25. The road to hell is paved with good intentions


「煙草、吸わないんですか?」

 部屋や服に匂いがつくから、吸わないでくれた方がありがたいのに、聞いてしまった。

 彼のトレードマークとも言える煙草を、さっきから一度も、吸っていなかった。

 

「……任務の時は吸わない。今は任務じゃないが」

 ユニットバスのドアの前で座り込んだ彼は、煙草の代わりに手にしたスマートフォンの画面を見つめている。


 じっと考える様子を見せては、画面に指を滑らせて舌打ちをする。

 あまりに熱心にスマートフォンを見つめているので、何をしているのか見に行こうかと思ったくらいだ。

 ユニットバスのドアの向こう、浴槽の中にいるものを思い浮かべなければ、行けたと思う。

 

 5分か、それ以上か。彼は黙々とスマートフォンの画面を弄っていた。

 その後、彼はゆっくり立ち上がる。視線はスマートフォンに向けたまま。

 音もなく、こちらに向かってくると思えば、私の隣に腰掛けて、手元のスマートフォンの画面を見せてくる。


「これは、リーシャロがメインで使っているものじゃない」

 その一言で、彼が触っていたのは本人のスマートフォンではなく、狐が持っていたスマートフォンだったと知る。


「ロック解除したんですか?」

 いくら長い付き合いとはいえ、ロックナンバーを教え合うなんて、していなかったはず。

 それでも、なんとなく推測できたのかもしれない。


「こういうのを解除する方法を考えるのは、嫌いじゃない」

 なんでもないように言われるけれど、自分がやられたら嫌だ。


「見てみろ。『ファラリス』がアプリに加工されている」

 白地にグレーのPの文字。シンプルすぎるアイコンのアプリが、ホーム画面の中にあった。なかなかダサいと思った。

 アイコンの下に、「Phalaris」と名前がついている。

 

「これは狐が作り上げた、最新版だ」

 狐は、秀哉さんの『ファラリス』とおそらく自作の偽物ダミーデータをすり替えた。その後、本物をスマートフォンで操作できるように、手を入れた。


 タップして起動してみれば、秀哉さんに見せてもらった『ファラリス』の画面がそのまま移植されている。

 ここまでできる能力が、狐にはあった。


「ここまでやれる、あいつなら」

 ちらりと見た彼の横顔は、口元に微かな笑みを浮かべている。


「その狐が考えた計画を、壊していくのが」

 私と、彼だ。

「あいつは、そうされるだけのことをした」

 仄かに怒りの混じった声音で、彼は言う。

 その言葉に対して、果たして本当にそうなんだろうか、と疑問に思う自分がいる。

 でも、口には出せない。死んだものはもう、取り戻せない。

 

 ロック解除されたスマートフォンは、私に手渡される。

 彼はボトムスのポケットから出した、もう1台のスマートフォンを手に、また考え込んでいる。

「それは?」

「今度はメインで使っていた方のパスコード解除」

 彼が浴槽で探していたのは、この2台のスマートフォンだったのだ。


「昔から、こういうのは得意?」

「いや。狐の方が得意だし早い」

 総当たりするほどの時間と余裕がないから、彼は慎重に数字を選んでタップしている。

 一度目の入力は弾かれた。


「あの日の後、故郷を出て、何もすることがなくなって、困った」

 画面を険しい表情で見つめながら、ぽつりと言われた言葉に、私は首を傾げる。


「世の中には、趣味で暗号制作をする人間が結構いて。任務とは全く関係ない、解いたところで何にもならない暗号が、ネットに溢れていた。

 身の処し方を考える合間に、そういうのを解いたりして」

 取り留めのない話の途中、二度目の入力も弾かれるのが見えた。


「気を紛らわすために?」

 失意の中、故郷くにを出なくてはいけなかった彼には、その暗号解読の時間が現実逃避になったのかもしれない。

 

「いつか役に立つと思った」

 一瞬、こちらを見て、彼はニヤリと笑った。

 この笑い方は、暗号解読を現実逃避のツールだったと思った私を、嗤っているみたいに見えた。

 

