23. Watershed event



        ****

 

 

 研究室、と呼べば聞こえはいいが、そこは軍本部の地下フロアの最奥にある部屋だ。カビ臭く、窓がない。


 毎度、ここに顔を出しに行く時は気が重い。今日は特に。二日前に、妹が死んだばかりで、気分は最悪だ。


 鉄の扉をノックもせずに開けると、部屋の壁際にあるデスクから、ゆっくりと人影が動くのが見えた。

 立ち上がるだけで、こちらに寄ってこない。


 茶色みの強い赤毛。ヘーゼル色の瞳。目の下のクマは色濃く、やつれた顔は実年齢よりも老けて見える。

 

 この男はクルネキシアの物理学者。

 早すぎた天才。

 名前は、ミカティリ=エンリ・ガイツィナロクナフ。


 俺はミカティリの監視を任されていた。

 とはいっても、ミカティリは、クルネキシアに戻ろうとする素振りはなく、リエハラシアでの日々を新兵器の研究開発に費やし、淡々と過ごしていた。

 

 ミカティリとその息子をリエハラシアに連れてきたのは俺だ。

 その負い目を勝手に感じていた俺は、軍の育成組織にいるミカティリの息子の話を会うたびにしていた。

 それが俺にできる贖罪だと、思い上がっていたのかもしれない。


 だが、最近のミカティリは息子の話を聞こうともしない。

 ミカティリの調子がおかしいと思ってから、かれこれ一年以上経っている。

 まとまった睡眠が取れず、何度も中途覚醒を繰り返す。

 ひどく気分が落ち込んだ様子で、何も手がつかない日が増えた。時々復活しては仕事を進める。

 だが、休んでいた間に積もった仕事を見ては自己嫌悪に陥り、また仕事が手につかなくなる。

 

 死にたい、と泣きついてきた日もあった。

 精神的に参っているのは明らかで、何十回と精神科の医師に診せようとしたが、いつも頑なに拒まれてしまう。


 ミカティリの髪を伸ばしっぱなしになり、肩くらいの長さになった髪を一つに結ぶようになった。

 顔色も悪く、痩せこけてきた。聞けば、食事も摂れたり摂れなかったり、歩く姿もふらふらとしていて覚束なくなっていた。

 頼むから医師に診てもらえ、と根気よく説得したが響かない。

 時には息子を呼び寄せて説得を頼んだが、それでも首を縦に振らない。

 

 こんな異常事態なのに、軍や大統領はミカティリが手がけた新兵器の研究開発の完成が優先で、ミカティリ本人の容態など気にしていない。


 

 ミカティリのデスクの周りには、物置と化したデスクが両脇に一脚ずつ並んでいる。

 俺はそこから椅子を引きずり出し、ミカティリの椅子と向き合う場所に移動させる。

 

 ミカティリはそんな俺の顔を心配そうに見る。人の心配より、自分のメンタルの心配をしたらどうだ、と思わず言ってしまった。ミカティリは気まずそうに笑うだけだ。

 

「なぁ……妹さん……ナオミって言ってたよね。亡くなられたと、息子から聞いたよ」

 あの息子は、精神的に不安定になっているミカティリの耳に入れない方がいいニュースを、どうして伝えたのか。父親の精神状態が良くないと、わかっているはずなのに。

 思わず溜め息が漏れた。

 それに、ナオミの名前を、誰かの口から聞くのがこんなに苦しいとは、思わなかった。


「きっと、神の御許みもとに抱かれて、きっと安らかな時間を過ごしているはずだよ」

 労わるような、優しい言い方をされるが、その方が神経を逆撫でされてしまう。

 もちろん、ミカティリに悪気なんかない、ただ俺の精神状態が良くないだけであって。

 ミカティリに、本当は神などいないと思っている、と答えたら、困らせてしまうだろう。

 

 でも、どうやって神の存在を信じろと言う?

