21. Play within a play
なんかクセになるよな、お前の歌。
訓練所の裏手にある喫煙所。
サハラが考えた無茶苦茶なメニューをこなして、疲労困憊になりながら、やっと一息ついていた時に、声をかけられた。
一番顔が見たくない、非人道的とも言える訓練メニューを作った、諸悪の根源たるサハラに。
歌ってくれよ。
自分は歌が嫌いだった。というか、この世で好きなものはAV収集とチャイコフスキーの創った音楽くらいで、他の全ては嫌いだと言っても過言ではない。
特に歌は、人の声に依存したシステムに、リズムだの音程だの、さまざまな要素が重なって形になるもの。不確定要素が多く、不安定なものだ。
心で歌えばいい、などと言う人間もいるがそれすら最低限のテクニックが必要だと知らないのだろうか。
こう、ぐだぐだと語れど、要は自分がリズム感もなければ音程も取れず、歌えと言われるのが苦痛でしかない。それだけの話だ。
急にサハラに歌えと言われて、露骨に嫌な顔をしたはずだ。サハラはめげずに、歌詞のワンフレーズを口ずさみ、それを歌ってくれと頼んできた。
その頼みを断ったかどうか、もう覚えていない。
サハラに歌えと言われたのは、"My funny valentine"。
訓練中、サハラがよく口ずさんでいた歌だった。
それをなぜか、自分に歌わせたがった。どうせ、下手くそな歌を笑いたかっただけだろう。
こちらは死にそうになりながら、訓練と任務に明け暮れているのに、あの教官は鼻歌混じりで自分たちを見張っているのだ。
どうしたら、こんな趣味が悪い人間になれるのだろう。
サハラがいなくなった後、後任の教官が任命された。真面目で堅実な人物だった。
喫煙所で訓練生と顔を合わすなり愚痴をこぼしたり、歌を口ずさんだり、うざったい絡みをしてくるような人物ではなかった。
それが普通なのだが、サハラの存在が異質だったせいで、しばらくはその不在に慣れなかった。
だがサハラ。
お前が故郷を捨てて、
「なんでそんな」
隣にいる女の右手には、サハラが持って逃げた完成品のマイクロチップが埋まっている。
「残念ながら、リエハラシアにこの技術を渡したくない、って思うのはそんなに不思議な感情じゃないと思う」
答えになっているようで、答えではない言葉が返ってくる。
「あの大統領が、国際法無視の暴挙に出ているのは確かだ。だが問題はそこじゃない」
それを聞いたフチノベ ミチルは目を伏せる。
「なんで、使い方も知らないくせにお前はそんなことを」
わかるよ、とか細い声が聞こえた。そこまで聞きたくなかった。
サハラはこの女にも、『
いつかこうなると見越して、腹違いの妹を駒にした。
「お前がそこまでやる理由が、どこにあった」
いくら腹違いのきょうだいだからといって、サハラの暴走に付き合ってやる必要はない。
「もう、帰りましょう」
フチノベ ミチルはベンチから立ち上がる。
「面会時間が終わるから」
病室の時計は18時を指そうとしていた。
*
波打ち際を歩くと、靴が細かい砂に沈む。
降り積もった雪の中を歩く感触は、故郷でよく知ったものだが、それとはまた違う。
サハラのいた施設から、駅に向かわずに、海へと移動した。
海の色は暗い空を反射し、波の音が絶え間なく聞こえる。
この風景を、快適だとは思えなかった。
理解できないのは、それだけではない。
不意に砂浜に屈み込み、砂を掬って山にしているフチノベ ミチルの行動も、だ。
「秀哉さんは、生まれつき病気を抱えていた妹のために、軍に入った」
自分が隣に座ったのを確認して、フチノベ ミチルは話し出す。
「秀哉さんの妹は、秀哉さんが入隊してからずっと、軍の病院で治療してきた」
フチノベ ミチルは手で掬った砂を、膝の間にできた砂の山に乗せる。
「アヴェダたちは、秀哉さんの妹に何をしたと思う?」
感情のこもっていない声音が、余計に聞かない方がいい話なのだと思わせた。
感情がこもっていないのではなく、押し殺しているからだ。
「秀哉さんの妹は、その病院でアヴェダやアヴェダの部下にレイプされた。
秀哉さんから聞いてないけど、ジェセカもそこに混じってたかもね」
そんなことをする人じゃない、と言いたい気持ちもあったが、自分が知っているのは、あくまで表面的な人となりでしかない。