 すぐに視線はスマートフォンに落ち、彼の指先は三度目の入力をする。

 スマートフォンの画面は、すんなりとホーム画面へ切り替わった。


「ほら、役に立っただろう?」

 満足げに言われて、私は頷くしかない。

 彼は、メッセージアプリや通知を一通り確認して気が済んだようで、狐がメインで使用していたスマートフォンも、渡してきた。


 狐のスマートフォン2台ともが、私の手元にある。

 

 彼は胸ポケットから、いつか私が渡したチョコレートを取り出した。

 手早く包装紙を剥き、中身のチョコレートだけを私に差し出す。さっきから、いろいろと物を渡されている。


 彼は数秒、何か考える素振りをする。

 その後突然、チョコレートを包んでいた銀紙の裏に、アルファベットをいくつも書き込んだ。

 一度書き始めたら、一切の迷いもなく書き連ねられていく。

 

「こういう、暗号を作るのも好きだ」

 私に差し出された、その銀紙の裏面には、何かの規則性を持って書かれたのだろうけれども、全く意味を持たないアルファベットがいくつも並んでいる。

「これ、何て書いてあるんですか?」

「それを解くのを楽しむものだ」

 とても呆れた顔をされた。


 もちろん私だって、出題者に直球で解答を聞くのが御法度なのは、わかっているのだ。

 けど、これをいちいち解いている時間が惜しい。

「ヒントは?」

 尋ねても答えてくれなかった。それどころか、立ち上がった彼は、玄関に向かっていく。


 イヴァンとの約束の時間まであと6時間もあるのに、もう出発する気だ。

 私もチョコレートの包み紙をローテーブルの上に置いて、慌てて部屋を出る。

 

 この部屋に戻って、渡された暗号を解くなんて、もうできないだろうと思いながら。



 

 

          *



 昼過ぎ、旅館の居室の襖を開けて現れたのは、金色の髪をした、美しいエメラルドグリーンの瞳と白磁の肌を持つ陶器人形ビスクドール

 

「ビスクドール」

 立ち上がって手を広げると、遠慮がちに身を寄せてきた。


「お待たせしてしまいました」

 ビスクドールの肩を撫でてやりながら顔を覗き込むと、少し疲れた顔をしていた。


「顔色が悪いな。少し休んでおくといい」

「いえ」

 体を離して向き合うと、ビスクドールは眉間に皺を寄せて、首を小さく横に振る。

「サハラが生きていました。が、今日死にました」

「……いきなり、予想だにしない話を持ってきたな」

 ビスクドールが捲し立ててきた内容は、衝撃的なものばかりだ。一つ一つに説明がほしい。

「詳しくお話しします」

 私の困惑ぶりを見たビスクドールは、説明しようとした。

 いつもはあんなに真っ直ぐ見つめてくるエメラルドグリーンの瞳が、虚ろな目をして心ここに在らずといった様子で、異様だった。

 

「いいかい、ビスクドール。君は先に休むべきだ。

 今夜は長くなる。ミチルが何もしてこないはずがない。ビスクドールがいつも通り働いてくれないと、とても困るんだ」

 狐はこの場についてきていない。

 ついてこられないような状況になったのか。詳しく聞きたいのはやまやまだが、こんな血の気のないビスクドールを起こしておくわけにはいかない。


「はい」

 普段なら、自分など後回しにしてでも職務を全うしようとするビスクドールが、素直に休もうとしている。異常事態だ。

 

 


          *



 よく晴れた、昼下がりの平日。

 ランチタイム、首から社員証を下げた人や、スーツ姿の団体が道を行き交っている。

 

 私たちは、雑踏の中を歩き進んでいた。

 一歩後ろにいる私に振り返りもせず、彼は母国リエハラシア語で話し出した。


「あの日」

 不意に彼は私の右手を掴み、人混みの隙間を縫っていく。

「完成品のマイクロチップは既にお前の掌にあった」

 はぐれないように、とかそんな気遣いではなく、私の右手にあるマイクロチップについて話したいから、手を掴んできただけだ。

 

「何故そう思うのか、今から説明する」

 こちらから尋ねたわけではないけれど、彼は私が言いそうな問いかけを先回りする。

 