 

 ナオミが、大事な妹が、アヴェダたちにどんな目に遭わされて、あの選択を選んだか、神は知っているのか。


 良かれと思って、軍の病院に入れて高度な医療を受けられる環境を用意したはずなのに、妹はそこで辱められた。

 

 神がいるなら、ナオミはこんな目に遭うはずがない。


 病室の窓から飛び降りたナオミのことを思い出し、吐き気を覚える。

 

 俺がありとあらゆる感情を押し殺そうと苦労しているそばで、洗ったのか怪しいマグカップに注がれたコーヒーを差し出してきたミカティリは、憐れむ目で俺を見ている。


 吐き気とミカティリの清潔感のない佇まいに、コーヒーに口をつける気になれず、受け取ったまま固まってしまう。

 

「つらいな」

 ミカティリは、自分のデスクに置いたマグカップの縁を指で撫でながら、ぼそりと言う。

 俺になんと声をかけたらいいのか悩んで、とりあえず口にした言葉なのだろうと思う。

 俺は、渡されたマグカップを脇のデスクの上に、ひとまず置く。

 

「息子の手を引いて、国境を越えた日の光景は今でも夢に見る」

 そう言いながら、ミカティリは自身のデスクに置かれたマグカップへ手を伸ばした。

 

 リエハラシアが、いや俺たちが、掃討作戦を行い、焼き払った、ミカティリたちの町。

 ミカティリとその息子の身柄を保護し、リエハラシアへ亡命させたのは他でもない、自分だ。

 俺は、ミカティリの頭脳欲しさにやった作戦の話を、わざわざ話したりはしない。どうせ恨まれる。

 ミカティリは口には出さないが、亡命後にリエハラシアの内情を知り、真相を察したはずだ。

 だからミカティリは、憎しみと憐れみのこもったヘーゼル色の眼を、俺に時折向けてくる。

 

「でも僕は、リエハラシアで自分が考えた革新的な兵器の開発をできるのが、うれしいと思ってしまう。クルネキシアでは、こんな設備も権限も与えられなかったからね」

 この男の不幸は、研究者としての自我が強いことだ。


 研究を思う存分できる環境を出されたら、多少迷っても食いつく。俺が引き入れたこの頭脳は、リエハラシア軍に多大な貢献をしてくれた。

 

 ダイナマイトを発明したアルフレッド・ノーベルは、ダイナマイトが軍事転用されると見越していた。

 ノーベルは、ダイナマイトを使用した破壊力の強い兵器の存在は、戦争への抑止力として働くと予想していた。


 だが実際は、そうならなかった。現実はいつも、過酷な結果を見せてくる。


 ミカティリも、ノーベルと同じことを考えている。自身が生み出した兵器が、戦争の抑止力として機能する。そんな夢みたいな理想を実現させようとしていた。

 だからこそノーベルと同じ轍を踏むわけにはいかない、僕はノーベルが成し得ようとした平和を実現する、と息巻いている。

 

 科学者のくせに理想論者。

 そんなアンバランスな性格のせいで、ミカティリのメンタルは長らく不調のまま。皮肉な話。

 

「実は一昨日の夜、急に閃いたんだ」

 ミカティリは、安定剤をよく飲み忘れる。薬の効果がないと頭がすっきりするのか、何かを閃くと、何十時間も作業に没頭する。

 そしてひどい落ち込みを起こして、何日も寝込み、何もできない時間が過ぎる。

 薬だけは飲め、とさんざん言っているのに、今回もまた、ミカティリは薬を飲まずに突っ走ったのだろう。


「だから、寝ずに作り上げた。ほぼ完成したといってもいい。ここまでの達成感は、今まで生きていて初めてなんだ」

 熱っぽく語るミカティリに頭痛を覚えながら、頼むから薬を飲んでくれ、と諭す。

 だが、薬の効いていないミカティリには意味がない。

 熱心に、自身がどれだけ頑張ったかを滔々と話し続けているだけ。

 

「仕様書はこれ。内容は全部、暗号にしたから、読んでもわからないだろうけど、サハラにだけ渡しておく。頑張って解いてみてよ」

 ゴミのような書類や物に溢れたデスクから、何かを手にしたミカティリが、俺に向かって投げてきた。

 それは緩い弧を描いて落ちてきたので、片手でキャッチする。

 形状からして、USBメモリだ。

 

のデータは、その中にある。処分するのも、軍に渡すのも、君の判断に任せる」

 この子、と呼ぶのは、開発していた新兵器――『ファラリス』だ。

 ミカティリはまた、デスクから別のUSBメモリを手にすると、もう一度、投げ渡してくる。

 俺の手の中には、仕様書が入っているUSBメモリと、ほぼ完成版の『ファラリス』が入ったUSBメモリの二つがある。

 

