18. Two hander


 フチノベ ユウコが所持していたセーフハウスは、コンビニエンスストアのすぐそばの単身者向けの集合住宅、その3階の角部屋だった。


 フチノベ ミチルが持っていたコンビニエンスストアのビニール袋は、玄関のドア近くの地面に置いて、音が立たないようにしている。


 このセーフハウスで、少しは話す時間を取れたらいい。この女が知る情報を、詳らかにしないといけない。

 

 今、フチノベ ミチルは座り込んでドアの蝶番を確認している。

 やはり、不在時に開けられたと関知できるように、仕掛けを用意していたのだ。

 だが、蝶番に紙が挟まっているわけでもなく、ドアとドアの枠を跨ぐようにセロテープが貼っているわけでもない。何で判別しているのか。

 フチノベ ミチルが蝶番の直下の地面に指を沿わせると、何かを拾い上げた。ドアのそばに立つ自分には、目を凝らさなければ見えないほどの何か。

 そこでやっと気づいた。フチノベ ミチルが見ているのは髪の毛だ。

 

 じわりと嫌な汗が背中を伝った。

 昨日、この女の家に入り込んだ時、紙やテープの類は確認したが、髪の毛が一本挟まっているかなど見なかった。意識した記憶がない。

 

 こちらが内心、とんでもなく焦っているとは知らないフチノベ ミチルは、侵入の形跡確認が終わって立ち上がる。

 人差し指を唇に当て、音を立てずに静かにしろとジェスチャーしてきた。

 

 自分は拳銃P226に手をかけ、壁にぴったりと張り付く。その一方、フチノベ ミチルは鍵穴に鍵を挿し込んだ。ガチャリと解錠する音はせず、空回りする。


 一気にその場の空気が張り詰めた。

 

 フチノベ ミチルはドアを開けると拳銃ベレッタ92を構えた手を部屋の中に向ける。今のところ、部屋は物音一つしない。


 そのまま気配を消し、土足で部屋の中に入る。ワンルームの部屋の床はクッションフロアで、足音をうまく消せた。荷物が一つもない空間の最奥に、クローゼットがある。

 

 クローゼットの折れ戸、その取っ手に手をかけたフチノベ ミチルは玄関のドアから入った時同様、銃口ををクローゼットに向ける。

 クローゼットの折れ戸は、フチノベ ミチルの手によってではなく、その内側から開けられた。


 クローゼットの中にいた人物は、こちら側を向いて両手を上げ、ホールドアップした。

 だが、右手には拳銃マカロフを握っている。


「お久しぶりです」

 無表情で、抑揚のない話し方をする。ロシア語の若い女の声。


 大振りのカールを巻いたブロンドとエメラルドグリーンの瞳、長い睫毛。陶器のように透き通った白い肌。

 体のサイズにフィットした、仕立ての良いダークカラーのスーツを着ている。

 

「お久しぶりだね、ビスクドール」

 フチノベ ミチルは銃口を向けたまま、怒りの混じった笑みを浮かべて、ロシア語で声をかける。


 クローゼットにいたのは、陶器人形ビスクドールと呼ばれた女。


「何しに来たの」

 フチノベ ミチルは銃を向けたまま尋ねる。

「ユーコ様所有のセーフハウスの一つを調べていたら、みちる様がいらしたので、仕方なく隠れました」

 真面目な顔をして、不法侵入の経緯を簡単に説明する女は、動揺していなかった。


「"ユーコ様"が死んだ後、荷物は全部処分したよ」

 そう言って、フチノベ ミチルは冷笑した。

「そのようですね。遺品はご自宅ですか?」

 何を言われても動じる様子のない女は、視線をフチノベ ミチルに向けている。

「イヴァンに何を探してこいって言われたの?」

 ここでイヴァンの名前が出たので、ビスクドールと呼ばれた女がイヴァン側の人間であるのは、わかった。

 

