24. Don't count your chickens


「はぁい真咲さんでぇす」

 真咲のスマートフォンが机の上で高らかに鳴り、すぐさま応答に出る。

 事務的なやり取りを何度か往復した後、真咲の眼が見開かれた。


阪原さかはら 秀哉しゅうや

 背後にいる杏樹に聞こえるように張り上げた声に対し、杏樹は身を乗り出して、真咲の端末の画面から「阪原 秀哉」のデータを呼び出す。


「その施設で今朝死んだのは、阪原 秀哉で間違いないのな?」

 真咲は画面の阪原 秀哉のデータを睨みながら、電話の相手に労いの言葉を掛けて、通話を切る。


「阪原は、生きてた、んですか?」

 杏樹は驚いて言葉に詰まりながらも、真咲に尋ねる。

 真咲が発した言葉だけで報告を推測するなら、二年前から消息不明だった阪原は、生きていた。だが、今朝死んだ。

 

「よく今まで隠せたモンだな。ビックリした」

 至極真面目な表情で、真咲は画面を睨んでいる。

 真咲が真剣に考えている時は、纏う空気感すら変わる、と杏樹は思う。少なくとも、杏樹に面倒臭い絡み方をする時とは違う。


 真咲は両手の人差し指で机を叩いた。何かのリズムを取っているように、場違いなほど軽快な音が響いた。

 

「阪原の失踪にイヴァンが絡んでるっていうのは、ガセだったのね。……その噂を誰が流したかって、そりゃあ」

 阪原の失踪を偽装できる、そして嘘の情報を流せる立場にいたのは、渕之辺 優子とみちるだけ。


「さて、嘘つきばかりの皆さんは、何を隠そうとしてるのかなぁ」

 真咲は口元を笑う形に歪めるが、眼は笑わない。

 

 


          *




 ローテーブルの上に置いた、100均で買った鏡に映る自分を見る。

 

 睡眠の足りていない目元にはクマが染み付いている。泣き腫らした白目は赤くなっていて、熱を持っている。彼が迎えにくるまで、冷やす時間はあるだろうか。

 

 しっかりとベースメイクをして、カバーファンデーションを念入りにすれば、蠍に殴られた痕の大半は消せる。

 どんなに外面を整えても無様な顔なのは、メンタルのせいだ。

 彼が迎えに来るまでに、少しはマシな顔になっていないとな、と思う。

 気を抜くとすぐ緩む涙腺を、どうにかしないといけない。

 

 鏡に映るこの人間を、私は好きになれない。

 生まれてこの方、ずっと嫌いなのだと思う。これから先も、好きになれそうにない。

 

 それでも優子さんは、私を好きだと言ってくれた。

 秀哉さんは、優子さんみたいに大っぴらに好きだとは言わなかったけれど、マイナスな言葉は一度もかけなかった。

 

 そんな不器用な姉と兄の思いやりを無条件に信じて、今まで生きてきた。

 姉と兄の思いやりを、宝物のように抱いて生きてきた。縋ってきた。

 私の中でそれは、正しかろうが間違いだろうが、大きな問題ではなくて。


 鏡の中にいる、このひ弱な人間が、もう一度立ち上がれるように。

 今は、今日一日を、乗り越えられるだけの気力を、振り絞れるように。

 今日一日だけでいい。立ち上がらせてほしい。

 

 

 この部屋は築40年経過した古い建物。

 インターフォンと呼ぶより呼び鈴と呼ぶ方が似合う。その呼び鈴が鳴った。甲高く、気の抜けた音。

 拳銃ベレッタ92片手に畳から立ち上がって、玄関に向かう。

 ドアスコープを覗き、誰が訪れたか確認すると、息を浅く吸い込んだ。

「……リーシャロ

 ドアを開けて、相手の名前を呼ぶ。彼じゃなかったと、少しがっかりした自分がいた。

 

