27. Under the greenwood tree


          *

 

「とか言ってるとさ、まぁ来るよね」

 ユーコに似た顔の娘は、ユーコと同じような喋り方をして言い、噴水の縁から腰を上げる。

 そして、手にしていたチョコレートを私の方に放り投げ、ある一方の角度に体ごと向けた。

 

 その視線の先にいるのは、私の美しい秘書の姿だった。

「イヴァン様」

 顔色の優れないビスクドールの背後には、男がぴったりと張り付いている。緩いウェーブがかった黒髪を一つに結った、目つきの悪い男。


「梟か」

 舌打ちしてから娘の方に視線を遣ると、この場に現れた梟を見ても、何の反応もしていない。感情の見えない眼、表情。


 一方のビスクドールは、背中に銃でも突きつけられているのか、私に救いを求めるような目をしている。

「この男が、狐の『ファラリス』を持っています」

 エメラルドグリーンの眼は救いを求めているが、表情だったり口振りはいつも通り、平静を装っている。


「狐を殺して奪ったか。お前たちは、つくづく野蛮だ」

 さっきからビスクドールに取り憑いた亡霊みたいに、夕闇に同化している男に声をかける。

「何が欲しい? 聞くだけ聞こう」

 私の問いに、男は何も答えなかった。

 

 たとえば、廃屋の片隅に現れる亡霊。荒れた農地に置き捨てられた案山子カカシ。幼い頃に母から聞かされた昔話の、何でも飲み込む魔物ウービル

 そういった不気味なものたちの、不気味さだけを詰め込んだ様相の男が、灰色の眼で私をじっと見つめている。


 さっきから黙ってこの様子を眺めていたあの娘に、ビスクドールは拳銃マカロフを向けた。

 この行為だけで、後ろにいる梟に撃たれる可能性があるというのに、命知らずなチャレンジをするものだ。

 

「ビスクドール、落ち着きなさい。

 この娘はマイクロチップを埋め込んでいる可能性がある」

「そーだそーだ!」

 この娘はからかうような口調で冷やかし、露骨に顔を顰めたビスクドールが大きめの舌打ちをした。

 梟はビスクドールの背中に銃を向けたまま、特に何をするでもない。それが余計に不気味さを強調させていた。

 この男は、何を考えている。


 私は再び噴水の縁に腰掛け、目の前の光景を俯瞰で眺める。

 ビスクドールと梟、向かい合うようにあの娘。この三人がいる景色の、更に奥側の木の陰、そこに公安の捜査官――あれは、マサキという男だったか。

 この場に相応しいメンバーが、一堂に介している。

 公安外事課のうるさい蝿どもは、私を捕まえるために躍起になっている。私がうっかり、この娘に手をかけたら、それをネタに逮捕するつもりで。

 

 私はジャケットの胸ポケットから煙草を出し、火をつけた。

「ビスクドール」

 私が呼びかけた瞬間、ユーコに薄っすら似た娘の左手に握られた拳銃ベレッタ92が、私を向く。

 この娘は左利き。銃器は、左利きでも使える種類のものばかり使う。これが、右で撃つ練習を怠けた結果。


「私はビスクドールを、生きている人間の中では、一番愛している」

 私が本当に、一番に愛しているのは、ユーコに間違いない。だがユーコと触れ合える日は、もう二度とこない。

 、私が最も愛しているのは、ビスクドール。

 

 私の言葉を聞いたビスクドールの口元が、少しだけ緩んでいた。

 これは、ビスクドールなりの最大限の喜びの表現。不器用で頑固な、私の秘書。


「イチャつくなら他でやれ」

 この場で初めて、梟が喋った。あの娘の視線は梟を見た。黒い瞳は光を持たず、無表情のまま。


「そんなに大事な秘書が人質になっているんだ。どうにかしてみろ」

 そう言った梟は、自身が持つ拳銃P226の銃口を、ビスクドールのこめかみに移動させた。

 リエハラシア軍が採用している拳銃。おそらくは、故郷で使っていたものを使い回している。

 私が納入したであろう銃器が、こうやって使われているのを見るのは達成感があるが、向けられた先がビスクドールであるのは許せない。

 

