26. All is fair in love and war


 黄昏時、西の空の端に薄っすらと淡くなった太陽が、最後の足掻きのように光を漏らしている。

 

 普段、この公園は23時まで立ち入り可能だが、緊急の設備点検の名目で、17時45分時点で一般利用者を公園外へ移動させた。

 この異様な空気が漂う状況を、イヴァンや渕之辺 みちる、梟とコードネームが付けられていた男は、気づいているだろう。


 真咲は噴水広場に向かう道すがら、植え込みの影に何かを見つけて覗き込む。

「うへぇ」

 悲鳴にしては気の抜けたトーンだった。


「どうしました?」

 隣を用心深く歩いていた杏樹が、真咲に囁き声で聞き返す。


「イヴァンの手下かなぁ〜? みんな死んでる」

 真咲は道の両サイドにある植え込みを順番に覗き込み、飄々と答えた。

「え」

 真咲の動きについて回る杏樹は、死体を見るたびに目を見開く。


「みんな一発だ。いつの間にっつーか、ここまでくると、お見事だわ」

 首、心臓を撃たれた者もいるが、撃ち抜かれているのは基本的に頭部。植え込みの影に潜んでいたところを、見抜かれて撃たれていた。


 人種問わず、服装も統一感がない。ただ、持っている銃器だけは、有名どころの新品だった。

 彼らは、イヴァンが急いで集めた人員だったのだろう。

 

「どこから見てるのかな」

 真咲はぐるりと辺りを見回す。当然ながら、それらしき気配はどこにもない。


 杏樹は真咲の体の前に踊り出て、警戒心を剥き出しにし、真咲を庇うような動きを見せる。

 その肩を軽く叩いて、真咲は微笑んだ。

「大丈夫。相手を見て、選んでやってるよ、これは」

 その昔、この時間帯は逢魔時おうまがどきとも言われて魑魅魍魎が現れる時間と言われていたのだと、この状況にぴったりな蘊蓄うんちくを、語りたくなるのを、真咲は必死で堪える。

 

 たぶんこの部下は、そんなのんきな蘊蓄を聞いたら、サラッと流せずに物凄く怒る。


 

 

        ***


 

 人気ひとけが不自然なほどない。

 

 私が手配した殺し屋やマフィアの連中の動きがあまりにも鈍く、その時点で梟が行動を起こしたのだと察した。


 想像通りとはいえ、金を積んで日本で動かせる殺し屋だのを用意したのに、意味がなかったと思い知らされた。

 舌打ちしたい気持ちを押し殺し、私は噴水前広場で、あの娘を待っていた。

 

 18時と言ったのに、あの娘は5分も遅刻している。これが商売の交渉相手だったら撃ち殺しているところだ。

 

 まだ現れない相手に苛つきながら、煙草に火をつける。

「気配を消す方法は、サハラから教わったか」

 穂先に火がつき、一条の煙が立ち昇った時に、やっと現れたあの娘に声をかけた。


 音もなく気配もなく、陽炎のごとく現れ、無表情で私を見つめている。

 

「サハラが生きていた」

 昼間、ひどく疲れた様子で帰ってきたビスクドールを一休みさせて聞いた報告は、驚くような内容だった。

 サハラが生きていた。

 サハラは二年前から、若年性アルツハイマー型認知症が悪化して、介護施設にいた。

 狐は今朝、サハラを殺した。

 

「もう死んだ」

 そう言い放つ瞬間、黒い瞳に光が宿る。この眼はいつも、私に反抗的だ。

「よくも私のせいだとか、根拠のないデマを流してくれたな」

 腹立たしい気持ちを、皮肉な笑みに換えて言う。

「その顔が見たかった、とか言ってみていい?」

 黒曜石のような瞳とすらりと通った鼻梁は、ユーコに。意地悪そうに笑う、その笑い方はサハラに。この娘は、どちらの要素も持っている。


「ごめんなさい。秀哉さんの不在を誤魔化すのに都合が良かったから」

 謝る気などないくせに、まず最初に謝るのは日本人の良くないところだ。


「さぁ、話をしよう」

 噴水に背を向ける形で縁に腰掛け、隣を手で指し示す。

 私の声かけに小さく頷いた娘は、私から少し距離を取って座った。


「あの日、私たちとアヴェダが会食する場を設けたのは、どういう流れで?」

 座るや否や、問いかけてくる。

 一刻も早く、この場を切り上げたいという意思がありありと見て取れる。もちろん、私だって同じ気持ちだ。


「まず、私と君とで、ユーコが死ぬまでの足取りを辿ろう」

 本来、私の隣にいるはずだったのはユーコなのに、何故この娘なのか。つくづく溜め息が出る。


「あの日のこと」「あのヴァレンタイン」

 同じタイミングで、声が重なった。

「私はあれから、ヴァレンタインが苦痛になった」

「私もです」

 悔しいことに、私とこの娘は同じ痛みを分かち合える、唯一の同志になってしまった。

 

