16. Rejection reaction



 あの娘が入院している医療機関の正面玄関を出て、横付けされている車に乗り込む。


サヴァンセがいたよ」

 開口一番、運転席に座っているビスクドールへ声をかける。ビスクドールは一瞬目を見開き、驚いた顔をした。

「そう、でしたか」

 すぐに無表情に戻って、ビスクドールはこちらを見つめてくる。


「正面玄関側から現れた気がしたが、裏口から入ってきたのかもしれないね。もし正面玄関から入ってきたのなら、まるでサハラみたいな立ち回りをしたんだ」

 サハラの名前が出て、ビスクドールの眉間に皺が寄った。

 サハラはどんなに見張りを潤沢に用意しても、抜け穴を強引に作って現れた。それで何度も、苦い思いをさせられたものだ。


 今回は、正面玄関にビスクドールを配置して、正面からの侵入は監視できる状態だった。それにも関わらず、梟は正面玄関から悠々と入ってきた。

 ビスクドールの今回のミスは、なんの被害も出ていないので責めたくないから、あえて濁した表現にした。

 だが、私の言葉の端々に含まれた棘を察したはずだ。ビスクドールは少し険しい表情になって、車のエンジンをかける。


「梟とは、どんなお話を?」

「すれ違っただけだよ。今頃、あの二人はどんな話をしているかな」

 走る車の窓の外の風景を眺めながら、ビスクドールの質問に対して答える。

「見舞いの品に、盗聴器を仕掛けておけば良かったですね」

「そんな、すぐバレるような仕掛けはしなくていいよ」

 大真面目に呟いたビスクドールの言葉を、私は笑って否定する。

 そんな仕掛けを用意しても、あの娘はすぐに見つけて、怒号の一つや二つ飛ばしてきたはずだ。

 

「これから、どこに向かっているのかな?」

 気づけば、ビスクドールが運転する車は、どんどんと繁華街の方向へ向かっていた。


リーシャロと、21時に待ち合わせできました」

 ビスクドールはカーナビゲーションのディスプレイに表示されている時刻を、ちらりと見た。20時11分、約束の時間までは余裕がある。


 驚いたことに、私があの娘と会っている間にビスクドールは、リエハラシアの『六匹の猟犬シェスゴニウス』の諜報担当だった男とのアポイントメントを取り付けていた。

 これは、梟の侵入を見過ごしたのを帳消しにできるほどの活躍だ。


「ビスクドール、狐の挑発に乗ってはいけないからね。冷静に、動揺しないように」

 狐と会うのは楽しみだが、ビスクドールにこれだけはよく言い聞かせておかないといけない。

 

「電話では、とても馴れ馴れしい態度をする方だとは思いましたが、どんな相手なのですか?」

 私が強く言い聞かせてくるのが意外だったらしく、ビスクドールは少し戸惑った声音で尋ねてくる。

 

「女癖が非常に悪いって噂でね。君はそういう相手が嫌いだろう?」

「あぁ……そういう」

 私の言葉に、ビスクドールは眉間に皺を寄せた。狐という男は、生真面目なこの秘書にとって相性が悪い相手なのは、間違いなかった。

 

 




