20. Confession



 死んでいるのかと思った。

 


 しっかりと閉じた瞼は、睫毛すら動かない。

 一日の半分は眠っていて、夜中に起きては動き回ろうとする日もあるらしい。


 白髪混じりの黒い髪は、枕に押されてぼさぼさだった。

 皺の増えた目元や口元は、故郷を出てからの年月を感じさせたが、そうだとしても老け過ぎている。

 色黒な肌はすっかり白くなって、痩せた体に筋肉はない。


 自分の記憶の中では、顔はうろ覚えだったはずなのに、実際に顔を見ると過去が鮮明に甦る。

 

 この施設に入った頃は日本語で会話できていたのだが、今は完全に母国リエハラシア語でしか会話できなくなっており、施設の職員が困っているのだ、とフチノベ ミチルは苦笑いながらポツリと言う。

 

 私を故郷にいた妹さんだと思っているみたいで、妹さんの名前で呼ぶんですよ。ナオミ、ナオミって。



 今のサハラは、フチノベ ミチルを死んだ妹だと思っている。

 サハラの記憶の混乱は、そこまで進んでいたのだ。

 

 手書きの、簡単な会話のためのフレーズ集が書かれた紙がラミネートされ、ベッドサイドの柵に掛けられていた。書いたのはフチノベ ミチルだろうか。


 フチノベ ミチルが入院していた病室とは違う、独特の臭い。消毒薬の匂いに混じる、えた臭いに近いもの。

 フチノベ ミチルは明言しなかったが、自分の目の前で眠り続けるサハラは、終末期だ。



         *



 顔の殴打痕をどうにか薄らぐようにメイクを施したフチノベ ミチルは、さらにマスクをつけて、顔の半分を隠している。


 電車に乗り、乗り換えを2回した。そこからさらに、バスに乗って郊外へ出る。

 バス停を降りた瞬間から、湿度をまとった、僅かに腐敗臭の混じる独特な香りがした。


「あっちに海が見える」

 フチノベ ミチルが指差した方向には、確かに水平線が見えた。海がある方向へ進むと、風の匂いは強くなる。


「海の匂い」

 匂いについて考えている自分が怪訝そうにしているのを見てか、フチノベ ミチルは海を指差して言う。


 海の匂い、と言われて、やっと納得がいく。

 これが日本語で「潮の香り」や「磯の香り」と表現されるものなのだ。


 海。

 透き通った青とは程遠い、くすんだ水の色。しかしそれでも、消波ブロックに打ち付ける時の波飛沫は美しかった。


 蠍もこの匂いに戸惑ったり、喜んだりしたのかもしれない。それを考えても仕方ないが。





 海沿いのその施設の入居者は、高齢者がほとんどで、サハラの実際の歳は知らないが、明らかに若い方だった。

 個室のベッドで、死んだように眠るサハラの横で、座り心地が良いとは言えない二人がけのソファに座った。

 

「2年でこんなに?」

 ベッドサイドの柵に凭れるようにして、サハラの顔を覗きこんでいるフチノベ ミチルの背中に尋ねる。


「病名がわかったのは10年くらい前だから」

 最初の頃は病状の進行が緩やかだったが、5年前から目に見えて悪くなって、2年前から施設で看てもらっているのだ、と付け加えた。

 その間、フチノベ ミチルは振り返らず、喋っている。


 さして乱れていない布団を直した後、フチノベ ミチルは自分の隣に座った。


「どうしてここに連れてきた」

「見せた方が早いと思って」

 お互いに、顔はベッドに横たわるサハラの体を見たまま、会話を始める。自分の母国リエハラシア語で。


「死にかけのサハラを見せられて、俺に何を思えと」

「そりゃそう。簡単に言うと、私が秀哉さんの顔を、見に行っておきたかっただけです」

 こちらから盗み見た横顔は、微笑んでいるように見えた。


「明日、イヴァンにぶち殺されるかもしれないから」

 フチノベ ミチルは、こちらの視線に気づいていたのか、お馴染みのチョコレートを掌に乗せて差し出してくる。


「秀哉さんが伝えたかった記憶を、全部聞けていたならいいんですけど。それをもう、確認できない」

 受け取らなくても良かったが、黙ってチョコレートを受け取る。

 

