19. Bloodline



 


 戦場でなければ平和だなんて、誰が決めた。



 


 息をするだけで死ぬような思いをして、生き延びている。

 死にたいのに、死を選べない。そう思いながら生きている世界を、平和と呼ぶのは無理がある。

 誰もが皆、血の涙を流しながら、毎日歯を食い縛って生きている。


 子供など無力な生き物の最たる例で、育てる大人の能力によって生き死にが左右される。

 人間の厄介なところは、理不尽ともいえる暴力性を、弱者と見做した存在に容赦なく向けるところだと思う。

 

 それはどんなに恵まれた国だろうと、貧困国だろうと、戦場だろうと同じ。


 環境に恵まれなかったと泣き言を言う余裕もなく、ただ毎日を生きるだけ。

 死にたいと思えど、幼ければ自ら死を選ぶための方法すら、わからない。

 

 生きるも死ぬも、ある程度自分の意思表示ができるようになったらできることだ。

 それがままならない歳だと、暴力性を持て余した親の気まぐれで、呆気なく死んでいく。

 

 その環境を生き延びたとして、幸せはあるのか。

 さんざん息苦しい思いをして生き延びた先で、待ち受けているのは、「普通」を知る人々からの無遠慮な言葉だ。

 

 産んでくれたことを感謝しろ、苦しい過去は忘れたらいい、生きているのを幸せに思え、今は幸せなのだからいいじゃないか、前を向いて生きろ


 そうやって、上っ面の言葉で語られる。

 

 踏み躙られた経験を忘れて生きられるほど、人間は強くない。


 息もできなくなるほど踏み躙られた経験は、心を一生縛っていくだろう。

 他の誰にも理解されない。理解してほしくもない。

 

 息が詰まるようなに閉じ込められて、もがけばもがくほど自分が生み出した澱みに、足元を掬われる。

 

 死を願いながら、今日もまだ生きている。


 


          *



「喋れるとは聞いていない、クソが」

 とはいうものの、サハラがこの女を育てたと知った時に、なぜ母国リエハラシア語習得していると思わなかったのか、と自分自身に腹が立っていた。


「言わなかった。英語とロシア語なら喋れるとしか」

 銃を突きつけているのはこちらなのに、会話の主導権はこの女に取られている。


「俺が話してたことは全部理解していたな、このクソ」

「そうやって語尾にクソつけるの、やめてほしいんですけど」

 フチノベ ミチルは申し訳なさそうな顔をするが、どこか演技じみていて、信用ならない。

 フチノベ ミチルは感情の見えない黒い眼で、じっとこちらを見ている。

 しかし、その虹彩に映り込む自分の姿など、見ていない。

 

「『ファラリス』」

 ぽつりと出てきた言葉に、舌打ちが出そうになる。

秀哉しゅうやさんが持っていった、リエハラシアが開発した特殊すぎる用途の兵器」

 サハラがリエハラシアを出て行った時に持ち出したのを、この女は知っている。

 

「『六匹の猟犬シェスゴニウス』は実用化テストの被験者になっていた、と」

「サハラはそこまで喋っていたのか」

 怒りに近い感情が湧いてきたのと同時に、口元に笑みが浮かんでしまう。


「私が秀哉さんから説明されたのは、まず30年くらい前にできた、『神の杖』の話」

 神の杖。

 それは、東西冷戦時代に考えられた兵器だ。


「軍事衛星に載せたロケット付きの重金属砲弾を、宇宙空間から降らせて、地上到達時の破壊力を増幅させるっていう仕組み。

 現代の科学ではおおよそ実現不可能な技術」

 フチノベ ミチルはすらすらと『神の杖』について話す。

 ここまで説明できるほど、サハラが教え込んだのだろう。


「リエハラシアにいた一人の天才科学者が、それを実用化できる方法を考え出した」

 その科学者を、天才と呼ぶべきか、悪魔と呼ぶべきか。


「その科学者とリエハラシア政府は、『神の杖』を実用化する方法を、いわゆる西側って呼ばれる勢力へ秘密裏に売った。

 クルネキシアとの内戦に支援を約束させて、リエハラシアの民主化を推し進める後ろ盾になってもらおうとした」

「だが、旧西側はその約束を反故にした」

 思わず口を挟んでしまった。フチノベ ミチルは相槌の代わりに、瞬きをゆっくり一回する。


「それを知って、怒りに震えたその天才科学者は、『神の杖』を地上から完全制御するシステムを作った。それが『ファラリス』」

 その科学者は『神の杖』を開発した本人なのだから、制御する手段を考えつくのは自然な流れだった。


「乱用されないよう、高度な生体認証を搭載した。

 専用のマイクロチップを、使用者として適格だと認めた人間に埋め込んで、そのマイクロチップで認証しないと起動しないシステムにした」

 政府や軍の色眼鏡で見た適格者など、どこまで信用できるのだろう。


 今ならそう思うが、当時の自分はそれを疑いもしなかった。

 

