然だ。


 なにせ、今しがたまで普通に会話をしていた相手が突然静かになったかと思えば、傍目にも分かるぐらいに顔色を悪くしているのだ。


 たとえ見知らぬ誰かでも、傍の人がいきなり目に見えるぐらいに顔色を悪くし始めたら、何か起こったのかと心配するのは必然である。


 それは、千賀子とて同じ事だ。


 仮に千賀子が逆の立場だったなら、とりあえず荷物を持って自宅まで付き添うぐらいはしただろう。



「あ~、うん、ごめん。なんか急にお腹が痛くなっちゃって……」

「ええ、大丈夫なの? お便所行く?」

「大丈夫、大丈夫。でも、悪くなる前に帰るね」

「そっかあ~、それじゃあ、今日はバイバイだね」

「荷物、持ってあげるから」

「あ、ありがとう……」



 最悪の可能性に戦慄を覚えながらも、ひとまず駄弁る気分ではなくなった千賀子は、2人に気遣われることに後ろめたさを覚えながら……帰路に着いたのであった。



 ……。



 ……。



 …………そうして、想像した結果があまりに憂鬱案件過ぎて、千賀子は自室(というか、共同スペース?)で不貞寝することにした。


 今すぐにでも対応した方が良いのは分かっているが、それが出来ないぐらいに、ショックがあまりにも大き過ぎた。


 なにせ、千賀子も詳細は知らないが、その名前ぐらいは授業で習った記憶がある。



 そう、歴史の教科書に載る様な、日本史上最悪の台風として。



 紙面の上に並ぶ詳細な内容、一緒に掲載されていた当時の写真だけでも『うわぁ……』と思うぐらいに酷かったのだ。


 それを、実際に体験する可能性が……いや、外れる可能性だって……いや、いやいや、いやいやいや……。


 そんなの、ガチャという能力が有ろうが無かろうが、憂鬱になって当然である。


 なにせ、昭和の時代なんてのは、災害対策なんていう言葉すら庶民の中ではほとんど存在していない(政府の中にはあったかもしれないが)時代だ。


 建築一つとっても、現代よりはるかに基準が緩い。


 いや、緩いというよりは、まだこの基準では駄目なのだという決定的な災害に見舞われていないせいだろう。


 現代なら即座に却下されるようなモノでも、この時代は普通に許可が出る。


 もちろん、使用される材料や建築方法が違うから、一概に悪いかどうかは判断出来ないが……それでも、どうしたものかと千賀子は考えずにはいられなかった。


 でも、妙案なんて浮かぶはずもなく、うんうんと1人唸っていた……そんな時であった。



「千賀子、ちょっと……」



 なにやら、難しい顔というか、何かを考えているかのような表情の母がわざわざやってきた。


 いったい、なんだろうか? 


 身体に掛けていたバスタオルを外して起き上れば、母は当たりを見回し、ふすまやら障子やらをキチッと閉めると、千賀子の傍に座った。



「……なに?」

「ちょっと、立ちなさい」

「え……あ、うん」



 ジッと見つめられるだけで何も言われないことに居心地の悪さを覚えた千賀子は、とりあえずは立ちあがった──っと、その時であった。



 しゅばっ、と。


 唐突に伸ばされた母の両腕が、上下一体になっているスカート(要は、膝下ぐらいまであるワンピース)の中へと滑り込むと。



 すぽーん、と。


 下着……いわゆる、ドロワーズと呼ばれる女児用のショーツ。まあ、ショーツというにはお粗末な作りだが……それが、一気に足首まで下ろされた。



 そして、ぱっかーん、と。


 突然の事に呆気に取られている千賀子を他所に、母はスカートの裾を掴むと、それをグイッと上に捲り上げ……しばし、その中を見つめた後。



「……良かった、まだ始まってはいないのね」



 心底安心した……そう言わんばかりに、安堵のため息を零したのであった。



 ……。



 ……。



 …………え? 



「あ、あの、お母さん?」

「あ、ごめんなさい、もう履いていいわよ」

「え、あ、うん……いや、そうじゃなくて」



 とりあえず、言われるがままドロワーズを履き直しながら首を傾げれば、「ごめんね、不安になったのよ」母は申し訳なさそうに頬を掻いた。



「ほら、千賀子ってば誰に似たのか大人びているでしょ?」

「え、そうなの?」

「そうよ、自覚なかったの?」



 そう言われても……思わず首を傾げれば、母親は呆れたと言わんばかりに溜息を零した。



「とにかく、お腹を摩って帰ってきてのを見て、さすがに早過ぎるって思ったの。まさか、もう始まったのかってね」

「え?」

「いくらなんでも早過ぎるから、お医者様の下へ行かなくちゃ駄目かなって……私の家系、みんな始まるのが遅い方だったから、余計に心配になったのよね」

「え? え?」

「ああ、ごめんなさい、千賀子にはまだ早かったわね、気にしないで。とりあえず、お腹はまだ痛むの?」

「え? あ、うん、今はもうそんなに……」

「じゃあ、そのままもうしばらく休んでなさい。便所は我慢せず、もしも、万が一にでも血がおまたから出たら、すぐ私に言うのよ、いいわね?」

「は、はい……」

「饅頭を買ってきてあるから、食べられそうなら食べていいからね」

「う、うん、ありがとう」



 有無を言わさない──そう言わんばかりな母の押しに促されるままに横になった千賀子はそのまま部屋を出て行く母を見送った。



 ……。



 ……。



 …………そうして、たっぷり5分後。



 ちくたく、ちくたく、ちくたく。


 何をするでもなく、ぽかーんと壁時計の秒針を眺めていた千賀子は……ハッと気付いてから、あ~っと己の頭を抱えた。



「は、母親に初潮を知られる恥ずかしさって、こんな感じなのか……いや、いやいや、まだ始まっていないんだよ、落ち着け私……!」



 なんだろう……言い方はなんだけど、男で言えば、夢精して汚れた下着を見られたような、そんな羞恥心。


 物心付いてから、千賀子は女だった。


 けれども、前世の記憶があるおかげで、どうにも心の何処かで己は男であるという意識もあった。


 しかし、こうして、母親から早すぎる成長を危惧されたことに、女としての羞恥心がモヤモヤと湧いてくるのを感じた千賀子は。



「~~~~、あ~、もう、こんな時に、もう、もう!」



 今、この時ばかりは……不安の全てが、こみ上げてくるソレのせいで掻き消されてしまい、ゴロゴロと畳の上を転がることしか出来なかった。




 ──ちなみに、饅頭は美味かった。



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