 ビスクドールが用意したのは、とある料亭の奥座敷の一室だ。ここには、日本に来た時に、何度か訪れた。

 人の気配を察し、ビスクドールは幾何学模様の組木細工が施された木製の引き戸に、手をかける。ほどなく、人影がビスクドールの頭の向こうに見えた。


 短いやり取りの後、ビスクドールと客人がこちらに向かって入ってくる。

「こちらです」

 後ろについて歩く男に、ビスクドールは私の方を掌で指し示して言う。

 ビスクドールの後ろには、予想よりも細身でスタイリッシュな佇まいの男が立っている。

 歳は40手前くらいだろう。赤毛にヘーゼル色の虹彩を持った、端正な顔立ちをした男だ。


「無理を言ってすまなかったね」

 私は。向かいの席に男が座るのを視界の端で見届けながら、先に出されていた料理を食べている。

 私の隣に、ビスクドールが僅かな衣擦れの音を立てて座った。


「デートの途中だったんで、本当に困りました」

 男はにこやかに、こちらの呼び出しが迷惑だったと言い放った。香水の香りが鼻につく。

「君に会うのは二度目だな」

 この男の故郷、リエハラシアで行った武器の売買交渉で、この男と私は顔を合わせている。

「15年前、リエハラシアで一度お会いしてますね。その時はお隣にいる、かわいい秘書ちゃんはいなかった」

 ビスクドールを見つめているヘーゼル色の眼は、まるで品定めをしているようだ。その不躾な視線に対し、ビスクドールは苛立ちを抑えようと眼に力を入れている。

「あれ? まだ何もしてないのに嫌われちゃった?」

 ビスクドールの様子を見て、男はへらへらと笑っている。


 この男のコードネームは「狐」。本名はシャヴィニルイツ=エンリ・ガイツィナロクナフ。


 10歳の頃からリエハラシア軍の少年兵育成機関で飼い殺しにされ、14歳で『六匹の猟犬』に選抜された。

 そして今の今まで無事に生き延びてきた数少ない生き残り。『六匹の猟犬』の諜報担当員であり作戦参謀だった。

 

「君は有能な諜報担当で作戦参謀だと、当時から評判だったね」

「でした。もう過去形ですねぇ」

 狐は愛想笑いで、こちらを見遣った。ヘーゼル色の眼が、一挙手一投足を見逃すまいと見つめてくるのがわかる。

 にこやかな微笑みの裏側で、相手を探って優位に立とうとする計算が頭の中で繰り広げられているのだろう。


も作戦参謀として、全てを把握していたんだろう?」

 私の希望全てが失われた日に、この男が率いる『六匹の猟犬』は、その現場にいた。そしてこの男は、その時、何が起きたかを知っている。


「どの日でしょう。思い当たる節がありすぎちゃって」

 男は自嘲するような笑みを口元に浮かべた。


「リエハラシア大統領暗殺未遂。軍によるクーデター未遂。反政府勢力による大統領府襲撃事件。『六匹の猟犬』とジェセカを失脚させるための作戦。さて、どれが表現として一番正しいのかな」

「どれでも。お好きな呼び名で」

 男が見せる、感情の見えない笑顔。その薄っぺらい笑みは、あの娘がよくやる笑みに似ている。


「付き合いの長い仲間を全滅させるような作戦を、まぁよくも素知らぬ顔でできたね。凄いよ」

「これでも良心は痛んでるから、あんまり思い出したくない」

 まるで悪びれた様子のない狐の台詞が、本心か嘘かはどうでも良かった。


「親愛なる大統領と軍から、用済みと言われたのが、そんなに気に食わなかったのかな?」

 その一言に、狐は一瞬だけ驚いた表情を見せる。それから両手を叩いて笑い出した。

「さすが! 世界中の戦場を渡り歩いて、各国の国家権力に付け入っているだけあって、情報量が違いますね」

 狐の言い草に、私の隣にいるビスクドールがギュッと眉間に皺を寄せる。


 ビスクドールは感情を見せない割に、意外と短気だ。若さと忠誠心故に、この程度の軽い嫌味すら受け流せないところがある。

 それを小さい咳払いで制すると、ビスクドールは目を伏せて無表情を装った。


「君は、リエハラシアの情報なら何でも握っているらしいね」

「それは言い過ぎですねぇ。残念ながら、リエハラシアは闇が深いから」

 狐はのんびりとした口調で答える。私が何のためにここへ呼びつけたのか、わかっていながら喋ろうとしない。


「君は、ユーコが死んだあの日の計画について、アヴェダとどんな取引をした?」

 感情を込めずに言う。

 本当はユーコの名を出すだけでも胸が痛む。それも、ユーコが死んだ件に何かしら関わっているだろう相手に向かって言うのは、傷を掻き毟られるような痛みと苦しみだ。


 狐は余裕綽々といった素振りで、鼻で笑った。こうやって人の神経を逆撫でするのも、相手から情報を引き出すためのテクニックなのだろう。不愉快極まりない。

 