「二年前と、あのヴァレンタインの半年前。あなたは優子さんに会いに来ましたよね」

 噴水の水音に掻き消されないよう、この娘は声を張る。


「二年前の時は、リエハラシアの政府高官レベルと会う術はないかと相談されてね」

「秀哉さんが記憶が、子供の頃に戻った頃ですね」

 ビスクドールいわく、二年前からサハラは介護施設に入所したそうだ。

 この娘の話が確かなら、自宅で看るのが難しくなった頃だったのだろう。


「その頃の秀哉さんは、優子さんを母親だと思っていた」

「最近じゃ、君を故郷で死んだ妹だと思っていたそうだな」

 狐が調べた電子カルテには、事細かにサハラの病態が綴られていたそうだ。ビスクドールが読み取れた内容だけでも、ここまでの情報が手に入った。

 黒い瞳は、私を睨みつけるように見つめてくる。気分を害したのか、私がサハラについての情報を持っていたのを驚いたのか、そのどちらかだろう。

 

「あのヴァレンタインの半年前、優子さんと会った時にはどんな話を」

 そう言いながら、この娘はボトムスのポケットをもぞもぞも探る動きをしたので、私は身構える。

 次の瞬間、この娘が取り出したのは四角い小さな包みに入った何かだ。そしていきなり一つ、投げて寄越してくる。

「同じ話だよ。アヴェダとジェセカに会いたい、と。だから言った」

 面食らったものの、包装紙にチョコレートと書かれた文字を見つけて、この包みがチョコレートだとわかる。


「私に『ファラリス』のデータと、生体認証用のマイクロチップを渡せ、と」

「それで、渡してくれた?」

 音を立てながらチョコレートの包装紙を剥がし、口に頬張った娘は、薄く笑って聞き返してきた。


「いいや。その代わり、たくさん愛し合った」

「生々しいし、気持ち悪いこと言う」

 そう言って、この娘は嫌そうに顔を顰めてみせるが、芝居じみている。

 私が何を求め、ユーコが何を返したか。この娘だって、わかって聞いてきたのだろうに。


 掌に握っていた未開封のチョコレートの包みを、コイントスのように上に向けて投げては掴む動作を繰り返しながら、

「質問を変えます。『神の杖』や『ファラリス』の話は、大昔に秀哉さんから聞いた?」

 この娘は質問してくる。


「サハラと初めて会ったのは、15年くらい前にリエハラシアに行った時だったかな。その時、サハラは全然口を割らなかった。アヴェダの方が口が軽い」

 当時のサハラは浅黒く日焼けしていて、煙草をふかしながら現れた。

 その時のサハラは、あの卑怯者の元帥マーシャルの腰巾着として、じっとこちらを睨みつけているだけだった。


「というか、その前からリエハラシア軍とは接触コンタクトを取っていた。

 君は、リエハラシアの予算だけで、あの研究ができたと思うか?」

 あの研究とは、つまり狐の父親であるミカティリ=エンリ・ガイツィナロクナフが手がけた、『神の杖』『ファラリス』、それに付随する副産物たち。

 

「ガイツィナロクナフ博士の研究を評価していたリエハラシアは、旧東西の両陣営と、表にできない金を持て余している層に、投資を募った。リエハラシアは、東でも西でもない、アヴェダ主導の独裁国家の形成を目指した。