「マイクロチップの完成品がある、と言ったな」

 このまま感傷的な流れになられても困る。動きもしないサハラを眺めながら、尋ねる。

「どこにある」

 隣に座るフチノベ ミチルはチョコレートを頬張っている。

「言えると思う?」

 顔がこちらを向く。感情を殺した、冷たい眼だった。

「イヴァンは完成品を奪いに来た」

リーシャロもね」

 黒い眼は自分の反応を確認するために、じっと見つめてくる。

 狐を独特のニックネームで呼ばなくなった時から、疎ましく思っているのを隠さない。

「損得勘定から離れたところにいるのは、きっとサバちゃんだけ」

 まるで自分が特別だと言わんばかりの言い方をしてくるが、関係者でありながら、自分には損得すら発生しないほど疎外されている、と言われているようなものだ。

 

「狐とお前は昔から知り合いだったのか」

「いえ。会ったこともない」

 どこまで本当か怪しんでいるのが顔に出たのか、

「名前だけは知ってたんです。彼は、何度も秀哉さんに接触コンタクトを取りに来ていたから」

 フチノベ ミチルは付け加えて説明してくる。


「狐が、サハラに会いに来ていた?」

「『ファラリス』と完成品のマイクロチップを回収したかったんでしょうね」

 狐は、とっくの昔にサハラの行方を突き止めていた。その情報を元手に、軍や政府、『ファラリス』を知る人間たちと取引してきたのだろう。

 そして、その取引で狐は一人勝ちできるように策を練ったはずだ。


 狐の策略のために、『六匹の猟犬シェスゴニウス』は利用された。


「めちゃくちゃ怒ってますね」

「全然」

 怒っているつもりはなかったのだが、そう言われて、即座に言葉を返すくらいには苛立ってはいた。


「蠍がフチノベ ユウコを殺す前、大統領たちと何の話をした」

 質問のようで、これは詰問だ。

 フチノベ ミチルは憂い混じりの眼で、こちらを見た。


「秀哉さんの病状を話した。今の秀哉さんに、『ファラリス』を操作できる能力はないとか」

「同じ話は二度しなくていい。大統領府の電源が落ちた後から話せ。『六匹の猟犬』が突入してからの話をしている」

「それは明日、イヴァンの前で」

「これ以上嘘をつくな」

 フチノベ ミチルが言い切る前に、言葉を遮る。お互いの視線が絡み合う。


 睨み合いにはならない。フチノベ ミチルの眼は震えていて、自分はそれを見つめている。

 