「いつもだったら金を積まれるまで言わないのを大サービスしてお答えしますが、あの大統領って肩書きのクソ野郎とは、一切取引はしてないですよ。俺、あいつ嫌いだから」

「君はジェセカも嫌いだったんだろう? 何のために」

「復讐」

 狐はこちらが言おうとした言葉を遮って、言い放った。

「さんざんガキどもを前線に送って死に追いやってきた。生き残ったら生き残ったで、『六匹の猟犬』にのさばられると困ると言って、排除する。そういうお偉方のやり方に辟易したんですよ」

 立派な動機を語ってくるが、これが本心だとはとても思えない。この男は、自分の仲間を全滅させる作戦を、平然とやりきったのだから。


「あの大統領がたおれなかったのは、想定外だったか」

「でも、結果的には良かったと思ってます。政治の空白は、リエハラシアにとっていいことじゃない。膿の一部を削り取れただけで、俺としては成功」

 成功。

 この言葉がどれだけ私の心を傷つけているか、満足げな狐は知らない。


 ユーコはその成功の影で儚く消えてしまったのだ。到底許されるわけがない。奥歯を噛み締め、殺したいと思う気持ちを必死で堪える。


「フチノベ ユーコの犠牲は申し訳ないと思ってます。それは我々にとっても予想外の結果になってしまった。ただ、フチノベ ユーコを殺した部下は、もう死んだ」

 何の感情もこもっていない謝罪から始まり、ユーコを殺した人間がこの世にもう存在しない事実まで、呆気なく伝えられる。

「フチノベ ミチルが殺した」

 狐の放つその一言が、私をさらに失望させた。


 あの娘が、ユーコを殺した兵士を、始末した事実が許せない。

 その兵士を私のもとへ引きずり出して、無様に殺してやりたいと願っていたのに、それすらできずに終わってしまったのだ。

 しかも、よりによってあの娘の手によって。許せるわけがない。

 

「で、あなたはフチノベ ミチルに会いに行ったりしてるけど、あのコをどうするつもりなんです?」

 あの娘に会ったことが、もう知られている。

 隣で、虚を突かれた顔で固まっているビスクドールが口を滑らせたとは思えない。

 あの娘の周りには、狐の張り巡らした情報網が存在している。

 何を思って、そこまでするのか。


「君もあの娘に執着しているとは思っていなかった」

「俺はね、この世の女性みんな、等しくかわいいし尊いって思ってるから」

 っていうのは冗談ですけどね、と狐は付け加えたが、あの娘の動向を探る理由は答えなかった。

「君の友達は、なぜあの娘といる?」

 病院ですれ違った、刺すような視線を寄越してきた、灰色の眼をした黒髪の男。狐よりいくらか年下に見えた。


 梟。

 リエハラシアでトップクラスの腕を持つと言われた狙撃手スナイパー

 