 指揮を執れるのが、アヴェダかジェセカしかいないっていうのが、リエハラシアの運の尽き」

 チョコレートを投げては掴む遊びをしていた娘は、その手を止めて、私の言葉を補足してくる。

 研究に纏わるバックグラウンドの話まで理解しているのを聞き、感心した。


「驚いたな。サハラはちゃんと包み隠さず教えていたとは。

 この投資には夢があった。『神の杖』『ファラリス』の両方が完成したら、どちらも売れる」

「あんたみたいなのがいるから、平和にならない」

 汚いものでも見るような眼で、この娘は吐き捨てる。

 この世界が醜いものばかりなのは、私のせいだけではないし、この娘は自身の手が汚れていないと思い込んでいる。


「私に資金提供を求めてきたのは、リエハラシア側だ。私だけのせいじゃない」

 居心地の悪い視線を向けてくる娘を、睨み返す。私の視線に負けず、黒い瞳は爛々と輝いている。


「しかしアヴェダは頭がいい。『神の杖』に対抗できる手段である『ファラリス』も同時に開発したんだから。

 そうなれば今度は、両方手に入れたがるし、それが元で、対立するもの同士は、地上で牽制し合う。私たちの商売は勢いづくわけだ」

 武器商人が最も活躍する場面、それは戦争だ。

 規模の大小は問わない、そこに火種さえあれば、いくらでも大きくできる。

「Win-Winだもんね」

 呆れた口調で、黒い眼の娘は言う。

 

「ところで、リエハラシアが小国のくせに、潤沢な予算を注ぎ込んで戦争できるのは何故か、知っているか?」

 いくら地下資源があっても、隣国との戦争に明け暮れて、掘り出す余裕すらないのに、リエハラシアが兵器開発に予算を割ける理由。


「麻薬の輸出が資金源になっているからだ」

 兵役で集めたものの、兵士の適性がない者や少年兵育成組織で合格ラインに達しなかった者たちは、麻薬の精製作業に従事させるシステムがある。

 隣にいる娘は、その話に対して特に驚いた様子も見せず、私の話を静かに聞いている。これも、サハラから織り込み済みだったのだろう。


「私がリエハラシアで最初に投資した先は、麻薬精製工場の設立だ」

「あんたは本当にクソ」

 本当にこの娘は口が悪いし、この地球上にカネより重いものはないと理解できていない。


「そういう君もクソだ」

「そうだね」

 否定してくるかと思ったが、私の言葉をすんなり認めた。

 

「ユーコが死んだのはお前のせいだ。ユーコはお前を守るために死んだんだろう?」

「そう。私のせい」

 どんな経緯でユーコは死に至ったのか、それを聞くために来たのに、この娘の答えを聞いた瞬間、全てどうでも良くなってしまった。

 気づくとこの右手は、隣に座る娘の頬を挟んで摘まんでいた。


「お前が、傷ついた顔をするな。私が一番、傷ついているんだ」

 苛つきながら話す私とは反対に、不細工な顔で抵抗するでもなく、刺すように見つめてくるだけの黒い眼には、怒りに満ちた私の顔が映り込んでいる。

 引っ叩く勢いで手を払うと、その弾みで娘の顔が揺れた。


「お前が死ねば良かったと、毎日思っているよ」

 この娘は、私をキッと睨み返してきた。

 その眼差し。肩から滑り落ちる黒髪。私の隣にいた頃のユーコの姿と重なって、一層腹が立つ。


「あぁ、忌々しい」

 噴水の縁に腰掛けたまま、私は地面を蹴る。

「ユーコが本当に愛していたのは、サハラだ」

 私の元から飛び立った美しい鳥は、絶対に報われぬ愛に生きた。


 私なら生涯愛し抜いてやれたのに、かわいそうなユーコは、愛し合えない相手を、愛した。


「恐ろしい話だと思わないか? こんな身近に、近親相姦の成れの果てがいるのに」

 この娘は苦笑いしながら、そうだね、と相槌を打ってきた。

 

