第五話 だってお前は恵まれてるだろ?
俺には自殺願望があった。自宅に帰っても親は迎えてくれない。あるのは、玄関からリビングまでの暗い空虚な空間とリビングから香るタバコの残骸。でも、学校には少しだけ居場所があった。その中でも、やはり、彼女の存在が大きかったように思える。あそこにさえ行けば、彼女に会える。だが、その時告げられた言葉は、俺にドロッとした何かが心臓を伝う感覚を覚えさせたんだ。
◯
「ごめん、もう、弘樹とは続けていけない。別れよう」
「...わかった」
情けない。バレー部の部室で言われた、最初で最後の別れの言葉だった。問題はそのあとだ。
「あと弘樹、私ね、妊娠してた」
ぐらっと視界が揺れた。頭が真っ白になるというのはこういうことなのだろう。
「え、あの一回で...ほんとに?」
「うん。病院にもいった、二か月目、かな」
心当たりはあった。しかし、未来を象徴する言葉は宙に浮かんで、俺の唇の前で踊る。まるで餌を待つ鯉のようにその言葉を咥えようと口をパクパクとさせる。きっと、二人で未来を歩んでいこう、俺が責任をとるよ、そのようなことを示唆する言葉を掛けられれば、良かった。だが、俺にはできなかった。
その後に感情が遅れて、俺の背中を搭乗し駆け上る。体温がくつ紐を勢いよく引くように冷えていき、すぐに、ぐつぐつと熱しられた異物が体内から這い出ようとしている。
気がついたら、彼女の後ろにある窓ガラスを割っていた。
「ひっ...え、なんで」
もう限界だった。途端に手に熱が帯びはじめ、地面にぽたぽたと赤色の水玉模様ができていた。夕日が照らって、彼女の右半分を赤く染め上げている。俺は、何をしているんだ。
○
昨日、学校から帰ってきたら、市役所の人と母が、水道代について話していた。
「ですから、規則ですので停水します」
「ちょっと~、だから、私一人で息子を養っているんですよ?停水?したら弘樹が困っちゃうじゃないですか」
「払わない限り、そのままです。息子さんのことを思うなら、早めに払ってください。催促状が何度も届いているはずです」
「え~そんなのあったかな~、てか急に止められても困ります~」
「ですから何度も催促をする紙が...」
「あ、弘樹~、おかえり~」
「うん、ただいま」
「...お邪魔してます」
「...はい」
会釈を軽くした後、二階の自分の部屋へと逃げるように足を運んだ。少しの怒鳴り声が聞こえた後、沈黙が続いた。部屋から出て、階段の上から様子を盗み見る。そのあと、しぶしぶ、母が財布から一万円札を取り出し役所の人に渡した。部屋の中で考えた。俺は今、困窮しているのか。頭を抱えた。普通に絶望した。苦悩、不安、未来、暗い色へと視界がどんどん蝕まれていく感覚。
だから、岩渕と交際を始めた。まずかったのは、交際を始める前に、体の関係から入ってしまったことだ。多分それは正しくない。その後に、成り行きで付き合った。母親がいない時を見計らって、大体家に呼んで、彼女とベッドで不安をかき消していた。いや、俺だけだろうな。目の前の不安を、絶望を、暗闇をどうにかして誤魔化していた。そうすれば、何かが変わって、俺のこの気持ちが晴れるにはいかないにしても、傘ぐらい差してもらえるような気がして。
○
俺は、手の痛みを我慢して、彼女の顔を横目に捉え、走った。彼女は追いかけてこなかった。下には騒ぎをかぎつけたやつらが群がっている。バレー部の顧問も駆け付け事態が大きくなった。
「どうした、なにがあった!?」
「やべ、にげろ」
性格が悪いと自覚しているが、幸いにも窓ガラスが割れた真下に、隠れて喫煙をしていた清水とその取り巻きがいた。割れた瞬間に誰かが来ると察知した彼らは、タバコを消そうとパッと手放し、足で消した後、近くにあったレンガを被せ、証拠隠滅を図ろうとした。そのレンガを手に取ったところを見られたらしい。部室が二階にあって助かった。危うく見られていたかもしれない。
「清水らがやった」
「やっぱあいつら何かすると思ったんだよな」
「レンガで隠そうとするなんて、小賢しい」
そんな声が入り口付近で聞こえる。野次馬らに手の怪我を見られるわけにはいかない。裏口に回って、校庭の砂を軽くつまんだ。調味料のように、腕に振りかけ、痛みを歯で食いしばる。足と服にも砂を押し込むようにしてがむしゃらにつける。保健室に行く口実を作っていた。人目につかぬよう急いで、保健室のドアの前に立つ。
「失礼します。すいません、包帯、巻いてもらえますか」
「はーい...え!?ど、どうしたのその怪我!?何があったの!?」
「えっと、部活の走り込みで、転んでしまって」
この言い訳をするために、傷口と服に砂をつけた。
「えっとそれ大丈夫!?とりあえず病院行きなさい!応急処置はするから!」
いずれサッカー部顧問に伝わり、部活をさぼったことがバレるのだろう。しかし、窓の件がバレるよりはまだマシだ。というか、もう何も考えたくない。応急処置を施された右手は、頭の中のように真っ白だった。
「じゃあ、気をつけて帰ってね」
「はい、ありがとうございました」
帰路につく。あの砂を付けた行為、なんだ、俺がやっていること、清水らと何も変わらないじゃないか。
「痛っ...」
右腕も痛むばかりだ。
○
「じゃあな、高城」
「あぁ」
あの騒動の後、サッカー部をさぼったことを少し怒られて、腕の怪我について聞かれた。顧問に、走って転んだことをいうのが恥ずかしくて部活のせいにした、と告げると、「じゃあしょうがないな。早く復帰できるように治せ」と許された。そこまで詰められないのは信頼があるからだとチームメイトから言われたときは、これまでサッカーを頑張ってきて良かったと思える瞬間だった。チームメイトには感謝しかない。
腕の傷は少し傷跡が見えるぐらいでほとんど治り、そこまでプレーにも支障がなくなってきた。
「おい!弘樹!」
「え」
前を向くと目の前にボールが迫っていた。
「痛った!」
顔を下に向けると鼻血が出ていた。ぽたぽたと、靴に水玉模様をつけていた。あの光景がフラッシュバックする。実に不愉快だった。
「あはは、何よそ見してんだよ、やっぱあれか、彼女と別れたから?」
「あ?おい今なんて言った?」
「え、あごめん...そう怖い顔すんなよ」
「...悪い、集中する」
今、ふと屋上に何かが見えた。いや、人影だ、それに一人じゃない。二人か。うちの高校では右房階段の屋上へ続く鍵がぶっ壊れてるのは有名だ。ていうか、あれ、岩淵じゃないか?間違いない。俺が見間違えるはずない。おい、まさかだよな。もし、俺が想像しうる最悪な事が起きたら、俺は、俺は。心臓が高鳴る。
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