「それが謎なんだよねぇ……。梟はどうせ大したこと考えてないと思うけど、問題はミッチーだな」

 ミッチーと気安く呼べるほどの仲なのか、勝手に呼んでいるだけなのか。そして、狐の情報収集力をもってしても、あの娘が梟を相棒にした理由は見えてこない。


「君でも知らないものがあるとはな」

「聞けばなんでも答えると思わないでね」

 そう言って、狐は舌を出す。子供のような仕草だ。

 はらわたが煮えくり返りそうだが、感情を殺して狐の顔を見る。狐は涼しい顔で、にこにことこちらの様子を楽しそうに眺めていた。

 私は、ビスクドールの隠しきれない殺気を隣から感じている。


「今、『ファラリス』はあの娘が持っているのか?」

「わかんない。フチノベ ユーコは、持ってなかった。サハラが保管していたんだと思うけど、そのサハラは?」

 あの時。ユーコが殺された、あの日。

 狐の口からサラッと出される言葉に、神経を逆撫でされる。

「姿を消した」

 サハラが行方をくらました経緯が、私のせいになっている流れは解せない。なぜかそう思われているのだ。サハラは私のもとに行くと言っていたらしいが、私はサハラと会う約束などしなかった。

 

 サハラとユーコは、リエハラシアに向かうもっと前から腑に落ちない行動を繰り返していた。

 それも踏まえ、私はユーコの足跡を辿りに来たのだ。

 

「どうか、私に協力してくれないだろうか」

 私が目配せすると、ビスクドールは持ってきたアタッシュケースに詰められた札束を見せる。

「金と口しか出さないあなたに協力する価値はあるのか、って話なんですよね」

 狐は作り笑いを見せたまま立ち上がる。

「口だけじゃなくて金も出すんだから、まだマシだろう? 私なら、君が本当にやりたかった復讐を完遂させてやれる」

 この場を去ろうとする狐に声をかける。

 動きを止めた狐は一瞬真顔になると、すぐに穏やかな笑みを見せた。作り笑いとは違う、異質な笑みだ。

 一見、優しげで人畜無害そうな笑顔だが、実際は冷たい眼で相手を品定めしている。


 そんな風に思っている間に、狐は中腰になって、私の隣に座っていたビスクドールの顎に右手を伸ばしていた。

「協力するならば、彼女をもらいたい」

 顎に伸びた手を払おうとしたビスクドールの手が、狐に絡め取られた。

 狐の手はビスクドールの指先を艶かしく撫でて、離れた。その流れの中で、ビスクドールが舌打ちするのが聞こえる。


「噂に違わない下品さだね。ビスクドール、やめなさい」

 狐への嫌悪を剥き出しにしたビスクドールが、立ち上がろうとしたのを制止する。ビスクドールは、狐の横っ面を殴りかねない勢いだ。

 

「あーらら、すごく嫌われちゃった」

 ビスクドールの殺気立った視線を受けた狐は、心から残念そうに呟く。

「ビスクドールは、君にはあげられないよ」

 私の言葉に対し、今度は一転して意地悪い笑みがこちらを見た。今、狐の眼の中にあるのは憎悪。


「これは金の問題じゃない。あんたは俺に何を差し出せるかって。覚悟がないなら手を引け」

 憎悪が溢れる眼差しを私に向けている狐に、飛び掛からんとするビスクドールを目線だけで制止した。

 狐はその様子を満足そうな顔で見て、我々にウインクしてから立ち上がり、この場を去っていく。

 



          *


 


 真咲の指先が、パソコンのディスプレイをなぞる。

「これが渕之辺ふちのべ みちる。俺の中では、みっちゃんって呼んでる」

 かつて撮影された、学生証の写真だろうか。青地の背景に制服姿の少女が写った写真と、氏名などの情報が列記されている。

「真咲さん以外の他の誰も、みっちゃんとは呼んでないって意味ですね」

「そうなんだけどさ、もうちょっと優しく接してくれても良くない?」

 杏樹の的確すぎる一言に、真咲は苦笑いするしかない。こういう真咲の反応は通常運転で、杏樹は何も気にしていない。

「彼女は渕之辺 優子の養子。あ、養子とはいえ血縁関係は一応あって、渕之辺 優子の姪にあたる」

 真咲は、ディスプレイを覗き込みながら一所懸命、資料を読み込む杏樹の横顔に向かって説明する。


「渕之辺 優子は、イヴァンの元恋人。指定暴力団を顧客とした武器商人をしていたと有名でしたね。イヴァンと渕之辺 優子の間には、男女間のトラブルが起きていたと聞きましたが」