「あのタイミングでスコルーピェンの目を盗んで、マイクロチップを注入する隙なんかなかったはずだ。

 あいつは近接戦のプロ、そんな動きをしている間にお前も殺せた」

 信号機のある横断歩道にぶち当たり、私たちは立ち止まる。

 彼は一度も私の顔を見ようとしないが、その口ぶりは、私の嘘を責めている風ではなかった。

 

「五年前の時点か、それ以降かは知らないが、『ファラリス』が偽物ダミーデータに入れ替わっているのも知っていた。サハラは、狐と会う時に偽物を持っていき、わざと狐にすり替えさせた。

 狐のスマートフォンに入っている『ファラリス』は偽物だ」

 目の前の車道を、車が通り過ぎていく。その間にも、彼の言葉は続いていく。

「そしてお前たちも、本物の『ファラリス』をあの日、リエハラシアに持ってこなかった。

 俺だって、あの場に持っていくとしたら、偽物にしておく」

 この人は、秀哉さんが育ててきた兵士の一人だ。秀哉さんならそうするだろうと、わかっている。

 

「『ファラリス』が誰の手にも渡らず処分されれば、俺や狐に埋め込まれた初期のマイクロチップは、無意味になる。そしてお前の完成品マイクロチップも同じく無意味」

 そう言って、私の右手から彼の手が離れた。

 皮肉なもので、今離れて行った彼の左手にも、バージョンの差はあれど、『ファラリス』起動のために使われる鍵が埋められている。


「大国が欲しがった新兵器の話は、ただの都市伝説になる」

 そんな日が早く来れば良かった。秀哉さんが生きているうちに、そんな日は来なかった。


 歩行者信号が青になる。私は、彼の一歩後ろから隣にポジションを変えて、歩き出す。

「あの日、お前は俺と狐を始末するつもりだった。試作品マイクロチップを持つ、たった二人の生き残りだからな」

 横断歩道の白線部分だけを歩く遊びを、子供の頃にした。現実逃避したくて、今もそれをやった。

 彼はそんな私の様子など気にも留めない様子で、歩いている。

 

「おそらくサハラは、俺と狐を殺せとは言わなかったと思うが?」

 そこで初めて、目線を合わされる。

 目つきの悪い三白眼は、睨んでいるようにしか見えない。


「……そう、です」

 信号を渡り切ってから、答える。

 灰色の視線が居心地悪くて、興味もないショーウィンドウに意識を向けるしかなかった。


「優子さんと私が、話し合って決めました」

 歩きながら、ショーウィンドウのガラスに薄っすら反射して映り込む私たちは、無表情で顔色も良くない。


「この世の誰にも、『ファラリス』を使わせるわけにはいかない」

 最初から、リエハラシアに『ファラリス』やマイクロチップを返却しようとは、考えていなかった。

 

 彼は舌打ちして、

「素人考えが」

 忌々しそうに呟いた。

「甘く見られたものだな。俺たちは、お前よりよっぽど腕がいい。経験値が桁違いだ、クソが」

 そこまで吐き捨てられるのは悔しい。でも否定はできない。

 私一人で、あの場をコントロールして展開させるのは不可能だった。


「何もかも中途半端で、肝心なところで仕留め損ねるお前の無様さには、反吐が出る」

「もう少し言い方を考えると、人付き合いがうまくいくと思いますよ?」

「俺は本当のことしか言ってない」

 そう言って、彼は薄く笑った。相変わらず不気味な笑い方をする。

 

「血と教育は呪い」

 彼は、秀哉さんが私に言っていた言葉を口にする。

 私は秀哉さんからこの言葉を聞かされてきた、と彼に話している。

 