「ここは、日本の低所得層が住む建物なのですか? 酷い立地と造りです」

 問いには答えず、ビスクドールはわざとらしく部屋をぐるりと見渡しながら言う。

「その表現、何も間違ってないけど、少し言葉を選ぼうか」

 フチノベ ミチルは苦笑いで答える。銃を構えたままだが。


「こちらの質問にはまともに答えてね、ビスクドール」

 だが、笑っていようがいまいが、フチノベ ミチルが苛ついているのは間違いない。


「私が探しているのは、ユーコ様の遺品です」

「ないない。服や貴金属は全部売った。イヴァンが母に贈った宝石は、特に高値で売れた。生活費の足しにさせてもらったよ」

 復縁を望む男が贈ったプレゼントを、贈った相手の親族が売り払っていたというのは、はたから聞いている分には、残酷な話だ。

 案の定、ビスクドールは聞こえるか聞こえないかくらいの小さい舌打ちをし、フチノベ ミチルに銃を向ける。

 お互いの目の前にお互いの銃口を向け合う、滑稽な絵だ。

 

「数的有利はこちらだけど?」

 引き金に手をかけているとはいえ、話に置いてかれている自分は、黙って突っ立っているだけだが、ボディーガード扱いされている。


 ビスクドールの緑色の眼が、やっとこちらを見る。頭から爪先まで、じっくり品定めするような視線だった。居心地が悪い。

 

「イヴァンに話があるから、呼び出してほしい」

 フチノベ ミチルは、ビスクドールと同じくらい抑揚のない声音で言う。

 ビスクドールは僅かに首を傾げ、逡巡している。

「……ミチル様のみなら、今日お連れすることができます」

 躊躇いながら出した答えに、フチノベ ミチルは首を横に振る。

「彼にも聞きたい話があるでしょう? なら、一度に終わらせた方が早い。イヴァンにそう伝えて」

 フチノベ ミチルが彼、と呼ぶのは、自分のことだ。

 

「イヴァン様に確認を取ります」

 不服そうに眉根を寄せたが、ビスクドールは銃を持った手を下げ、銃の代わりにスマートフォンを手に取った。フチノベ ミチルも銃を下ろす。自分の銃は、下ろさない。

 

 ビスクドールは電話越しにロシア語で数分会話した後、

「明日の18時以降なら時間が作れます。ですので、詳細は時間と場所を調整してから、ご連絡します」

 と、事務的な返事をした。

「今日は誰と会うの?」

 フチノベ ミチルは、約束を今日ではなく明日と指定したのが、気になったらしい。

 

「イヴァン様はクガのもとへ、私の代わりにお詫びしに行く予定です。その間、私は旅館で待機します」

 自分には、イヴァンとクガの間に何があったかわからないが、ビスクドールの説明にフチノベ ミチルは顔を曇らせた。

「本当に、ちゃんとお詫びするつもりだよね?」

「それはクガ次第です」

 ビスクドールはしれっと言い放ち、スマートフォンをジャケットのポケットにしまう。

「では、私は戻ります」

「イヴァンに、これ以上玖賀くがに迷惑かけるなって言って」

 去り際に真横を通り過ぎるビスクドールの腕を掴み、フチノベ ミチルは鋭い視線を向けた。

 その瞬間、緑色の眼が初めて感情を見せた。

「私は、ユーコ様とミチル様が、本当に嫌いなんです」

 軽蔑と嫌悪の混じった眼だった。

「ビスクドールに好かれてるなんて、思ってない」

 それに対し、黒い眼は爛々と輝いていた。

 フチノベ ミチルが勝気に微笑むと、微かに口元をひくつかせたビスクドールが顔を背ける。

 

 すれ違いだけでも、この二人の仲の悪さはよくわかる。

 

 フチノベ ミチルは、玄関に向かうビスクドールの背中を、振り返って見届けた。

 玄関のドアが閉まり、カチャというラッチ音が響く。


 しん、と静まり返った部屋の中、中途半端に開かれたクローゼットの折れ戸がだらしなく見えた。

 