「私とビスクドールは、そんな下卑た関係ではない。信頼関係で結ばれたパートナーなんだ」

 私は服の中から、護身用に持っていたリボルバーS&W M500を地面に投げ捨てる。

 ビスクドールが目を丸くして、地面に転がる私のリボルバーを見た。


「この娘を殺すのは、マイクロチップの在処を吐かせてから。今のところ、この娘の身柄は安全だ。

 君が乱暴な手段を取る必要はない」

 私はそう言いながら、梟とあの娘を交互に見る。


「なぁ、リエハラシアの梟。少し話をしよう」

 梟の銃口はビスクドールのこめかみに。ビスクドールの銃口はあの娘。あの娘の銃口は私に。誰が一番最初に引き金を引くだろうか。


「狐が死んだ今、お前に価値はない」

 狐と梟は、『ファラリス』の起動と制御のマイクロチップを持つコンビだから、価値があったのだ。


「このまま殺すのは惜しい。お前をこの娘の子守として雇ってやろう」

 仮にも、隣国との戦争で第一線で活動していた狙撃手スナイパー。技能は優秀との評判も聞く。ボディーガードくらいにはなるだろう。

 そして何より、この小娘を今の今まで手懐けていたのだ、使える。


「住居費・諸手当別で月50万ドルから考える」

 ビスクドールの背後にいる亡霊のような男は、口元を笑う形に歪ませ、鼻で笑った。

 条件がリアルな割には、吹っ掛ける金額が現実離れしすぎだ。

「断るなら断るとはっきり言え」

 眉を顰めて、梟を睨みつける。梟の、濃い影の落ちた顔は、薄く笑っているように見える。


「この娘に情でも移ったか? それとも、ベッドでのテクニックに骨抜きにでもされたか?」

 真顔で私をじっと見据えて拳銃を構えている、あの娘に視線を遣る。


「イヴァンともあろうお方が、随分下衆なことを言う」

 くつくつと、低いくぐもった笑いが聞こえる。ビスクドールの顔が強張った。

 耳元でこんな笑い声を聞いたら、さぞ不気味だろう。


「図星だったのか。すまなかった」

 ちらりと、あの娘を見る。

 さっきと同じ構えで、静止画像のように1ミリも動かず、私の一挙手一投足を見つめていた。表情に変化もない。煽った価値がない。


 梟はビスクドールに銃口を押し付け、口角を上げた。不気味な笑みで、不愉快になる。

 私の剥き出しの不快感をよそに、男は薄っすら笑いながら言う。

「お前には礼を言いたいと思っていた」

「私が何かしたかな?」

 これはシンプルに嫌味なのか、それとも本当に礼を言われるようなことをしたのか、真意が読み取れない。


「話すと説明が長くなる。端的に言おう」

 鼻で笑い、男は言葉を吐き出す。

「お前は『神の杖』や『ファラリス』が、さも有用なものだと思わせて、名のある大国たちを振り回してくれた。本当に愉快だった」

 さっきまで亡霊のようだった男は、今は生き生きと喋っている。その様子に、あの娘が少し困惑しているのが伝わってくるほどだ。


 この男が言いたいのは、『神の杖』は思われているような破壊力のある兵器ではない、という話だろう。そう言い切るだけの根拠を、この男は持っているのなら、納得してもいい。

 だが今、そんな話を聞いている暇はない。

 私は舌打ちをする。

 

 ビスクドールと梟、そしてあの娘が並び立つその奥側、木陰に佇む二人組が動き出したのが、視界の端で確認できた。

 外事課の犬どもの群れ。

 

 視界の中にいる何もかもが、目障りで仕方ない。



          *



 大ぶりにカールさせた金色の髪。エメラルドグリーンの大きな瞳。綺麗なアーチ型を描くライトブラウンの眉。陶器人形の名にたがわない、白く艶やかな肌。

 ビスクドールの姿は、生き生きとした輝きを放っていて、夕闇の中で映えていた。

 

