17. Brazen bull



 ファラリス。

 

 古代ギリシャの王の名。彼の名は、王としての名よりも、有名な処刑道具「ファラリスの雄牛」を作らせた者として認知されているのではないか。

 彼は何人ものキリスト教徒を、異教徒として処刑した。キリスト教徒であったエウスタフィとその妻子も、その犠牲者だ。

 エウスタフィはファラリスに処刑された後、列聖された。


 それが、サハラが自分に渡したメダイに描かれていた、守護聖人の姿だ。


 やがてファラリスは王の座を追われ、「ファラリスの雄牛」を用いて処刑された。自らの行いが自らに返ってきたのだ。


 

 



 遡ること、15年ほど前。

 自分たちを育成してきた教官、サハラが故郷から突然消えた。

 

 何の痕跡も残さず、軍の最高機密のファイルと、『ファラリス』と呼ばれたを詰め込んだマイクロチップを持って、サハラは姿を消した。

 

 その日から、サハラを追うために一個小隊ほどの人員を割いた。

 もちろんその分、前線の戦力は低下するので、現場では非難轟々だった。

 そこまでしてでもサハラ捜索に兵士を動員したのは、サハラは勲章をいくつも持った軍人であり、優秀な教官だったからだ。

 サハラに育てられた兵士故に、サハラには手の内が見えていて、そんな追っ手たちでは、たとえ発見したとしても、少人数では対処できない。


 そうやってサハラ捜索に一年、二年と年数を重ねてきた。だが五年経って、クルネキシアとの戦闘が激化してきたタイミングで、表向きの捜索は打ち切られた。

 

 その後、秘密裏に捜索していたのは、主にリーシャロ

 自分は前線に出る機会が多かったから、狐に同行しなかった。

 が、時折『六匹の猟犬』の他のメンバーを連れて捜索に当たっていた。


 軍は、サハラを追っていたのではない。

 サハラが持って行った最高機密を追っていた。どうにかして、外部に流出しないようにしたかったのだ。

 だがこの15年以上、サハラが持って行った最高機密は、どこにも流出した形跡がない。


 軍や狐が掴もうとしていたサハラの足取りは、いつも狐の目の前で消えてしまっていたのだとも聞いた。人の行動を邪魔したがるサハラなら、やりそうなことだ。


 何のつもりか知らないが、サハラは持ち逃げした最高機密をどこにも流さなかった。

 軍や政府が最高機密の流出リスクに頭を抱えているのが滑稽に思えるほど、何の動きも見せなかったのだ。


 日本で出会った女と、その女の親戚の子供を預かって、平和に暮らしているなど思いもしなかった。


 ましてやその子供に、自分たちにしたような軍事教育を施しているなど。

 


          *

 


 リビングのソファに寝転びながら、フチノベ ミチルの部屋から持ち帰った四つ折りの紙を広げる。

 カタカナで表記された薬品名から、何の薬なのかスマートフォンで検索して、探し当てる。

 

 睡眠薬と精神安定剤。

 

 いつだったか、狐が電話越しにフチノベ ミチルへ言っていた。薬をそろそろもらいに行った方がいい、と。


 この薬は、ドクターショッピングでもして溜め込んだか、定期的にクリニックに通っては飲まずに溜め込んだのか。


 押し入れに溜め込んだ薬の数を思うと、死ぬつもりにしか見えないが、そんな回りくどく失敗しやすい方法を選ぶわけがない。身近に拳銃道具があるなら、自分で頭を撃ち抜いた方が早いだろう。

 思いがけず、他人の精神的な弱さを見せつけられてしまった。

 自分はきっと、見なくていいものを見たのだ。


 勝手に侵入して見つけたものについて、フチノベ ミチルに問えないし、これについては狐に言う気にもならない。

 

 真っ暗な、感情を見せない黒い眼。

 

 フチノベ ミチルの特徴的な眼の印象を思い出していた時に、メールが届いた。


 差出人はフチノベ ミチル。

 公安の人間が顔出しに来たと伝える内容と、明日届けて欲しいと注文付きの差し入れのリストが書いてあった。

 人を小間使いにするな、と悪態をついた返事をしたが、自分は結局、頼まれたものを持っていってやるのだろう。


 