「イヴァンがしつこく復縁したがってただけだよ」

 杏樹の事務的な確認事項の羅列に、真咲は思わず笑ってしまった。


「渕之辺 優子は昨年、リエハラシアで起きたテロに巻き込まれて亡くなっています」

「そうだね。加野っちの情報提供者は、その件に絡んでたりしないの?」

 リエハラシアという単語に真咲が食いついてくると、杏樹の表情が暗くなる。

「それは、まだ」

 その反応を見て、杏樹とリエハラシアから来た赤毛の男はギブアンドテイクの関係ではなく、杏樹だけに負担の大きい関係なのだろうと、真咲は察してしまう。

「加野たんの情報提供者の友達と、みっちゃんは仲良いんだよなぁ。なんかありそうだけどね」

「え」

 杏樹は、自分が全く知らなかった事実を、真咲がサラッと話したのに驚き、目を真ん丸にする。

 赤毛の男から、それすらも聞き出せていなかったのか、と内心呆れながらも、真咲はそれを顔には出さない。冷ややかに杏樹の横顔を眺めているだけだ。

 

「みっちゃんは優子と一緒にテロに巻き込まれてる。テロについて何か気づいて、リエハラシアから来た男と接触してる。……って、俺は考えちゃうよね。みっちゃん、外事うちの聞き取り調査には一切口を割ってくれないから、本当のとこはどうなのかわかんないけどさ」

 ディスプレイに表示された資料をスクロールすると、伸ばしっぱなしの癖毛の黒髪で目元が隠れた男の写真が表示される。

 男について列記されている内容は少ない。

 リエハラシア政府から通報された情報と照合して、身元の特定をしてみたものの、あやふやな記述に留まっている。

 故郷においても、生きていた軌跡が残っていない男。

 

「ただ、渕之辺 優子の死について血眼で調べているだろうイヴァンが、このおにーさんとか、加野ちゃんの情報提供者くんを放っておくとは思えないわけ」

「なら、この男や、私の情報提供者の監視をした方が」

「それは俺がやる。部下に殉職されたくないのよ」

 真咲の口調は深刻さのかけらもない。

「絶対に死にません」

 杏樹は真咲に顔を向け、口を尖らせる。

「死んだ部下はみんなそう言ってたって話、する?」

 にこやかに言い放たれた言葉に、杏樹は口を閉じるしかなかった。真咲の部下が何人も殉職したとは、真咲本人の口から何度も語られている。

 いつも飄々とした口振りで言うが、真咲が事あるごとに口にするのは、本人が一番気に病んでいるからだ。

「じゃあ……私は、渕之辺 みちるの監視役になればいいんですね」

 不服だったが、真咲は上司であり、上司の命令は従わなくてはならない。それが序列というものだ。


「監視っていうか普通に、真咲の部下でーす、って名乗って、仲良くなっちゃえばいいよ」

 そう言いながら真咲は両手を頭の後ろで組み、椅子の背もたれに体重をかける。

「俺とは顔見知りだから。時々バイト先に様子見に行ったりしてるし」

「それはもう、外事の人間だってバレてますよね?」

 自分たちが公安の人間であると秘匿する気のない真咲の言動に、杏樹は少し引いた顔をする。

「そもそも前回、聞き取りしたのは俺だしね!」

 真咲はなぜか堂々と胸を張って言うのだが、

「でも、真咲さんの情報提供者にはならなかったんですね」

 杏樹が指摘すると、真咲はあからさまに眉を下げて虚ろな顔を見せた。あまりに仰々しかった。


「人当たりいいけど、結構気難しい子なのよ。加野たんみたいな愚直な野心家の方が案外、渕之辺 みちるにハマるかもね」

「褒められた気がしませんけど」

「もちろん、褒めてない」

 真咲と杏樹は、真顔でお互いの顔を見つめ合った。ロマンティックな要素はどこにもない、睨み合いだ。


 杏樹は真咲にいつも素っ気ない態度を取るし、真咲は杏樹の弱点を鋭く追及する。仲が悪いようにも見えるが、4月からずっとこんな関係性で、特段の支障なく仕事している。

 