 惜しむらくは、背後に人相の悪いがいて、背後から首に手を回され、拳銃P226を突きつけられている、あまり良くない絵面。


 その彼は、灰色の瞳を爛々と輝かせ、口元を綻ばせている。一つに結った黒い髪は、前髪が一房落ちて、額から頬にかけて薄い影をつけている。

 笑って、自分から率先して喋って、いつもよりテンションが高い。

 今の彼は、全てにおいて異質。


「『ファラリス』の性能を知らされた人間はごく一握りしかいない」

 彼の口から出てくる話を、どこまで信じていいのかわからない。

「その一握りに、狐は入っていない。皮肉なのは、実の父親からも、あいつの性格は厄介だと思われていた」

 彼は、狐と同じくらいの年数、『ファラリス』の被験体として過ごしていた、はず。

 研究の詳細を知り得る立場でも不自然はないから、信憑性が出てくる。出てしまう。

「大統領であるアヴェダも、本当の用途を知らない。知るのは、ガイツィナロクナフ博士とサハラ、そして俺」

 私が何もかも素直に話さなかったように、彼も素直に話していなかった。


 これで裏切られたと思うのは、私の身勝手だ。

 

「それは、俺が墓場まで持っていく国家最高機密トップシークレット

 彼は歯を見せて笑った。ここまで笑うのを、初めて見た。やっぱり笑顔は不気味だった。

「お前……!」

 そんな彼の笑顔に、イヴァンのストレスは一気に溜まったようで、硬く握った拳で自身の太ももを叩きつける。

 すぐに拳を叩きつけるのをやめると、イヴァンは項垂れ、肩を小さく揺らし始めた。くっくっと小さな笑い声が聞こえてきた。

 

「ビスクドール」

 イヴァンは顔を上げると、ビスクドールに向かって笑いかけた。

「そいつを殺せ」

 その言葉がきっかけで、ビスクドールは彼の腕から脱け出そうともがき、私に向けていた銃口を彼へ向けようとした。

 彼は動じた様子もなくビスクドールの右腕を掴み、関節をめた。

 同時にイヴァンが地面に落ちたリボルバーを拾おうと屈むのが見える。

 同時に発砲音。引き金が引かれたのは、ビスクドールの拳銃。

 しかし、彼に関節技を極められたビスクドールの、自身の背後の虚空を撃っただけ。


 イヴァンはリボルバーを拾い上げ、彼に銃口を向けようとした。

「あんたが撃つより先に、ビスクドールが撃たれるよ」

 もったりとした動きのイヴァンに言い放つと、イヴァンはぴたりと動きを止めた。

 元軍人とはいえ、現役から遠のいたイヴァンの動きは、彼よりも、そして私よりも遅い。


「どうする?」

 拾い上げたリボルバーの引き金に指をかけず、銀色の髪の男はゆっくりと私に振り向く。

 苛立ち、怒り、屈辱、負の感情の渦巻く灰色の眼。眉間の皺が、深く刻まれている。


 ビスクドールは自分を拘束する腕から逃れようと必死だが、彼はびくともしない。

 その傍で、私とイヴァンは睨み合いをしている。


 頭上の方から、バリバリと轟音が近づいてくるのが、耳で感じ取れる。どんどんと音はうるさくなり、公園の木々がざわめき立つ。

 嫌な予感がした。そしてこの予感は、絶対外れない。


 黒い機影、ホバリングする轟音、吹き下ろしてくる強烈な風ダウンウォッシュ。――イヴァンが保有している、プライベート用のヘリコプター。

 軍用ヘリは、機体が大きすぎて使わなかったのだろう。

 

 空を見上げて、私は呆れるしかない。

「あんたさぁ……嫌な金持ちって感じのムーブをするよねぇ」

 呟いたところで、ヘリコプターの騒音に掻き消されて、イヴァンには聞こえない。

 何かを言いながら、イヴァンは私と同じように上空を見上げて、ニヤリと笑っていた。口の動きを見るからに、「自宅サンクトペテルブルクに帰る」とか、そう言ったのだと思う。

 

 イヴァンは、彼に押さえつけられて身動きの取れないビスクドールを見る。表情に微かに躊躇いが浮かぶ。それは多分、

「あんた今、この状況を打破するためならビスクドールを見捨ててもいい、って思ったでしょ」

 私はイヴァンの耳元で大声で言った。この言葉の通りの考えが、イヴァンの頭に浮かんでいたはずだから。


 私の言葉に、イヴァンは口元を歪ませた。私の言葉に対して何か言っていたけども、この轟音の中では聞き取れない。

 