「やっぱり、俺の顔知ってたのね」

 人の良さそうな笑みを見せて、狐は言う。

 私が開けたドアの隙間に、狐が靴の先を差し込んでくるのは、閉められなくするため。

 その行為だけで不快感がすごい。とてもじゃないけれど、部屋の中に招き入れる気になれなかった。

 

「サハラが死んだって聞いた」

 狐はしおらしく、眉を下げて言う。

 単一の茶色ではなく薄い緑色の混じった眼が、私の顔色を見極めようとしている。


「夜中に、呼吸が止まっちゃったみたいで」

「今日はイヴァンと会うんでしょ? この後どうするの?」

玖賀くがに頼みました」

 秀哉さんの死の一報が入ってから、玖賀の家に電話して、事情を話すとすぐに動いてくれた。

 私が率先して動く必要はなく、淡々と事後処理が進められている。

 

「かわいそうな死に顔してたよ」

 哀れむような声音だった。でも顔は笑っていて、アンバランスだ。

「へぇそうなんだ?」

 私も笑って答える。きっと情けない笑顔だ。

 秀哉さんの死に顔の話を出したのは、その死に関わっていると、暗示したいのだろう。どこまでヘイトを貯めたいのだろう、この人は。

 

「今度はクガでも殺そうか? お前の保護者代わりは、どんどん殺してやるよ」

 狐の右手が首に伸びてきた、と思ったら、絞められていた。


「それが嫌なら、『ファラリス』と完成品マイクロチップを出してね」

 思った通りの脅し文句で笑った。私の笑い声に触発されて、狐の手の力が強くなる。

「チップは、私の中」

「やっぱりな。そういうことやると思っ」

 言葉を言い終わる前に、何かが視界の下を横切った。途端に狐の右手の力が緩む。

 何が起きたのかと把握するより先に、狐の体が地面に崩れ落ちていく。


「"痛ぁぁぁぁい!"」

 蹲るほど痛がる割には、のんきな言い回しだった。

「"このクソが"」

 視界の端から現れたのは、梟――サバちゃんと呼ぶ方がしっくりくる、彼だった。

 拳ではなく蹴り。サバちゃんの蹴りが、狐の腹に入ったらしい。


「"お前、機嫌悪いなぁ"」

 首根っこを掴まれて、三和土に転がされた狐は、彼を見上げて笑いかける。

「"よくも今まで騙くらかしてくれたな"」

 狐を見下ろしながら、サバちゃんは狐の顎を蹴り上げる。

 狐はよろよろと立ち上がるなり、彼の胸ぐらを掴んだ。彼らの母国語の怒号がやまかしくなる。


 狭い玄関で、図体の大きい二人が取っ組み合いの喧嘩を始めるのを見て、私は部屋の中へ後退りするしかない。


 仰向けになった狐は再度、三和土に押さえつけられて、馬乗りになったサバちゃんに何度も殴られていた。人の顔に拳を叩きつける鈍い音に、呻き声が混ざる。

 

「あの、あんまりドタバタされると近所迷惑なんで」

 家賃の安い木造アパート。この人たちに、これ以上騒がしくされたくない。


「そうだよ、近所迷惑だって」

 私が声をかけた拍子に、サバちゃんは狐を殴るのをやめた。それに乗じて、狐はわざわざ日本語で、サバちゃんを茶化す。

「知るか」

 サバちゃんは即座に、日本語で言い返す。

 