 公安の監視が病院内にいないのを確認してから、フチノベ ミチルの病室に入る。

「前髪どうした? 似合ってない」

 ギザギザの前髪に比べたらマシになったものの、違和感がすごい。前髪が存在している姿を初めて見るせいだ。


「ちょっと切ってもらいました。あと、一言余計です」

 ベッドから起き上がっていたフチノベ ミチルは苦笑いだった。

 手首に繋がっていた点滴はなくなり、腕に巻かれていた包帯はガーゼが当てられているだけになった。その反面、顔の殴打痕は相変わらずだ。

 顔色が青白いのはいつもなのだが、押し入れに並べられた薬の入った袋が脳裏によぎり、

「少しは寝られたか?」

 つい口に出た。

「え?」

 予想外の一言だったらしく、フチノベ ミチルは固まる。不自然な発言だった、と思ったが、一度口に出した言葉は取り戻せない。

「超ぐっすり。怪我以外はすこぶる健康」

 にっこりと作り笑いで、両腕の力こぶを見せつけるようなポーズを見せてくる。病院着で筋肉は見えないが。


「ほら。差し入れ」

「ありがとうございます!」

 白いビニール袋ごと渡すと中身を覗き込み、左手で四角い小さなチョコレートを掻き集めている。

「高いチョコもおいしいけど、こういうのも好きなんですよ」

 うれしそうにチョコレートの包装を剥がし、頬張っている姿はリスみたいだ。大柄で態度の悪いリスの姿は、かわいくない。


「スウェット上下ですか」

 ビニール袋に入っていた差し入れの中で一番面積と重量を取ったもの、それがスウェットの上下だった。

「お気に召さなかったみたいで悪かったな」

 なんでもいいから服を持ってきてくれ、と頼まれて、コンビニエンスストアで購入できるものを探して買ってきた。フチノベ ミチルの趣味の服でないのは百も承知だ。


「動きやすくていいってことで」

 着替えるから窓の外でも見ててくれ、と促され、窓辺に立って着替え終わるのを待った。


 病院外、窓から見える範囲には確認できるだけで数名の見張りがいる。見舞いから帰る時、尾行をまいて帰るのが面倒そうだと思い、舌打ちが出てしまう。


「外の見張り、全部公安の人です」

 そう言いながら自分の背中に声をかけたフチノベ ミチルは、スウェット姿で長い黒髪をヘアゴムで結んでいた。

「なので地下から、リネン管理業者の荷物に混ざって出ましょう」

「お前も? 脱け出す気か」

 思わず呆れてしまった。

 入院から三日目。全治三週間と言われていたのに、随分と無茶をする。


 どうやらクガに話をつけているらしく、リネン管理業者のトラックが何時頃出発するかは既に確認済みだった。


「入院費は踏み倒すのか?」

「玖賀パパに肩代わりを頼みました」

 ニヤッと笑ってみせる顔は見慣れただ。だが、前髪があって、普段着ていないスウェット姿で髪を結んでいると、それだけで別人に見える。


「それで、どこへ行く」

 脱け出すとは聞いたが、目的地は聞いていない。

 病室のドアに手をかけているフチノベ ミチルに尋ねた。

「ここ以外のどこか」

 こちらを振り返るフチノベ ミチルはどこか楽しそうに微笑んでいた。

 目的地を素直に答えようとしないのに苛ついて、ギリッと睨みつけたが、フチノベ ミチルはこちらの様子など知らぬ顔で、歩き始めていた。

 

 非常階段を使って病院の地下に降りながら、思い出した。

 「どこへ行く」と尋ねられ、「ここ以外のどこか」と答えたやりとり。

 大統領府の応接間から逃げ出す時のやりとりと同じだ。あの時と立場が逆になったが。


 病院自体、クガの息がかかっているだけあって、脱出するまでの流れはスムースそのものだ。


 リネン管理業者のトラックの荷台に息を潜めて隠れていると、しばらくして出発したのがわかった。

 荷台から外の景色はわからないが、速度と時間経過で病院から離れていっているのはわかる。

 

「俺がお前を連れ歩くと、DV男に見えるんだろうな」

 荷台の中で、スマートフォンのマップを開いて現在地を確認する。

「私、顔ボコボコだしね。外に出たら、腕組んで歩いてみます? これでもかっていうくらいに目立ちますよ」

 隣に座って身を隠していたフチノベ ミチルも、同じようにスマートフォンを確認している。

「ひどい濡れ衣を被せられている」

 蠍は、こうやって死んでからも自分に迷惑をかけてくる。

 