「彼女は、イヴァンが交渉の場に代理人として遣わしたりする秘書」

 フチノベ ミチルがこちらに顔を向け、ビスクドールが何者かを紹介してくる。

「ビスクドールは、本来ならこんなコソ泥をやる人じゃない」

 そう言って、呆れた顔を見せた。

 自分はその額の真ん中に狙いをつけ、銃口を向ける。


 フチノベ ミチルは驚くでもなく、目前にある銃口よりも遠い自分の眼を、真っ直ぐ見つめてきた。

「お前の母親の遺品」

 左手でフチノベ ミチルの肩を掴み、拳銃を額に突きつける。されるがままの黒い眼は、自分の姿を映している。

「それは、『ファラリス』じゃないのか」

 フチノベ ミチルは何の反応もしない。知らない、と言い張りもしない。


 感情の見えない黒い眼は、何を知っていているのだろう。そして、何を知らないのだろう。


「お前が知っていることを全部話せ。事態をややこしくしているのは、お前情報を出さないからだ」

 引き金にかけた指は、いつでも引く準備ができている。

「サハラが故郷で何をして行ったか、知らなかったわけがないだろう。

 お前たち母娘はそれを知った上で、あの日、わざわざリエハラシアに来た。

 サハラがリエハラシアの人間だったと、お前たち母娘は、あの日より前から知っていた」

 そうだろう? と追い討ちをかけるが、フチノベ ミチルは否定するでもなく、自分を見つめ返すだけだった。


「俺はお前に信用してもらうために、言いたくないし、言う必要もなかった話をした。

 ならお前も、俺を信用させろ」

 とても恩着せがましい言い方だが、自分にはそれを言う権利がある。


 信用という言葉を聞いた時から、黒い眼は見開かれ、揺れ始める。フチノベ ミチルは思いの外、動揺している。


 何を言おうか悩んでいる様子は、微かに動いては閉じる唇の動きで見て取れた。

 無音でお互いを見つめ合う時間は、永遠のようにも、たった数秒にも感じる。

 

 悲愴感すら漂う、震える黒い瞳は、何を伝えたい。

 

「"ごめんなさい"」

 その返事は、綺麗な発音だった。ネイティブと言われたら、信じてしまう。

「"今起きていることについて、あなたは真相から一番遠いところにいる"」

 フチノベ ミチルから出てきたのは、母国リエハラシアの言葉だ。


 なぜ、この女が母国語を理解できないと思っていたのだろう。

 この女を育ててきた男が、教えなかったはずがないのに。

 

 

        *



 真咲はノートパソコン片手に、廊下を大股で歩いている。

 すれ違う職員に明るく挨拶しながら歩く姿は、いつもと変わりなく見えた。

 フロアを仕切る重厚な鉄扉の横にあるカードリーダーに、ネックストラップの中に入ったIDカードを翳し、解錠する。

 

 万全のセキュリティーが敷かれたフロアの一室。その部屋の中には、一面の大きな窓が張られた取り調べ室がある。取り調べ室に入る前に、前室にあたる空間がある構造だ。

 取り調べ室に入るには、ガラス窓の隣に用意された鉄扉に設置されたカードリーダーにIDカードを読み込ませなくてはならない。

 

 取り調べ室と前室を隔てるガラス窓には、加野 杏樹が張り付いて、中の様子を見守っている。

 杏樹がいる前室は照明がない。その反面、取り調べ室側は青白い電灯が室内を隈なく照らしている。

 ガラス窓から溢れてくる照明の光を浴びて、窓の内側の光景を見つめている杏樹の瞳は、どこか虚ろだ。


 取り調べ室の中にいるのは、杏樹に呼び寄せさせた男。リエハラシアから来た、故郷では諜報担当として働いていた軍人。


 赤毛の髪は乱れの一つなく、端正な顔立ちで涼やかに椅子に座っている。長い足を組んで、机の上で掌を合わせて待つ佇まいは、とても落ち着いて見える。


 その男の姿を凝視している杏樹に、何か声をかけてやるべきか、一度立ち止まって考えた。

 だが、真咲は結局何も言わずに取り調べ室に入った。


 扉を開けるなり、真咲は片手にノートパソコンを持ったまま、両手を上げて満面の笑みを見せた。

「赤毛くんだぁぁ!」

「マサキさんだー!」

 取り調べ室の机に気怠げに座っていた男は、マサキのテンションにつられて、にっこり笑いながら立ち上がった。

「「イェーイ!」」」

 そして二人してハイタッチした。

 