「くれぐれも、赤毛の男と会う時は迂闊にこちらの話をしないようにね」

 真咲は、杏樹がリエハラシアから来た赤毛の情報屋と懇意にしているのを、止めはしない。

「はい」

 杏樹はしっかり頷く。その姿が頼りなく見えたのか、真咲は苦笑いを浮かべて杏樹の顔を覗き込む。

「やっぱり俺が行くー?」

「いえ! 私が行きます」

 杏樹はさっきよりもしっかり、はっきりと答えた。

 


         *

 

 

 杏樹が渕之辺 みちるが入院している医療機関に現れたのは、真咲に最高機密扱いの捜査情報を見せられてから二時間近く経った頃だった。


 二階の奥まった場所にある個室は非常口の隣にある。そこが渕之辺 みちるがいる病室だった。


 22時近く、消灯時間を迎えていたが、各部屋はところどころまだ明るい。

 非常階段周辺はデッドスペースが多く、車椅子やストレッチャーが置かれている。その物陰に身を隠しながら、渕之辺 みちるの病室の様子を伺っていた。


 病室の電気はついており、テレビか何かの音声が薄っすら聞こえる。杏樹は息を殺して、病室のドアの前に立った。

 その瞬間。

「あなたはだぁれ」

 杏樹の背後から伸びた手が、首に回ってくる。子供のじゃれ合いのような声音で、そこに警戒心など微塵もないように思えた。

 杏樹の背後から伸びた腕が、頸動脈にナイフを当てたりしていなければ。


「どこの誰のお使い?」

 背後の声は、殺気や苛立ちを感じさせなかった。まるで、こちらが反撃しないと理解しているようだ。

「真咲さんの部下です」

 杏樹は臆せず答えた。ゆっくりとした動きで、杏樹の首に当たっていたナイフが離れていく。


 杏樹が振り返ると、そこには自分より背丈が10センチほど高い女が立っていた。

 手入れのされた綺麗な長い黒髪に相反して、ギザギザに切られた前髪が印象的だった。

 切れ長の黒い眼は、じっと杏樹を見つめている。

 顔は殴られたような痕がいくつもある。何かが起きた後なのは間違いなかった。

 腕と足は包帯を巻かれているが、右手首からは少量だが新しい出血が見られた。

 