 スマートフォンを睨みながら移動ルートを考えていると、フチノベ ミチルが自分をじっと見つめていた。

 何か言いたげな視線に面食らったが、フチノベ ミチルは至極真剣な顔で口を開いた。

「おそらくというか確実に、がテロじゃないと、イヴァンは知ってます。十中八九、大統領側から情報を得ている」

 各国に武器を売り歩いてきた男だ。大統領であるアヴェダ側から情報はいくらでも引き出せただろう。アヴェダにとって都合のいい情報だけを。


「きっとあなたもイヴァンに狙われている」

 フチノベ ミチルから暗に、別行動を取るべきだと提案されていた。

「マナトに頼めば、一通りの武器を用意してくれます。お金はかかるけど、日本から逃げる方法も用意してくれる」

 クガの名前ではなくマナトの名前を出すあたり、自分がジャパニーズマフィアと積極的に関わり合いたくないと思っているのは、理解しているのだろう。

 

「クガの世話になりたくない。今逃げたところで、どうせイヴァンに追われるなら意味はない」

 その上で、にべもせず断った。

 フチノベ ミチルは困ったように眉を下げて笑った。


「イヴァンが私に構ってるうちに、サクッと逃げるのが得策ですよ」

「イヴァンは、俺より狐のところに行くだろう」

 大統領側から情報を得たイヴァンが、その筋の伝手を駆使すれば、自分と狐が日本にいるのも知っていても、おかしくない。

 そこまでの情報を持っているなら、あの日の突入作戦の参謀だったのが狐だったと、イヴァンは当然知っているはずだ。

 

「シャロちゃんがイヴァンと手を組む可能性もありますよね。

 今のサバちゃんには、シャロちゃんの動向を伺う方法がない」

 頷くしかない。

 自分の動向は狐に筒抜けだろうが、狐の動向は調べる手段が思いつかない。

 他人の生活に興味がないのが、こうやって自分の足を引っ張っていた。

 

 それを責めるでもなく、フチノベ ミチルは小さく笑った。

 そして手元のスマートフォンに視線を落とす。スマートフォンの画面にはマップが表示されている。


「あとはもう、私とイヴァンの話なんで、サバちゃんは次の信号で車が止まったら降りてください」

「"クソったれ。勝手に命令するな"」

 一度断ったにも関わらず、二度も同じ話をされた苛立ちから、つい母国語で言うと、フチノベ ミチルは眉間に皺を寄せる。

「時々言うそれ、たぶん暴言ですよね」

「そうだ。ぐちゃぐちゃうるせぇなクソが、って言った」

「うわー、ただの罵倒だった」

 日本語で意訳してやると、フチノベ ミチルは困ったように笑った。


 車が止まる。フチノベ ミチルが言っていた信号に止まったのだろう。お互い身動きせず、車がまた動き出すのを待った。

 

 この女をここで捨て置いて、さっさと日本を出た方が良かったはずだ。

 ジャパニーズマフィアに恩を売られたくない、といえども、狐が信用できない今、頼るとしたらクガしかない。

 フチノベ ミチルの主張は正しい。

 

 だが、ここで動かなかった理由はいくらでもあるのだ。

 

 サハラが招き寄せたとしか思えない、この状況を理解したい。

 軍の精鋭部隊にいたのに、あの大統領府突入計画の全貌すら知らないのが、納得できない。

 この女の正体が、何者なのか知りたい。

 

 おそらく一番最後に思ったことが、肝心の動機なのだと思う。


 車がまた動き出すと、ガタガタと荷台が揺れる。その揺れに合わせて、お互いの肩がぶつかる。

「おそらくイヴァンはずっと昔から、秀哉さんがリエハラシア出身だったと知っていた。その上で、私の母にリエハラシアでの商談を仕向けてきた。そこに何かの意図がある」

 揺れる道を走る中、フチノベ ミチルは視線をこちらに向けた。

 

 この女とその母親が、あの日大統領府にいたのは、サハラと無関係とは思えない。リエハラシア軍やアヴェダがイヴァンに協力を持ちかけて、あの場に呼び寄せたのだとしたら。

 