 眉間に皺を寄せたり、視線が宙をさまよったり、落ち着かない様子を見せた後、フチノベ ミチルはゆっくりと言葉を発した。

「蠍は、あの突入作戦が、突入作戦の名を借りた作戦だったと、知っていた」

 表向きは大統領府へ突入し、アヴェダから指揮権をジェセカ元帥に渡す作戦だった。そもそもそれが張りぼてだったのだ。


「それを狐から聞いていたのか、大統領から聞いたのか、それはわからないけど」

 どちらにせよ、蠍は作戦前には大統領側に寝返っていた。狐がそうさせたのかもしれない。


「軍の中で力を持ちすぎた『六匹の猟犬』を壊滅させる作戦のついでに、私たちから必要なものを回収した後で始末するのも並行した」

 そう言ったフチノベ ミチルの言葉に、引っ掛かりを覚える。

「力を持ちすぎた?」

「『ファラリス』を扱える能力を持った限られた人間が、トップクラスの戦闘能力も備えている。それはアヴェダにも他の国にとっても、脅威でしかない」

 思わず溜め息が出る。


 皮肉なものだ。国のために強くあろうとすればするほど、疎まれていたとは。


「でも、完成品のマイクロチップが手に入れば、『六匹の猟犬』の脅威は弱まる」

 大統領や軍が探していたのは、サハラではなく、『ファラリス』と完成品のマイクロチップの行方だ。

 それがもうすぐ手に入るタイミングに、狐は大統領府突入を仕掛けた。


「狐は、完成品マイクロチップを一番高く売れる相手に売りたいんだろうな」

 ただそれだけのために、ここまで大掛かりなことをするとは思えなかったが、そうするしかないタイミングだったのだろう。


「何があっても、狐には絶対渡すな」

 渡すはずもないだろうが釘を刺すと、フチノベ ミチルは真顔になって首を横に振る。

「渡せないです」

 渡さない、ではなく、渡せない。

 その言い回しに嫌な予感がした。

 フチノベ ミチルが視線を逸らそうとしたのを、舌打ちして留まらせる。

 

 黒い瞳はもう震えていない。ゆっくり瞬きを繰り返して、こちらを見つめ返してくる。

「言え」

 言葉足らずな言い方になった。とはいえ、伝わっていないわけはないだろう。

 

 フチノベ ミチルは僅かに口を開き、小さく息を吐く。

「あの日、そのまま返せば良かったのは、わかっていました。でもね、優子さんは、には渡すなって言った。

 だから私は、最後の手段を選んだ」

 フチノベ ミチルの左手が、自身の右手を指差す。

「あの場で、私はここに」

 指差しているのは手の甲だろうか、掌だろうか。どちらでもいい。それは、そこにある。

 

 文字通り、この女は完成品マイクロチップを持っていた。


 自身の右手に埋め込むという形で。




       *


 第五取調室

 取調担当官 真咲 圭一郎


 取り調べ室と前室を繋ぐ唯一の鉄扉には、その名前が書かれたプレートが下がっている。

 杏樹は、手元の端末に取り調べ経過を記録しながら、ガラスの向こうを見つめた。


 赤毛の男は遠くを見る眼差しで、呟くように言った。

「我が国の秘密兵器の最重要機密が詰まったアイテムを、あのコは隠し持ったまま帰国しやがって」

 口元を笑う形に歪めながら、握った拳で机を叩く。


リエハラシアとしては、その機密を回収した後、フチノベ ユウコとミチルが何らかの形でお亡くなりになるシナリオになれば良かったわけ」

 真咲は静かに、薄っすらと微笑みを浮かべ、目の前の赤毛の男の振る舞いを眺めている。


「なーのーに、あのコは機密を隠し持って、日本まで逃げ帰った」

「それ、どうせ『ファラリス』でしょ?」

 そんな大層な言い方しなくていいよ、と真咲はにっこり笑いかけて言う。

「知ってるなら、わざわざ聞くなよって」

「キミって、極端なくらい情報を出し惜しみするタイプなんだよね」

 真咲は座っていた椅子の背もたれに背を預け、頭の後ろで手を組む。

「情報ってのは、適度に出してかないとただのゴミになっちゃうから、ちゃんと入れ替えした方がいいんだよーって、アドバイスしちゃう」

 気楽に話す真咲とは対照的に、赤毛の男は無表情で真咲を睨み返している。

 

「『ファラリス』の存在なんか、とっくの昔にホワイトハウスが掴んでるし、脅威かと言われると、実は眉唾ではあるんよ」

 真咲の言葉に、赤毛の男は眉間に皺を寄せる。

「それなら、とっくに対抗できる手段ができてるはずなのに、それがないのはなんでだと思う?」

 赤毛の男は不機嫌そうに尋ねる。真咲は頭の後ろで組んだ手を解き、胸の前で腕を組む。

「『ファラリス』ってものが、どこまで正確に機能するかっていう信憑性がうっっっっすいから、本気で取り組んでないんだと思う」

「ほぉ?」

 真咲は言い方こそマイルドにしているが、何ら忖度をしない言葉だ。それを聞いた赤毛の男は、鼻で笑う。


「そんな怒らないでよ。一応ね、俺は信じてるよ、『ファラリス』が今後の世界情勢において重要で重大だって。でも俺にゃホワイトハウス動かすほどの発言力ないから」

 申し訳程度の真咲のフォローは、赤毛の男の機嫌を直す効果はない。

 赤毛の男は目を伏せて、溜息をついた。

 