「秀哉さんの妹は、それを苦に自殺した。日本語で、どうして死にたくなったか書き連ねた手紙を秀哉さんに遺して」
フチノベ ミチルは、砂のついた手をはたく。自分は煙草に手を伸ばし、火をつけた。
「日本語の手紙だから、アヴェダたちには読めなかった。だからその手紙は揉み消されずに秀哉さんのもとへ渡った」
日本語に関して、日常会話程度は難なくできるのは、サハラが率先して指導していたからだ。
だが、それは教え子である訓練生に対してで、幹部クラスもしくはそれ以上のアヴェダは、日本語を習得していたわけではなかった。
「それを読んだ秀哉さんが、
フチノベ ミチルの顔がこちらを向く。感情の見えない黒い眼に映る自分は、煙草を咥えて不機嫌そうに見える。
「私は、生まれた経緯がアレだからね、性的な暴力がこの世で一番嫌い。男女問わず」
嫌い、と口にした瞬間、フチノベ ミチルは自らが積み上げた砂の山を手で崩した。崩れた瞬間に、細かな砂が舞う。
「だから、秀哉さんの境遇に同情したのかもしれない。それは、お互い様なんだろうね」
「その同情で、お前は身を滅ぼす羽目になる」
過去の
「きっとそう。それでいいと思ってる」
フチノベ ミチルはくすくすと笑った。開き直ったようにしか見えない。
この女は、サハラの持ち込んだ負債まで、好き好んで抱え込んだ。
フチノベ ユウコとサハラ、双方と同情し合う繋がりの果てに。
「血と教育は呪いだって、秀哉さんはよく言ってた」
フチノベ ミチルは砂を一握り掴むと、手の力を緩めて、わざと零れ落ちるようにする。
「まずはじめに、子供に敵と味方を教え込んだら、10年あれば、生粋の兵士が出来上がる。
やがて、その兵士は結婚して、子供ができる。兵士は我が子に言って聞かせる。誰が敵で、誰が味方か。そうして次世代の兵士が育つ。
血の繋がりと教育っていう、強烈な呪いを受けた子供が」
さらさらと落ちる砂が、風に煽られて自分の方にまで飛んでくる。邪魔くさいなと思いながら、煙草をふかす。
「呪いだろうがなんだろうが、あのクソ教官は今に至るまでの災いの種をばら撒いた。もう自分のケツも拭けなくなっているのに」
「……そう」
悪態をついた自分を見て、面食らった様子のフチノベ ミチルは、困ったように笑ってみせた。
「あなたが生きてきた世界も過酷だったと思うけど、優子さんと秀哉さんが生きてきた世界も、過酷だったんだよ」
海の匂いのする風は、街で吹く風と違って冷たい。陽が沈んだ後は、波音も相まって薄ら寒いとすら思う。
フチノベ ミチルの長い髪は風になびかれて絡まっているように見えるし、煙草の煙は自分の顔に流れてくる。
「この世界は、誰に対しても優しくないだろうが」
思わず呟いた。
*
あぁ厄介。
マサキの聴取から自由になる条件は、GPS情報を常に監視されること。
位置偽装すればいい話ではあるけど、位置偽装した期間に
疑わしきは罰せずとはいえ、疑われる行動を積み重ねたら、シロでもクロ扱いされる。
俺は基本的に、固定した居場所は持たない。どうせすぐに、他の国に行ったりする。
一つの国に長居するにしても、一週間くらいで滞在するホテルは変える。
それでも追いかけてくるヤツは追いかけてくる。
例えば。
「イヴァン様は、あなたが出した条件を呑むつもりです」
日付が変わる手前の時間に、いきなり単身で乗り込んできたイヴァンの秘書。
今日は憂いが一層深い顔をしている。
よくあるビジネスホテルの一室、窓際に置かれた椅子に座る姿は、主人に存在を忘れられた
「で、君を差し出してきた、と」
俺はベッドに腰掛けながら、ビスクドールの姿を眺める。イヴァンが大事に手元に置くお人形さんは、黙って座っているだけでも絵になる。
「さすがイヴァン=スダーノフスキー、ド鬼畜外道、下衆の極み」
俺と同レベルか、それ以上のクズなんて、
ビスクドールは唇をグッと引き結んで、こっちを睨みつけてくる。
傍目にもわかるくらいにイヴァンを敬愛してるビスクドール。
イヴァンのためなら、こんな馬鹿げた取引するのも厭わない。恐ろしく純粋で、愚かな愛だ。
「今日は公安のマサキに聴取されたり、さんざんだったんだよ。ぶっちゃけお疲れモードなんだよねぇ」