「大国同士の思惑で、市民の幸福が奪われるのは、もう懲り懲りだよ」

 投げられたUSBメモリを両掌の中で並べて、交互に眺めていると、ミカティリがクスクスと笑い声を漏らしながら言う。

 

 どう考えても、こんな掌に収まるサイズのデータでしかない何かが、世界を平和に導くなどと思えない。

 

「僕は今までギャンブルなんかしなかった。非効率なものだと思っていたからね。でも、賭けてみたんだ」

 唐突に、ミカティリは言う。気持ちが悪いほど穏やかに、微笑んでいた。

 研究開発しかやらないような、よく言えば真面目、悪く言えば趣味のないミカティリが、何を思ったか、ギャンブルをしたのだと言う。

 

 その賭けとやらは、どんな結果になったんだ?


 俺が尋ねると、困ったような笑顔を浮かべたミカティリは、首を横に振る。

「この賭けは、コーヒーを、君の勝ち」

 ミカティリは、手にしているマグカップを揺らす。中身は冷め切っているのか、湯気は立っていない。

 ミカティリが、最初からずっと手にしているのに、一向に飲もうとしなかったマグカップ。

 

「息子に、愛していると伝えてくれ」

 ミカティリはマグカップの中身を一気に呷る。

 次の瞬間、膝から崩れるように倒れ、喉を掻き毟り、口から泡を吹く。目の焦点はもう合っていない。

 

 毒だ。

 

 すぐに体を抱き抱え、名前を呼びかけるが、もう何をしても無駄なのはわかっていた。







 

 父親の死を伝えた時、ミカティリの息子は一瞬顔を強張らせた。が、すぐに微笑んだ。

 

「父がやっと死ねたんだと思うと、ホッとしました」

 ヘーゼル色の瞳は、嘘をついている。俺に向けている眼差しの根底にあるのは、怒りだ。

 

 わざと博士に俺の妹が自殺したと話したな、とミカティリの息子の肩を揺さぶりながら問いかけると、意味ありげに口元を歪めてみせた。

 

「やだなぁ、世間話のついでに話しただけですよ」


 ミカティリと同じ、憎しみと憐れみの混ざったヘーゼル色の瞳。

 

 この眼差しからは、一生許されない。




 

 

        ***



 街灯に照らされた道路だけは、夜の中でも淡く光って、風景から浮き上がっている。

 そこから離れると、ロードサイドの家々の窓から漏れる光が主な光源。

 家々とはサイズ感が違う、四角く大きな建物の黒い影を目標に、足音を殺して進む。

 

 都心から沿岸部に向かう道は空いていて、助かった。思ったよりも早く着いた。

 

 ミッチーとの通話を切って、すぐにホテルを出た。そこで目についたタクシーを捕まえて、ここまで駆けつけた。

 こんな時間に外国人二人組が、観光地でもない海辺の寂れた町に行きたいと言うのは、かなり目立つ行動だ。


 タクシードライバーも面食らった様子で、再度、片言の英語で行き先を尋ねてきた。

 こちらが日本語で丁寧に返すと、ホッとした顔を見せ、道中いろいろ話しかけられて、適当に返すのが大変だった。ビスクドールは寝たフリをして、ドライバーとの会話を回避していて、ずるいと思った。


 タクシーを降りてからは、ビスクドールとろくな会話をしなかった。

 目的地である四角い建物の、その裏口に回って、非常階段を駆け上る。

 民間の施設で、しかも夜間。勤務している従業員も多くない。そもそも警備が厚いわけじゃない。

 ビスクドールには、細心の注意を払って足音を消してもらった。

 俺の移動スピードについてこれなければら外で待っているように、とも言っておいた。

 

 夜間の見回りの姿がなくなったところで、サハラがいる部屋に侵入する。


 俺の後ろに続いて侵入したビスクドールは、ベッドで横たわる人間を見て、驚いて固まっている。

「これが、シューヤ様、ですか?」

 ビスクドールが知っているサハラとはまるで別人に見えたのだろう。

 俺も、この男がサハラだなんて思えない。


 痩せた身体は、訓練でミスをするとすぐに殴ってきた筋肉質な男とは違う。

 枕に押し付けられてボサボサになっている白髪混じりの髪は、光を弾くほど艶のある黒い髪だった男とは違う。

 けれど、こいつはサハラだ。

 