「"ご自慢の顔をこれ以上、ボコボコにされたくないだろう?"」

 そう言いながら、サバちゃんは右手に拳銃P226を握り、その銃口を狐の鼻の頭へ向けた。

「"殺してくれていいよ。お前らが困るだけだ"」

 狐が集めた情報は、私たちより遥かに多い。この場で殺すには惜しい、それは間違いない。

「"もっと顔ボコボコにしちゃっていいよ"」

 サバちゃんにそう言うと、狐は私の方を振り向いた。

「ちょっと聞いた? あのコ、サラッとひどいこと言ったよ⁈」

 狐はテンション高く、私を指差してサバちゃんに話しかける。サバちゃんは険しい顔で狐を睨むだけだ。


 そして、ワンテンポ遅れて、私が言葉を理解したと気づいて、驚いた顔をしてみせた。

「……おいおい、こいつ、言葉わかるのかよ」

「私の育て親が、誰だと思ってる?」

 にっこり笑いかけて、言ってやった。日本語ではなく、リエハラシア語で。

 狐は肩を揺らして笑い出す。

「あのクソ教官」



          *



「おやおや」

 通知音が連続して鳴ったスマートフォンを取り、真咲は内容を確認する。

「ビスクドールと別行動をしだした」

 赤毛の男の移動した形跡が、ビスクドールの移動した形跡と違う方向になっているのだ。

「きっと、ビスクドールはイヴァンのもとに向かいますね」

 真咲のスマートフォンの画面を覗こうとすると、わざとらしく画面を隠される。


「加野たんはどっちが気になるの?」

「どっち、って何がですか?」

 隠されると見たくなるというもので、杏樹は真咲のスマートフォンを見ようとすばしこく動く。

「ビスクドールと赤毛くん、どっち?」

「どちらもです」

 杏樹は、赤毛の男を取り調べするために呼び出した時から、連絡を取っていない。取ろうと思っても拒まれていたかもしれないし、まだ連絡し合える状態かもしれない。

 だが、杏樹は連絡しなかった。


「俺はイヴァンしか興味ないから、ビスクドールの方が気になる」

 真咲は、赤毛の男の動向を杏樹に見せないために、わざとスマートフォンを隠したのかもしれない。根拠はないが、杏樹はそう思った。

 

「……こうなると最初から予見していたんですか?」

 真咲の端末に表示されたマップに、緑色の×印が何個か連続してついた。

 これはビスクドールの動きだよ、と真咲が補足説明をしてくる。

「ぶっちゃけ勘だよ」

 そう言うと真咲は画面を見つめ、腕組みをした。

「あの、イヴァンを捕まえるプランは、どんなものなんですか?」

 杏樹が躊躇いがちに尋ねる。

「ほら、この関係者みんな、悪人じゃん」

 ふふ、と鼻で笑って、真咲は答えた。

「一人くらい死んでも仕方ない。必要な犠牲ってのもある」

 真咲は、画面に表示されたファイルの中身から渕之辺 みちるの画像を出すと、手にしたペンでそれを軽く叩いた。


「イヴァンだけ生きて連れ帰れるなら、それでいいよ」

「そんなやり方」

「嫌だよなぁ。こいつらだって必死に生きてんだもんね」

 やり方が乱暴すぎる、と言いたげな杏樹が皆まで言う前に、先回りして言葉を遮る。

 杏樹は眉根を寄せて、難しい顔をしているが、言い返してこない。


 デスクに置いたエナジードリンクの容器の一つを手にして、一口飲もうとする真咲の後ろで、肩を落とした杏樹が呟いた。

「善悪ってこんなに、ボーダーがあやふやなものだとは……」

 杏樹の方に首を向け、真咲は穏やかに微笑んだ。

「やだなぁ、加野たん。ボーダーなんかないよ」

「それ、なんか深い話をしているようで、深くないですよね」

 まるで、言い返す言葉を用意していたかのように、杏樹はぴしゃりと言う。

 真咲は苦笑いするしかない。

 


          *


 

