22. My circumstances
彼は連絡先を登録しない。
今鳴っているスマートフォンの画面には、数字しか表示されない。
彼は、文字や数字を一度見たら記憶できる人なのかもしれない。
彼を通さずに接点を持ったのは一度だけ。
彼のセーフハウスのスペアキーを同封した差し入れを、狐が持ってきた時。
その差し入れの中にあった狐本人からのメモには、狐の連絡先が書いてあった。
ただ、狐と直接連絡を取りたくなかったから、こちらから接触は取らなかった。
嫌な予感しかしないから。
彼の電話を鳴らすのは、いつも狐。
彼はスマートフォンの音声をスピーカーにした。そして畳の上に置く。
『よぉ、
その声を聞いた彼は、自身のこめかみの上の髪をグシャッと掴んで、黙っている。顔色がとても悪かった。
『お前はいいから、ミッチーとちょっと話させてよ』
電話の声に、微かな苛立ちが混じっているのがわかる。
この人が苛立っていることを、どうして気にしなければいけないのだろう。
『サハラが介護施設にいるとは思ってなかった』
狐が話しかけてきた言葉は、日本語。
彼らの前では、リエハラシア語の
「突き止めるのに、思ったより時間かかったね」
狐が優秀な情報屋なのは、知っていた。
秀哉さんの居所は、もうバレていてもおかしくない。そう覚悟していたのに、バレませんようにと必死で願っていた。
風前の灯、それでも灯り続けていた願い。
『ビスクドールと
「聞いてないのにそういう話、してくるの、ホントにキモい」
悔しい。この男がビスクドールと遊んでいる間に、突き止められてしまった。
『サハラはアルツハイマーだって? 困ったね』
「残念だけど、秀哉さんの病状はもう終末期だから、聞き出せるものはない」
病名まで調べ上げられている。
不正アクセスして、秀哉さんの電子カルテの内容を見たのかもしれない。呆れるほどあっさりバレていく。
「私から聞き出した方が早いよ」
『そう言うミッチーが、実は一番信用ならないんだよね』
「それはお互い様」
情報を意図的に隠して立ち回る。
自分が一番有利になる瞬間を作る。
狐のやり方は、私のやり方。
戦術スキルを教えた
「シャロちゃんが一番復讐したいと思っていた人間の記憶は失われていて、そう遠くない未来に死ぬ。
それなら、日本に来なかったら良かったって気分にならない? 今からでも帰れば?」
明るく軽妙に、相手の神経を逆撫でする言い方を選ぶ。
『運命ってのは皮肉すぎて嫌になるよ』
それでも狐は動じない。
むしろ、隣に座っている彼の方が、眉間に皺を寄せたり、煙草の灰を落としたり、動揺している気がする。
『で、完成品のチップはどこに隠したの?』
間を空けずに飛んできた、狐の質問。質問に見せかけた詰問。
それを聞いた彼は、私の右手に視線をやってから、顔を見てくる。気もそぞろなのがわかる。
私は自分の唇に人差し指を当て、黙っているように促した。
「優子さんが持っていたものは、あんたが持ち去ったんでしょう?」
『それが
狐が強めの口調で言う。狐の感情が、やっと露わになった。
「じゃあ知らない」
『嘘をつくなよ。本物はミッチーが持ってる』
「本物か偽物か調べる時間もないくらい、急いで回収したんだね」
あの応接間で優子さんは、
「優子さんを殺さなきゃ良かったのに。結果を急いで殺しちゃったのは、誰だろうね?」
殺された。
あの銃声が聞こえるまで、優子さんが私のそばにいなかった時間は1分もなかった。
『俺じゃないのに』
電話の向こうの狐は、ヘラッと笑って言う。嘘か本当か、声だけじゃ判別できない。
「白々しいな」
こんなに空虚な会話はないな、と惨めな気持ちになる。
せっかく狐と話す機会ができたのに、このまま終わるわけにはいかない。
天井を仰いで息を吸う。隣の彼の視線が刺さるけれど、気にしない。
「シャロちゃんが頭を悩ませて、『ファラリス』や完成品のマイクロチップを奪還するのと並行で、ジェセカや『
私が喋り続ける間、狐は時折鼻で笑った。自嘲のように。
「挙げ句に偽物のマイクロチップしか手に入らなかった。そこはとっっっっっても同情してる」
『安い同情は要らないって言っておく』