 真咲は姿勢を正し、目の前の男と真っ直ぐ向き合う。何かを話し出そうとしているのがわかり、赤毛の男は身構えた。

「部下も優秀なんだけど、俺も優秀オブ優秀なのよ」

「あらそう」

 面倒臭そうに相槌を打った赤毛の男が言い切るのと同時に、真咲は口を開く。

「ミカティリ=エンリ・ガイツィナロクナフ博士」

 赤毛の男の顔色が、一瞬変わる。

「『ファラリス』を作り上げた天才物理学者の名前なんだけどさ、よく聞いたら、聞き覚えのあるお名前だよねぇ」

 真咲はにこやかに、淡々と話しかける。

「だよね? ご子息のシャヴィニルイツさん」

 真咲は笑うと目がなくなる。目の奥が笑っていてもいなくても、それを外側から窺えない。


「キミのご尊父様が作った、おそらく価値のある発明品。正当な相続者はサハラこと阪原さかはらじゃないし、渕之辺ふちのべ みちるでもない。そうだよね?」

 赤毛の男は片方の唇の端だけ上げ、真咲を射抜くような強い眼差しを向けた。

「お前に何がわかる」

 赤毛の男の声のトーンが、普段よりも低かった。


「わからないから対話しようよ、って言ってるの。民主主義とは対話なり」

 真咲は、目の前の男に向かって、前のめりになる。

「キミとご尊父様は、もとは隣国クルネキシアの人でしょ。いろいろあって、小さかったキミを連れてリエハラシアに亡命したって」

 赤毛の男の眉がクイっと上がる。苛立ちながら笑顔を作ろうとしていた。

 笑うとなくなってしまう真咲の眼が、笑顔ではなく真顔になると戻ってくる。


 ヘーゼル色の瞳と、茶色味の強い瞳が見つめ合うと、そのまま5分は睨み合いをしていた。


 真咲はまた、目がなくなるほど破顔してみせた。

「ちなみにキミが帰りたいのは、どっちの?」

 生まれたクルネキシアか、育ったリエハラシアか、と尋ねる。

「どっちでも」

 赤毛の男は首を横に振る。どっちにも帰りたくない、と言わんばかりに。


「3つの時、リエハラシア軍の掃討作戦が住んでたエリアで実行された。母親はそのせいで死んだ。俺は父親と命からがら、生まれ育った場所を出た。そこからはひどい生活だった」

 幼く朧げな記憶の中でも、黒っぽい灰色の煙が立ち込めた瓦礫の風景と、着の身着のまま歩いた時の芯から震え上がる寒さや足の痛みは、ありのまま思い出せる。

 

「ある時、リエハラシアの軍人が声をかけてきた」

 その軍人は、色黒な肌をしたアジア人だった。

「そいつがサハラだった」

 赤毛の男は無表情で、真咲を見つめながらも真咲以外の何かを見つめるような、虚ろな眼をする。


「そんな経緯があったから、サハラを命の恩人だと思ってたんだよ。

 でもさ、俺が住んでたエリアに掃討作戦を仕掛けたのも、父親が物理学会では名の知れた学者だって知ってて、リエハラシアに引き入れたのも全部、ジェセカとサハラが二人で考えた計画」

 真咲は黙って聞いている。その傍ら、初めて聞いた「ジェセカ」という人名を脳内に刻み込む。

 