 座り心地の悪い畳の上で座らされ、後ろ手に拘束されて、手首を縛るのはロープ。

 このロープを解こうと思えばできなくないが、背後に梟、目の前にミッチーがいる状況じゃ、どうやっても俺の分が悪い。


 梟にさんざん殴られた顔は腫れ始めて、口の中は傷だらけで痛い。

 それでも後ろにいる梟は、立ったまま俺を見下ろしているだけで、手も足も出してこない。


「拷問しないの?」

 目の前にいるミッチーに聞いてみる。

「どうせ、拷問ごときで吐くような性格じゃないくせに」

 ミッチーはそう言いながら、俺の顔に何かのパウダーを塗りたくっている。

「とは言っても、顔に落書きされるのは、屈辱っちゃ屈辱なんだけど」

 ミッチーの手元や足元には、メイク道具が散乱している。

「落書きじゃなくて、メイクだよ」

 さっき、アイライナーで頬に何か書かれたのはわかっている。それは本来の使い道じゃないだろうに。


「梟がずっと微妙な顔してんの、なんでなの?」

 時折、俺の顔を遠巻きに覗き込んだと思えば、唇を噛み、小さく息を吐いたり、笑いを堪えているとしか思えない動作をしているのは、気づいていた。

「面白いからじゃない?」

 悪びれないミッチーが、ほんのり笑みを浮かべて言う。やっぱり落書きしてるじゃないか。

 

「一つずつ聞いていく」

 俺の頭の上から声がする。低くて重い、暗い声。その声に反応して、ミッチーはメイクと称した落書き作業をやめる。


「あの日、大統領府に突入するに至った経緯。一番最初に提案したのは誰だ」

「もともと、潜在的なニーズがあったんだよ。

 お前が崇拝してた元帥マーシャルは、国際法無視のやり方をしまくるアヴェダを失脚させたいと思ってた。あれだけ表舞台を避けたジェセカが、前に出ようとするほどに。

 お前、そんなの知らなかっただろ?」

 顔を上げて、梟の顔を見る。

 俺と話す時はいつも不機嫌そうな顔をするのに、今は無表情で見下ろされていた。

 獲物を見て、仕留める瞬間を待っている時の眼。この眼を見ると、嫌な気分になる。


「ちなみに、サハラはどっちかって言えばジェセカ寄りの人間だった。だから、サハラがいなくなったのは、ジェセカにとって相当な痛手。焦ってたと思う」

 相手の話を聞いている間は、撃ってこない。

「でもって大統領も、自分よりもカリスマ性のある元帥を排除したがっていた。リーダーは二人要らないからね」

 俺が生き残れるように、数ある情報の中から恣意的に話せばいい。


「ただ、立ち回りは大統領の方が上手かったんだよ。やっぱり政治経験があるってのは大事。

 ジェセカを潰した後の脅威、それはジェセカが手厚く育ててきた『六匹の猟犬』が、自分を殺しにくるって展開。実際、それができるほどの能力もあるし」

 灰色の眼は、怒りに満ちてくる。直視されているのがしんどくて、顔を元に戻す。今度は、冷たい黒い眼とかち合う。


「だから大統領は俺に相談してきた。長年作戦参謀してて、母国愛なんかなくて、ずーっと中立の立場を貫いてきた俺に。

 元帥がクーデターの計画立案を依頼してきたタイミングとほぼ同時だった」

 アヴェダもジェセカも似た者同士というか。

「そこに、フチノベ ユウコが連絡してきた」

 ミッチーの指先に握られたメイクブラシが、僅かに揺れた。


「イヴァンの伝手を頼って、フチノベ ユウコは大統領に連絡してきたんだよね。知ってた?」

 黒い眼は一度瞬いた。

 頷くわけでもなく、顔を横に振るわけでもなく、瞬き一回。これは、どういう意味だろう。


「フチノベ ユウコは『ファラリス』を返却する、って言ってきた。それでいいよ、って話を収めても良かったけど、お前たちは、うちの軍の暗部も『ファラリス』も、知りすぎてる」