「名刺を頂戴しても?」

 にっこり笑いかけられたが、それでも黒い眼は一切笑っていない。

「こちらです」

 スーツの胸ポケットから名刺を取り出し、名刺を両手で差し出すと、渕之辺 みちるは丁寧な手つきでそれを受け取った。


「すみませんでした。イヴァンが現れた後だったので、警戒してしまって」

 渕之辺 みちるが名刺の名前をしっかり確認した後、杏樹に向かって頭を下げる。

「イヴァンと会ったんですか?」

杏樹はイヴァンの名前を聞いて、思わず声を上げる。

「二時間ほど前に」

「イヴァンは今どこに」

「それは聞いていないので。ただ、私に張り付いていても会えないと思います」

 真咲が言った通りの言葉を、渕之辺 みちるも言う。

 ここまで言い当てられてしまうと、悔しいと思ってしまう自分がいた。


「立ち話もあれだから、部屋入ります?」

 気もそぞろな態度に気づいたのか、渕之辺 みちるは病室のドアに手をかけるのと同時に声をかける。

 渕之辺 みちるの手を見た瞬間、ドアに触っている左手と反対側の、右手首の真新しい傷を思い出す。

「あの、手首から血が出てますけど、どう……されたんですか?」

「あぁ、誰か来たなと思って、点滴引き抜いちゃって。がらがら引きずってると、動けないから」

 渕之辺 みちるが言う通り、病室には点滴スタンドが置いてあり、引き抜かれた後のチューブの先が、血が混じった輸液を垂れ流して床に落ちていた。

 それを見た杏樹が、「看護師を呼びますか」と尋ねると、渕之辺 みちるは「大丈夫」と言ってベッドに腰かける。杏樹は勧められるまま、見舞客用のパイプ椅子に腰掛ける。

 こうして座ると、ベッドサイドに座る渕之辺 みちると真正面で向き合う形になる。

 

 杏樹にとって渕之辺 みちるの印象は、初っ端こそ警戒心を剥き出しにした対応をされたとはいえ、真咲が言うような気難しい性格には見えなかった。

 

「そうだ、加野さんに一つお願いがあるんですけど」

 唐突に何かを切り出してきた渕之辺 みちるは、貼り付けた作り笑いで、感情が見えない黒い眼をして自分を見てくる。

 だが、それ以外は、人当たりの良い人懐こいキャラクターにしか杏樹には思えない。


「前髪、切ってもらえません?」

 渕之辺 みちるは、自らの前髪を指差して言う。いきなりのお願いごとに、杏樹は固まる。数秒の沈黙が流れた後、杏樹が首を傾げながら聞き返した。

「わ、私が?」

「前髪カットなんて看護師さんに頼むわけにもいかないし、自分で切ろうにも腕の怪我が痛むから大変だし、どうしようかと思っていたところで」

 渕之辺 みちるの気持ちもわからないでもない。

 こんな不自然な切られ方をした前髪は、渕之辺 みちる自身の希望ではなかっただろう。

 

 だが、それを初対面の、しかも自分を監視に来た相手に頼める神経に驚いてしまう。


「……真咲さんくらいマイペースな人ですね」

 無理矢理でも自分のペースに巻き込む勢いは真咲みたいだ、と思った。

「あっはっは! さすがに真咲さんほどでは」

 渕之辺 みちるは手を叩いて笑っている。渕之辺 みちるにも、真咲はマイペースだと評価されていたのだと知って、杏樹は思わず笑ってしまう。

「わかりました。明日、はさみを持ってきます」

 こんなに早く自分を受け入れてくれたのだから、渕之辺 みちるが知っている情報を聞き出すのはそう難しくないだろう。

「あぁ、大丈夫。看護師さんに借りたのがあるので」

 ベッドサイドの床頭台に置かれた、ヘアカット用ではないが新品に見えるはさみを、渕之辺 みちるは杏樹に渡す。

 