「あいつらは死神だ」

 狐が「あいつら」と呼ぶのは話の流れ上、阪原と「ジェセカ」という人物だろう。

 赤毛の男が憎々しそうに見つめているのは、目の前にいる真咲ではなく、記憶の中の恨むべき相手の顔。

「まぁ、俺はキミの気持ちの1割もわかってあげられないとは思うんだけどさ」

 阪原と「ジェセカ」に対する恨み節を吐く男に、真咲は困った顔で笑って見せた。

「キミもさんざん人殺してきてるし、ここで被害者ヅラすんのはやめよっか」


 にこやかに突き放す真咲の言葉に、杏樹は息を呑む。そこまで言わなくてもいいじゃないか、と口に出そうになるが、言ったところで誰にも聞こえない。


 ぐっと唇を噛んで、成り行きを見守る杏樹の心配をよそに、赤毛の男はクスクスと笑い声を漏らした。

「それもそうだね」


 

 

       *****



 オールバックにした黒髪。ユーコと同じ黒い瞳。浅黒く日焼けした肌。

 その男は、私が雇ったボディーガード達の返り血を浴びながら、こちらに向かって、にこりと微笑んだ。

「お久しぶりです。イヴァン=アキーモヴィチ・スダーノフスキー」

「いつ会った? 記憶にないんだが」

 握手を求めてきた男の手は、漏れなく血塗れだ。商売柄、こういう派手な登場をする相手と関わるのは少なくないから、驚きはしない。

 

「昔、リエハラシアに商談しに来たでしょう?」

「あぁ、あの時は手を貸せなくて申し訳なかった」

「実はその時、お会いしている」

 商談のためにリエハラシアに行った時、この男と会っている?

 私は記憶を探り、その時の場面を思い出そうとしてみた。


 商談の場にいたのは、独裁者気取りの大統領、表に出たがらない卑怯者の軍トップ、卑怯者の軍トップの腰巾着。


 腰巾着はの国では珍しいアジア人だった。そう、今目の前に現れた男とそっくりだ。


 空想めいた、新種の武器と、それを制御する魔法のアイテムの話を聞きに行ったのに、リエハラシアはその情報をなかなか出してくれなかった。

 だから、私からの武器供与の話は流れた。そんな顛末だった。

 

「さて、何の用かな?

 君のせいでボディーガードも交渉相手も、みんな死んでしまった。私もお人好しじゃないから、こういうのは怒るよ?」

 私はこのとき、反政府ゲリラに商品を売る為に、東南アジアのとある国境付近にいた。

 ゲリラのアジトである粗末な、ゲリラからすると一番上等だったテントで、商談の途中だった。

 

 目の前の男は、たった一人で現れ、私の周りにいたボディーガード達とゲリラを、風が頬を撫でるようにあっさり殺した。

 この手際の良さを見る限り、無鉄砲に乗り込んだわけではない。自信を持って、ここに乗り込んできた。しかし見事な腕前だ。

 この腕前があるなら、是非新たなボディーガードにしたい。

 交渉を潰されたのは、ひどく恨めしいが。


「あなたをもっと怒らせる話を、今から言わなきゃいけないんですけど」

 血塗れの男は、苦笑いを見せる。

 テントの中、アウトドアチェアに座る私と、AK-47片手に血塗れの手を差し出す男。足元にはゲリラやボディーガードの屍。

 

 生き血を啜る生業の者同士、何と相応しい出会い方だろう。

 

「もうユーコさんに近づかないで下さいね。に付き纏われて迷惑してるって言ってた」

「そうか、次はお前か」

 ユーコがどんなに私から逃げようとしたところで、ユーコを愛し抜けるのは私しかいない。


 この男がどんなに尽くそうと、私はそれ以上の愛をユーコに注いでやれる。私が、こんな勢い任せの忠告になど屈するはずがない。

 早晩、ユーコは私の力を求めて戻ってくる。そう仕向けてやる。この男は自分の無力さを嘆くだろう。その日が楽しみだ。

 

 だがその日は来ないまま、ユーコは死んだ。


 

         *


 