「わかってたくせに、サハラはそのループを自分で作りやがった」

 目当ての公園が近づいてきたのが、交差点の行き先表示の看板でわかる。


「サハラが教えた生きる術は、日本で生きるお前にとって、必要ないものだ」

 公園に近くなると、今までの歩道よりも道幅が広がり、手入れされた遊歩道になる。


「サハラは良かれと思って教えた、それは否定しない。だが、お前に教えるべきだったのは、それじゃない」

 彼の言うことは正しい。けども、そうじゃない。

「『ファラリス』の操作方法なんか、その最たるものだ。知らなければ、お前は関わる必要もなかった」

 五月の午後、背の高い常緑樹の合間から射す陽差しは、強烈だった。


「リスクヘッジのためですよ」

 眩しさに目を細めながら、隣にいる灰色の目を見る。

「サバちゃんと狐が『ファラリス』を使用するような場面が起きた時、タイミングさえ間に合えば、手を打てる」

 彼が立ち止まった場所は木陰で、私が立っている場所には陽差しが降り注ぐ。


「五年前の時点で、秀哉さんの記憶はだいぶ脱け落ちていってたし、優子さんにはイヴァンが執着している。そうなると、私しかいない。だから、リエハラシアに行く前に」

 言い終える直前か、ほぼ同時のタイミングで、小さく溜め息をつかれた。

 続いて、クソったれが、という悪態も聞こえる。


「援護はしてやる。死なないように立ち回れ。死んだら許さない」

 そう言われて、思わず鼻で笑ってしまった。

 

 許す許さないも、私の生き死にに、この人の許可は必要じゃない。

 

 灰色の眼が黙って、私を見つめている。突き放すような、品定めしているような、冷たい眼。


 人間がこういう眼をする時は、相手との距離を推し測っている。自分の横にいてもいい存在か、見定めている。

 私も、こんな眼をよくしていると思う。

 


 この人を信用していいって、本気で思ってる?


 

 彼が今、何を考えているのか見抜こうと脳内はフル回転している。

 その傍らで、私の中のもう一人が、呆れた調子でぼやいている。

 

 

 あんただって、どうせ信用されてないのに。

 

 

 

         ***

 


 夕方、まだ暮れていないものの、陽はだいぶ傾いていた。


 公園の中央部にある、大きな噴水の縁に座って、電話をかける。

 何回かの呼び出し音、電話口で少し掠れた声が聞こえた。


「お疲れ様です。みちるです」

 電話の相手は玖賀パパだ。

「阪原のことで忙しい時にすみません。これから、イヴァンに会いに行きます」

 私の言葉に特にリアクションもせず、玖賀パパは淡々とした口ぶりで、火葬場の予約が取れたと伝えてくれる。

 玖賀パパは、遺体の引き取りから火葬の手配まで、何から何までやってくれている。


 秀哉さんが死んだと連絡した時に、今日の夕方にイヴァンと会う予定になっていると伝えていて、

「これが最後になってしまったその時は、秀哉さんの葬儀やらなんやら含めて、後の始末を、まとめてお願いします」

 今日私が死んだら、その後始末についても、お願いしておく。


 優子さんと秀哉さんをみすみす死なせて、事態を引っ掻き回しただけの自分の無力さが痛いほど身に染みて、唇を噛む。

 胃に鉛玉でも飲み込んだような気分だ。

 

「本当に、お世話になりました」

 見えないのはわかっていても、電話の向こうに頭を下げる。

 私と優子さん、秀哉さんは、玖賀パパと玖賀のご家族にどれだけお世話になったかわからない。

『イヴァンによろしく言っておいてくれ。ヤツの寄越した武器が、役に立つから』

 話しぶりからして、ビスクドールが玖賀の組員をひどい殺し方をした謝罪は、武器の供与だったらしい。

 イヴァンらしいやり方だと思う。

 そして、その武器を元手に、玖賀パパは自分の組の会長を潰しに行く。

 玖賀パパは手下の命と引き換えに武器を手に入れ、その武器は人の命を奪うために使われる。

 こうやって、連綿と「負」は循環する。

 

「あぁっと、すみません、あともう一つだけ」

 玖賀パパに本当に話したかったのは、この話だったけれど、さも忘れていたように装って、話を切り出す。


「私のアパートに、死体重いものが一つあります。それも、丁重に葬って片付けていただきたいです」

 浴槽に放り込まれた狐を、そのままにしておくわけにもいかない。

 周りに人がいる状況で、なるべく不穏なワードは濁して、どうにか伝えてみる。


『厄介事ばかり頼むじゃねぇか」

 呆れたような笑い声が聞こえた。私の意図は伝わっている。

 きっと玖賀パパは、困ったように眉を下げているだろう。

 二言三言、言葉を交わして電話を切る。しんみりとした流れにならない程度に、あっさりと。この電話の相手がマナトだったら、絶対にグズグズ泣かれていた。



 