 狐が、そのタイミングに突入計画を立てたのは、どういう意図があったのか。

 

 端正な顔を歪ませて、人を見下しながら笑う腹黒い男の笑顔を思い出してしまい、腹の底からドス黒い感情が沸いてくる。

 こちらが苛ついているのに気づいた様子のフチノベ ミチルは、視線を宙に向けた。

「イヴァンは、シャロちゃんと対等に立ち回れるくらいに持っている情報ものが多いんだと思う」

 淡々とした話しぶりに、怒りや憎しみといった感情はこもらない。フラットな声音だ。

「ここにいるのが、俺じゃなくて狐だったら良かったな」

 狐が持っている情報の価値が、跳ね上がっている。まるでそれをわかっていて、小出しにしていたような。むしろ、それを狙っていたとしか思えない。

 フチノベ ミチルは自分の呟きを聞いて、声量を押し殺して吹き出した。ここまで笑う姿は初めて見たかもしれない。

「でも、隣にいて頼りになるのは、顔も知らないシャロちゃんじゃない」

 慰めのような言葉をかけられたが、別にうれしくない。


「シャロちゃんから情報を引き出すのは難しい。だから私は、私のやり方で、イヴァンに情報をもらいに行こうと思う」

「イヴァンに渡せる情報もないのに」

 交渉手段となる情報がないのに、何をしようとしているのかと、鼻で笑ってしまった。

「ある」

 フチノベ ミチルは堂々と答えた。その眼は真っ直ぐこちらを見ている。作り笑いもせず、真面目そのものだ。

「イヴァンが執着し続けた女の、最後の一日の話」

 

 フチノベ ミチルが持つその情報は、イヴァンにとって、これ以上ない価値を持つ情報なのかも知れない。


 

          *



 

 長い黒髪を一つに束ねて、切れ長でシャープな印象を持たせる眼。利発で明るくて、裏表のない性格。

 すらっとした細身なのに、しおりはよく食べる女だった。私は胃下垂だから、と言いながら、たんまり食べていた。

 だからディナーデートなんて洒落たものにはならなくて、腹が減ったと言われたら、大盛ラーメンやら焼肉食べ放題に行ったものだ。

 栞との食事は、常に自分の胃袋との戦いだった。


 美味しいものを美味しく食べて、何が悪いの。


 悪戯めいた笑顔と、満足そうな口元。それを見つめているだけで、食事の時間はあっという間に過ぎた。

 空腹は最高のスパイスだなんて言うが、それよりももっと素晴らしいもの。

 そこに栞がいるだけで、いつだって最高の空間と時間にしてしまう。栞がいればいい。

 栞がいるなら、泥水だって美味しく飲めるだろう。


 

 栞がいない。

 

 その現実を、いまだに信じられていない。



 

 真咲は自分のパソコンに表示されている、渕之辺 みちるの資料を眺めている。

 写真で見ていると、栞と顔立ちや雰囲気がなんとなく似ているが、実際に会うと全く別物だ。


 にこにこと作り笑いをしながら、こちらが隙を見せるのを今か今かと待ち侘びている狡賢さ。自分以外の他人と徹底的に距離を取る、底の見えない人間不信っぷり。


 似ているのに、明らかに違う。それは、違和感と不快感との闘いだ。イヴァンも同じ気分なのだろうか、と頭の片隅で思った。

 

「真咲さん!!」

 真咲の物想いを途切れさせたのは、部下である加野 杏樹の慌てふためいた姿だった。焦った顔で、真咲のデスクのもとへ駆け寄ってくる。

「渕之辺 みちるが逃げました!!」

「はいはぁーい」

 のんびりした返事をした真咲は、ディスプレイから目を離さない。

「なんでそんなに平然と」「だって想定内でしょーが」

 焦りと怒りの混じった声音で、杏樹は真咲に食ってかかろうとしたが、真咲はその言葉を遮る。

「玖賀の息がかかった病院に入院。公安が潜入したところで、みっちゃんに動きはバレバレ。みっちゃんは玖賀に頼んで、逃げる算段を立てる。ぜーんぶ想定内」

「じゃあ、真咲さんは私に、何をさせたかったんですか!!」

 まるで真咲の思惑通りに事態を動かすために、いいように使われただけだと杏樹は憤っている。


 真咲は回転椅子を軽く回転させ、杏樹と向き合う形にする。

「あのを外に出したかっただけ。

 顔面ボコボコの若い女と、言っちゃ悪いけど人相が良くない外国人の組み合わせ。どうせ目立つから探しやすい。二人してイヴァンのもとへ向かってくれたら、そこに俺たちが乗り込む。それでオールオッケー」