「え、何をやってんの、この人たち」

 ガラス越しにこのやり取りを見ていた杏樹は、呆れ果てる。


「全然会えなかったからさぁ、避けられてるのかと思っちゃった」

「避けてた」

 真咲が赤毛の男の向かいの椅子に座り、ノートパソコンを立ち上げながら話しかけると、赤毛の男はにこやかに返事をする。

「やっぱりなぁ! そうだと思った」

 真咲は組んだ指に顎を乗せ、悪戯っぽい笑みを浮かべた。

「うちの捜査員とは仲良くしてくれたみたいで」

「とってもかわいい捜査員さんで、嬉しかったよ」

 赤毛の男は視線をガラス窓に遣る。ガラス窓の向こうは、取り調べ室側から何もないように見える。マジックミラーだからだ。

 当然、赤毛の男はそれを知っていて、ガラス窓に杏樹がいるだろうと踏んで、視線を向けたのだ。

 杏樹は胸元を押さえて、取り調べ室の赤毛の男のヘーゼル色の瞳を食い入るように見ている。


「イヴァンとは会えた?」

 赤毛の男は、真咲の質問を鼻で笑う。

「イヴァンに会いたいなら、フチノベ ミチルをけしかけて動かす方が早いと思うよ」

「うん。だからもう野に放った」

 真咲はそう言うと、赤毛の男にニヤリと笑いかけた。

「野に放つって言い方」

 真咲の表現が面白いと思った赤毛の男は、声を上げて笑う。

 赤毛の男の笑い声が響く取り調べ室の中、真咲はノートパソコンのキーボードを叩く。そして画面を、真咲と赤毛の男の間に置いて、お互いに覗き込めるようにした。

 

「でさ、シェスゴニウス、だっけ? リエハラシアの特殊部隊の隊員だったキミが、日本にいるのは何でなのかな?」

 ディスプレイの中の画像は、書面をスキャンしたもので画質が荒い。

 軍服姿の、まだ10代くらいの赤毛の少年が正面を向いた写真と、リエハラシア語で入力された個人データ。


「そう、『六匹の猟犬シェスゴニウス』。あぁそうそう、同じ部隊にいたのが面白い男でね」

 赤毛の男はその画像を、懐かしそうな顔をして覗き込む。

「人間に興味なんかないのに、AVは大好きなんだよ。日本のAVがすごい好きだし、詳しいの。

 生身の人間には触りたくもないって言う癖に、フィクションの絡みは見たがるのはなんなんだろうね。謎でしょ」

 頬杖をついた赤毛の男は、眉を上げ下げしながら、面白おかしく仲間について話す。

「そりゃ、よくわかんない人だね。その彼のおススメ作品、個人的に聞いてみたい」

 

「ホントに何やってんの、この人たち」

 さっきまで深刻そうにやり取りを見ていた杏樹は、呆れ返るしかない。

 

「その面白い男がさ、日本に行くって言った。が無事に生きてるか様子を見たいって。あいつがそんな執着を持つなんて、どういうことなんだろって興味持っちゃって、合流してみた」