 なら、ジェセカが「クーデター」を起こす日に、アヴェダがジェセカと『六匹の猟犬』を失脚させる日に、一緒に招いてやればいいと思った。


「こちらとしては、最初から殺す気だったわけよ。

 だから、フチノベ ユウコにリエハラシアに来てもらうために、俺は至極丁寧にアテンドした。やっぱりやーめた、って言われるのだけは避けたくて」

 そのために伝えた情報。それが、

「サハラが故郷で結婚してたのは知ってる?」

 俺の言葉を聞いたミッチーの目が、見開かれる。頭上からは舌打ちが聞こえた。


「あー、知らなかったか」

 梟は、サハラの嫁や子供の話を、ミッチーにしなかったらしい。サハラが結婚していたのを、梟が覚えていたかも怪しい。

 

「秀哉さんの奥様たちは、どうしてるの?」

 ミッチーは俺の目の前に顔を寄せ、眉間に皺を寄せて尋ねてくる。

「サハラの嫁や子供は、サハラがいなくなってすぐに処刑されたよ。『罪人の丘』にいる」

「死刑囚や死んだ捕虜を合祀する場所だ。死体が山積みした上に土を被せるから、そこだけ丘みたいに盛り上がっている」

 フチノベ ミチルが知らないであろう場所の名を出したから、梟がまた補足する。どんな場所かは、仔細に言わない方が幸せだろう説明だけど。


「フチノベ ユウコに、その『罪人の丘』にお連れしますよ、って口説き文句を使った」

「優子さんなら、そこへ行こうとするね。わかる」

 ミッチーは深い溜め息を漏らして、そう言うと床に視線を落とした。

 

「蠍にはどうやって声をかけた」

 後頭部に鋼鉄の感触がしたと思うと、頭上から尋ねられる。銃口を突きつけられている。


「あのクソガキには、ジェセカと『六匹の猟犬』をぶっ壊せる計画があるって言った。条件は一つだけ、実行まで誰にも話すなって」

 あんまりたくさん要件を並べても、あの単純なクソガキが守るわけがないから、作戦内容も最低限しか伝えなかったし、守るルールも一つだけにしてやったのだ。


「蠍には大統領側についてもらって、動向を逐一報告させた。ジェセカの動向は、俺がマークした」

「作戦の全ての内容を知っていたのは、お前と蠍だけか。それとも、俺以外の全員は知っていたのか」

 梟の声は、怒気を孕んできている。わかりやすい。

 自分が騙されたと、いまさら気づいて傷ついているのが、おかしくて仕方ないよ。


「蠍だって、ホントのことは知らなかったんだから」

 蠍も梟も、みんな馬鹿だ。

「お前らは馬鹿だから、任務だって言えば従う。ぜーんぶ、言われた通りにやるだけ。俺が立てた作戦内容に、疑問なんか持ったりしなかっただろ?」

「お前を信じていたからだ」

 苛ついた口調で、梟はグリグリと銃口を後頭部に押し付けてくる。


「ならさぁ、俺がジェセカに国の主権握らせるかどうか、って考えたらわかっただろうよ? ジェセカは、トップになれる器じゃないじゃん。

 あんなド鬼畜ペド野郎に、国を任せたいと思う?」

 ジェセカが汚い手を伸ばしたのは、蠍だけじゃない。みんな言わないだけで、相当数の兵士が毒牙にかかった。

 梟は無言で、銃把グリップで頭頂を殴ってきた。


「ほーら、この話すると黙っちゃう。蠍はかわいそうなヤツなんだよ。惚れた相手が、ジェセカの熱狂的信者」

 険しい顔で俺たちの会話を見守っているミッチーに話しかける。ミッチーは小さく頷いて見せた。

 

「シャロちゃんは、今まで何回も秀哉さんに会いにきたね。私が知る限り、五年前が最後だけど」

 今度はサハラに会いに来た時の話を聞かれる。

「その時、秀哉さんとどんな話をした?」

「『ファラリス』と、完成したマイクロチップを返せって話」

 俺とサハラが会うのに、それ以外の理由があると思っていたのかな?