電話の声は、さっきよりワントーン低い。
『結果しか欲しくないんだ』
少し早口になりながら言われた、懐かしい言葉に胸の奥が痛む。
「だろうね。そういうところ、シャロちゃんも秀哉さんの教え子だね」
どんなに頑張ろうと、結果が全て。
狐が言った言葉は、秀哉さんが時々言っていた。きっと狐も、秀哉さんに何度も言われてきたのだと思う。
電話の向こうで、「クソが」とリエハラシア語で吐き捨てているのが聞こえる。
『そのシューヤって呼び名、慣れないんだよな。俺にはいつまでも、サハラなんだよね』
だからサハラと呼び続けるよ、と狐は付け加える。
サハラでも、阪原でも、どんな呼び名でも、私たちの記憶にいる人が同じなのは変わらない。
その人の記憶に、私たちはいないけれど。
『なぁ、梟』
彼のコードネームを呼ぶ声は、彼らの母国語だった。
『さっきから黙っちゃって。このやり取り聞きながら、訳知り顔してるんだろうけどさ。お前、俺がいないと情報収集もままないだろ?』
彼は、咥え煙草姿でスマートフォンの方に身を乗り出す。眉間に皺が寄って、険しい表情をしている。
『どっちにつくべきか、自明だよな?』
彼は私の味方ではない。今まで行動を一緒にしていたのが不思議なくらい。
彼と狐の信頼関係は確かなもの。信頼関係というより、利害の一致と言った方が正しいと思うけども。
彼の灰色の瞳が私を見た。
灰色の眼の、上三分の一が瞼にかかっている眼は、睨まれているように見える。本人はそんな気はない。
この人が睨む時はもっときつく、鋭い眼をする。
「あれが『六匹の猟犬』を潰す目的を含む作戦だったなら、俺は参加しなかった」
煙草を咥えてくぐもった声。
言い終わると、指先で煙草を挟み、唇から離す。彼の顔の前に、煙が舞った。
『そう言うと思ったから言わなかったって、わかってるだろ?』
狐は、彼を宥めようとしている。それに対して、彼は舌打ちで返した。
彼が生き残り、そして彼が私と一緒に国を出たのは、狐にとって予想外だったはずだ。
リカバリー案として、私たちが駒として使えるうちは動かし、使い道がなくなったら殺す方向に舵を切ったのだと思う。
今、私たちの生き死には、狐の手に委ねられているようなものだ。
『まぁいいよ。こっちに来るのを、俺はいつでも待ってるから』
「そうか。その気になったら行ってやる」
彼は、狐に素直に「うん」と言わない。
挨拶のような口の悪さで適当に流したのか、それとも本気で断ろうとしたのか、本当のところはわからない。
狐は、嫌々でも彼が頭を下げなくてはならなくなる日が来ると思っている。多分、それは合っている。
この状況は、磐石な後ろ盾となるイヴァンと組んだ、狐の勝ちだ。
大した後ろ盾もなく、配られたカードだけで突き進もうとしている私は愚かで、勝算がなさすぎる。
もう、折れそうだ。
油断すると、すぐに折れそうになる。
肺の底から溜め息を吐き出して、スマートフォンの画面の終話ボタンをタップした。
そのスマートフォンを彼に返すと、そのスマートフォンはシャツのポケットへ吸い込まれた。
彼は、燃え尽きかけた煙草を、床に置いた空き缶に捨てる。そして新しい煙草に火をつける。一度吸い始めると、この流れを何サイクルも繰り返す。彼は、いわゆるチェーンスモーカー。
おかげで、私の服はだいぶ煙草の匂いがついてしまったし、この部屋も煙草の匂いが充満している。
「あの日、フチノベ ユウコが大統領府に持ってきた完成品を奪う役目は、狐だったと」
指に挟んだ煙草の灰を、自分のそばに置いた空き缶に捨てながら、彼は私に確認する。
「残念ながら、現場は見てないんです」
私は、その現場に立ち会っていない。
「念のために用意されていた偽物を、まんまと狐は持っていった。お前たちに一杯食わされたんだな」
彼は淡々と、事実だけを並べていく。
冷静沈着で物静かな男だと、秀哉さんは評していた。全くその通りだと思う。
「優子さんがあの応接間で撃たれた時、私は隣の部屋にいた。応接間に入る前のボディチェックが終わってなかった」
それはおそらく、私から優子さんを引き離すためにやったのだ。リエハラシアに入国した瞬間から、私は優子さんから離れないようにしていた。