 赤毛の男はくすくすと笑って話す。真咲はディスプレイに表示されている画像を切り替える。

 次に出てきたのは、軍服姿で立つ、黒髪の男の写真が載った書面のデータだった。

「それで、みっちゃんと会わせてあげたんだ?」

 黒髪の男の写真も、10代くらいだ。

 今の姿と比べると、写真の方が清潔感があって好青年に見える。


「っていうか、何もしなくてもミッチーが会いにきた。俺は、あのコと会わない方がいいと思ってたけどね」

「それは何で?」

 画面から顔は動かさずに、真咲は赤毛の男へ視線を向ける。赤毛の男は画面を指差しながら、真咲に言う。

「逆恨みされててもおかしくないから。こいつはフチノベ ミチルの母親が死んだ時、居合わせてるし、仲間なりに、こいつの身を案じてね」

「そっかそっか。キミは参謀役だから現場にいなかった、っていうのは本当みたいだね」

 話を聞きながらも、真咲は眉間に皺を寄せたり、頬を片方ずつ膨らませたり、話に集中していないとわかる態度を見せている。


「マサキさんさぁ、随分と面白くなさそうな顔してるけど?」

「思ったより、話がつまんない男なんだな〜って」

「あーごめんね。相手が同性だと張り合いなくて。女のコならトークを頑張れるんだけど」

 真咲の不躾な発言に、赤毛の男は苦笑いを噛み殺した。


 真咲はディスプレイの画像をまた切り替える。

 遠くから撮影した人物の姿を引き延ばした、画像の荒い写真。


 杏樹はガラス窓から、真咲が操作するノートパソコンの画面を見る状態になっている。杏樹に見せるために画面を出していないので仕方ないが、写真の画質も相まって、とても見づらい。

 画面を見るのを諦めて、杏樹は真咲のデスクで見せてもらった機密扱いの資料データを思い出す。

 

 中肉中背、黒髪の中年、色黒の肌。

 資料の中にあったその写真の男は、渕之辺 優子の内縁の夫だ。渕之辺 みちるとって父親がわりだった男。


 名前は、阪原さかはら 秀哉しゅうや

 

「この10年、キミは渕之辺母娘じゃなくて、阪原 秀哉に何回か会いにきてるじゃない? なんなら、渕之辺母娘とは面識がない可能性すらある」

 真咲は机を指で一回叩く。赤毛の男は真咲の指先を、冷たく見下ろしている。


「阪原は不思議な男なんだよ。公安が調査しても、身元はずーっと謎のまま」

 穏やかな笑みを浮かべながら、真咲は伏し目がちになっているヘーゼル色の瞳を覗き込もうとする。

 真咲の色素の薄い茶色い眼と視線が絡むと、ヘーゼル色の眼が不意に鋭くなる。だがすぐに作り笑いで誤魔化される。

「本名はサカハラなのに、名前を誤記されたまま、住民登録されたんだって。それをそのまま使って、サハラって名乗り出した。だから俺にとって、この男はサカハラじゃなくてサハラ」

 真咲は何も言わず、口元に笑みを湛えて聞いているだけだ。


「日本人の親から生まれたけど、生まれも育ちもリエハラシア。

 サハラは俺と同じ、特殊部隊の人間だった。もっとも、サハラが働いていた頃は『六匹の猟犬』なんて名前もついていない部隊だったらしいけど。特殊部隊だから、所属前の経歴は抹消される。だから、そこにある俺や同僚のデータも、国が作り上げた嘘だよ」

