第3話 メシア・カラス
「ぅっはよーー、瑞葵!」
登校中の瑞葵を、誰かが後ろから叩く。
背中には大して中身の入っていないリュックを背負っているため、バスンという音が響く。
声から犯人は特定できる。
瑞葵は視線を後ろに向け、その人物にあいさつを返す。
「はよ、
彼は
瑞葵の高校一年からの同級生。
馬が合ったと言うのだろう。二人は出会って、瞬く間に仲を深めていった。
一年と少しの付き合いでしかないが、幼馴染のような以心伝心ぶりを発揮することもある。
「朝からテンション高いな、おめーーは」
「褒めるなよ」
「安心しろ、褒めてねぇ」
「褒めろや」
いつも通りの会話である。
瑞葵は今もなお、一週間前の朝の出来事を、現実のものだと信じきれていない。
朝起きたら謎の美少女が枕元で全裸で寝ていて、それがカラスで美少女で魔女で別の次元の存在で美少女で。
もう、訳が分からない。
当時は一周回って納得していたが、改めて整理すると……謎だ。
だが彼女はお礼を言って、朝飯だけ食べて出て行った。
それ以来、彼女は見ない。
しばらくこの次元に滞在すると言っていたが、別の次元の存在だ。
ただでさえ個人差のある「しばらく」という言葉が、彼女にとってどれだけの期間を指すのか、彼には計れない。
今頃、一体どこで何をしているのだろうか。
カラスとして過ごしているのか、ヒトとして過ごしているのか、もうすでに他の次元にいるのか……。
物思いに耽っている瑞葵に、侑暉は話しかける。
「そいや最近、ここら辺で幽霊騒ぎがあるとかないとか……」
自分の世界から瑞葵は帰還した。
「……相変わらず、お前はそういう話が好きな。で、一応聞くけど、内容は?」
「誰もいないはずの背後から声をかけられたり、不思議な色の炎を見たとか、爆発音がしたはずなのに何も壊れてなかったり……」
「なんじゃそりゃ。どうせ馬鹿な連中が花火とかやってるんだろ」
不思議な色はどうせ花火の炎色反応、爆発音も花火の音。
囁き声はいたずらか何かか、家の中の話し声かテレビの音をたまたま拾い上げただけ。
瑞葵は侑暉の話に結論を与えた。
「うーーん、俺もそう思うんだけどさ。噂になってるってことが変なんだよなぁ」
「お前みたいな噂好きがそこら中にいるからだろ」
「それに、空中に女の人が見えたとかいう噂も……」
「そういうのを尾ひれって言うんだ!」
すでに瑞葵は、そのうわさ話に対する興味を失っていた。
◇◆◇◆◇◆◇
「最近、ここら辺の地域で不審者の目撃情報が相次いで報告されているそうなので、皆さん、気を付けてくださいね。何かあれば警察や学校へ連絡してください」
その日の朝のSHRで、担任がそう言った。
「……ほら言ったやん」
「お前、幽霊って言ったやんけ。これは不審者な?」
前の席に座る侑暉が、後ろに座る瑞葵に頭だけを近づけて今朝の話題を掘り返すが、すでに興味を失ってしまっている瑞葵は、ばっさりと切り捨てる。
そもそも、不審者騒ぎなんて珍しくもなんともない。
それほど頻発しているわけでもないが、年に数回はある。
去年――彼らが高校入学したての頃にも不審者(露出変態系)騒ぎがあった。
まあそれは結局、彼らの高校の生徒指導部の先生が捕まえたのだが……。
この時瑞葵は、完全に他人事だと思って……日常のたった一コマだと思って、この不審者騒動は気にも留めていなかった。
彼は後に思い知ることとなる。
事件・騒動というのは、誰かが何かしらの害を被るからこそそう呼ばれているのだということを。
◇◆◇◆◇◆◇
6月22日(木)――PM.9:12
瑞葵は学校帰りのバイトを終えたはいいものの、突然の大雨に降られた彼は、土砂降りの中を走っていた。
「くっそ、最近の天気予報はほんとに直前になって予報を変えやがる! 気象庁なんだから天気ぐらいコントロールしやがれってんだ!」
瑞葵は天気予報と気象庁への愚痴を吐きながら、雨粒を全身に浴びながら走る。