「けれど、『神の杖』の実用化が旧西側では凍結された。それでも科学者は『ファラリス』同様、『神の杖』の開発も続けてきた。

 一方でリエハラシア政府は、『神の杖』の最新版を、今度はいわゆる、旧東側に売った」

 旧西側に渡ったものより、旧東側に渡ったデータの方が、より破壊力を持つものになっている。


「それがきっかけで、開発者である科学者は自殺した。リエハラシアが、科学者の思っていた方向とは別ベクトルに進んだから」

 サハラがいなくなったのは、その科学者の死後だ。サハラと科学者が仲良くしていたという話は聞かなかったし、その科学者の死がサハラにどこまで影響を与えたのかわからない。

 

「つい最近、旧東側諸国が共同して作った軍事衛星が打ち上がりましたね」

 フチノベ ミチルは虚空を見つめたまま、言葉を続ける。


「秀哉さんがいた頃の『六匹の猟犬』のメンバーは、『ファラリス』試作品の被験体。だから全員、試作品のマイクロチップが埋め込まれているんですよね」

「……古いデータだ。使い道なんかない」

 自分に埋め込まれたマイクロチップのデータは、その当時の『ファラリス』に適用したもので、科学者の死後に後任の開発者が仕様変更していれば、何の役に立たない。


「そのマイクロチップのデータ、まだ有効らしいですよ。削除の仕方がわからないままなんだって」

 フチノベ ミチルは、自分の考えを否定する事実をぶつけてきた。

 

「15年ほど前、イヴァンは『ファラリス』の存在に気づいて、秀哉さんに接触してきた。それは、秀哉さんが優子ゆうこさんと出会う、もっと前の話。

 別れた恋人である優子さんと秀哉さんが暮らすようになったのは、とても不愉快だったみたい」

 15年前。

 サハラがリエハラシアを出て行った頃。たしかにそれより前に、イヴァンはリエハラシアに武器供与の取り引きをしに来た。


「話が逸れましたね」

 フチノベ ミチルはそう言って小さく笑った。もはや、額に突きつけられた銃などないように振る舞っている。


「『ファラリス』はマイクロチップ保持者であれば、『神の杖』の攻撃目標を変更できるから、その存在を知る国にとっては脅威」

「だが目標変更できるのは、あくまで発射前の『神の杖』だけだ」

 自分が補足すると、フチノベ ミチルは「そうです」と相槌を打つ。『神の杖』が発射されてからの落下速度に、『ファラリス』の最たる機能である制御コマンドの発動は、到底間に合わない。

 

「それでも、『ファラリス』を使用できる人間がいるのは、ある種の抑止力になる」

 だがそれは、どこの国の誰が『ファラリス』を起動する決定を出すかによる。『ファラリス』が個人の所有物ではなく、国家が所有しているのが前提だ。


「『ファラリス』の所有権が欲しいっていう国が出てくるかもしれない。それは、『ファラリス』を扱えるマイクロチップの所有者が選べばいい」

 適格者として選ばれた『六匹の猟犬』の隊員で、マイクロチップを埋め込んだ状態でまだ生き延びているのは、自分と狐。


 急に口の中に唾が溜まる。吐きそうだ。

 

リーシャロが持っているのは制御側のマイクロチップ。起動ができない。

 起動側のマイクロチップ所有者とセットで動かないと」

 フチノベ ミチルが初めて、狐をコードネームそのままで呼んだ。

 サハラがそう呼んでいたのを、そのまま覚えて言っているのだ。

「サハラの口の軽さに、がっかりしている」

 胃の中身がり上がってきそうな気分の悪さだ。


「あなたは起動側のマイクロチップ所有者。狐はあなたと一緒じゃないと、『神の杖』を正確に起動できない。

 あなたたちが、付かず離れずなんとなく行動を一緒にするのは、『ファラリス』の制約を意識してるからじゃ?」

 違う。違うと言いたかったが、吐き気の方が勝って、口を開く気になれなかった。

 