 電灯のついていない暗い部屋で、ベッドに横たわっているサハラは、死人のようだ。

「"ったく、引っ掻き回すだけ引っ掻き回して、そのザマかよ"」

 母国語で呟きながら、ベッドの縁を拳で叩きつけた。サハラはそれでも起きなかった。


 故郷で、俺たち訓練生をさんざん痛めつけては意地悪く笑っていた男の最期は、記憶と体の自由を失うバッドエンドだ。


 ジャケットの胸ポケットから注射器シリンジを取り出すと、サハラの腕をさすりながら、病院着の袖を捲る。

「何を」

 ビスクドールは、俺が何をしたいのか、薄々わかったらしく、肩を軽く掴んで俺を止めようとする仕草を見せる。

「大丈夫、死んでもらうだけ」

 暗い部屋の中、目を凝らして静脈を探し当て、針を刺す。針の刺激に、サハラは軽く身じろぎした。

 

「そんなことしなくても」「俺の気持ちの問題」

 俺の方を掴むビスクドールの手の力が強くなった。でもそれを気にせず、注射桿を押し込んだ。

「地獄でのたうち回ってろ」

 自分で言っておいてアレだが、捨て台詞にしては陳腐すぎる。

 

「気持ちの問題、とは仰っていましたが、こんなことをして何の解決になりますか」

 そのセリフは、俺じゃなくイヴァンに言ってくれ。

 ビスクドールにそう言い返したくなるのを堪えて、首を横に振る。

「解決なんかしない」

 数分で死に至る薬を打たれたのに、サハラの呼吸は穏やかで、腹が立つような、ホッとしているような、とにかく感情が捻れている。

「自分の手で殺してやった、って実感が欲しいだけなんだろうね」

 そう呟いた瞬間、手首をガッと掴まれた。

 ビスクドールかと思いきや、俺の手首を掴んだのは、筋肉が落ちた細い腕。

 

「なんだよ」

 サハラはゆっくり、何かを喋ろうと口を開くが声が伴わない。

「なんなんだよ」

 口だけを動かして、必死に何かを訴えてくる男の目に光はない。悪霊に腕を掴まれた気分だ。

 振り払ってやろうとするのに、信じられないほどしっかりと掴んでいる。どこにそんな力があったというんだ。

 

「……クソったれ、が」

 掠れながらもはっきり、サハラは俺を睨みつけて言った。

 最後の最後に、母国語で罵ってきた。

 隣にいたビスクドールが、息を呑む。

 言うだけ言うと、サハラの腕は布団の上に力なく滑り落ちていった。

 瞳孔が開いた黒い眼は何も映さない。

 口が半開きになって、呼吸が止まった肉体は、ただの重たい肉塊。

 俺の親父みたいな、締まりのない死に顔を晒して。

 

「なんだよ、ホントにさぁ!!」

 父親の顔など、いまさら思い出すつもりはなかったのに、よりによってサハラの死に顔を見て思い出すなんて、屈辱でしかない。

 

 ビスクドールは俺の腕を掴んで、警戒を露わにした表情を見せた。

「人が来ます。早く行きましょう」

 俺の腕をグイッと引っ張り、非常階段まで足早に移動するビスクドールは、少し焦っている。

 反対に俺は、やり切った達成感みたいなものが全然なくて、フワフワした気分だった。


 俺の家族の運命を狂わせたサハラを、これだけの時間を待って、やっと殺したのに、こんなに空虚な気分になるのか。

 

 サハラは、もともと終末期。

 注射痕など見過ごされて、身体機能が低下した末路の死として処理される。

 でも俺はわかっている。

 俺がとどめを刺した、と認めてもらいたくて、何をしたかを言ってしまうんだ。

 

 ミッチーは顔を曇らせて、俺に罵声を浴びせる。

 梟は舌打ちしながら、悪態をつく。

 その様子が見たくて、俺はサハラを殺したと言う。

 

 こんな自分が、この世で一番厄介で馬鹿で、大嫌いだ。


 


        *



 "My funny valentine,

 Sweet comic valentine"


 少しピッチの外れた鼻歌。懐かしいメロディ。

 