「それでビスクドールを愛してるなんて、よく言えたよね!」

「お前に、私たちの何がわかる!」

 そんなもの、わかるわけがない。


 敵対し合っているのに、ヘリコプターがうるさいせいで、お互いに何か言いたい時は相手の耳元に唇を寄せて、大声を張り上げているのが、あまりにシュールすぎる。


「このヘリ、うるさいからどっかやって!」

「やるわけないだろうが!」

 ひどく醜い口喧嘩を繰り広げている間、ビスクドールを押さえ込んでいる彼は、じりじりと後退あとずさる。


 ビスクドールは必死でイヴァンに声を上げているのに、イヴァンはヘリコプターの動向に気を取られて気づいていない。


 イヴァンは、あわよくばヘリコプターの足部分スキッドに捕まって、この場から逃げようと考えているのだと思う。

 この時点でヘリコプターから射撃されていないから、パイロット以外は乗っていないと考えていい。

 

「じゃあ撃ち落とさせてもらう!」

 ちらっと頭上から影を落とす、うるさい機体を見る。私はその機体を指差して叫んだ。

 降下するタイミングを計るために、機体はゆらゆらと動いている。


「馬鹿娘が! そんな芸当、フィクションでしかない!」

 そう。アクション映画みたいな、拳銃一丁でヘリコプターを撃ち落とすなんて芸当は、現実的には不可能だ。


 でも、拳銃ではなく、アサルトライフルや狙撃銃スナイパーライフルなら、まだ可能性はある。

 メインローターを撃って、墜落させる。そこまでピンポイントに撃ち抜けるなら、の話。

 

「こっちには腕のいい狙撃手スナイパーがいるんだけど、忘れてた?」

 そう言った瞬間、やっとイヴァンはビスクドールを振り返った。

 そこにビスクドールは、もういない。

 噴水から数メートル離れた植え込みの前で、ビスクドールはうつ伏せになって倒れていた。


「ビスクドール‼︎」

 顔色を真っ青にしたイヴァンは私から離れ、ビスクドールの元へ駆け寄る。

 イヴァンがビスクドールの体を抱え上げたのを見届けた瞬間、私の頭上で機体が揺らいだ。

 全速力で走って、噴水から植え込みを乗り越えて距離を取る。

 ヘリコプターは噴水の中へ突っ込み、質量に押し出された水が溢れ出し、飛沫が一面に飛び散っていった。

 

 顔に飛んできた水を乱暴に拭って、ビスクドールの方へ歩いていくと、イヴァンが己の手を見つめて固まっていた。

 イヴァンは、その手が血に塗れているのを、呆然と見つめている。


 抱え上げられたビスクドールの顔は無傷だった。イヴァンの手についたのは、ビスクドールの体から流れ出た血だ。

 

「この野郎‼︎」

 怒りに満ちたイヴァンの眼。この上なく輝いていた。

 リボルバーの銃口が私を向く。そして引き金を引かれる。さっきとは打って変わって、見違えるように機敏だった。


 聞こえた銃声は二発。

 

 

          *


 

 真咲は顔に飛んできた水を手で拭い、その手を服に擦り付ける。


「誰がここまでやれって言ったかね」

 思わず笑うしかないレベルの惨状だ。

 ヘリコプターが墜落した噴水は、原型を留めていない。

 噴水へ墜ちた後のヘリコプターは、爆発炎上する様子はなく、パイロットがパニックになりながら、脱出しようとしている。

 

「梟ちゃん、イヴァンを殺さないでくれてありがとね」

 ビスクドールのもとに駆け寄ったイヴァンは、渕之辺 みちるを撃った。だが、それよりも僅かに早く、イヴァンを狙って死角から撃たれた銃弾がある。

 その銃弾はイヴァンの右肩を貫通し、イヴァンの発射体勢が崩れた。そしてイヴァンの銃弾は、渕之辺 みちるの急所からずれた。

 

 これが、真咲の目の前で繰り広げられた光景。

 