「そのつど断られて帰った? それとも何か、難しい条件を出されて、故郷くにに確認を取る必要があった?」

「もちろん後者」

 毎月1000万ドル送金しろだの、クルネキシアと停戦しろだの、実現不可能な条件ばかりつけては、大統領からの返事を署名付き文書で送れと面倒臭いことばかり要求してきた。

 要するに、サハラは『ファラリス』や完成品マイクロチップを渡す気なんか、なかったわけだ。


「最後には、俺が骨を折って今まで何度も交渉してきた経緯まで、忘れたフリをしてきたからね」

「秀哉さんに最後に会ったのは、五年前」

 ミッチーは五年前、という言葉に重きを置いて確認してくる。

「それが?」

「秀哉さんは、忘れたフリをしたんじゃない。それは、まだらに記憶が抜けたり、蘇ったりしてただけ」

 五年前の時点でサハラは、若年性アルツハイマー型認知症だった、とミッチーは言いたいのだ。

 

 最期の瞬間、現役時代のような強い眼差しで俺を睨みつけて、「クソったれが」と吐き捨てたサハラの姿が、脳裏によぎる。

 

「秀哉さんが、あなたを不快な気分にさせたのは謝る。けど、そうなった事情もわかってくれたらありがたい」

 この女が謝ったところで、気分は晴れない。むしろ、この女が謝ると、サハラの振る舞いが正当化されてしまうのだから、気分が悪い。

 

 意地の悪い気持ちが出て、

「サハラと最後に会った時に出した条件が、フチノベ ユウコやに近寄るな」

 言わなくてもいい話を、始めてしまった。

「お前は娘じゃないくせに」

 ミッチーは苦笑いして、そうだね、と相槌を打つ。

 この話に対し、梟が動揺した様子を見せないのは、ミッチーの出自について既に知っているんだろう。


「なんで俺が、サハラの家族を守るために動いてやらなきゃいけない」

 おかしな話じゃないか。

「俺の母親は、サハラに殺されたんだよ?」

 クルネキシアで慎ましく暮らしていただけの家族を、めちゃくちゃにした男の願いを、叶えなくてはならないなんて。

 ミッチーは俺の眼をじっと見つめ、何かを言いたそうに唇を動かしては、閉じる。

 数秒沈黙した後、やっと言葉が出てくる。

「それは、聞いた」

 ミッチーは、サハラのやったことを知っている。

 

「リエハラシアの連中は、親父の頭脳が欲しいがために、一つの町を壊滅させて、母親を殺して俺と親父をリエハラシアへ引きずってきた」

 あの日、父親に手を引かれて歩いた、瓦礫と火薬、焼け焦げた臭いの記憶。

 今でもこびりついている。一日だって忘れていない。


「残念ながら、俺の親父は、好きな研究さえできれば、家族を殺した相手にも国にも、平気で尻尾を振る男だった」

 俺に残ったのは、科学者としての性質が強すぎる父親だけ。

 俺はリエハラシア軍の少年兵育成組織に放り込まれて、訳もわからず訓練漬けの毎日。それを地獄と表現するのは、あまりに生ぬるい。

 

「だから、リエハラシアも、秀哉さんも憎かった」

 黒い瞳は、憐れむような眼差しを向けてくる。それがとても、癪に障る。


「憎いのはクルネキシアもだよ。終わりの見えない戦争を、大国からって名前のに従って、ずーっと続けて」

 俺が憎いのは、この世界の何もかもだ。俺の手から何から何まで奪ってきた、理不尽全て。

「どちらも、戦争をやめる気がないからな」

 梟がボソッと言う。こいつだって、戦争が終わらない原因はわかっている。

 リエハラシアとクルネキシアが、両国をひっそりと支援している大国たちが、この戦争を終わらせる気がないと。


 大国たちは、リエハラシアとクルネキシアが潰し合い、そこが一つの空白地帯になった時、地下に眠っている資源を総取りできるように、機会を伺っている。

 そのために、この何も生み出さない戦争はだらだらと続いている。

 