 真咲はそう話しながら、悔しそうに顔を歪める杏樹に、隣の席の椅子を指差す。そこに座れ、という意味だ。

 杏樹は黙ってその指示に従う。

 

「あのまま、みっちゃんが入院してれば、イヴァンの手下が銃火器片手に乗り込んでくると思ったけど、イヴァンじゃなくて手下じゃ意味ない。

 それに、みっちゃんが進んで病院でドンパチやるとは思えなかったし」

 ましてや普段から世話になっている玖賀の息がかかった場所。渕之辺 みちるは、そこをイヴァンに荒らさせるのは避けたいと思うはずだった。


 それに、ヤクザとロシアの武器商人との抗争など、血で血を洗うのは目に見えている。公安としても静かに事を進めたい。


 怒りの次に湧いた感情が、自分の思慮のなさへの恥ずかしさだったようで、杏樹は肩を落として床に視線を落としていた。

「あと、赤毛くんと接触取ってみたら、ぜーんぶ空振りだった」

「じゃあ私が」

 赤毛くん、とは杏樹と交際関係にある、リエハラシアから来た情報提供者を指している。

 真咲は杏樹から連絡法を聞き出し、接触を試みていた。

 

「接触取ろうとしてもできないように先手を打たれてた。赤毛くんに警戒されてるのは、よーくわかった」

 真咲の「俺が」と強調した言葉に、杏樹は視線を上げて真咲の顔を見た。

 真咲は椅子ごと一歩前に動き、向かいの椅子に座る杏樹と膝を突き合わせる。

「赤毛くんに俺の話したよね?」

 静かに、真咲は問い詰める。

「して、ません」

 咄嗟についた嘘はバレバレだ。嘘を言った杏樹自身、真咲に対してこの嘘を貫き通す自信がなかった。

 

「ダメだよ。外事うちの人間の話は、他の誰にもしちゃいけない。これは組織のルール」

「申し訳、ありません」

 この謝罪は、嘘と認めたと同義になる。杏樹が白旗を上げるまで、一分もかからなかった。


「すぐに赤毛を呼び出して。俺と加野たんで、三者面談しようか」

 真咲の茶色い眼が、ギロリとした目つきに変わる。その眼差しに、鳥肌が立つほどの恐ろしさを感じた。


 いつもの飄々とした真咲とは全く別人が、杏樹の目の前にいた。

 

 

          *



 リネン管理業者のトラックが、フチノベ ミチルが自分を下ろそうとした地点から遠ざかり、郊外へ進む。

 

 フチノベ ミチルはスマートフォンのマップを確認し、

「ここで降ります」

 次の信号で停車したタイミングで降りると言う。

 なぜかと尋ねると、フチノベ ユウコが契約していたセーフハウスの近くなのだと答えた。

 そこへ立ち寄る前に、近くのコンビニエンスストアで化粧品を買い揃える。それからフチノベ ユウコが持っていたセーフハウスへ向かい、顔の傷跡が目立たないようにメイクアップしたいらしい。

 

 フチノベ ミチルが言う通り、マップにピン留めされたセーフハウスのそばには、コンビニエンスストアがあった。

 コンビニエンスストアの駐車場の脇には、細長いスタンド型の灰皿があり、煙草を吸える場所なのだと察して、ようやく煙草に手を伸ばせた。


 煙草を咥えたまま、コンビニエンスストアの壁に寄りかかる。ここは郊外といえば聞こえはいいが、交通の便が悪い、住宅街の一角だ。

 スマートフォンが振動するのを感じ、画面を見ると見慣れた番号だった。

 

『公安からお呼び出しきちゃったから、しばらく連絡取れないよ』

 名乗らずに用件を伝えてくる、いつもの流れだ。

「今持っている情報を、全部話せ」

 住宅街のコンビニエンスストアは、今はフチノベ ミチルしか入店していない。

 駐車場に車も停まっていない。人通りすらない。母国語で話していたところで、目立ちはしなかった。

 