優子さんを一人にしたら、すぐに『ファラリス』や完成品のマイクロチップの回収をしにくる、と思っていたから。
「私がボディーチェックを受けている間に、男が様子を見にきた。私に張り付いていた警備担当は、その男に会釈した。その男を見たのは、一瞬だけ」
狐。
秀哉さんがいた頃の『六匹の猟犬』のデータも、秀哉さんは持ち出していた。それを私に見せてくれた。
赤毛の髪と背筋を伸ばして歩く姿、俳優かモデルかと思うほど整った顔立ち。
だから、その男が狐だと、すぐわかった。
「赤毛の男は応接間に入っていった。その後は、1分もしなかったと思う」
嫌な予感しかしなかった。
「銃声がした。だから警備の連中を振り払って、応接間に入った」
だから私は、警備担当の軍人たちを振り払って、応接間に走り込んだ。
「駆けつけた時に、その場にいたのは蠍。赤毛の男はどこにもいなかった」
応接間で、頭を撃ち抜かれて倒れた優子さんの姿。
大きな窓を背にして、美しい顔立ちで華奢な体つきの金色の髪の美人が、戦闘服姿でニヤリと笑っていた。秀哉さんのデータにはいなかった人物。
そこにいるはずの、赤毛の男はどこにもいなかった。
彼は疲れ切った顔で、髪をグシャッとかき上げる。緩いウェーブのかかった髪は指に押されて、あちこちにうねっている。
「お前はあの日、そこで
あの日、優子さんの遺体のそばに跪いていた私と蠍の会話を、もう一度思い出そうとすると、背中にひんやりとした感覚が走る。
*
お酒が大好きで、飲んだくれては私を抱きしめて、「あんたがあたしを嫌いでも、あたしはあんたが大好き」と呂律の回ってない口で言う、優子さん。
小さい頃からずっと。私が優子さんの背を追い抜いても、酔っ払ったら抱きついてきた。
私はそれを面倒臭いなと思いながら、満更でもなかった。
そんな思い出が先に蘇ってきて、それから、床に倒れて微動だにしない姿を思い出す。それだけで、心拍数が跳ね上がる。
リエハラシア大統領府の応接間。
柔らかい毛足の絨毯に、パンプスが沈むような感覚がする。それでも走った。
優子さんは脳幹を綺麗に撃ち抜かれていた。
力なく投げ出された手の先に、注射器をしまっていたケースが開いた状態で落ちていた。
ケースの中に、偽物のマイクロチップを収納していた注射器はなかった。
さぁっと血の気が引いた。こういう事態も予想できていたから、偽物を用意しておいた。けど、実際に起こってしまうと、頭は回らないものなのだと思い知る。
金髪ボブヘアの綺麗な顔立ちをした美人は、私のところへ一歩ずつ近寄ってくる。
この美人が私をすぐに撃とうとしないのは、あまりにも狼狽えていて、撃つまでもないと思われたのか。
ただ悪趣味に嬲り殺したいと思ったからか。
多分、後者だと思う。
つまり、この時の蠍には隙があった。
完成品を奪われるわけにはいかない。
私は咄嗟に、ブラジャーに隠していた注射器を手に取り、その注射器を自分の右掌に打った。
それを見た蠍は、目を見開いて驚いていた。そしてゲラゲラと笑い出した。
「偽物掴まされてやんの、あの馬鹿。面白いから、あいつには言わないでやるよ」
あの馬鹿。あいつ。
蠍が言っていたのは、さっき、この部屋に入ったはずの狐のことだろう。
優子さんが持っていた偽物のマイクロチップを奪っていったのは、その男なのだ。
蠍は私の前で中腰になり、嘲るように笑った。
「
こいつ。私の右手に入れた、完成品のマイクロチップ。
蠍が話すのはリエハラシア語。
話している内容を、私が理解できるか否かは関係なく、言いたいから言っているだけ。
「知ってるよ。これを持ち出した男から教えてもらってるから」
リエハラシア語で言葉を返すと、蠍が半笑いで私を見る。
「そっか、お前もバケモノの仲間入りだな」
そう言いながら、倒れ込んだ母の体に4発、弾を撃ち込んだ。右腕、左腕、右足、左足。
「一度撃っちゃうと、左右対称で撃たないと気が済まないんだよね」
罪悪感のまるでない言いよう。
その時悟った。
この場に来るには、私の覚悟は甘すぎた。
恐怖と怒りで、歯がガタガタと震えだす。歯を食いしばって耐えるしかない。
私は今でも、優子さんの死に尊厳を与えなかった蠍を、許せていない。