 ユーコの想いに、サハラは応えなかった。ユーコも、それを望んでいなかった。

 いつしかこの娘は、ユーコとサハラの間で、緩衝材のような存在になった。

 私が入り込む隙など、もうなかった。


「あんたの愛したユーコは、あんたがセッティングしてくれた会食の場で殺された」

 この娘は、チョコレートの包みをまた投げては掴む遊びを始める。


「それも、狐の手によって」

 私の反応を見逃すまいと、黒い眼が私の顔や指、爪先までじっとりと見回してきた。


「ユーコを殺したのは『六匹の猟犬』のメンバーだと聞いたが」

 態度に出ないよう、細心の注意を払ってはいるが、心拍数が跳ね上がっているのを感じる。


「狐があんたに何を言ったか知らないけど、優子さんが死ぬ直前、優子さんの目の前にいたのは狐」

 相変わらずチョコレートを弄びながら、この娘は、私の目を真っ直ぐ見る。


「私は、現場にいるあいつの姿を見ている。どちらの言うことを信じる?」

 私の目を見つめながら、迷いなく紡ぎ出される言葉は、説得力があり過ぎた。


「あんたは、優子さんの話になると判断力が鈍る。真相を見誤った上に、狐にビスクドールまで差し出した」

「ビスクドール、狐はどこに行った?」

 私は声を荒げ、噴水近くの物陰に身を潜めているビスクドールに尋ねた。

「うちの浴槽」

 狐の居場所を答えたのはビスクドールではなく、黒い眼の娘だった。

「……殺したのか」

 私が尋ねても、娘は何も答えなかった。

 この場の主導権は、私ではなく、この娘に握られつつある。

 

 どうして一番大切なことほど、うまくいかない。

 

 私はだんだんと笑いが込み上げてきてしまい、口元を手で覆う。


「あの男は、一度にいろいろやろうとしすぎたんだな。その結果、自分が願った結果とは程遠いところに辿り着いたんだ。最高に笑えるな」

 低い笑い声を漏らしながら、この有り様を嘆いている私のそばで、娘は冷たい眼でこちらを見ている。


「お前が『ファラリス』と完成品のマイクロチップを持っているのはわかっている」

 私の背後で、噴水が噴き上がる音がする。

 水飛沫が水面に打ち付ける音は、私を嘲笑っているように聞こえ、私は笑うのをやめる。

 もう、笑っている場合ではない。

 

「『ファラリス』で『神の杖』の座標を、ここへ変えろ」

 私は噴水の縁から立ち上がり、地面を踏み鳴らす。

「もう、こんな世界に用はない‼︎ 私諸共、消し飛ばしてしまえ‼︎」

 ありったけの怒りを込め、立ち上がって怒鳴る。こんなに声を張ったのはいつぶりだろう。ユーコが私を捨てていった日以来だろうか。

 肩を上下させてまで怒りを露わにした私を、この娘はただ眺めている。その眼や表情に、感情がない。

 気味が悪いほど静かに、私を見ている。

 

 ピリついた空気のまま、黙って視線を向け合っていたが、やがて静かに笑いかけてきた。

「絶っっっっっっっっっっっ対ヤだ」

 ユーコと同じ色の眼で、ユーコが笑う時と同じく目尻が下がるのを見て、懐かしいと思った自分がいた。ギュッと、内臓を掴まれた気分になる。


「あんたの言うこと聞くくらいなら、死んだ方がマシ」

 意地悪い笑みを口元に浮かべるのは、サハラ譲り。どこまでも神経を逆撫でしてくる。



          *



 真咲と杏樹は、噴水広場を視認できる距離まで、じりじりと近づいていた。

 渕之辺 みちるに取り付けた盗聴器から聞こえる会話の内容は、イヤフォン越しに真咲や杏樹の耳に届いている。

 

「加野ちゃん」

 狐が殺された、と聞いた杏樹は、僅かに目を見開いて、固まっていた。

「動揺しちゃダメよ」

 真咲がやんわり注意すると、杏樹は震える目で真咲を見る。杏樹の顔色が真っ青になっていた。


「あの、渕之辺 みちるの自宅に、ガサ入れしますか?」

 声まで震える始末だった。

 真咲はそんな部下の姿を生暖かい目で見ている。

 情報提供者に一線超えた感情を持ってしまったのを、ここまであからさまに見せられると、むしろかわいそうになってくる。


「今動かせる人員、いると思う?」

「いえ、すみません」

 杏樹は少しだけ悔しそうに、それでも頑張って納得しようとしているのが見てとれた。

 

 この会話が聞かれているのを、渕之辺 みちるは理解している。狐の死体を隠すなり、何かしらの手は打った後だろう。

 どうせそんな難儀な仕事をするのは、玖賀だろう。

 その玖賀は、自分の組の会長を潰しに行こうとしている。外事課の人間を玖賀に張り付かせたら、玖賀につきっきりになる。

 

「俺たちは、イヴァンを捕まえるのが仕事だからね」

 死んだ人間よりも、生きている人間の方が大事。

 真咲は心の中で冷笑混じりに呟くものの、腑に落ちない感覚に陥る。

 