『実は昨日、イヴァンに会ったんだけど』

「さっそくこっちの情報を売ってきたのか。さすがだな」

 イヴァンが狐と会ったのは、フチノベ ミチルの前に現れた前か後か。どちらにせよ、狐はイヴァンと情報交換するパイプを作ったのは間違いない。

『別に売られて困る情報なんかないでしょ? それに俺はお前の仲間だから、こうやって情報流してあげてるじゃん』

 狐は機嫌良く話している。公安から呼び出されて、今後は自由に身動き取れなくなるはずなのに、随分と悠長な態度だ。


『予想通り、イヴァンは『ファラリス』を探してる』

 予想通り。思わず額に手を当てた。

「イヴァンは、サハラが持ち逃げしたことを知っていたのか」

 リエハラシアの軍幹部が、サハラを憎んでいる理由。


 サハラは軍のを持って、ある日突然姿を消した。それは15年ほど前の話だ。


「だが、そのサハラを殺したのはイヴァンだろう」

『それがね』

 狐の声は明るい。嫌な予感がした。

『その時にはもう、『ファラリス』はサハラは持ってなかった。持ってる可能性が高い人を挙げてみよう、まずフチノベ ユウコ』

「出し惜しみするのもいい加減にしろよ、テメェ」

 思わず、そばにあった灰皿を蹴り飛ばしそうになった。込み上げてくる怒りを堪えるために、吸い差しの煙草を灰皿に押し付ける。

 

『いやほら、俺にとって情報は、大事な売り物だからさぁ』

「いつから知ってた、このクソが」

『フチノベ ユウコが死んだ後、『ファラリス』はまた跡形もなく消えちゃった。じゃあ、ユウコの次に『ファラリス』を知ってる可能性が高い人は、だーれだ?』

 狐は、自分の問いかけには答えようとしない。こちらに話を振るだけだ。


「クソったれが」

 こんな時に限って、新しく取り出した煙草に火をつけようとしているのに、ライターのガスが切れかかっている。やっとついた火に、口に咥えた煙草を近づける。

『だから、ミッチーに聞いてみてよ。隣にいるんでしょ?』

 電話の向こうから、くすくすと笑い声が聞こえる。どこまでも上から、狐はものを言ってくる。


「お前が聞け。どうせその情報をイヴァンかアヴェダか、そうじゃなけりゃ他の誰かに売りつけるんだろう? 何で俺が、お前に手を貸さなきゃいけない?」

 腹立ち紛れに、手にしていたプラスチックの安価なライターを地面に打ち付けた。


「まだ何を隠してるんだ? 大統領府突入の話と『ファラリス』の話以外には?」

『えー? 身に覚えがありすぎて、ちょっとわかんないや』

 全く悪びれる様子のない声に、煙草のフィルターを噛むしかない。

『仲間だろ? ちょっと協力してよ』

「その仲間に満足な情報を与えないで、無茶させるのは、あの時と一緒だな」

 大統領府に突入した作戦、その立案をしたのは電話の向こうの男だ。


『嫌味な言い方するねぇ。

 でもさ、こう考えてみてよ。旧東側諸国の努力の結晶、あの軍事衛星が打ち上がったタイミング。これからは『ファラリス』の存在が重要になってくる』

 狐が早口で捲し立ててくるのを、うんざりしながら聞いていた。

 同時に、コンビニエンスストアで会計が終わったフチノベ ミチルが自分の姿を見つけて、近寄ってくる。

 

 こちらが電話中なのに気づき、フチノベ ミチルは、そっと距離を取った。

 電話が終わるのを待っているフチノベ ミチルは、駐車場の地面に投げ捨てたライターを見つけると、拾い上げる。そのライターを、手にしていたコンビニエンスストアの袋に入れた。

 

『ちゃんと聞き出してくれよ? その後、俺に連絡してね』

 こちらが最低最悪の気分でいるとも知らず、狐は楽しそうに言い放って通話を切る。

 

 フチノベ ミチルはちらりとこちらを見て、すぐに目を逸らした。

 

 祖国から、サハラが持って行ったもの。

 日本で、サハラが残して行ったもの。

 

「クソ野郎が」

 今思い出すのは、訓練所の裏手の喫煙所で意地悪い笑みを浮かべ、煙草をふかしていた色黒なアジア人の男。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る