「なんでこんな切り方をされているんですか?」

「セルフカットに失敗しちゃって」

 杏樹の質問に、渕之辺 みちるはあからさまな嘘を答え、へらへらと笑うだけだ。

 ゴミ箱を抱えた渕之辺 みちるは、杏樹が入れるはさみの動きをじっと見つめている。

 前髪を揃えていくと、顔立ちがいくらか幼く見える。

 資料で見た学生証の写真は、ワンレングスの黒髪だったため、今より大人びた印象だった。

 だが、切れ長の瞳で、すらっと通った鼻筋を持つ渕之辺 みちるには、前髪がない方が似合っているのは間違いない。


 はらり、と落ちていく髪の毛がゴミ箱に落ちる。会話が途切れても、はさみの音と落ちる髪の音は交互に聞こえていた。


「真面目で丁寧に仕事をしようとする。だけど、相手の懐に入ろうと無理して、逆に身動きが取れなくなる」

 前髪のカットが終わりに差し掛かった頃、渕之辺 みちるが突然呟いた。杏樹はその呟きの意味がわからず、はさみを動かす手を止めた。

「って、周りの人から心配されたりしません?」

 気づけば渕之辺 みちるは、はさみの動きではなく杏樹の反応を見つめていた。


「どうしてそう思う?」

 声が震えそうになるのを必死で抑えて、杏樹は聞き返す。感情の揺れを見透かされたくないと、はさみを再び動かした。

「なんとなく。はさみの動きを見てたら、そう思った」

 はさみの使い方ごときで、わかるはずがない。杏樹はそう言い返したくなったが、ここで感情的になるのは悪手だと諦めた。


 渕之辺 みちるの前髪の長さを揃え終わると、鏡で仕上がりを見るように、と声をかけた。

「いい感じ! ありがとうございます!」

 鏡を持っていなかった渕之辺 みちるは、スマートフォンのインカメラで前髪の状態を確認し、大袈裟なくらいに感謝の言葉を述べた。

 

 そういう言動は歳相応の、自分より9歳年下の、大人になりきれていない少女だと思う。

 

 杏樹は見舞客用のパイプ椅子に座り直す。

 渕之辺 みちるは床頭台に置かれていた紙袋から、手のひらより少し大きいサイズの紙箱を取り出した。その箱の蓋を開けると、中身を杏樹に差し出す。

 躊躇いながらも箱を受け取り、中身のチョコレートを手に取る杏樹に向かって、渕之辺 みちるは身を乗り出して杏樹の耳元に唇を寄せて囁いた。

「でも私、加野さんに情報あげないですよ」

 耳元で聞こえた、低い囁き声に杏樹はビクッと肩を揺らし、渕之辺 みちるから体を離す。

 その動作で箱の中身のチョコレートが床に散らばっていった。


「私には、加野さんと仲良くするメリットがないから」

 もったいないなぁ、と呟きながら立ち上がった渕之辺 みちるは、床に落ちたチョコレートを一つ一つ拾い上げる。

「メリットって」

「さて、加野さんに情報を渡すと、私にどんなメリットがある?」

 そう言いながら、渕之辺 みちるは拾ったチョコレートをゴミ箱に捨てる。


「イヴァンを捕まえられる。あなたのお母様が亡くなったテロも調べられる。真実を解明できる。あなたの身の安全を図れる……」

 杏樹が必死に説明しようとすればするほど、自分の言葉が寒々しいものになっていくのがわかる。

 笑顔を絶やさず冷めた眼で自分を見つめる渕之辺 みちるの姿を見て、この時はっきり悟った。

 素直に、利用させてほしいと頭を下げた方が良かったのだ。

 

「ごめんなさい。加野さんのしょうもない正義感に付き合っている時間はないんだ」

 再びベッドサイドに腰掛け、渕之辺 みちるは自分の膝の上に肘を乗せ、頬杖をつく。

 悪いとは微塵も思っていない顔で言われる「ごめんなさい」は、ここまで空虚なものだったとは。

 

 作り笑いは終始変わらず、相手と線を引くような冷めた視線を向け、渕之辺 みちるは杏樹に言い放つ。

「加野さんは、今日はもうおうちに帰った方がいいと思うな」

 ここで退くわけにはいかない、と杏樹は思った。が、渕之辺 みちるの威圧は有無を言わせなかった。


 杏樹が立ち上がる様子を見せた時初めて、渕之辺 みちるの顔から笑顔が消えた。笑わないで杏樹の動きを見守っている渕之辺 みちるの眼は、それだけで迫力がある。

 

 無表情で杏樹を見つめる、感情の見えない黒い瞳。

 

 杏樹は動揺を見透かされないように、病室をゆっくり出ていく。ドアを閉めると一気に息を吐き出した。

 野心家なら合うかもしれない、と言った真咲の期待を裏切ってしまった。

 この経緯を真咲にどう報告しようか。警戒されるだけで終わってしまった不手際を、どう説明したらいいのだろうか。

 気が重くなることばかり頭に浮かんで、杏樹は肩を落とすしかない。

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