「なるほどね、この情報以外の経歴が出てこない説明がつく」

 真咲は顎に手をやり、うんうんと頷いた。やっと見せた、リアクションらしいリアクションだった。


「じゃ、阪原はキミの先輩だ」

「というか、訓練生時代の教官だった。つまり、俺はサハラが懐かしくて会いに行った、ってわけ」

「んなはずないじゃーん?」

 赤毛の男の説明を、真咲は笑顔で一刀両断した。

「うーん、信じてもらえないかぁ」

 困った顔で、赤毛の男は天井を仰ぐ。

 その様子を眺め、真咲は椅子の背もたれに寄りかかる。

 真咲の椅子が軋む音を聞いた赤毛の男は、顔を元の位置に戻した。


 真咲は真面目な顔になって、机に前のめりになって話し出す。

「内戦続きの小国ながら、リエハラシアの軍事開発能力の高さは評価されている」

 赤毛の男は真咲の顔をまじまじと見つめたまま、真咲が話す言葉の続きを待っている。

「俺はさ、何かの理由があって、キミが阪原に軍事的な機密情報を持ってきたんじゃないかな〜って思ってるんだよね。

 阪原がそれをどう使っていたのか、阪原がキミに出した見返りがどんなものか、見当がついてないんだけど」

 赤毛の男は何も言わず、訳知り顔で微笑んでいる。真咲は微笑み返す。

「あれかな? リエハラシアでリソースを割けない研究開発を、サハラを介して日本か第三国で行っていたとか? じゃなきゃ、そう何度も来ないでしょ」

 真咲の推測を聞いた赤毛の男は、俯くと肩を揺らし始めた。口元を手で押さえ、笑いを堪えている。

「サハラは故郷を捨てていったんだよ?」

 押し殺し切れない笑いは、やがて涙になって目元を潤ます。

故郷うちの軍事機密情報なんか、そんなヤツに持っていくわけがないってば」

「じゃあ、キミがわざわざ何度も会いにきた阪原 秀哉は、どんな存在だったの?」

 笑い転げそうになっている赤毛の男の様子など気に留めず、真咲は質問を投げかける。

 赤毛の男は目元の涙を拭いながら答えた。

「えー? クソ教官かなぁ」

 真咲は机の上で組んだ指を解いて手を叩く。パン、と乾いた音が空間に響く。

 

「キミらを育成したクソ教官が、日本に来たら渕之辺 優子の内縁の夫になって、そしたら渕之辺 優子はリエハラシアに行って死んで。かたや渕之辺 みちるはキミの同僚と急に仲良くなる。これらの事実を偶然って言うには、無理がありすぎるよねぇ?

 一体、誰が書いたシナリオだろう?」

 真咲の茶色い瞳は、目の前の男を挑みかかるように見つめてくる。

「俺じゃないのは確かだよ」

 赤毛の男は両手を広げて、首を横に振る。


「そっかぁ。じゃあ違う話するね」

 赤毛の男の反応を見て、真咲は話を変える。

「この10年近く、キミが入国するたびに張り付かせてきたのは、俺の部下なんだけどさ。みんな死んじゃった」


 それを聞いた、ガラス窓の向こうの杏樹は目を見開く。


「全員、キミに殺されたとは言わないけどね、半分はキミのせい」

「へぇ……彼らはマサキさんの部下だったんだ?」

 赤毛の男は、顔をガラス窓に向ける。ガラス窓の向こうにいる杏樹は、赤毛の男と目が合った気がした。もちろん、マジックミラーなので、赤毛の男には杏樹の存在は見えていない。


「今の部下ちゃんとは違って、彼らは口が堅い部下だった。今の部下ちゃんみたいに、マサキさんの情報を教えてくれなかった」

「うっわ、ホントに嫌味な言い方するねぇ。

 俺はさ、未来有望な今の部下まで、死なすわけにはいかないのよ。そろそろ俺の首が飛んじゃうから」

 怒りを滲ませず、真咲の表情や声音は先ほどから変わらない。にこにこと穏やかに、赤毛の男の言葉や態度、仕草を見つめている。

 

「俺を調べたところで、イヴァンには辿り着かないのに」

 真咲と同じくらい穏やかな笑みで、赤毛の男は身を乗り出す。真咲は背もたれに寄りかかったままだ。

「そうかなぁ? 結果的にイヴァンに近づいてる」

「だけど、イヴァンは捕まえられない。イヴァンは各国が非公式に用意したい兵器を用立ててやるのが仕事だ。イヴァンを捕まえたら、関係各国から反感を買う。そうなると外交問題だ、日本国政府が黙っていない」

