第3話 あの雨の日

 この店をオープンして三ヶ月たった頃。

 ミサーラさんの助けもあり、仕入れや内装は大分落ち着いてきていた。


 お昼はだんだん常連と呼べる人も増えてきたけれど、それが過ぎると急に人が途絶えることも多くあり胃が痛かった。


 お店を始めてはじめての雨は、驚くほど誰も来なかった。

 その頃はまだ雨の日に出歩かない習慣がある事を私は知らなかったから、あまりの事に心が挫けそうになった。


 誰か入ってきてほしいと、私はじっと扉を見ていた。


 カラン。来客を知らせる扉につけたベルが鳴った。

 私は嬉しくなって立ち上がり、大きく声をあげた。


「いらっしゃいませ!」

「濡れたままで、申し訳ないです。なにか、身体を拭くものを借りていいでしょうか」


 入ってきたのは、申し訳なさそうにした頭から足先までびしょびしょに濡れた男の人だった。


 今日は寒い。大変だ。私は慌ててタオルを渡した。


「大丈夫ですか! これ使ってください」

「……ありがとう、助かります」


 水を滴らせながら、少し警戒したような距離感で、男の人はタオルを受け取った。


 茶色のくせ毛で、黒い服を着てそばかすだらけの肌に大きな茶色の瞳はノラ猫の様だった。髪の毛が水を吸ってくるくるとしている。


 乱暴に顔を拭いてほっと息をついたところで、彼は店内を見渡した後カウンターに座った。


「……何か注文を」

「ありがとうございます! 温かいお食事ならこの辺が」

「申し訳ないのですが、食事はしたばかりなんです。飲み物と、軽い食べ物をいただけますか?」

「そうなんですね。どんな飲み物は好きですか? 寒いので甘いものはどうでしょうか。苦手ですか?」

「……そうですね。好き、です」


 ちょっと恥ずかしそうに言う彼に、気にしないでほしくて私は自分のカップを見せた。


「私も甘いもの、好きなんです。ブラックも飲みますが、こういう寒い日はミルクと砂糖をたっぷり入れて飲むのが好きなんです」

「ふふ、温かいものを飲むとほっとしますもんね。では、コーヒーにミルクと砂糖を」


 私がおどけると楽しそうに笑ってくれて、私も先程までの陰鬱な気持ちも忘れて嬉しくなった。


 さっきまで世界に一人だけしかいないかのような気持ちだったのが、嘘みたいだ。


 コーヒーを入れたカップに、クッキーを添えて出す。


「じゃあ、私が焼いたばかりのクッキーもどうぞ! ……あんまり人に出せるものじゃないかもしれないんですが、美味しいんですよ」

「おすすめなんですね」

「これは、サービスです! 私の憂鬱を吹き飛ばしてくれたので」

「俺が?」

「あっ。突然こんなこと言われても戸惑いますよね」

「……何があったのか、聞いても?」


 静かな、それでいて優しい声がして、思わずじわりと涙がにじんでしまう。それを慌ててこっそり拭い、息を吐く。


「実は、ちょっと気が重かったんです。何も成し遂げられない私が、お店をやっていけるのか。雨の中、ひとりぼっちみたいな気持ちになってたから、お客様が入ってきてくれた時、ぱっと目の前が明るくなった気がしたんです」

「そんな大層なものじゃないけれど……それに、床も濡らしてしまったし。タオルも借りて、迷惑をかけっぱなしだ」

「全然いいんですよ! さあ、苦手じゃなかったらクッキーも食べてください。軽食はメニューを見てもらえれば。飲み物だけでも全然いいですし」

「ありがとう……これは」

「私が焼いたんです。なんかピリッとしてて、美味しいんですよ」


 私がすすめると、彼は目を見開いてクッキーをじっと見た。そして恐る恐るというようにひとくち齧り、信じられないという風に私の事を見つめた。


「これは……」

「あれ、苦手でした? ちょっと変わった味だったかな……」

「いや、美味しい……美味しいよ。ただ、珍しいと思って」

「これはハーブを混ぜてるんですよ! 本当はお肉とかに使うみたいなんですが、私は好きで」


 小さい頃はこれがそういう材料だとは知らなかったのだ。でも、甘さの中に辛みがいいアクセントになって、ついつい手が伸びる。


「オリジナルなんだね」

「そうなんです! 気に入ってもらえたなら、嬉しいです」

「……うん。すごく気に入った。また、食べにくるよ」

「ありがとうございます。是非是非。お昼から夕方まで営業していますから」


 あんまり負担にならないようにそう言うと、意図を汲み取ってくれたのか目を伏せ照れたように笑って、またひとくちクッキーをかじった。


「また来るよ」



「それから本当に定期的に通ってくれて、嬉しいです」

「私が来なくても、どんどん繁盛店になって行ったけれどね。その内入れなくなるんじゃないかと心配だ」

「予約もしますよ!」

「それは助かるな。……ネリアは結婚とかは、考えてないの?」


 伺うように言われて、私は困って首を傾げた。


「そうですね。このお店は私の城ですから。……今は考えられないんです」


 それは本当だ。

 このお店を手に入れて、私は本当に自分として暮らすことができたのだから。


 ……私は、一年前まで貴族だった。


 しかし、妹の悪行をすべて擦り付けられ、婚約破棄もされてしまった。妹を溺愛していた父はそれを知っていたけれど、私は結局家を追い出された。

 もうそれ自体は気にしていない。


 どういう意味が込められているかもう知る由もないが、父がくれた数個の宝石。これを元手に店を始めることにした。

 元より誰もご飯を作ってくれない時があり、自分で食事を作っていた。


 自立していかなければ、と思った時にはこれしかないと思った。


 最初は泣きながら料理をしていたけれど、徐々に人が増えて今ではお昼時は満員だ。


 この生活を手放すつもりはない。


「……好きな人がる、というのを聞いたのだけど」

「そうなんです。それに最近好みを聞いてくる人が何故か多いんですよね」


 私がちょっと愚痴っぽく言うと、グライアさんはにこりと笑った。


「でも、おかげで君の好みがはっきりしたわけだ」

「……もしかして、気づいてました?」

「君が聞かれた人以外の事を指してることなら」


 ずばっと当てられて、私は思わず笑ってしまった。


「鋭いです」

「気づいたのは途中からだけれどね。……ちょうど良かったよ」


 何故か満足そうに言うグライアさんの後半の言葉は、ひとりごとだったようでよく聞き取れない。


 でもばれてしまったのならば、となんだかちょっと心が軽くなった気がした。


 ……嘘は嘘だから、ちょっとだけ気が重かったのだ。ちょっとだけ。


 雨の音が鳴り響いて、私は昔話をする気になった。穏やかなグライアさんの目は、あの彼を思い出させた。

 色も形も全然違うのに。


「最初は全然気にしてなかったんですが、理想の男性像と似た子との思い出があるんです。……それが初恋だったのかもしれないですね」

「……初恋。銀髪の、男の子?」

「そうです。小さいころだから当然長身でも立派な体格でもありませんでしたけれど。それに、貴族ではあると思いますが高位かはわかりません」

「確かに子供ですもんね」


 二人で笑いあう。秘密を共有したみたいで、なんだかちょっと楽しくなってしまった。


「与太話だと思って聞いてくれますか?」

「……もちろん、大丈夫だ」


 私が声を潜めて言うと、グライアさんも神妙な顔をして頷いた。真面目な顔がおかしくて、また笑ってしまった。

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