「でも、たとえばもし、起動と制御両方の機能を持つ、最新版のマイクロチップが存在していたら?」

 先ほどまで光を失っていた黒い眼が、急に輝き出し、突然問いかけてくる。


「完成品とも言えるそれを、秀哉さんが持っていったのだとしたら?」

 強気な眼差しは、寒気のする言葉をどんどん重ねてくる。


「それを今保管しているのが」

「勘弁してくれ」

 銃を持った手を下ろした。空いていた左手で口元を押さえ、吐き気を堪える。


 フチノベ ミチルは、自分のそんな様子を他人事として見守っている。いつものように顔色が青白い。

 

 それなりに暖かい時期のはずなのに、部屋に流れる空気はひんやりしていた。

 

「お前と母親は、なぜリエハラシアに行った」

 サハラは二年ほど前から姿を消している。

 そのままサハラに背負わせ、この女と母親は『ファラリス』など知らぬ存ぜぬと、しらを切れば良かったのだ。


「イヴァンは少なくとも数年前から『ファラリス』の存在を知っていた。

 イヴァンが優子さんを手に入れたら、『ファラリス』まで取られる。このままだと、優子さんの身が危ないと思った。だから、私と優子さんが平穏に暮らすためには、リエハラシアに所有権を返すべきだって。

 秀哉さんがいない状況で、私たちが『ファラリス』を扱うのは荷が重すぎた」

 フチノベ ミチルが説明する流れに疑問はない。

 

「そのために、私たちはあの日、大統領府に行った」

 だが、政府と軍は『ファラリス』を奪還し、フチノベ母娘を始末しようとした。最高機密である『ファラリス』について、知りすぎているからだ。

 あの政府と軍なら、そういう暴挙をやる。


 それでもなぜ、自分たちに嘘までついて、大統領府に突入させたのかは、いまだにわからない。


「どうなっている」

 ここでぼやいたところで、あの日『六匹の猟犬』に課せられた役割が何だったのか、自分には見当がつかない。それに、だ。

「サハラの身から出た錆に、お前たち母娘がそこまで付き従う必要はないだろうが」

「そうもいかないんですよね」

 自分の独り言めいた発言に、フチノベ ミチルはすぐに反応してきた。


「秀哉さんと優子さんはもともと血縁なんですよ」

 それは、狐が出し惜しみして伝えなかった情報なのか、狐すら知らなかった情報なのか、自分にはわからない。


故郷リエハラシアを出た秀哉さんは、小さい頃に生き別れになったままの実の父親に会いに、日本へ来た。

 その父親の行方を探す中で、異母きょうだいである優子さんとその妹の存在を知った」

 フチノベ ミチルの実母は、フチノベ ユウコの妹だったはずだ。

 サハラとフチノベ姉妹は従兄弟、フチノベ ミチルとは伯父と姪の関係性になる。

 

「だから、優子さんと秀哉さんは、夫婦じゃない。私も含めた異母きょうだい同士で一緒に暮らしていた」

「異母きょうだいなのはわかった。だが、それだけでここまで」

含めた異母きょうだい、と言ったよ」

 自分の言葉を皆まで言わせず、フチノベ ミチルは言う。

「すまない、何が言いたいのかよくわからないんだが」

 目の前にいるこの女は、自身を含めた、という部分をやたら強調してくる。サハラと、フチノベ ユウコ、ミチルが血縁者なのは、もちろん理解している。


「私の生物学上の父親は、優子さんや秀哉さんと同じ」

 フチノベ ユウコとその妹、そしてサハラの父親は、同じ男。さらに、フチノベ ミチルの父親も同じ男だと言う。


「それはつまり、近親相姦じゃないか」

 そのままの表現で言ってしまったのを、今後悔している。だから会話というのは苦手だ。

 聞かない方が良かっただろう話を聞いてしまった。もっとも、話してきたのはフチノベ ミチルなので、この話を聞いてしまったのは自分のせいではない。

 とはいえ、だ。

 