 秀哉さんには、ありとあらゆる銃種のメンテナンスの仕方、撃ち方を教えてもらった。

 20キロ以上の荷物を背負って、山に登って、追いかけ回されるなんて無茶苦茶な鬼ごっこもやった。

 今にして思えば、故郷でやっていた訓練を、私に合わせてアレンジしたのだと思う。

 おかげで、今の私がある。

 

 私を忘れられても。

 故郷で死んでしまった妹と思われているのだとしても。

 

 



 ダイニングテーブルに置かれたマグカップから、ふわりと湯気が立っていた。

 この風景は、私たちが三人で暮らしていた、3LDKのマンションだ。これは、もう二度と見るはずのない景色。

 

 椅子に座っている背中は、動かない。その姿は以前よりも小さく見えた。

 私がいる気配に気づいて、椅子から振り向いた秀哉さんは、まだ病気が進行する前の元気な頃の姿で、笑っていた。


 

 みちる、ありがとな。


 

 名前を呼ばれたのは、いつぶりだろう。

 

 おもむろに椅子から立ち上がって、どこかに歩いていく背中。

 この部屋の間取りはわかっているし、そんな遠くまで行けるはずがないのに、私の手は秀哉さんの背中に追いつけない。




 

 夢だ。

 秀哉さんに感謝の言葉まで言わせて、自己満足にも程がある。

 ひどい夢。

 

 夢だと察した瞬間に、目が覚めた。

 冷や汗を全身にかいていた。唾を飲み込むゴクッという音が、やけに響いた気がした。


 目の前の光景を見て、息が止まるかと思った。

 

 自分が夢を見るほど眠っていたのに驚いたし、隣には寝息を立てている彼がいて、さらに驚いた。

 

 彼は、図体の割にこぢんまりと丸まって、タオルケットを繭のように巻き付けて眠っている。

 

 この人は明け方、「いい加減、仮眠を取らないとパフォーマンスが落ちる」と言って、人の布団からタオルケットを引っぺがして、いきなり畳の上で寝始めたのだ。

 そのうち私も、その隣で寝落ちしたのだと思う。布団に入る気力もなく倒れ込んだパターンだ。

 寝起きから、首やら肩が痛い。

 

 スマートフォンのバイブレーションが鳴っているのが聞こえて、起き上がって、音の在処を探す。

 畳の上に投げ出されたスマートフォンの画面を見て、この電話は取らない方がいい、と直感的に察した。

 けれど、出ないわけにはいかない。

 秀哉さんのいる施設からの電話。


 何を言われたかわかった。わかっているのに、理解が追いついていない。

 

 ずっと想定してきたのに、いざそうなると頭を殴られたような衝撃がある。

 もっと静かに見送れると思っていたのに、この状況で。

 

 通話の切れたスマートフォンを畳の上に落とす。手に力が入らなかった。

 畳に視線を落とすと、視線の先にあったささくれを指で触れる。もちろん、この行動に意味はない。

 

 視線を感じて振り返ると、繭の中の灰色の眼が私を見ていた。私が電話応対をしているうちに、目を覚ましたみたいだ。

 目は開いているけれど、微動だにしないので寝ぼけているのかもしれない。


「誰から」

 誰からの電話だと尋ねてくる、掠れた低音の声。

 電話の内容を話そうとしても、説明する言葉が頭の中に浮かんでいるのに、口が動かなかった。

 

「死んじゃった」

 やっと出てきたのは、端的すぎる言葉だ。

「誰が」

 怠そうに聞き返される。返事をしようと口を動かそうとしたのに、なかなか言葉にならなかった。

 それでも彼は、何も言わずに待っていた。

 

「秀哉さん」

 いくらでも想像してきたのに、言葉にするのがしんどい。

「どうしよ」

 18時にイヴァンと会う。

 それまでに秀哉さんの施設に行って、手続きを色々しなきゃいけない。

 どんな手続きが必要で、私は何からしないといけない?