 人間とは、生きているものではなく、死んだものに縋る方が多いのではないのか、と。

 己がそうであるように。



          *

 


 公園という場所は、遊歩道に沿って木が植えられているものだ。

 日本は高温多湿な気候とあって、今の時期は木々の枝葉が青々と伸び、木の根元の周りには雑草が生い茂っている。


 エメラルドグリーンの瞳は、睨むように景色を注意深く観察している。

 気配を殺しながら植え込みの陰に隠れ、噴水に向かって移動しているのだが、行く先々で死体が転がっていた。

 

 ビスクドールが身を潜めている植え込みにも、事切れた死体が転がっている。

 引き金を引くのもままならず、頭を撃ち抜かれた死体。そういう死体と遭遇するたびに、銃器や弾薬を回収していたのだが、途中で持ち運べる量ではなくなってきたため、回収を諦めた。

 今もそうだった。

 

 ビスクドールの足元に転がっているのは、死体が抱えていた新品のAK-47。それを見つめ、小さな溜め息をついた。

 イヴァンが掻き集めた人間と、配布した銃器は、今回何の役に立たなかったのだ。


 何かを察したビスクドールが、勢い良く振り向くと、硬質で冷たい感触が額に当たる。

「あなたは」

 目の前にいるのは、自分と同じように身を屈めている男だった。いつの間にか、背後につかれていた。

 何の気配もなく現れた男が突きつけたのは、拳銃P226の銃口。

 目の前にいる男は、ビスクドールが尊敬してやまない男と同じ色の眼だが、向けてくる眼差しは別物だ。

 

「イヴァン様のもとには、行かせません」

 ビスクドールは、右手の拳銃マカロフを目の前の男へ向ける。

 男は黙ったまま口角を上げ、わざとらしい作り笑いをしてみせた。

「何を笑って」

「殺す気はない、

 そう言われたビスクドールは、眉間に皺を寄せる。男は作り笑いを崩さない。


「次から次へとイヴァンが仕向けた殺し屋どもが湧いてきて、いくら気の長い俺でも、いい加減キレそうなんだ。

 だから、お前に盾になってもらう」

 男の隣にビスクドールがいれば、まだ生き残っている殺し屋たちは慎重になる。雇い主であるイヴァンの逆鱗に触れるわけにはいかないからだ。

 ビスクドールは悔しそうに唇を噛む。

 

「お前が見た『ファラリス』はこれか?」

 男の左手にあるのは、スマートフォン。

 デフォルトで入っているアプリではないものが、一つだけダウンロードされている状態の画面。

 それを見て、ビスクドールの目が見開かれる。拳銃を握る手を動かそうとすると、灰色の鋭い眼が制止してくる。


「動くな。フチノベ ミチルだけを連れて行ったところで意味がないのは、これで理解できただろう?」

 この男が、狐が作成した『ファラリス』の最新版を持っている以上、渕之辺 みちるだけを何らかの方法で連行しても無意味なのだ。


「俺がこれを持っているのは、狐が死んだからだ。俺の持つ、初期のマイクロチップは意味をなさない」

 狐の死で、完成品のマイクロチップでしか、『ファラリス』を起動するための生体認証ができなくなった。


「……あなたを殺して、その『ファラリス』を奪えばいいだけです」

 そう口に出してみるものの、今の状況でそれは現実的でない。


「パスコードも知らないのに? あんまり間違えるとリセットされるが?」

「本当に腹立たしいですね」

 何とかの一つ覚えみたいに、バリエーションのない作り笑いを浮かべている男に、ビスクドールは吐き捨てた。


「素直に、イヴァンのもとまで連れて行ってもらえないだろうか。イヴァンもその方が喜ぶ」

 言葉だけは下手に出ているが、男の表情や目線は完全に上の立場のそれだ。


 

          *


 

 イヴァンと実りのない会話をしているうちに、空は紺色に変わってきていた。

 辺りが薄暗くなると共に、噴水がライトアップされる。その傍らに立つ私とイヴァンの影は、一層色濃く、地面に伸びていた。

 