「敵味方を満遍なく潰せる威力を持つ兵器があれば、戦争自体の抑止力になる。親父はそんな夢を描いてたけど、そんなはずがない。

 そんな夢みたいな破壊力があれば、我先に使うんだよ。そのためなら、どんな大金をはたいてもいいって言う」

 俺が捲し立てる間、ミッチーはじっと見つめてくるだけだった。

 喋り終わった時、少しだけ呼吸が荒くなっていて、自分が興奮していたと気づく。


「それを止めたいと思った? それとも、利用したいと思った?」

 そう淡々と問いかける声音は、俺とは正反対に落ち着いていた。

「そんなもの、利用するに決まってる」

 即答すると、ミッチーは何も言わずに二回頷いた。その素振りに、どこか突き放された気がした。

 

「今まであんなに情報を出し惜しみしてたくせに、なんでそんな、ペラペラ喋る気に?」

 穏やかに話しかけてくるミッチーの様子は、外事課の、マサキみたいで落ち着かない。

 でもマサキよりは、ミッチーの方が扱い易い。


「だって、『ファラリス』のデータは持ってる」

 俺が爆弾を落とせば、目を見開いて凍りついてくれる。


「今、ミッチーが持ってるのは、俺が用意した『ファラリス』の偽物ダミーデータ

 目の前にある黒い眼が、小さく震えているのを見て、胸がスッとする。


「サハラが持ってた『ファラリス」の元データは、最後に会った五年前、俺がすり替えて回収したから」

 満面の笑みを浮かべて言ってやる。口角を上げると、殴られてできた傷が悲鳴を上げるが、それを上回る達成感がある。


「ミッチーは、必要ない偽物を後生大事に抱えてたってわけよ」

 こうやって追い打ちをかけると、ミッチーは項垂れて、肩を震わせて始めた。


「あーぁ、五年前じゃ対策できないわ」

  泣いているのかと思えば、口元を押さえて、くぐもった笑い声を漏らしている。

 絶望的な告知を受けた人間は、泣き叫ぶよりも先に、笑ってしまうみたいだ。


 笑うミッチーに、笑顔の俺。きっと梟は戸惑っているだろうと、頭上を少しだけ盗み見る。

 怒りや軽蔑を通り越して、冷徹に見える灰色の眼と視線が合った。


 梟の表情を読み取ろうとしている間に、ぐいっと首を引っ張られる。

 違う、胸ぐらを掴まれたんだ。眼が据わったミッチーに。

「あんたが持っているのが本物の『ファラリス』だとして、あんたが埋め込んでるのは、制御用マイクロチップ。あんた一人で何ができる?」

 俺のマイクロチップだけでは、制御する機能しかない。


「だから、こいつに協力してもらうよ」

 俺の後頭部に銃口を向けて立つ、目つきの悪い男を見上げた。

 ミッチーは鼻で笑う。

「それは、望み薄そうだけど?」

「ありとあらゆる情報をタダで譲るし、どんなレアでコアなAV作品の入手だって、やってやるよ」

 じっと黙っている梟の眉が、ピクッと動いた。

「ほーら、揺らいでる揺らいでる!」

 言い出したのは俺だけど、梟はいくらなんでも簡単にほだされすぎだと思う。

「クソチョロい!」

 ミッチーはそれを見て、軽く引いている。


 

 

          *



 手元にあったアイライナー、アイブロウ、シャドウを手当たり次第に塗りたくった狐の顔は、真面目な表情をしていても迫力がない。

 

「冷静に考えると」

 狐の胸倉を掴んだまま、私は話しかける。

「あんたのお父上が作った『ファラリス』は、誰でも簡単に扱えないように、マイクロチップを使用した生体認証システムを積んだり、試作段階では起動用と制御用にマイクロチップを分けたり」

