何もないホテル

朝本箍

何もないホテル

 開業してまだ一年程度、新築と言って差し支えないホテルでした。

 世界的なパンデミックになる前から私と妹は、時折市内のビジネスホテルへ宿泊するのが好きでした。ふたり暮らしなのに何故わざわざ、と言われることもありますが、清潔な部屋はそれだけでちょっとした旅行気分を味わせてくれます。

 リゾートホテルはそれなりの金額がしますが、ビジネスホテルは朝食をつけてもお手頃なところが多く、しかもその頃は旅行に対して助成金があり、更に安くなっていたのです。今は元のどころかそれ以上の価格になったところも多いですが。

 そのホテルを選んだのは私で、まだ新しいことに加え最大の決め手は朝食でした。バイキング形式ではなく、様々な小鉢を取り揃えた和食懐石のような食事は写真から美味しそうで、口コミにも朝食を絶賛する言葉が並んでいたのです。

 価格帯はビジネスホテルとリゾートホテルの中間、前述の助成金による割引を使用し、安くなった分せっかくならと少し高めのツインルームを予約しました。



 当日、訪れたホテルは新築らしく、夕方間際の弱くなった日差しにもきらきらと輝いていました。フロント、そしてその横の朝食会場となるレストランスペースはシックで清潔感があり、椅子やディスプレイひとつとってもこだわりが感じられます。ホテルのロゴが入ったマスクをもらい、キーを渡されたのは十一階の部屋でした。エレベーターを降りてすぐに掲げられたフロアマップを何となく確認している私を追い越して、妹が部屋を目指して進んでいきます。キーを持っているのは私なので慌てて追いかけ、妹を追い抜いて部屋を開けると、


「部屋もやっぱり綺麗だね」


 妹は笑いながら中へ入って行きました。入ってすぐ左手の壁に取り付けてある姿見に笑顔が映り、私もそれを見ながら中へと入ります。姿見の向かい側には洗面所と一体化したバスルームがありました。

 妹の言う通り部屋は真新しく、ベッドの頭側にはもらったマスクに入っていたホテルのロゴが大きくプリントされたキャンバスが飾られています。ベッドサイズを欲張ったせいでほとんどベッドしかない状態でしたが、その甲斐はあったと言えるほど立派なベッドは少しのシワもなく張り詰めて私達を待っていたようでした。そのままの流れで、妹が部屋の奥側にあるベッド、私が入口側にあるベッドを使うことになり、私は財布とスマホだけを手に取って荷物をベッドの上に放り出しました。

 夕食なしのプランだったのでそのまま繁華街へ移動し、家では食べないような手の込んだ料理を食べて、ホテルに併設されたコンビニで夜食を色々と買い込むというお約束の流れをこなして戻ってきた時には、それなりにいい時間となっていました。

 妹がお風呂に入っている間、私はベッドの上に買ってきたおやつとお酒を並べ、ぼんやりとバラエティ番組を眺めていました。最近は専ら動画ばかりだったので出演者の大半がわからなかったものの、テレビという存在が好きなので画面を見つめることは苦ではありません。何度目かのCMで出てきた妹は、


「ずっとベッドにいたの?」


 と怠惰な姉に対し訝しげな視線を向けました。スナック菓子を頬張っていたので頷きで肯定すると、そっか、と呟いて自分のベッドへ腰掛け、


「髪乾かしてたら、姿見のとこ何度か通ってるのが見えた気がしたんだけど……勘違いか」


 私と同じ様におやつを並べ始めました。結局自分も食べるんじゃん、と笑いながら入った洗面所から見た姿見には顔を出した私しか写っておらず、髪を乾かしている時にもそれは変わらなかったことを覚えています。



 夜、私は珍しく悪夢を見ていました。空調の設定温度が高過ぎたのか寝苦しく、浅い眠りに落ちた途端ホラー映画でお馴染みの手入れされていない長い黒髪で顔を隠した女性がベッドサイドに立っています。妹のベッドとは反対側、部屋の入口側に立つその女性は暗闇に浮かぶような白い服を着て、私を見ていました。

 そしておもむろに、私の顔へ手を伸ばしてきたのです。直感的に、あ、これは歯を抜こうとしていると感じました。麻酔もなしに歯を抜かれるのは勘弁と手で防御をしようとして身体が全く動かないことに気づき、焦る私を嘲笑うように女の手が私の唇へ触れた瞬間、