これは本当だし、俺はいやいや抱かれにきた女を楽しませてあげるほど、お人好しでもない。
「ごめんね、素直に言うと、君みたいなタイプは苦手」
ビスクドールが、苛立ちと嫌悪を剥き出しにした眼で見てくる。表情がないぶん、眼で語ってくる。
「仕方ないけど頼まれて来ました全開アピールは、気分良くない。それなら、セックスしながら楽しく情報交換しましょ〜って下心丸出しの方が、色々助かる」
ビスクドールは眼を伏せて、視線を逸らす。冷静な頭の中で、俺にどう接しようか考えているのだろう。
「まぁでも、仲良くしましょーよ。仲間になるんだから」
俺は立ち上がると、ビスクドールの座る椅子の傍に寄って、長いブロンドのカールした毛先を少しだけ手に取る。
髪に唇を寄せると、品の良い花の香りがする。さすがはイヴァンの秘書、身だしなみに抜かりがない。
「イヴァン様に協力していただけるのですね」
本当は屈辱で堪らないだろうに、ビスクドールは俺が髪に口付けるのを咎めない。
「それは君の頑張り次第かなぁ。俺はどっちかって言えば、梟寄りの人間だから」
にっこり笑って答えると、一瞬だけビスクドールの眉間に皺が寄る。けど、すぐに元通りのポーカーフェイスに戻った。
「リエハラシアの梟が居るから、ミチル様には手を出さないのですか?」
真顔のビスクドールからの質問に、俺はついつい笑ってしまう。
「ううん。シンプルに興味がない」
「梟が囲っているから手を出さない、もしくは恩師の家族だから、義理を感じて手を出さないのかと思っていたのですが」
「恩師? あのクズのこと? あぁ、なるほどね、物は言いよう」
ビスクドールから「恩師」と言われて、誰なのか本気でわからなかった。
言われてみれば、恩師と言えなくもないけど、あの男を恩師と呼ぶ気には到底なれない。
「ビスクドールちゃんは、あいつをなんて呼んでる?」
「シューヤ様、と」
ビスクドールは怪訝そうに、少し首を傾げて答えた。
「そのシューヤ様は、どうやって死んだ?」
日本にいたサハラが、イヴァンに呼ばれて消息を絶ったのが二年前。その頃には、イヴァンの右腕としてこの秘書はいた。
サハラの行く末を知らないはずがない。
「シューヤ様の失踪に、イヴァン様が関わっているという情報はガセです」
ビスクドールは、こちらをキッと睨みつけてくる。
「サハラが二年前から姿を消してる理由に、イヴァンは絡んでないの?」
ポーカーフェイスなビスクドールの表情や仕草から、嘘をついているか見抜くのは難しい。
「そうです。なぜそのような嘘の情報が出回っているのか、理解しかねます」
ビスクドールは至極真面目に、こちらを射抜くような眼差しで、語りかけてきた。
「シューヤ様がいなくなる前、イヴァン様はシューヤ様と会う約束はしていません。シューヤ様は勝手にいなくなったのに、それをイヴァン様のせいにされたのです」
理不尽だと言わんばかりに憤慨しているのだろうけど、ビスクドールは感情が顔に出ないタイプだから、不機嫌そうに見えるだけだ。
「じゃあ、そんなガセを流すとしたら、ユウコかミッチーだろうな」
ビスクドールが座る椅子から離れて、俺はベッドの端に腰掛けた。
目を閉じ、ビスクドールの言っていた話を整理する。
「要するに、サハラは今、死んだかどうかもはっきりしてない。つまり、サハラは生きてる可能性がある」
そう言ってから、目を開ける。ビスクドールの反応を確認するためだ。
窓際の椅子に座っているビスクドールは、エメラルドグリーンの眼をゆっくり瞬きした。
「シューヤ様はあえて動いていない、もしくは身動きが取れない状態」
「だねぇ。調べ直すか」
シャツの胸ポケットにあるスマートフォンを取り出す。
ビスクドールの相手をしている間、少し目を離していただけなのに通知が画面に溢れていた。つまり、梟とミッチーが動き回っている。
集まった情報を繋ぎ合わせていけば、どこで何をしていたか把握できるわけで。
「ふーん……」
クガ御用達の病院からフチノベ ユウコが契約していたセーブハウスの一つへ移動、そこから公共交通機関を何度も乗り換えている。
だが、その後の二人がどこに向かったかまではわからない。
「もうちょっと調べるしかないな」