 何か言いたげに私を見つめ返してくる、ヘーゼル色の眼。そこに映る私の姿は、滑稽だ。


「たくさんの試行錯誤があった関連で、試作品マイクロチップが揃っていても起動できる仕様のまま」

 私たちは、掌で転がされている。


「今、『ファラリス』とマイクロチップ保持者がイヴァンの手の届く範囲に、全員揃っている。

 何が言いたいかって言うと、イヴァンが一番得する状況だよって話」

「わかってんじゃん」

 さんざん落書きした間抜けなメイクをされた顔で、にっこり笑いかけてくる。

 サバちゃんに殴られてボコボコの顔を、さらに殴ってやりたくなるほど、憎たらしい。

 堪えろ。


「イヴァンは、優子さんの仇討ちなんか、ついででしかない。『ファラリス』とマイクロチップ保持者をまとめて手に入れるのが目的」

 言葉にすると、どんどん虚しくなる。奥歯を噛み締める。

 堪えろ。堪えろ。

 

「イヴァンが私を生かしておくとは思ってないから、あんたとサバちゃんがキーパーソンになるのは間違いないんだ」

 胸倉を掴んでいる手に力が入って、震えているのを、狐も気づいているだろう。


「最後に聞かせて」

 私が狐とまともに話す機会なんて、これが最初で最後だ。

「あんたの本当の願いは、何」

 私の質問に、狐はヘーゼル色の瞳が、僅かに揺れた。

 

「俺は、親父の馬鹿げた思想が、間違いだったと証明する」

 小さく息を吐き、そう答えた時、狐は薄く笑っていた。どこか寂しげな笑みに見えた。

 

 パン、と乾いた音がしたのと同時に、狐の体が軽く跳ねるように揺れた。

 思わず私が見上げると、右手に握った拳銃P226から銃弾を撃ち込んだ彼は、無表情で見下ろしていた。

 何も言わずに、静かになった狐の姿を、灰色の眼で。

 狐の胸倉を掴んでいた手の力が抜けてしまい、狐の体は重力に任せて畳に落ちる。

 

「サバ、ちゃん」

 私が声を掛ける間にも、彼は畳の上に倒れた狐を引きずりながら移動させている。

「部屋を汚した。悪いとは思っている」

 そう言いながら、狐の体をユニットバスのドアな前まで移動させた彼は、ドアを開けた。


「そういうことじゃな……」

 私の言葉と重なるように、狐が浴槽に放り込まれる、鈍くて重い音が響いた。ガサガサと何か探すような音がしてから、彼は私の方を振り向く。

 拳銃片手に、彼は感情を一切排した眼で、私を見ていた。


「なんで」

 畳についた血の痕は、狐を引きずった痕跡そのもの。ユニットバスまで続いている。

 彼はユニットバスのドアを閉めると、ドアに背中を凭れながら煙草に手を伸ばした。

「狐が死んだら、俺のマイクロチップは存在意味がなくなり、お前のマイクロチップの価値が上がる」

 取り出そうとした煙草をしまい、手持ち無沙汰になった掌をボトムスのポケットに入れる。

 

「これで、イヴァンが一番嫌がる展開にできた」

「そんなことのために」

 嘘でも、そう言わないで欲しかった。

 これは私の、勝手なだ。


「お前にとって損はない展開になっただろ」

 表情は変わらず、刺すような鋭い眼差しが私を見ている。

「俺が、お前のためにやったと思っているのか? それはお前の思い上がりだ。俺は俺のしたいようにした」

 彼のやりたいことが、これなのだとしたら、現実はことごとく容赦ない。


「中途半端な正義感、中途半端な罪悪感で判断を誤るのが、最も無様だ」

 こういう、皮肉めいた言い方は覚えがある。彼もそれを意識して言っている。

「……秀哉さんなら、そう言うね」


 私たちは、血で血を洗うばかりだ。

 それしか、教えられていない。

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