8—1
上手いエールと夕飯を楽しみに帰路についた三人だったが、そのアテは外れる事となった。
パビリオから海の家まで、馬車で半日かかるという事実を失念していたのだ。
三人が帰りの馬車に乗れたのは陽が沈むギリギリの時間だった。当然、宿に到着する頃には食堂は閉まり、宿の住人も寝静まっている時間だ。
食事をしようにも、通りの出店は閉店している時間であったし、開いている店と言えば酒を提供するようなものばかりだ。いつもなら迷いなく入るだろうが、満身創痍の三人に寄り道する余裕は流石に無い。何よりもすぐ湯を浴びたい。
今にも膝から崩れ落ちそうなキースをクラインが担ぎ、泣く泣く夕食を諦めた三人が灯りの落とされた食堂の入り口を潜った時だ。
「おや。今帰りかい? 随分遅かったね」
食堂のテーブルを拭いていた女将さんが出迎えてくれたのだ。
「ただいま帰りました」
「ちょっと遠くの迷宮に行ってきてさー。疲れたぁー」
「風呂だけ入りたいんだけど、いいですか?」
「あぁ。下の風呂使いな」
遅い時間だった為に二階の共同ではなく、一階の女将さん宅の風呂を使わせてくれると言う。ありがたいと思いながら、「これに入れて」と差し出された籠に洗濯物を取り出したところで激られた。
「なんだいこの量は!? ヌメヌメしてるし、こっちはベトベトしてるし、これなんか……うっ!! 変な匂いがついてるじゃないか!! おまけにこんなにタオルをボロボロにしちまって! 一体どこをほっつき歩って来たんだい!!!」
取り敢えず女将さんの前に三人正座で並んで座り、『海の家』という迷宮の攻略だった事、中でどんな事があったのか、洗濯物が多くなったのもヌメヌメベトベトしてるのも、タオルを犠牲にした事も全部故意では無い経緯を説明した。
「ちゃんとお土産もあります!!」
「そうそう!! 女将さんの為に食料調達して来たから!!」
「どうぞ。お納めください」
切断はされているが、クラインが抱えて差し出した大きな貝柱を見た途端に女将さんの怒気は引っ込んでいった。大きさにも鮮度にも感動している。
なんせキースが喰われそうになった程の貝だ。その貝柱の大きさは尋常ではない。軽く二、三十人前くらいはありそうだ。
「これは料理のしがいがありそうだねぇ」と、怒りを鎮めた女将さんに三人は顔を見合わせて心底『持って帰って来て良かった』と安堵したのだった。
「どうせ腹ペコなんだろう? 有り合わせでいいなら用意してあげるから、さっさと風呂入っちまいな」
仕方ないとばかりに小さく息を吐き出す女将さんに礼を言うと、三人は我先にと風呂へ向かった。
遅い夕食を終え、厨房まで食器を下げたところでログナだけ呼ばれる。二人に先に寝てるよう告げ、食堂の奥にある女将さんの生活スペースへ初めて足を踏み入れた。
「そこへお座り」
指されたのは暖炉の前に置かれた大きな木製ベンチだ。ずっと使っている家具なのか、だいぶ年季が入っている。時期では無いため暖炉に火は入っていなかったが、カタール村で過ごしていた頃、よくクラインと共に遊びに行ったキースの家を思い出した。赤々と燃える暖炉の前で夜遅くまで三人で語り合った事を思い出し、懐かしさにログナの口元が自然と緩む。
そんな事を思い出していると、女将さんが手に薬箱を持って戻ってきた。
「あんた怪我してるだろう? 見せてごらん」
「え、なんで……」
確かに闇光貝との戦いで右手を負傷したが、女将さんの前では腕を出したりしていなかったし、不自然にならないよう振る舞ったつもりだった。
上着を脱ぎシャツを脱いだログナの右腕は、当てていた布を外すと全体的に鬱血と酷い擦り傷があり、場所によっては皮膚が捲れてしまっていた。
「よく我慢してたね。相当無茶したみたいじゃないか」
「あはは……」