 自分のスマートフォンを膝の上に置いた瞬間、人影が現れた。

 こちらに合図するでもなく、私の隣に座ったのは、真咲まさきさんだった。


 いつもくたびれてヨレヨレのワイシャツに、皺のついたライトベージュのスーツを着ている。色素の薄い髪を無造作に伸ばして、今日にいたっては寝癖がついていた。

 こう見えて、公安警察外事課の課長。そのキャリアの大半を、イヴァンの追跡に費やした人。

 

 真咲さんは、にこやかな顔で両手に持ったコーヒーの紙カップのうちの一つを、差し出してくる。コンビニで買ったコーヒー。


「そりゃ現れますよねぇ」

 苦笑いしながらコーヒーを受け取り、真咲さんの横顔を見る。

 真咲さんとは、バイト先に現れたり、取り調べに呼ばれたり、今までに何度も顔を合わせている。

 

「あんなに働きまくってたのに、何日もバイト休んでんだもん。心配してたんだよ?」

 真咲さんは笑うと目が細くなって、瞳が見えなくなる。人のいい、穏やかそうに見える容貌。

 このぱっと見に、みんな一度は騙される。


「大変だったね」

 声のトーンに労りが混じっていた。どれについての言葉なのか、脳内で探っていると、真咲さんが補足する。

阪原さかはらのこと」

「あぁ……もうご存知で」

 秀哉さんが生きていた、そして今日死んだ。もう筒抜けになっている。


「入院先が予想外のところで調査が手薄だったのは確かなんだけど、それにしても今までよく隠せたね」

 正確には、病院ではなく介護施設。

 私と玖賀パパとで、秀哉さんの入所先をひっそり探し回ったのを思い出して、感傷に浸りそうになるのを、コーヒーと一緒に飲み込む。


「火葬の前に解剖した方がいいよ」

 真咲さんは神妙な面持ちで、私に話しかけてくる。


「阪原の入院先の付近まで、狐とビスクドールがタクシーで移動した形跡があるから」

「それ、知らない方が幸せだったかも」

 狐が死に顔の話をしたから、勘づいていた。裏付けされる事実を出されて、重い溜め息が出る。

 真咲さんは、全くの善意で言っていて、動揺させようとしたわけじゃない。


「真咲さん、取引をしませんか?」

 私の言葉に、真咲さんは微笑みながら首を傾げる。歳の割に所作が子供っぽく見えるのに、違和感がないのは喋り方が独特だからだと思う。


「18時にここへ、イヴァンが現れます」

 約束の時間まで、あと1時間。

 このタイミングで真咲さんがここにいるのは、外事課が動かせる人員を、周囲に配備し終わったからだ。

 

「イヴァンは何しに、ここに来るのー?」

 真咲さんは両足を伸ばして、ばたばたと上下に動かす。手持ち無沙汰な子供みたいだ。

「優子さんが死んだ日の話をしましょうか、って誘った」

「それでほいほい来るんだもんなぁ。羨ましいや」

 心底羨ましそうな顔で言うけれど、これは真咲さんお得意の演技。


「だから、ほいほい現れたイヴァンを捕まえたらいいですよ」

 小さく笑いながら、イヴァンの顔を頭の中に思い浮かべる。


「ただ、そこで何が起ころうと、私とサヴァンセが何かしたとしても、不問にしてもらいたいなって」

 言うだけ言ってみるものの、一笑に付されそうな気がする。隣の真咲さんは、くつくつと笑い声を漏らした。


「こう見えても真咲さん、警察官なんだけど?」

 そう言いながら、真咲さんは手にしていたコーヒーの紙カップを、私たちの間に置く。


「こう見えても今の私、銃刀法違反犯してるんだけど?」

「うわぉ、真咲さんは何も聞かなかったー!」

 大袈裟に、両手で耳を塞ぐ真似をする。

 真咲さんと話すといつもこんな感じで、緊張感のない空気になる。

 