「なぁバケモノ、サハラからナニも教え込まれた?」
「びっくりするくらい、つまんない下ネタ」
この美人の前で感情的になったら負けだ、と必死で堪えたつもりだ。でも、きっと感情を隠せていなかったと思う。
「サハラは何を話した?」
蠍の
優子さんの遺体から1メートルほど遠ざかってしまい、床を這いながら必死で近づいた。
「あんたは
優子さんのそばまで辿り着くまで、どれくらいかかっただろう。長かったと思うし、短かったとも思う。
「とりあえず私から見たあんたは、倫理観のぶっ壊れた子供」
感情的になったらダメだ。私を見下ろす青い眼を睨み返す。
「だいたい合ってる」
蠍は満足そうな顔を見せる。
余裕ぶった相手に対して、私はあまりにも無防備で情けない。悔しさと怒りで昂ったせいか、口の中がカラカラに渇いている。
「確認だけど、あんたが優子さんを殺したの?」
優子さんはここにいるのに、触れるのに、二度と私を抱き寄せてくれない。絶望感なんてものじゃない。
「俺がしたのは死体蹴り」
蠍のブーツが、私の頬を荒く撫でていく。蹴り上げられたのだ。
目の前が真っ白になって、一拍開けて、やっと景色を認識できるようになる。
「マイクロチップを埋め込んだ『六匹の猟犬』の生き残りは、二人だけだ。そいつらは軍の中でも特別扱いされてる」
秀哉さんが出奔した時から、リエハラシアでの『ファラリス』の開発は頓挫した。『ファラリス』の操作に必要なマイクロチップを埋め込んでいるのは、『六匹の猟犬』の中でも、秀哉さんが出奔するまでの世代まで。
「羨ましいんだよなぁ。あの二人、お揃いなんだよ?」
蠍の発言の意味が、この時はわからなかった。今ならわかる。
梟とお揃いのものを持ちたいと思った、子供みたいな思い。
「本来なら、こいつは俺が持つのに相応しいのに」
蠍はそう言って、私の右手を掴んだ。蠍の右手に拳銃が握られているのが目に入る。
「一度生体に入ったマイクロチップは、取り出したところで使用不可だよ。チップの仕様の話は聞いてない?」
蠍が顔を顰めて、舌打ちした。
このマイクロチップは埋め込まれた瞬間、その人間の心拍数を計測しはじめ、起動する。そして心拍数が規定値を下回ると、マイクロチップの機能は無効化される。
「死ぬ覚悟はできてるけど、あんたにだけは殺されたくない」
右手を掴む手を振り払いながら言うと、蠍の銃口が私を向く。
「だから、殺してやる」
蔑むように見下ろしてくる青い眼と、睨み合う。蠍は表情の変化が早い。秀哉さんが育てていたら、真っ先にそれを直されただろうな、と思った。
「誰か来たよ」
あまりにも無に近い気配をなんとか嗅ぎ取りつつ、言う。
これでやってきた人間が、蠍の言いなりになったら形勢が不利すぎる。
とはいえ、ここで私が死ねば完成品のマイクロチップを無効化はできる。志半ばだけども、それだけが、今の私ができる最大限かもしれない。
うねうねとした緩いウェーブの黒髪が肩くらいまで伸びているのだろう。それを一つに結っている。
二重瞼の三白眼。虹彩は灰色。彫りの深い鼻筋、血色が悪く薄い唇。背は蠍より10cmは大きい。
黒い戦闘服姿で、
この人は『六匹の猟犬』の梟だ。
試験段階のマイクロチップを持っている生き残りの一人。秀哉さんが育てた世代。
梟は、その銃口をこちらに向けるでもなく、ただ私と蠍が対峙しているのを眺めている。
この人が蠍をすぐに撃たないのは意外だった。
これからどう対応しようかと、冷静に考えようとする反面、優子さんの死に顔が目に入ると心拍数が跳ね上がる。
どうしたらいい? どうにもならない。
「"黙れクソ野郎"」
私は英語で蠍を罵倒して、引き金を引く。
私たちはこの国の言語を理解していない、日本から来た武器商人の親娘で、たまたまこの場に巻き込まれただけ。
そういうシナリオにする。
この場に呼ばれた真の理由を、この少年に今、話されたら困る。
私が引き金を引くのと、蠍が引き金を引くのは同時。
お互いに同じ軌道を描いていた。全く同じにはならないだろう。蠍に命中してほしいだけ。相撃ち上等。
あとは、途中参加のこの人に頼るしかない。
そう思いながら、一瞬だけ視線を梟に遣る。