「よりによって今……」

 指先で畳のささくれを逆立てながら、ぼんやり呟いていると、煙草の匂いがしてきた。

 いつの間にか、彼は起き上がっていて、煙草をふかしている。タオルケットはぐしゃぐしゃに丸められていた。


 彼は無言で宙を睨んでいたかと思えば、急に私の両肩を掴んで、早口で喋り出した。

「サハラのことは、クガに頼め。あいつらなら、喜んでやってくれるだろう。イヴァンの前で、その情けないツラを見せるな」

 情けない、とまで言うのはひどい。

 今の私が、めちゃくちゃひどい状態なのは否定しないけれど。


「俺は装備を揃えに行く。その間にお前は、ぐだぐだの精神状態をどうにかしろ。後で迎えにくるから、その時には正気に戻っておくように。いいか、絶対だ」

 普段は短い文でぽつりぽつり話す人が、内容を詰め込んで話してくるのに戸惑うし、突き放すような言い方をするのが、のようで落ち着かない。

 

「たまには、優しい言葉を掛けてみたりしないのかな?」

 慰めの一つも言わない平常運行が、憎たらしいような、安心できたような。思わず苦笑いしてしまった。

「言い返す元気があるなら、まだいけるだろ」

 悔しいけれど、その通りだった。

「"クソったれ"」

 彼の母国語で吐き捨てると、彼は眉間に皺を寄せてからニヤッと笑う。相変わらず不気味な笑顔だ。


 そして彼はさっさと立ち上がると、そのまま靴を履いて出て行ってしまう。

 玄関から出ていく背中を見送って、私は静まり返った部屋の真ん中で、声を殺して泣いた。


 わざわざ一人になる時間を、彼は作ってくれたのかもしれない。

 そんな深い配慮はしてなくて、ふらっと出て行っただけかもしれない。

 

 どちらでもいい。

 

 私は、今ここで泣いておかないと、きっと後で、ぐちゃぐちゃに崩れて壊れる。

 

 

 

         *


 

 オフィスのブラインドの隙間から、明るい光が漏れてくるのに気づいて、真咲まさき 圭一郎けいいちろうは顔を上げる。

 壁掛け時計に目をやると、そろそろ部下である加野かの 杏樹あんじゅが出勤してくる時間になる。

 真咲はデスクにある端末の画面に視線を戻し、椅子に座ったまま背伸びをした。

 

「赤毛くんがビスクドールと合流した時点で、勝ち確ってねー」

 オフィスに足を踏み入れるなり、真咲にそんな言葉を投げかけられた杏樹は、瞬きを何度も繰り返し、首を傾げた。


「GPSの情報は、ホテルからまだ動いてないけど、タクシーで深夜に移動してたのは確認済み」

 真咲は満足げに、赤毛の事情通の動向を伝えてくる。

「行動に制約をつければつけるほど、裏をかこうと焦っちゃうものだぁね」

 杏樹は真咲の椅子の後ろに立ち、画面を覗き込む。

「真咲さん、何時に出勤したんですか?」

 杏樹は、真咲が就業時間前に遅刻せず出勤しているのを、異動してから初めて見た。

「一度家帰って仮眠して、夜中にここきて、ずーっといるー!」

 デスクの脇に並んだ、開封済みのエナジードリンクの空き容器を指差して、真咲はにっこり微笑みかけた。


「普段からそれくらい熱心に取り組んでくださいよ」

 杏樹の目は画面に表示されているGPSの移動記録を見る。

 赤毛の男の位置情報を示す点は動いた形跡がなく、海沿いのエリアから都心に向かって赤い×印が点々とついているマップだった。

 赤い×印は、赤毛の男とイヴァンの秘書、通称・ビスクドールの目撃された地点のようだ。

「この赤×バツのところは、近くにいた捜査員に向かわせてるよ。報告待ち」

 杏樹が指摘しようとしたポイントは、とっくに真咲が手を打っている。

 そして赤い×印は今もなお、点々と更新されて増えていく。


「この二人を」

 確保して、イヴァンの居場所を吐かせましょうかと言いかけた杏樹を、真咲は遮る。

「いや。ビスクドールが捕まってもイヴァンは動じないから。

 あの爺さん、渕之辺 優子以外の人間の命なんか、トイレットペーパーより価値がないって思ってるから」

「そんな」

「でもトイレットペーパーはないと困るから、それなりに価値があるかぁ……ティッシュペーパーは、要る……コピー用紙、これもないと困る……」

 本題とは別のところで、真咲は悩み始める。

 そんなのはどうでもいいです、と杏樹が止めるまで、ぶつぶつと呟いていた。


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