「どっちも死んだと思ったけど、生きてて良かったよ」

 噴水広場に繋がる遊歩道に植えられた木の一つ、その根本は背丈の低い常緑樹に隠されている。

 真咲が話しかけている男は、そこにいた。


 あぐらをかいた姿の男。

 三白眼の灰色の眼は、咥え煙草で真咲を見た。穂先に火をつけると、癖毛の黒髪を結ったヘアゴムを外し、髪をほぐす。


「みっちゃん、これから救急車で搬送するけど付き添う?」

 他意はなかったのだが、何かが気に入らなかったらしく、男に鋭い眼で睨まれた。

「やだ、怖っ」

「早くあのジジイを連れて行け」

 男は日本語で、救急隊から応急処置を受けながら、杏樹に何か問い詰められている様子のイヴァンを指差した。

「おう、言われなくても連れてくよぉ」

 真咲は困り顔で、薄く笑ってみせた。男は硬い表情で、真咲を睨み続けている。


 噴水広場に向かって踵を返した真咲は、噴水から飛び散った水のせいで、そこらじゅうの地面が濡れているのを見て、引き攣った笑みが浮かんでしまう。

 

 真咲は何かを思い出した様子で、くるっと振り返る。

「梟ちゃんってコードネーム以外に、死神とも呼ばれてたんだって?」

 頷く様子もなく、男は黙って、煙草を燻らせていた。

 その眼や表情に、感情はこもっていなかった。

 

「梟ちゃんはガチの死神だよ。今日だけでどんだけ殺したのかねぇ」

 公園内の死体の数は50を優に超える。

 イヴァンが、人員をそこまで掻き集めていたのにも驚いたが、それ以上に驚いたのは、この男の立ち回り。

 

 決して小柄ではないのに、物陰に隠れた時は完璧に姿を消す。

 ヘリコプターのメインローターを撃ち抜いて、飛べなくさせるという、射撃の正確さ。


 この男と関わり合いになりたくない、と動物的な勘が騒ぐ。ある種の、生理的な拒否感とでも言うべきか。

「もう会いたくないけど、あとで事情聴取だけはさせてね」

 真咲は表面的ににっこりと笑い、男にそう言って軽く手を振る。

 そして今度こそ真咲は、イヴァンが乗せられた担架が進む方向に歩き出した。


 イヴァンの担架に寄り添っていた杏樹に、渕之辺 みちるの付き添いに行くようにと伝え、イヴァンの担架には真咲が付き添う。

「"やっと会えたね、イヴァン=アキーモヴィチ・スダーノフスキー"」

 真咲はロシア語で声をかける。

 笑うと目がなくなり、感情が読み取れなくなる笑み。それを見たイヴァンは、真咲を睨み、忌々しそうに吐き捨てる。

「"クソったれが"」



 

 

 

          *



 



 


 白い天井。

 天井に取り付けられた空調の吹き出し口。

 昼白色の照明。

 指先や胸元に繋がれた管。

 心拍数のモニター。

 

 それが、眼を開けて見えたもの。

 




「焼肉」

 起き上がろうとも思えなくて、天井を見つめたまま、自然と口にしていた言葉。

 焼肉。

 深層心理の中で、食べたいと思っていたのだと、勝手に納得しておく。

 

「みちるぅぅぅぅぅぅぅ」

 ベッドサイドの椅子から立ち上がって、半泣きの顔で私を覗き込むのは、マナトだった。

 マナトの唇の端や頬には、殴られたような痕がいくつか残っている。

「……なんだ、マナトか」

「冷たい対応すぎて泣く」

 このやり取り、いつも通りだ。


「こんなところで暇潰してていいの?」

 噴水広場でイヴァンに撃たれて、それから何時間経ったのかわからない。大口径のリボルバーで肺を撃ち抜かれたから、ちょっとでも上半身を動かすと、傷が痛む。

 

 玖賀くがパパもマナトも、私の父である「会長」を殺しに行っていたはずなのに、こんなところにマナトがいるのは、何故だろう。


 マナトは、何かを握り締めた左拳を目の前に差し出してくる。

「何?」

 点滴の管が繋がっていない方の左手を出し、マナトの拳に触る。

「会長の指輪」

 そう言って、マナトの指が、私の掌に渡してきたのは、内側に血のついたゴールドの指輪。ごてごてしたデザインで、サイズが大きい。

「え、要らない」

 形見のつもりで渡されたなら、要らないとしか言えない。

「そう言うと思ってた。やることやったよ、って見せるために持ってきただけ」

 少し困ったように微笑んだマナトは、すぐに金の指輪を回収した。

 

 玖賀パパとマナト、その一門の人たちは、命懸けでやりきってくれたのだ。

 