無表情でこの光景を眺めているだけ。いまだに
梟が蠍を仕留めてくれるとは、思わない方がいいのだろう。
こうやって語り始めると長いけど、これが全て一瞬の出来事だ。梟に頼れないと判断するのと同時に、破裂音が目の前で起きた。
死んだと思った。
私が死んだ、と。
「運がいい女」
蠍がぼそっと言う。私も驚いていた。弾丸同士が衝突して、そこで爆ぜた。天文学的確率の現象を、目の前で見た。
平常時の私なら喜んでいたんだろうな、と思った。
「なんで裏切ったか言え」
梟がやっと、
今なら蠍を殺せる。慎重に立ち上がって、引き金を引こうとすると、
「お前は銃を降ろせ」
梟に制止される。咄嗟の状況判断は、梟の方が蠍よりも的確にできる。
後のことは言うまでもない。
私はリエハラシア語を理解していない、日本からきた武器商人の一人。
『六匹の猟犬』が起こしたとされているクーデター、対外的にはテロと公表された事案の被害者。
母親(実際は姉)の死の真相を突き止めようとする、無力な子供。
どれも私で、どれも本当じゃない。
*
「サバちゃんはあの場を上手く制御してくれた。蠍を殺さなかったのは予想外だったけど」
私がそう話す横で、苦々しい顔をした彼は煙草を咥えて黙っている。
「サバちゃんも狐も、蠍と険悪な仲で助かった。っていうと、冷たいかも知れないけど」
「狐が、早い段階でマイクロチップの話を持ち出すとは思わなかったのか」
「それは考えた。それならそれでいいと思った。けど、狐はそうしなかった。何をしたいのか、私には読めなかった」
そこで日和って静観していたら、想像よりもひどい状態になっていた。
「狐が、あなたにすら情報を極端に出し惜しみするのは、それなりに考えがあるからでしょ」
優子さんや秀哉さんが立ててきた対策にカウンターをことごとく用意して、情報を掻き集めては流して撹乱させる。
「狐って人が、私は死ぬほど怖い」
抱き抱えた膝に顔を埋める。
「もともと、秀哉さんから、狐には気をつけろって言われてきた。それに、これまでの立ち振る舞いをサバちゃんから聞いてきて、狐って人はヤバいなって。
足元を掬われる予感しかない」
自信がないから対峙を避けただけ。自己中心的な感情の話。
彼は何も言わず、私の弱音を聞いている。ライターの着火音が耳に入ってきた。
ゆっくり顔を上げ、彼に視線を向ける。
伏し目がちになって、口に咥えた煙草に火をつける横顔は、疲れた表情も相まって、くたびれて見えた。
「ヒナちゃんの別荘に監禁された時は、ヒナちゃんの話がメインだった」
蠍の名前を出すと、ヒナちゃんを避けては通れない。
「あいつ、ヒナちゃんが本当に大事だったんだと思う」
クソ教師からのセクハラからヒナちゃんを助けたのは感謝している、と蠍は言った。あの言葉に嘘はなかった。
必死に訴えたのに助けてもらえなかった蠍から発せられた感謝は、苦悩や苦痛を込めた重さがあった。
「さすがに、殺すのは躊躇った」
撃つまで悩んでいたのに、とどめを刺した時には何の感情も持てなくなった。
生きていたから憎んでいた。亡骸になった蠍まで憎む気持ちはなかった。
言い終わった瞬間、我ながら何を言っているのかと笑ってしまった。こんな感情論を話すタイミングじゃない。経過と事実以外の会話に、意味はない。
しばらく沈黙が流れて、私は部屋のあちこちに視線を向ける。
天井に貼られた木の板。ベージュ色の壁紙。壁の柱。マナトの家から、使わないからと譲ってもらったペンダントライト。
「食えよ」
視界の端、左隣から手が伸びてきて、ビクッとしてしまった。
「これ、いつあげたやつ?」
彼の掌の上には、水色のパッケージのチョコレートが乗っていて、私はそれを恐る恐る手に取る。
私の質問に、彼は答えなかった。いつ渡したものか、彼も私も覚えていない。
「一つ聞いておきたい。狐はサハラに復讐したいと思っていた?」
チョコレートのパッケージを剥がしている私に、彼は尋ねる。
チョコレートを頬張りながら、いつそんな話をしたか、記憶を遡る。記憶は割とすぐに出てきた。
さっき、狐と電話でやり取りした時だ。
「秀哉さんは過去に、狐本人とそのお父さんに謝らなきゃいけないことをしたから」