「で、その取引、外事うちにとってのメリットは?」

 さっきまでの落ち着かない様子とは打って変わって、目の前の噴水に視線を向けて、身動きせずにじっとしている。

「あれ? イヴァンの存在はそんなに軽い?」

「……まぁ、そうねぇ」

 真咲さんは納得いかない顔で、それでも仕方なく頷いている。


 私は手にしているコーヒーを、一口飲む。

「外事課にはそんなに関係なさそうですけど、今日明日中に関東で一番大きい暴力団のトップが、入れ替わる。警察庁の組織犯罪対策課に、情報流した方がいいと思う」

 私が話している間に、真咲さんは背伸びをした。さっきまでの真面目な空気が一気に緩む。


「ついに玖賀が天下取る気になったんだ?」

 真咲さんはあくびしながら言うので、聞き取りづらかった。

「わかった。その取引を飲んだげる」

 茶色味の強い瞳が、私を鋭く見つめてくる。微笑んでいるのに、眼は笑わない。


「外事としてはイヴァンを捕まえたいだけだから、みっちゃんが死にそうでも助けないよ」

「むしろ、死んだ方が都合がいいんじゃ?」

「そうでもないよ」

 そうでもないよ、のトーンが今まで聞いてきた中で一番真剣で、驚いてしまった。

 真咲さんは私に鋭い視線を向けている。笑みはもう、浮かべていなかった。

 

「これ」

 真咲さんが、何か握った拳を私の目の前に出す。手の中にあるものを渡したがっている。

 受け止めるように、真咲さんの拳の真下に左手を出すと、掌に小さなピン状の物体が落ちてきた。

「盗聴器ですか」

 私の掌にあるのは、小型の盗聴器だった。どんな性能なのか知る由もないけれど、公安が使うものだから、かなり性能は高いんじゃないかと思う。


「持っておいて。イヴァンが何を話すのか、聞きたいから」

「わかりました」

 受け取った盗聴器を、正面から見えない、シャツの襟の後ろ側に取り付ける。背後に回られたとしても、髪に隠れて、この盗聴器はまず見つからないはずだ。

 

「そぉだ。赤毛くんと連絡がつかないんだよね。GPSもオフにされちゃってて。何か知ってる?」

「いいえ、わからない」

 私の部屋の浴槽にいる、なんて言えるわけもない。

 真咲さんが一番聞きたかったのは、この質問だったんじゃないかと、なんとなく思った。

 私が玖賀パパへの電話で、狐の遺体処理のお願いを最後に言ったみたいに、一番聞きたい質問を最後に持ってきたんじゃないかと。でも、私の考えすぎかもしれない。

 

「みっちゃーん」

 真咲さんは自身の目の前で合わせた両手を擦りながら、私を呼ぶ。

「イヴァンを確保するのに、どこの誰も否定しようがない事実が欲しいんよ? OK?」

 色素の薄い、茶色味の強い眼が私を見る。仕草や喋り方はクセが強いのに、この人の眼はいつも死んでいる。

 私は黙って一回頷き、それを確認した真咲さんはコーヒーを手に、立ち上がる。


「じゃ、イヴァンに見つかる前に俺は隠れまーす」

 そう言って、背を向けて立ち去っていく後ろ姿に、余裕すら感じた。というか、風景の中の人全員、私より余裕があるように見える。


 違う。私が、余裕なさすぎるだけだ。


 

「あれは?」

 頭の上から声が降ってきた。

 気配も何もないところからの声に、ビクッとして顔を上げると、灰色の眼と視線が合った。


「公安外事課の課長。悪い人じゃないよ」

 私が座っているから、立っている彼に見下ろされる形になる。


「やたら人員の配置が多いのは、さっきの公安の男のせいか」

「そうですね」

 私が噴水前で、玖賀パパに電話したり、真咲さんとやり取りしている間、この人は何も言わずに姿を消していた。決して短い時間じゃない。


「どこ行ってたんですか」

「寂しかったのか?」

「珍しく面白い台詞を言ったね」

 わかっていたけれど、まともに聞いたところで、ちゃんとした答えは返ってこなかった。

 さっきまで真咲さんが座っていた場所に、彼が座る。煙草の匂いが一切しないのが、とは違う日なのだと、否応なく思った。

 