 イヴァンを逮捕できない事情をすらすらと語る赤毛の男に、真咲は鼻を鳴らす。

「捕まえる理由があればいいんでしょ?」

 その言葉に、赤毛の男は戸惑った表情を見せる。


 真咲は背もたれから身を起こし、赤毛の男と顔を突き合わせるように前のめりになった。

「正当な理由を関係各国向こうさんにお出しできればいい。そのために、こんな面倒臭い準備をしてる」

「あはははは! マサキさんはあり得ないような無茶するね」

 赤毛の男は腹を抱えて笑っている。

「さすが外事のエース。妻の死に目にも会わずに仕事してただけある」

「だってその日もイヴァン追ってたのよ」

 

 赤毛の男の口から出てきた言葉に、杏樹は目を丸くする。

 赤毛の男の言葉を、さも当然といった風情で受け流した真咲の横顔に、釘付けになる。

 

「イヴァンを捕まえられたら、心残りがなくなるんだけどねぇ」

「奥様の件はお悔やみを申し上げるよ」

 笑いが収まると、神妙な顔で赤毛の男はお悔やみの言葉を述べる。真咲は、「嘘っぽいな」と苦笑して、またノートパソコンを操作し始める。


「キミは、サハラを介して開発した軍事技術の完成品を回収しようとしていた。回収してから故郷に戻ろうとしたんだよね、きっと。

 でも、なんやかんやあって、たまたま同僚も日本に来たがっていたから、手伝ってやった。どう、結構いい読みしてない?」

「してないね。俺は手ぶらでも、素直に故郷へ戻るよ」

 赤毛の男は、作り笑いしながらも、不快さを少し表に出した。


「ふーん。ってどっち?」

 真咲がそう尋ねると、赤毛の男の動きが一瞬固まる。

 杏樹は真咲の言葉の意図がわからず、窓の向こうの二人の姿を、固唾を呑んで見つめる。

 

「すげぇな。今のかわいい部下ちゃんとは大違いだ」

 赤毛の男は小さく両手を広げ、口元を笑う形に歪めている。眼に少し焦りが見える。


「キミが手をかけた部下たちが、必死に集めた情報だよ。俺の部下、みーんな優秀なんだよ。今の部下だって、キミをここまで連れてくるのを成功したんだから」

 杏樹の方を向いてはいないが、真咲は杏樹を意識しながら話している。真咲が穏やかなトーンで話す言葉は、杏樹にそう思わせた。

 

「あんまり外事うちを馬鹿にしないでくれよ」

 穏やかな微笑みの下、真咲の眼は赤毛の男を試すように見ていた。

 赤毛の男は黙り、真咲に笑い返した。

 

 そのまま一時間は経っただろうか。二人とも一言も話さず、薄ら寒く笑い合っているだけだ。

 杏樹はこの光景を眺めている状況に、疲れ始めていた。

 

 この状況に痺れを切らせて口を開いたのは、赤毛の男だった。

「15年くらい前、サハラがいなくなる少し前だ。イヴァンはリエハラシアに来た。

 当時の戦況はクルネキシアに押され気味で、政府はイヴァンが持つ武器が欲しかった。

 けど、うちの国は金がなくてね。うちは兵器開発に力入れてたから、技術開発に関するアイデアをお出ししようか、ってなった」

 真咲は口を挟まずに、話を聞いている。

「サハラはその交渉の場にいた。サハラは、フチノベ ユウコと付き合うより前から、イヴァンと面識があった」

 イヴァンの名が出た時だけ、真咲は眉を少し動かした。

「その直後、サハラはリエハラシアを捨てて出ていった。何の前触れもなく。その時、サハラはとんでもないものを持っていった」

 赤毛の男はニヤリと口角を上げた。

「我が国が作った軍事技術の粋。その完成品。

 俺はそれを回収するために、この10年あまり、交渉しにきていた」

 約10年間の間、日本に何度も来ていた理由は、説明がつく。

「あの日は、フチノベ ユウコの手から完成品を返却させる予定だった」

 あの日。

 リエハラシアで、対外的にはテロと報じさせた、大統領府突入作戦の日。


「フチノベ ミチルがあんなことしなきゃあ、もっとスムースに終わってた」

 赤毛の男は真咲から目を逸らし、斜め向こうの白い壁を見遣る。


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