 クガとやり取りするのは疲れる。

 同じ女を愛したことがある者同士、ユーコの死を悼みながら、静かに酒を飲むくらいの付き合いはできないのだろうかと思う。だが、クガと飲みたい酒などないとも思う。

 

 ビスクドールが、『六匹の猟犬』の残党の行方を聞き出すために、クガの手下を痛めつけた。少しやりすぎてしまったのが原因で、クガは大層怒っていた。


 私はクガのもとへ謝罪に行き、さんざん悪態をつかれたが金と銃器を欲しがるだけ与えてやった。

 クガは、表向きはユーコを守っているフリをして、私の前に現れては金と銃器を巻き上げていく。なかなかの人でなしだ。


 旅館の広縁からは、窓越しに緑深い山々が見える。陽が暮れた後だと、山の稜線はまるで巨大な生き物の背のようだ。

 

 忌々しいあの娘。クガとのやり取り。

 

 騒がしい出来事ばかりがフラッシュバックしてくる中、ゆっくりと肺の中の空気を吐き出す。

 

「イヴァン様」

 私が広縁に置かれた小さな椅子に座っていると、ビスクドールは丁寧な手つきで、目の前の小さなテーブルに紅茶を置く。

「どうしたビスクドール」

 私の向かいの椅子に座ったビスクドールは、至極真剣な表情で、私を見つめている。


 エメラルドグリーンの美しい瞳は、何かを言いたげだ。とても言いにくそうな、けれど言わずにいられない、といった雰囲気だ。


「イヴァン様は、死ぬおつもりですか?」

「まさか」

 ビスクドールの口から出た、唐突な一言に驚いて、半笑いで反応するしかなかった。

 しかし、ビスクドールの不安そうな素振りは変わらない。


「私は、イヴァン様のためなら、この命は惜しくありません。ですから、イヴァン様は決して、私の前からいなくならないで下さい」

「ビスクドール」

 平坦な声のトーンは変わらないものの、珍しく早口で、畳み掛けてくるビスクドールを制止する。

 母親を一人で看取った経験は、今もこうして、「取り残される不安感」として、ビスクドールに深く刻まれているのだろうか。


 この忠誠心は、私への束縛とも言える。


「そういう自己犠牲は、自己満足だからやめよう。真に相手を思うなら、君も生きるんだ。それに私は死ぬ気もないし、実は病で余命僅かだとか、そんなしょうもないオチはないよ」

 自己犠牲は99%が自己満足で、1%が幼稚な虚栄心だと、ユーコは吐き捨てていた。私もそう思う。


「はい。失礼しました」

 気まずそうに、恥ずかしそうに、俯いて自分の膝に視線を落とすビスクドールは、まるで幼子のようで、微笑ましい。

 こういうところは、生真面目なメイドだった母親の一歩後ろで、所在なさげに佇んでいた少女の頃のままだ。

 

「一つ、頼みごとがある」

 こんな体たらくな雇い主の代わりに、有能な秘書は手足となって働いてくれる。

「はい」

 私に頼られるのを喜んでくれる。この秘書は、私に対していつも真っ直ぐだ。


「私は、この前の狐との交渉で出た条件を、呑むつもりなんだ」

 ビスクドールの淹れた紅茶をすすっていると、エメラルドグリーンの瞳が私を見る。

 震えた瞳と、薄く開いた唇は動揺を如実に語っていた。

 だが、ゆっくり瞬きをした後、ビスクドールは唇を閉じ、小さく頷いてみせる。

「はい」

「こんな気の進まない交渉に付き合わせて申し訳ないね。

 ビスクドールが欲しいものなら、何でも用意するよ。何が欲しい?」

 何てことはないのだと、ただ少しの間あの下衆な男と過ごすだけだと、ビスクドールに思ってもらわなければならない。


「私は」

 何も要らない、という意味で首を横に振りながら、ビスクドールは言葉を続ける。

「ですがイヴァン様に、愛していると、言われたいです」


 愛。

 私が一番、懐疑的になる言葉だ。妻や女たちは皆、その言葉を欲しがった。それを形にしたがった。

 だが、私が愛を囁いたあの女は、私が与えた愛を拒んで、全てを掻き乱して去ってしまった。


「私の『愛』は、どこかに消えて見えなくなってしまった。言葉だけの愛に意味はあるかい?」

「構いません」

 すぐさま、ビスクドールは返事をする。

 素直で、私の言葉を裏切らない、純粋で幼い娘。

 まっさらな輝きの中に翳りは確かに根付いていて、その翳りを見るとホッとする時がある。

 