「ありがとう。そして、おめでとう」

 私はマナトの手を、軽くポンポンと叩く。会長がいなくなった今、若頭だった玖賀パパが、会長の座を手に入れる。

 目下の者が目上の者を殺す、つまり「親殺し」は、ヤクザ社会でもそれ相応の反発を喰らう。

 この後、跡目争いが落ち着くまで、相当慌ただしくなる。

 

 私の「おめでとう」の言葉に、マナトは一瞬、作り笑いを見せたものの、すぐ顔を曇らせた。

「今度は俺が若頭だって言われてもなぁ……ヤクザなんてガラじゃねぇのに」

「いや、お似合いだと思う」

「えっ⁈」

 至極不満そうな声を漏らした後、マナトは気まずそうに伏し目がちになる。そして、言いにくそうに口ごもりながら話し出した。

「実は、その、秀哉さんのお墓とか、当分、ちょっと手が回らない……と思う」

「だよね。りょーかい」

 なんだそんなことか、と気が抜けてしまった。

 

「お寺さんは、優子さんの時にお世話になったところだよね? 事情説明して、退院してから……やるよ。で、優子さんのお墓に納骨しよう」

 正直なところ、生き延びられると考えていなかったから、秀哉さんの葬儀や遺骨の扱いをちゃんと想定していなかった。

 マナトに話しながら、今後の対応を思いついたような状態だった。


「悪いな、肝心な時に手伝えなくて」

「十分助けてもらった」

 マナトがここまで申し訳なさそうにする理由は、ないのに。


「マナト」

 私が目を覚ますまで病院にいろ、と玖賀パパから言付けられていたマナトは、いそいそと帰る準備をし始める。

 私はその背中を呼び止めた。

「ありがとう」

 ぴた、と動きを止めた背中。後頭部が小さく上下して、一回頷いたのがわかる。

「また落ち着いたら、飯でも食いに行こうな」

 マナトは背を向けたまま、そう言って病室を出て行った。

 

 これがマナトとの今生の別れになっても、会話があまりに日常すぎて、今日のマナトがどんな顔をしていたかすら、忘れてしまいそうだ。

 

 人の記憶なんてものはあやふやで、私はもう、優子さんの手の温もりや声を思い出せない。

 秀哉さんと、「みちる」として会話したのがいつだったかも、思い出せない。

 それがいいのか、悪いのか、私にはわからない。



 

 

 マナトが出て行って、しばらくして病室に入ってきたのは、いつぞやの外事課の女性。

 薄い茶色の髪のセミロング。上下黒のパンツスーツ。スカイブルーのブラウス。力強い黒い瞳。

 彼女の名前はたしか、加野さん、だったと思う。


「少しお話しを、聞かせてもらっていい?」

 加野さんはそう言いながら、さっきまでマナトが座っていたパイプ椅子に座って足を組み、厳しい顔で私を見つめる。

「断ると厄介な目に遭うんでしょ? いいよ」

 加野さんは、前に会った時に比べると、随分堂々とした佇まいになっていた。なんとなく、真咲さんの雰囲気に似てきた気がする。

 

「この話は、オフレコです」

 記録には残らない。そう前置きして、加野さんは苦しそうな表情を見せる。


「狐は、最期に何か言っていましたか?」

 最初に尋ねられたのは、狐のことだ。意外だと思った反面、加野さんは狐と繋がりがあって、しかもその繋がりは、恋愛感情と肉体関係込みのものだったのだと、察した。


 それならロマンティックな言葉を、捏造した方がいいんだろう。

 でも、狐が死に際、恋人に何か言い残すような人間だとは、どうしても思えなかった。

 

「狐は最期まで、復讐ばかり口にしてた。残念ながら、ロマンティックな男じゃなかったよ」

 たった一言、嘘を言えば良かったのに、何の救いもない本当のことを言った。

「……そう、でしたか」

 加野さんは、顔を強張らせて数秒黙り込んで、それから呆れたように笑った。

「やっぱり、彼ってそういう人ですよね」

 加野さんは笑いながら、指先で目元を拭う。


 

          *



  

 この年の5月、関東一円で最も勢力を誇っていた指定暴力団の会長が、自宅敷地内で襲撃され、射殺された。

 その後、主犯格と思われる、当時若頭であった暴力団員の男が会長の後継者となった。

 新会長のもと、大規模な組織再編が行われた。その余波で、現在においても関東エリアでは暴力団員同士の事件が多発している。


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