「その昔、日本でさんざんやらかした私たちの父親は、内乱状態のリエハラシアへ逃げ出した。そこでは武器売買とかで生計を立てた」

 日本でどうやらかしたらリエハラシアに逃げ出すのか、聞きたいところではあるが、そこは今、問題ではない。


「秀哉さんのお母さんと出会って、秀哉さんとその妹が生まれた。でも、私たちの父親はリエハラシアに家族を残して、日本へ帰った。

 その後、日本に戻ってから、たくさんの愛人を作った。その愛人の中の一人が、優子さんとその妹を産んだ」

 フチノベ ミチルは着ていたスウェットのボトムスのポケットに手を入れる。そこから取り出されたのは5個ほどのチョコレートだった。


 そのチョコレートをこちらに差し出してくるかと思いきや、フチノベ ミチルは床に座り込み、チョコレートを矢印にも似た形に並べて置いていた。

 

「私たちの父親は、女をとことん傷つけるヤツだった。クソ最低のクズ野郎。

 優子さんとその妹は、そいつにさんざんな目に遭った。優子さんは身体的な暴力。妹は性暴力」

 黒い包装のチョコレートを頂点に、その真下には赤い包装のチョコレートと水色の包装のチョコレートが並んで置かれている。

 フチノベ ミチルは話しながら、水色の包装のチョコレートの下に置いた、茶色い包装のチョコレートを人差し指で指す。

「それで私が生まれたってわけ」

 近親相姦。その結果生まれた子供。

 フチノベ ミチルはのんきに言うが、そんな簡単に言っていい話ではない。

 

「そこに、秀哉さんが現れた」

 茶色い包装のチョコレートの隣にあるのは、ホルスタイン柄の包装のチョコレート。

「優子さんの妹は、私を虐待した件で収監されて、そこで自殺したからもういない」

 水色の包装のチョコレートは、フチノベ ミチルの指に弾かれて、家系図ファミリーツリーを模したチョコレートの並びから外れた。


「私が今からする話は、リエハラシアとは一切関係ない。私たちの約束の話」

 私たち、と強調して、異母きょうだい同士の結束のようなものを、垣間見せてくる。


「残ったこの三人で」

 フチノベ ミチルの指が、赤い包装のチョコレートを押しながら、茶色とホルスタイン柄のチョコレートの並びに移動させる。

「こいつをどうにかしてやろう、って話になった」

 こいつ、と言った時に指したのは黒い包装のチョコレート。

「父親」

 自分が言葉を挟むと、フチノベ ミチルは小さく頷いた。


「今、この男はなかなか厄介で立派な肩書き持ちなんです。玖賀くがパパがいるジャパニーズマフィアのトップ。こいつは関東全体のジャパニーズマフィアの中で、一番上に君臨している」

 黒い包装のチョコレートを何度か指で突くようにしながら、フチノベ ミチルは話を続ける。


「玖賀パパは私たちの事情も知った上で、あの男の下にいる」

「クガもクソだな」

 吐き捨てると、フチノベ ミチルは困ったようにこちらを見上げてくる。

 床に座り込んでいるのはフチノベ ミチルだけなので、この会話中は何度か見上げられている。


「私や優子さん、秀哉さんが武器商人として玖賀と付き合い続けたのは、いつか父親を殺すために、情報源として残していたって側面が強い」

 クガがそれに気づいていないはずがない。

 それでも協力関係にあるのは、クガとかつて恋人だった、フチノベ ユウコの立ち回りのおかげなのだろう。

 