「どうなさるおつもりですか」
ビスクドールは俺に顔を向け、尋ねてくる。鼻で笑って、俺は答えた。
「サハラの居どころを探し当てる」
ビスクドールは小さく頷き、こちらを試すような視線を向けてきた。
「私は明日の18時に予定があります。それまでに突き止められますか?」
「突き止めた情報を、そっちに渡すとは言ってない」
舌打ちが聞こえた。相変わらずのポーカーフェイスでも、ビスクドールの機嫌が悪くなったのは、はっきりわかる。
「君のボスは、18時に誰と会うの?」
「イヴァン様は、ミチル様と会われます」
「へぇ! 俺も行っていい?」
「お断りします」
きっぱり断られた。わかっていたけど。
「あっそ。約束の時間までに突き止める努力はするよ」
「お願いします」
生真面目な対応に徹するビスクドールの頬に手を伸ばしてみると、ビスクドールは眉間に皺を寄せながらも拒まなかった。
「その前に、少し楽しませて」
拒まれなかったから、そのまま白磁色の頬にキスした。途端に唇に噛みつかれ、思わず笑って顔を離す。
「あなたは本当に馬鹿ですか?」
ビスクドールの、リップじゃなく血で濡れた唇は、とても艶めかしい。この蔑むような眼も堪らない。思わず笑顔になっちゃう。
*
電話の呼び出し音は3回。応答に出たのは音でわかったが、電話の向こうの相手は喋ろうとしない。
さすが、挨拶もできない、躾のなっていない娘だ。
「明日の18時、会う場所を決めた」
続けて、東京で有名な公園の名前を出した。
そこは、都会の中にありながら自然に溢れた場所で、私はとても気に入っている。
『妙なところで会おうとしたがる』
あの娘は納得いかない様子だったが、場所の変更を求めてこなかった。
「自然はいい。人を和ませてくれる」
日付が変わる手前の部屋は、静かなものだ。ビスクドールは、リエハラシアの
この旅館は山奥の温泉地にあり、喧騒とは対極の場所だ。巨大な生き物のような山は、ずっと静かに身動きせずにそこにいる。
『殺し屋と
窓から見える風景を愛でながらする話にしては、血生臭い。
「君と話をするためにセッティングしたんだ。そんな無粋な真似はしないさ」
『あなたはいつも無粋』
「信用してもらえないのは残念だ」
あの娘は、冷ややかな眼で、虚空でも睨みながら電話しているだろう。電話の向こうの様子は、そんな想像がつく。
「日本に来て、真っ先にユーコの墓へ行った」
私からすれば、ユーコの墓に花を手向けるなど、悪夢でしかない。
「昔、ユーコから、日本では死体を火葬すると聞いて震え上がったんだ」
死とは、地上から解き放たれて得られる安息だ。肉体は土の中で神の審判を待ち、復活の日に蘇る。それが我々が信じる死者の世界だ。
火葬はそれを否定す。肉体の消滅は
「燃やして骨にしてしまうのに、その骨に魂が宿ると考えるんだろう? どうしてそうなるんだろう?」
肉体ではなく、骨や墓に意義を持たせる。私には理解できない。
『何が言いたいの?』
あの娘は不機嫌そうに言う。
こんな話をするのは無意味だ。だが、ユーコを失った同志が、ユーコの存在を語り合える同志が、電話の向こうの相手だけなのだ。
「ユーコの魂は、どこにあると思う?」
『どこにもいないよ。死んだから』
そう言い切ると、電話の相手は苛立った口調で「ポエムを聞く趣味はない」と吐き捨てた。
この世界にユーコはいない。蘇る日も来ない。魂に触れられない。
私しかいない部屋は、時が止まったように静かだ。空気すら動いていない。今までも、これからも、ずっとそうだ。
気づけば、涙が零れ落ちていた。
この世界のどこを探してもユーコがいない、と思い知るたび、私は泣いてしまう。何度も、何度でも。
「電話を、切らないのか」
電話を繋いだまま、無言になっている相手へ鼻声で尋ねる。私が泣いているのは、気づいているだろう。
『まぁ……そう』
歯切れの悪い、そして返事にならない相槌だった。どう反応すればいいのか悩んでいたのだろうか。
「悪かったな。……また明日だ」
特に引き止める声もなく、お互いに終話キーをタップした。
私の涙は引かず、ユーコの姿を思い出しながら、窓辺に膝をついて泣いた。
*
「おじさんがさめざめ泣いてる時って、どう対応したら良かったのかな」