「愛しているよ、ビスクドール。私達は、離れていても常に共にある」

 ガタ、と椅子が動く音がする。ビスクドールは立ち上がると、私をハグしようと手を伸ばしてくる。

 流れから考えると、キスでもしたいのだろう。

「いけないよ、ビスクドール。私は君を愛してやれない」

 伸ばされた手をそっと押し返そうとするが、ビスクドールの手は私に抱きついてきた。

 テーブル越しのハグなんて、とても不恰好だ。


「私は、イヴァン様を愛しているのです」

 私の首筋に顔を埋めるビスクドールの声は、掠れて震えている。普段、ビスクドールが私に対して、こんな積極的な行動を取るのは、まずない。

 やはり、狐と寝ろと言ったのが相当きつかったらしい。当然の反応だが。


 一人の人間として、受け入れるべきか。

 父親代わりとして、宥めすかすべきか。


「ビスクドール、美しくて可愛いビスクドール」

 名前を呼ぶと、しがみつくようにビスクドールの腕に力がこもる。

「大丈夫、必ず取り戻す。あの下衆な男から何もかも毟り取るつもりだからね」

 もし、ビスクドールが私にとってユーコ以上の存在だったならば。

 ユーコよりも愛しいと思えたならば。


 この喪失感からは、きっと逃げられたのだろうか。


 

        ****


 

 真咲と杏樹は、改札口を通って人混みに紛れていく赤毛の男の背中を見送っていた。

 

 視線を赤毛の男から、隣にいる真咲に向け、杏樹は尋ねる。

「このまま、帰らせていいんですか?」

「これ以上拘束しても、アイツはイヴァン絡みのネタはもう持ってないよ」

 真咲は薄く微笑んで、杏樹の問いに答える。


「むしろ、これからイヴァンに接触取ろうとするから、そこを狙った方がいい」

 真咲は駅構内の柱の影に移動する。杏樹はそれに引っ付いていく。

 手元のスマートフォンに視線を落としている真咲の横顔に、杏樹は少し悔しそうに顔を歪めて声をかけた。

「取り調べ、すごかったです」

「あら、ありがとー」

 一瞬だけ、真咲は杏樹に顔を向ける。柔和な笑顔だが、何を思っているのかわからない。


「あの人が、あそこまで自分の話をするのは初めて見ました」

 杏樹が悔しがっているのは、杏樹の情報提供者であるはずの赤毛の男が、真咲相手に多くの情報を与えた。

 

 そんな杏樹の顔を見て、本当に負けず嫌いな野心家だ、と真咲は内心思っていた。


「俺も伊達に歳食ってないからねぇ」

 真咲は熱心にスマートフォンの画面を見ている。それが気になった杏樹が、真咲のスマートフォンを盗み見ようと顔を傾けると、真咲はスマートフォンをジャケットの胸ポケットにしまい込む。

 杏樹はムッとした表情で真咲を見るが、真咲はにっこり微笑むだけだ。


「では、真咲さんは帰りまーす」

 そして、大きな声でそう言うと、真咲は改札に向かって歩き出して行く。

「え?」

 突然の終業宣言に、杏樹は呆気に取られた。何かを思い出したようで、改札の前で立ち止まった真咲は、杏樹に振り向いた。

「終業時刻までに報告書、よろぴくねぇ!」

「ちょ、えっ真咲さん⁈」

 飄々と改札を抜けて行く真咲は、杏樹の声などまるで聞いていない。


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