秀哉さんは、狐に謝れたのだろうか。謝れないまま、
「彼らをリエハラシアに引き込むために、彼らの住んでいたエリアで、掃討作戦をした」
彼は私の方に顔を向ける。少しだけ目を見開いていた。
「手段を選ばない戦術は、身に覚えがあるでしょう?」
「待て。狐は、リエハラシアの人間じゃなかった?」
私は一回頷く。
「リエハラシアとクルネキシアの国境近く、クルネキシア側に住んでいた。
なんでそこで掃討作戦したかって言えば、アヴェダやジェセカは、狐のお父さんの天才的頭脳を手に入れて、軍事開発に協力させたかったから」
リエハラシアが考えたのは、父子を生かしたまま確保して、軍人である秀哉さんが亡命を促すという物語。
「『神の杖』や『ファラリス』の開発者は、狐のお父上」
真相を知ってか知らずか、狐のお父上は兵器開発に尽力した。その間、狐はまるで人質のように軍に預けられた。
秀哉さんは、それについて詳しく語らなかった。
語れば自身の悪辣さを思い知らされるからだと思う。
「狐にとって『神の杖』や『ファラリス』は、言わば遺産。それを大国が、自分たちの利益のために使ってる。本来であれば狐がその遺産で、
狐がこれを手にして、何をしようとしたのか、私にはわからない。狐の手によって、大国同士のパワーバランスが弄られた、その世界が平和かどうかもわからない。
「そこにイヴァンが噛もうとしている」
彼は深い溜め息をついて、そう言った。
この男がどれだけ武器を売ったかで戦況のバランスが変わると言われる商人、イヴァン。その男と手を組む狐。
「良くない流れがまとめてきている」
彼はまた、こめかみあたりの髪を掻き上げる。
「でも実物はここにありますから。そう簡単に事を運ばせないよ」
私は右手を前に突き出し、パーの形に広げる。
「お前の切り札は弱すぎる。俺も狐も持ってんだよ、マイクロチップ自体は」
煙草を空き缶に捨て、彼はシャツの左手の袖を捲ると、右手で左手首を指差す。声が苛立っていた。
「そう。シャロちゃんと組まないと起動しない、旧式のやつがね」
安全対策のために、初期『ファラリス』の起動は起動と制御のマイクロチップを持つ人間が一人ずつ必要。
完成品のマイクロチップは、それを一人で完結できる。
「前にも言ったけど、最新版『ファラリス』でも、旧式マイクロチップの認証ができるし、起動や制御も同じようにできる」
彼が狐と組んだら、私以上の脅威になる。私が優位に立てるのは、あくまで彼が私の隣にいる時だけ。
「誰がそこまで完成させた」
顔色が悪い彼は、私を睨みながら重低音の声で言う。
彼が不審がるのも無理はないと思う。
開発途中で頓挫したはずの『ファラリス』が、現存しているのは不自然だから。
「『ファラリス』はとっくに完成していたんです。狐のお父上は、それを軍に渡さなかった」
完成品のマイクロチップも、狐の父親が厳重に保管していたもの。
「自分の家族を殺した国に、自分の技術を渡せるかって話」
「だからってサハラに渡す理由がない」
そう。
狐のお父上からしたら、秀哉さんは自分たちの居場所を焼き払った元凶。憎むべき相手であって、生涯を懸けた研究を託す相手ではない。
彼は険しい表情で、私が口を開くのをじっと待っている。
「狐のお父上が一番憎んでいたのは、秀哉さんじゃなくて、家族をめちゃくちゃにしたリエハラシアとクルネキシア」
私の言葉に、彼は眉間に皺を寄せた。
「って、秀哉さんが。記憶を都合良く書き換えて、私に話しただけかもしれないけどね」
語る口調は、努めて軽くした。人の言葉を伝聞形式で伝える時は、どこまで真意か伝わらないくらい、軽い方がいい。
「秀哉さんの話が全部、真実だとは思ってない。けど、狐が語る話も真実だと思わない」
今隣にいる人の言うことだって、どこまで真実だろう。何も知らないまま、この有様を冷静に見ている、唯一の人。
「真実なんて曖昧なものは信用できないんですよ。
たとえ間違いだとしても、私ができる方法は限られている。
手を尽くして得た結果だけ、残る。
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