「大丈夫?」


 妹の声で目を覚ましました。夢の中と同じ暗闇の中、妹が私の顔を覗き込んでいます。備え付けの白いガウンがぼんやりと浮かんでいるのを見ながら身体を起こすと、全身が汗でじっとりと湿っていました。ホラーは大好きですが実際に体験するのはごめんです。大丈夫、頷くと妹はしばらく瞬きもせず私を見つめ、


「部屋めっちゃ暑いし、何かうるさいもんね。にしてもいびきならともかく、うなされるなんて珍しい」


 普段はこっちが寝られないくらい、いびきうるさいし。余計なことを言って笑い、またベッドへと戻っていきました。いびきは余計だと思いつつ、私もトイレへ行ってから設定温度を出来るだけ低くしてベッドに入りました。寝苦しさはまだまとわりついていたものの、体温も段々と下がり眠気が忍び寄ってきます。空調の音だけが暗闇に響き、私はふと何かが気になったのですがそのまま眠ってしまいました。



 昨日の夜が嘘のようにすっきりとした朝です。混雑を避けるために出来るだけ早く会場へ行こう、前日からふたりで決めていたので目覚ましを止めてからそう間を置かず、部屋を出ました。まだマスクが必須だった頃なので、すっぴんでもエレベーターで乗り合わせた人、スタッフの視線も気になりません。

 提供開始時間直後にやって来た会場にはそれでも、二組ほど先客がいました。輝く窓際の席に案内されるとテーブルには今日の朝食メニューが事細かに書かれた紙が置かれています。フルコースのお品書きみたい、ふたりではしゃいでいるところに運ばれて来た二段の重箱は写真で見た以上に豪華でした。

 中は細かく仕切られ、ひとつひとつ全てに違う料理が盛り付けられています。中には小さな蓋付きの器が入っている区画もあり、開けてみれば滑らかな茶碗蒸しがふるふると揺れていました。別で届いたご飯とお味噌汁、水まんじゅうなどのデザートも見ているだけでお腹が空いてきます。

 いただきます、声を揃えた後に口へ運んだ海老しんじょうのあんかけは海老の食感が残りつつも柔らかで、あんの風味はどこまでも上品でした。おいしい、私が呟く前に妹の嬉しそうな声が耳に届きます。本当にそう感じているらしい笑顔に同じ顔をして夢中で食べ進めた後、妹がふと、そういえばと何でもないことのように声を発しました。


「昨日、休憩室賑やかっていうか、うるさかったよね」


 言葉の意味がわからずに眉根を寄せると、私が理解していないことを察したらしく話を続けます。料理はもうあと少しというところまで減っていました。


「わたしの方が壁際だったから、そっちまで聞こえなかったのかな。壁の向こうからずっと水が流れる音っていうか……洗濯とかしてるみたいな? まぁ休憩室ならカップ麺を作ったりとか、色々洗ったりとかそんなこともあるんだろうけど、もう少し静かにして欲しいよね」


 妹は私に比べて少し聴覚過敏なところがありました。まぁ私は近所で火災が起き、空が赤くなるほど消防車が駆けつけたにも関わらず寝ていたという逸話を持つほど音に対しては無頓着なところがあるのですが、妹は階下の足音でも目を覚ますことがあるので足して二で割れればちょうどいいのかもしれません。私はそこであることに気づき、眉間のしわを濃くして妹へ答えました。


「……壁の、向こうから聞こえたの」

「うん。耳をつけたから間違いないと思うよ。内容はわかんないけど話し声も聞こえてたし」


 そこから先に食べたものの味は覚えていません。朝食を終え、チェックアウトのために部屋へ戻る途中私は十一階のフロアマップ、そのうちの一部屋を指差しました。一が四つ並んだその部屋は私達の宿泊した部屋です。

 その部屋は十一階の角部屋、妹が寝ていた奥のベッド、壁を隔ててその向こうにあるのは非常階段でした。



 この話を書くにあたって事故物件を調べるサイトで確認してみましたが、私達の宿泊したホテルに事故や事件を示すマークはありませんでした。今もそのホテルには朝食を絶賛する口コミが絶えず寄せられ、その中に時折、夜はうるさかったですがそれを帳消しにするおいしさです、というのを見つけたくらいです。

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何もないホテル 朝本箍 @asamototaga

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