「父親を殺すのは、いつ実行するつもりだった?」

 私の質問にはまともに答えないくせに、答えないと気まずくなる質問は、遠慮なくぶつけてくる。

「それを今聞く?」

 苦笑いするしかなかった。

「いつでもできそうなことを、まだやっていないのが不思議だった」

 私と優子さん、秀哉さん共通して持っていた目的は二つ。『ファラリス』とマイクロチップの処分と、生物学上の父親の

 

 父親は日本に、しかも玖賀パパの上にいる人間で、やろうと思えばいつでもできた。彼が不自然に思うのも無理はない。

 

「秀哉さんは、自分の手でやるべきだってこだわってたけど、優子さんと私は、もっと効率のいい方法でやろうと思ってたから、そこで意識のズレがあった」

 真咲さんからもらったコーヒーを飲み、紙カップを両手で包み込むように持つ。

「私たちより身近に、それを実行できる人がいるから」

「……クガか」

「そのために協力し合ってきた」

 玖賀パパは若頭から抜け出したいと常々願っていて、私たちは父親を殺したいと日々企てていて。目的は違えど、目標は同じだった。

「もうすぐ、ジャパニーズマフィアのトップが入れ替わりますよ。私たちの父親から、玖賀パパに。

 マフィアの世界じゃ、タブーの癖によくある話でしょう? No.2がNo.1を蹴落とすなんて」

 洋の東西問わず、マフィアの内部抗争なんて、手垢がついた対立図が繰り返されている。

 

「クガなら、いつでもできただろうに」

 納得いかない様子で、組んだ足の上に肘を乗せ、頬杖をついた彼は、私を見る。

「私たちの父親はもう高齢で、いずれ死ぬんですよ。黙って待っていれば、玖賀パパのもとにボスの座が転がり込んでくる。その方が平和だし手間もかからない。

 なのに、しぶとく口煩く、まだ生き長らえているから、玖賀パパも痺れを切らしてきた」

「お前の周り、歪んだ人間ばっかりだな」

 呆れた顔で言われて、私も呆れてしまう。

「サバちゃん周りの人間も、それなりに歪んでるよ」

 彼はニヤリと唇の端を持ち上げた。やっぱり不気味に見える。

 

 恋心を拗らせすぎて、捻くれてしまった蠍。

 利害関係が一致しているように見えて、搾取する側だった狐。

 表と裏の顔のギャップが醜悪すぎる、元帥マーシャルことジェセカ。

 国際法を無視して独裁政権を貫いて、国も国民もジリ貧に追い込んだ、アヴェダという大統領。

 国家最高機密を持って、故郷と教え子を放り出して消えた、教官。

 彼の周りにいた人間も、それなりに歪んでいる。

 

 不思議だと思うのは、彼自身が周りの人間たちにどんな感情を持っていたのかは、ぼんやりとしか伝わらないところ。それぞれに対して、嫌悪の感情に濃淡があるくらい。


「俺が一番歪んでいるのかもな」

 本心では思っていないだろう言葉を、鼻で笑いながら彼は言う。


「類は友を呼ぶってヤツですね」

「それだ」

 私が相槌を打つ間、彼は煙草に手を伸ばそうとして、その手を止める。こういう瞬間、習慣づいたものは抜けない。

 小さい溜め息を吐いて、彼は立ち上がろうとする。それを、シャツの肘部分の布を掴んで引き留めた。


「で、サバちゃんはどこへ?」

 灰色の眼と視線が絡む。数秒見つめ合って、彼は笑った。今日は、少なくともこの公園に来てからは、不安になるほど笑う。あの不気味な笑顔で。


「お前を援護するための配置につく」

 そう言って、私の手を払った。そして颯爽と踵を返していく。

 公園内の遊歩道を歩いていくその背中は、いつもより背筋が伸びているように見えた。

 