「サハラが日本に来たのは、父親への復讐のためか」

「最初はね」

 フチノベ ミチルは懐かしそうに少し遠くを見ながら頷いた。


「秀哉さんは、父親が憎い気持ちだけじゃなくて、全てに怒りを持っていたって気づいたんです。

 故郷で、たくさんの子供を死線に送り出したジェセカとアヴェダ。人を踏み躙り続ける、私たちの父親。どこに行っても、この世界には許せない人間ばかりだって」

 床に配置されたチョコレートの家系図から、サハラに該当するホルスタイン柄の包装のチョコレートを摘むと、フチノベ ミチルはこちらに差し出してくる。


「そいつらに、人生懸けても復讐しようぜって」

 物騒な言葉とは釣り合わない、軽薄な口調。

 差し出されたチョコレートを受け取らずにいると、フチノベ ミチルは諦めたように床にそれを置く。


「とても危険な発想ですよね」

 困ったような笑みとは違う、この笑みは自嘲だろう。

「優子さんは賛同しなかった。復讐するのは父親にだけでいい、って」

 フチノベ ミチルの視線が赤い包装のチョコレートに向く。

「話し合いを繰り返して、秀哉さんは何とか譲歩してくれた。条件つきですけど」

 サハラがこの女と、フチノベ ユウコに出した条件とは、

「三人のうち誰かが死んでも、父親への復讐は全うする。『ファラリス』を、誰にも知られないように、いつか処分する」

「あのクソ教官、くだらねぇ条件を出しやがる」

「言うねぇ」

 生き残った人間を復讐に縛る、ひどいものだった。

 フチノベ ミチルはおかしそうに笑っている。久しぶりに見る、作り笑いではない笑顔だった。

 

「あなたたちにとってクソ教官だったかもしれないけど、秀哉さんはいい人でした。少なくとも、私に手を出したりしなかった。父親みたいな、ド最低のクズ野郎ではなかった」

「それが当たり前だ」

 当たり前を、さも大層なことのように話すフチノベ ミチルの生い立ちに、舌打ちが出そうになる。

「それもそうだね」

 そう言って、一瞬目を見開いて驚いた表情を見せたが、すぐに笑った。


「リエハラシアについては、父からの情報と、母の知り合いの人に協力してもらって調べ尽くしていたから、改めて何かする必要はなかった。

 日本に来た、あなたたちの動向に探りを入れるくらいで」

 投げやりとも思える様子で、溜め息混じりに喋り出したのはフチノベ ミチルだった。

 自分が受け取らなかった、ホルスタイン柄の包装のチョコレートを、頬張っている。


「だから、情報屋に流れたように見せたお金は、全部手元に戻しました。優子さんや秀哉さんのために、みんな協力してくれた」

「何のために」

「狐の監視を欺くため。あと、そのお金を秀哉さんの入院治療費として使うから」

 影の深い黒い眼が、こちらを見上げている。


「サハラは、生きている?」

 サハラの入院費と聞いて、生存が確定した。

「アルツハイマー型認知症ってご存知ですか?」

 一回頷く。

 アルツハイマー型認知症。徐々に脳が委縮していって、記憶が失われていく病気だ。


「若年性アルツハイマー型認知症。二年前から入院していてね」

 二年前。イヴァンと会いに行って消えた、と言っていたのは嘘だった。サハラの入院、ひいては生存していることを秘匿するための、嘘。


「どうしてそこまで」

 濡れ衣を着せられたイヴァンも、いい迷惑だ。

「今の状態の秀哉さんが生きていると、知られたくなかった」

 病状はぼやかしているが、その口ぶりから、病状があまり良くないのはわかった。


「もう、優子さんや私、あなたやお仲間さん顔も名前も、覚えていない。今の秀哉さんの記憶にあるのは、大人になる前の記憶だけ」

 いまさら会ったところで何も話すことはないが、自分はいまだに覚えているのに、サハラは覚えていない状態なのは、不思議な感じがした。

 

「今の秀哉さんには、犯した罪を償えない」

 フチノベ ミチルは、手の中にあったホルスタイン柄の包装を指先で2回折る。

「だから、責任は私が取る」

 サハラの身代わりに罪を被る、と言わんばかりだ。どうしてここまで、サハラのために嘘をついて立ち回ってきたのだろう。

 フチノベ ミチルの態度が釈然としないな、と思っていると、それを知ってか知らずか、フチノベ ミチルはまた話し出す。

 

「自分の血を憎んでいながら、私が縋るのは血の繋がりなんですよ」

 血の繋がり。歪んだ擬似家族でありながら、それなりに形になっていた、サハラとフチノベ ユウコとミチル。


「皮肉にもほどがあるよね」

 誰よりも家族というものに憧れていたのは、この女だったのかもしれない。


 フチノベ ミチルは目を伏せ、ぼそりと呟いた。

「リエハラシアは内陸国だから、海がない」

 何が言いたいのか、と言葉の続きを待つ。

「海が近かったら、少しは楽しんでもらえるのかなって」

「何の話だ」

 さっぱり展開が読めず、口を出してしまった。

 フチノベ ミチルは床に並んだチョコレートを両手で掻き集め、再びボトムスのポケットにしまう。


「イヴァンに会うのは、どうせ明日です。ちょっと付き合ってもらえますか?」

 まるで意味がわからない。

 真相から一番遠いと言われた自分が、辿り着ける気がしない。


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