フチノベ ミチルは困った顔で、通話の終わったスマートフォンを見つめていた。
「……知らねぇよ」
サハラがいる施設がある町から、また乗り換えを繰り返して、フチノベ ミチルの自宅に戻ってきていた。築年数の古い、二階建ての角部屋。押し入れに薬が大量にしまわれている、例の部屋。
この部屋に戻ってきたのは、日付が変わった後だ。
ビスクドールが侵入していたセーフハウスの時と同様に、玄関ドアの蝶番周辺を確認し、侵入者の痕跡を調べていた。冷や汗が背中を伝う感触が気持ち悪かった。
もちろん、侵入の痕跡はバレた。
だが、昼間に立ち寄った方のセーフハウスにビスクドールが侵入していたおかげで、侵入者はビスクドールかイヴァンの手下だと、フチノベ ミチルは推理した。自分もその考えに同調した。
この点に関しては、イヴァンとビスクドールには申し訳ないが、罪を被ってもらおうと思う。
部屋に入ると、フチノベ ミチルは浴室でスウェットから手持ちの服に着替えた。その直後、イヴァンからかかってきた電話に出た。
フチノベ ミチルが電話している間、手持ち無沙汰の自分は、部屋の壁に背を凭れて煙草をふかすしかなかった。
イヴァンとの通話をスピーカーにしなかったために、詳細な会話内容はわからなかった。
ひとまず、明日の待ち合わせ場所の伝達がメインの話だったのは、理解した。
そんな状態なのに、相手が泣いている時はどうしたら良いのかと尋ねられ、面食らうしかない。
電話の向こうでイヴァンが泣いていたのだろうが、電話越しに泣き出す男には思えず、首を傾げたくなる。
「イヴァンはああ見えて、優子さんの話になると涙もろいんですよ」
フチノベ ミチルは顔をこちらに向けた。まだ困った顔をしている。
別に聞きたくもない説明をされても、イヴァンが泣いている姿は想像できないし、想像しても楽しくない。
それよりも。
「まだ話してないことがあるだろう」
フチノベ ミチルが一瞬も目を逸らさずに、自分と向き合っているのは、さすがに肝が据わっている。
看破されてお手上げ状態だと開き直っているからか。
「あの夜、大統領府で蠍と遭遇した時は、どういう状態だった」
あの夜、大統領府でどんなやり取りがあったのか、自分はまだこの女から聞き出していない。
サハラの現状を見せられ、この女の出自の複雑さを聞いただけだ。
大統領府突入作戦の日に至るまでの経緯だけでも、こんなにも情報量が多い。本題に辿り着くために時間がかかった。
「優子さんを殺したのが誰か、私は見てない」
その口振りはまるで、
「フチノベ ユウコを殺したのは、蠍じゃないとでも?」
話の大前提を覆そうとしているようだ。
「"俺がしたのは死体蹴り"」
母国語で、フチノベ ミチルは答える。
蠍が言いそうな言葉だ。おそらく、大統領府で、この女にそう言ったのだろう。
肺の奥底から溜め息を吐き出す。また、胃の中身が迫り上がってくる感覚がした。
死体蹴り。
既に殺されていたフチノベ ユウコに、死んでいるとわかっていながら攻撃した場面に、この女がいた。
蠍が悪趣味なのは、間違いない。
だがこの女も、真の実行犯ではないと思しき蠍だけを目の敵にした。そして追い詰めた。
そのせいで自分は、いくら因縁のある相手とはいえ、同胞だった蠍を殺した。
いや、自分と蠍は相入れない状況だったのは間違いない事実だった。
だが目に入る距離でなければ手を下すほどではなかった。
自分で自分の感情をどう処すればいいのか、わからない。
「嘘つきは私だけじゃない」
フチノベ ミチルの言い訳じみた言葉に、拳を握りしめて振りかぶりたくなる。
この女が憎いと思う前に、自分以外の何人もの人間たちに作り出された、この状況が、気に食わない。
こちらが感情を押し殺すのに必死なのに、感情の見えない黒い瞳は揺るがない。
「私が思うに、優子さんを殺したのは」
自分のスマートフォンのバイブレーションが振動したので、画面を確認する。
表示された電話番号は、見慣れたものだった。
「そいつ」
フチノベ ミチルは、自分のスマートフォンにかけてきた相手が誰なのか悟って、そう言い放った。
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