「あんたは、『ファラリス』が欲しかったの? それとも優子さんが欲しかったの?」

 余裕ぶって見せたかと思えば、怒り出す。今日のイヴァンは情緒不安定だ。


「"仕事と家庭、どっちが大事か"と聞くくらい、無駄な質問をしてくるんだな」

 そんな質問と同類にしないでほしい、と思いつつも、そう思われても仕方ない質問の仕方だった。

「『ファラリス』だよ」

 イヴァンは、そんな簡単なことを聞くな、と言わんばかりに両手を胸の高さに上げ、ひらひらさせる。


「あんたが優子さんに選ばれなかった理由は、そういうところ」

 並べる意味のない選択肢を並べられて、こう質問をされたら、嘘でも目の前の相手を選んだ方がいい。現実的な回答は嫌われる。

「あんたは『ファラリス』と生体認証用のマイクロチップを揃えておきたかった。だから、がいて、なおかつ『神の杖』を載せた軍事衛星が打ち上がった、このタイミングで日本に来た」

 実際、イヴァンがどこまで『神の杖』や『ファラリス』、マイクロチップについて知り得ているのかはわからない。


「優子さんの葬儀には来なかったのに、『ファラリス』のために、わざわざ」

 ただ一つ明確なのは、優子さんへの執着は、手に入らないものへの憧れみたいなもので、実体がない。


「あんたは狐と同じ。自分一人で、何もかも手に入れようとした」

 そう言うと、イヴァンは眉根を寄せた。灰色の眼が私を睨みつけてくる。


「あのね、『ファラリス』を発動するための手順プロセスは何十個もあるの」

 つまり、起動だけで1〜2分かかる。

「あと、一つ言っておくけど、『ファラリス』で『神の杖』の座標を変更しようものなら、50以上の手順を踏まないと不可能。軽々と言わないで」

「ずいぶんと面倒な設定だな」

「操作に慣れた上で、ノーミスで処理すれば座標変更は何とか1分以内にできると思うけど」

 『神の杖』自体、宇宙空間から射出する実験すらしていないわけだから、どこまでの威力が出るのか、計算して出た結果しかデータがない。

 実際に射出された時に何が起こるか、誰も身をもっては知らない代物を制御する、机上の空論から生まれたシステム。


「売るにしたって、こんな信用のない商品を売るのは、詐欺だと思うよ」

 半ば呆れながら、諭すように言ってみる。もちろん、

「信憑性だの実用性だの、どうだっていい。それは買った相手が考えたらいい。売れるものなら売る」

 素直に聞き入れてもらえるとは、思ってはいなかった。


 


          *



「まだ行かないんですか⁈」

 杏樹は、どうしてこんなに何もさせてもらえないのか、と苛立ってくる。

「弱い」

 真咲は前方にある光景をじっと見つめて、ぼそりと言う。


「何がですか?」

 噛みつく勢いで尋ねてくる杏樹に対し、真咲はいつもとは違う、静かなトーンで返す。

「手を出してきたのも、手を出したのも、ビスクドール。ビスクドールをけしかけたって証拠になる発言もない」

「イヴァンを拘束するには、足りないと?」

「そう。さっさと加勢してあげたい気持ちはあるんだけどね」

 イヴァンがにしている国々から文句を言われないために、「言い逃れできない現行犯での犯罪」が欲しい。

「でっち上げられたーとか言われちゃうとさ、いろんなところから怒られちゃうし」

 怒られるという表現はかなりマイルドにしたもので、実際には外交問題に発展しかねないレベルの所業になる。


「そういう問題ですか? 今、そこに、イヴァンが」

「だから慎重にやるんでしょうが」

 外事がイヴァンに手を出せなかった事情をわかっていながら、杏樹は苛立ちをぶつけてくる。そこで真咲は、杏樹の言葉を最後まで言わさずに、ぴしゃりと言い放つ。

 杏樹は唇を噛んで、真咲を睨んだ。

 穏やかでない空気が二人の間に流れたが、真咲がくしゃっと笑いかけ、緊張が緩む。

 

「さて、ここからどうしようかな」

 悩んでいるような言葉だったが、真咲はジャケットの下に着込んだ防弾ベストを軽く叩き、右手に拳銃を握る。


「俺、帰ったら、お気に入りのクラフトビール飲むんだー!」

 いつものような声音で言うと、真咲はその場から一歩踏み出した。

「そういう、死亡フラグっぽいこと、言わないでください」

 縁起でもないです、と少し困った顔で、杏樹も真咲の後ろをついて歩き出す。


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