「伊達に冒険者相手にしてないよ。薬塗ってあげるから、滲みても我慢するんだよ」
薬箱から取り出した軟膏壺は、平べったい拳程の大きさで、蓋の部分に意匠の凝らした飾り彫のなされた見慣れない容器だった。蓋を外した中には草色の軟膏が入っている。
「ん?」と違和感を感じたログナは、軟膏をじっと注視した。魔眼の精度が上がって来たのか、軟膏から僅かに湯気のような薄い靄が出ているのがわかる。そしてそれは女将さんから立ち昇る湯気のようなオーラと同じ気配だと感じた。
「女将さんって魔力持ち? この薬って女将さんが作ってるんですか?」
ログナの腕に軟膏を塗り付けながら、女将さんは意外とばかりに口を開く。
「おや、分かるのかい?」
「オレも魔力持ちらしくて、何となく分かったんです」
「そうなの。私は微々たるもんで使いこなせはしなかったんだけどね」
懐かしいとばかりに目を細め、薬を塗る手を休める事なく女将さんが自分の話をしてくれる。
「ここを始める前に道具屋で働いていてね、薬草を扱っていたんだよ」
「そうなんだ。それで食事にも薬草が使われているものが多いんですね」
ここの宿の食事は美味しい。冒険者の胃袋を掴む品が非常に多く、夜は酒を提供しているのもあってか、夕食時からは混み合っている事も多い。
値段が安い事も一因だろうが、香草や薬草を使った料理が冒険者に適した食事である事が大きいと思われた。
「冒険者は体を使う仕事だからね。食事でそれを賄ってやりたいのさ。特にあんたたちみたいな若いのは直ぐ無茶するんだから!!」
「……はい。自覚あります」
反省の色を見せるログナにくすりと笑うと、女将さんの瞳が伏せられる。薬を塗り終え、今度は包帯を巻いてくれた。
「私の息子もあんたたちくらいの歳に冒険者になるって言って、家を飛び出して行ったきり、全然顔見せないんだよ。旦那が冒険者だったから、そうなる気はしてたんだけどねぇ」
「今はどこに?」
「どこだかねぇ。たまに手紙が届くから、生きてはいるんだろうけどね」
「だから宿屋をやってるんですね」
「まぁね! 旦那も引退した事だし、生きてく為にはもりもり稼がなきゃならないしね! だからあんたたちみたいのを見るとつい応援したくなっちまうんだよ」
「終わったよ」と、薬箱を持った女将さんが立ち上がる。綺麗に包帯が巻かれた腕は、さっきまでの痛みが嘘のように楽になり、肘の曲げ伸ばしも苦では無くなった。それが女将さんの魔力が影響しているのかは定かでは無いが、彼女の想いに心はほっこりしている。
自分にはそんなふうに身を案じてくれる近しい人は乳母しかいなかったせいか、こんな人が母だったらと思わずにはいられない。
「きっと女将さんがここで宿やりながら応援してるのを知ってるから、息子さんも思いっきり冒険者やれるんですよ」
「そうかねぇ」
少しばかり照れくさそうにはにかむと、「明日も早いんだろう?」と急かされた。もう一度礼を言って立ち上がる。
扉を開けようとして、ログナが女将さんを振り返った。
「女将さん、オレ達頑張るよ。女将さんがここで安心して宿屋続けられるように、どこにいてもここまで噂が届くくらい話題になるような冒険者に、絶対なってやるから!」
今はまだ駆け出しでも、街のどこにでもいる若造にしか見えなくても、この決意だけは揺るがない。絶対に世界中に名を轟かす冒険者になってやる。
そう決意をたぎらせ、他の冒険者の野郎達同様に瞳を少年のように輝かせるログナに、女将さんはくすりと笑みを零した。
「(全く。みんなしておんなじ顔するんだから)」
「楽しみにしてるよ」と笑いながら、部屋を出ていくログナの背を見送った。
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