「……生き生きしてる」

 なんとなく、そう思った。



         *



 公園の管理事務所に停めた車の中、真咲はノンアルコールビールの缶を開ける。その姿を、杏樹あんじゅはじっとりと睨め付けた。

 責めるような杏樹の視線に、真咲は一瞬だけ、気まずそうに眉を八の字にした。

 

 真咲の膝の上に、画面を開いた状態で置かれているノートパソコンから聞こえるのは、渕之辺 みちるに渡した盗聴器から拾った音声だ。

 渕之辺 みちると、リエハラシアから来た黒髪の男が交わす、日本語ではない言語の会話を聞いて、真咲はぽつりと呟く。


「梟が援護する、ってのは強いねぇ」

 それを聞いた杏樹は、少し驚いた顔で真咲の顔を見る。


「真咲さん、会話の内容がわかるんですか?」

「んー? なんとなーくね。単語は徹夜で覚えた」

 真咲はいつも通り、人の良さそうな笑みを見せて答えた。

 そんな付け焼き刃の学習で聞き取りリスニングできるようになるとは到底思えない、と口には出さずに杏樹は思う。


「梟は、イヴァンを狙撃するつもりだと」

「得意分野で勝負したいんじゃない? あいつ、特殊部隊の狙撃手だったわけだし」

「応援を増やしますか?」

 杏樹の提案に、真咲は首を横に振る。すっと無表情になると、杏樹に視線を向けた。


「防弾ベストは着てるよね?」

 杏樹は一回頷く。それを見て、真咲は視線を膝上のノートパソコンの画面に向けた。

「みっちゃんとの約束で、梟が何やろうと、残念ながら不問にしなきゃいけないのよ。

 禍根を残さないためにも、外事の人間を死なすわけにいかないのよねぇ」

「じゃあどうするんですか!!」

 杏樹は珍しく、真咲の前で声を荒げた。しん、と車内が静まり返る。

 そんな杏樹の声を聞きながら、真咲はノンアルコールビールを呷り、一気に飲み干した。


「どうもしないよ。イヴァンだけ捕まえればいいの」

 目の前にいる上司が何を考えているのか読めず、杏樹は疑念混じりの表情で真咲を睨んでいる。

 真咲は空になったノンアルコールビールの缶を指先で押し、缶が凹む時に出る音を何度も立てた。


 杏樹は唇を噛み、数秒黙り込んだ。そして、選んだ言葉を吐き出した。

「真咲さんの考えていること、いい加減教えてください」

「復讐」

 即座に返ってきた言葉は、のらりくらりしたものではなく、ごくシンプルな一言だった。

「……え?」

 杏樹の戸惑いをよそに、真咲は少し凹んだ空き缶をドリンクホルダーに収めながら言う。


「二年前。イヴァンが渕之辺 優子にお忍びで会いに来たんだよ。もちろん、ずーっと張り付いて追いかけてたんだけど。

 そしたら、そのタイミングで俺の奥さん、危篤になっちゃってさ」

 杏樹は、はっとした顔になる。

 真咲の妻が亡くなっているのは、リエハラシアから来た赤毛の男の取り調べをした時に知ったばかりだ。


「奥さんの死に目にも間に合わなかったし、何の成果も挙げられなかったし、あの時は散々だった」

 ヘッドレストに頭を預けて、真咲は目を閉じる。この時だけは、真咲の奥底に隠した本心を見せられている気がした。

 真咲は眼を開けると、ふっと鼻で笑った。

「イヴァン捕まえるのが、俺にとっての復讐なのよ」

 真咲の言う「復讐」は、悲願と言い換えても良い。


「俺は、とは違って、血で血を洗ったりしない」

 あいつら、と呼ぶのは、イヴァンや渕之辺 みちるたちだ。杏樹は、そう解釈した。


 口角を上げ、ルームミラーを睨むように見上げた真咲は、ドアに手をかける。

「さーて、18時になるよ」

 一足先に車から降りた真咲の後を追うように、杏樹も降りる。


 17時55分。薄暗くなった空に、三日月が浮かんでいた。


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