最初は濡れるのも嫌だったが、いざびっしょり濡れてしまえば、あとはもうどれだけ濡れようと関係ないと思うようになった。
そう、どうでもよかった。
干しっぱなしの洗濯物以外。
「そうだよな。天気予報なんて、当てにしない方がいいよなぁ?」
「ああ、ほんとにな――――!?」
突如、耳元で声がした。
反射的につい反応してしまったが……よくよく考えてみれば、周囲には誰もいなかったはずだ。
瑞葵は咄嗟に距離を取った。
「おいおい、そんなにビビんなよ。ビビったところで無駄なんだからさぁ」
そこにいたのは、全身を黒いローブで包んだ……声から判断するに、男。
顔はフードで隠されている。
「……誰だ?」
「俺はただの、ここら辺をうろちょろして品定めをしてるだけのしがない暇人だ」
おそらく、不審者はこいつだ。
先日のHRで先生は「逃げろ」と言っていたが……逃げ切れるか怪しいうえに、家の位置がばれてしまう。
だが――回り道になるが――上手いこと家と家の間の細い道などを駆使して逃げれば、もしかしたら…………――
瑞葵は方向を変え、駆け出す。
「――逃げようとしても、もう無駄だぜぇ?」
後ろからそんな声が聞こえてくるが、追いかけてくる足音はない。
瑞葵は細い道から別の道へ出て、再度駆け出す。
だが決して、先ほどの道へ出ることはしない。
ここら一帯の地図は頭に叩き込まれている……とまではいかないが、家の位置は把握できている。
だが視界の先には――
「言ったろ、無駄だって」
――――先ほどの男が後ろ向きで立っていた。
瑞葵はたった今、男のいる道の隣の道へ出た。
ここへ通じる道は、一番近いので――今彼の通った細道は除く――数十メートル先の曲がり角のみ。
だがこの道は、先ほど男と遭遇した道だ。
気づかないうちに戻ってしまったのだろうか。
瑞葵は、今度は道を少し戻り、その先の曲がり角を目指す。
「――お前は俺から逃げられない」
角の先の道にも、また男が立っていた。
◇◆◇◆◇◆◇
何度、男と別れと出会いを繰り返しただろう。
重い荷物を背負っての全力疾走の繰り返し。加えてこの天気。
息が切れるのも当然。瑞葵はよく頑張った。
大量の、汗とも雨とも区別のつかない水が、頬を流れる。
「お前は合格だ、少年」
瑞葵にはもう、逃げる体力は残っていない。
男は一歩一歩、ゆっくりと瑞葵に向けて歩みを進める。
瑞葵は、正面から男と向き合う。
そこでようやく、ローブの下の男の素顔が明らかになった。
特にこれといった特徴のない、平均的な中年男性の顔。
だがその口からは、二本の大きな犬歯がはみ出していた。
最後の抵抗とばかりに、瑞葵は握りしめた拳を、男の顎目掛けて突き出した。
――バシッ!!
だが、いとも容易く受け止められてしまった。
お返しとばかりにデコピンを食らった瑞葵はよろめき、そのまま座り込んだ。
走り続けた影響か、不可解な事態に直面している故の緊張感か、はたまたその両方か。
もう、立つだけの気力も残っていない。
「顎を狙うのは、咄嗟の判断にしては正解だが……残念だったなぁ。さあ、大人しく俺様の養分になれ。なに、少しチクッとするだけだ」
男は、瑞葵の肩に手を置く。
瑞葵の眼には、不敵な笑みから顔を覗かせるその犬歯だけがよく見える。
――まさか、血でも吸われるのだろうか。
そう思ったとき――
『――させないよ!!』
突如現れた小さな物体が、男を突き飛ばした。
『ミズキ、大丈夫!?』
瑞葵は、その声の主を知っている。
小さな、真っ黒な体。
「…………アステリア!!」
一週間前、彼の元を去った一羽のカラスが、そこにいた。
――追加情報・2――
「魔女」とは「魔界」と呼ばれる次元の、魔法を使うヒト型生物――魔人の、とりわけ女型のことを指す。なお、男型の名称は魔人で統一されている。
だがこれはあくまで、この次元での話である。
現地である魔界では、現地語で「魔人」に統一されている。
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