10. Born to Run


 5:33

 

 12時間後には、スコルーピェンと顔を合わす。

 自分はソファで横になりながら、フチノベ ミチルは床に座って、リーシャロからもらった構造図をお互いのスマートフォンで確認しつつ、計画を立てていた。

「下のフロアの部屋を偽名でチェックインする」

 下の部屋から上階へ侵入する方法を考えたが、

「ハイクラスホテルの人気をナメたらダメ。今日の今日、予約が取れるものじゃない」

 フチノベ ミチルには即座に否定される。


「下のフロアに押し入るのも避けてください」

 最悪、そうするしかないと思っていた方法はことごとく却下され、思わず舌打ちが出た。

「なら屋上。レストランバーが併設されているから、立ち入りができる」

「65階建てのさらに上ですよ? 無茶しますよね」

 フチノベ ミチルは高所が苦手らしい。自分で自分の両腕を抱き、鳥肌を抑えようとしているようだった。

 もちろん、自分だって好き好んで屋上から降りようと思ったわけではない。


「お前はフロアに入ったら、蠍とヒナカワの位置を確認」

 はい、と素直に返事がくる。

「ヒナカワの確保がお前の仕事だ。あとはこっちがやる」

 間違っても、この女に事態を掻き回されたくない。あの日と同じになってしまう。

「了解」

 そう言ってしっかりと頷いた女の眼は、まるでこちらを安心させようとするように、まっすぐ見つめてくる。

 

 

        ****



 17:01

 スイートルーム専用フロア。


 屋上のレストランバーに入るふりをして、転落防止柵にハーネスをかける。

 そこからスイートルームの窓の位置まで降りる。これはさすがに故郷でも経験したことのない高さで、下を見ないように心掛けた。


 窓を割り、室内に入り込んだが、予想通り室内には誰かがいる気配はない。となれば、フロアの廊下部分で待ち構えているのだ。


 拳銃P226片手に慎重にスイートルームのドアを開けると、あっという間に視界は白い煙に包まれた。

 発煙手榴弾の煙で、自分が居る空間の目の前4インチの範囲も見えなくなっていた。


 フチノベ ミチルと自分が、このフロアに姿を現したタイミングで煙幕を一気に張って、ある程度の当たりをつけて、ありったけの弾を撃ち込んでこられる。


 蠍が派手好きなのは昔からだが、ここまで派手にやるほどイカれていると思いたくなった。


 頬を何かが掠めていく。何が掠ったかは言うまでもない。そこから一瞬やんでいた銃声が再び連続して聞こえてくる。弾薬の再装填が終わったのだろう。


「”やり方がみっともねぇな”」

 思わず母国語で呟くほど、呆れてしまう。

 蠍が持つのは、おそらくだが、発煙手榴弾や手榴弾の類と拳銃一丁。

 潤沢ではない装備をここで使い果たすつもりだろうか。向こう見ずにも程がある。


 舌打ちしたいのを堪え、煙を避けるために屈んでいた自分の頭上から、陶器の割れる音がした。壁の飾り棚に設置してあった花瓶が割れ、破片がぱらぱらと降ってくる。


 耳障りなBGMは、天井から降り注ぐスプリンクラー、警報機のアラーム、発砲音。

 

 クソったれが。


 屈み込み、壁に沿って息を潜めて、フチノベ ミチルと打ち合わせた地点までじりじりと進む。

 こちらに10発は撃ってきたが、銃声が止む。もう弾薬を使い果たしたのだろうか。


 それでもあのガキは、余裕がない癖にこの状況を心底楽しんでいるに違いない。


 白い煙の中、明らかに動きの鈍い人影があった。しかも、手を伸ばせば届くような距離に、その人物はいる。


 腰が抜けたのか、力なく座り込んでいる。手に何か持っている様子はない。


 薄茶色の髪を肩まで伸ばした、茶色い瞳の大人しそうな少女。フチノベ ミチルと一歳差だと聞いたが、それより幼く見える。

 少女の横顔は、目の前の光景に釘付けになって、ここに自分がいるとは気づかれていない。


「静かに」

 座っている女の真横から手を伸ばし、ヒナカワと思われる人物の口を塞ぐ。強引に体ごとこちらを向かせ、尋ねる。

「ヒナカワだな」

 ヒナカワはぶるぶると震えながら、涙を流して何度も頷いた。

 色素の薄い茶色い髪と眼。その瞳は震えながら、自分を見つめている。完全に怯え切っていた。座り込んでいた床には、蠍がヒナカワへ護身用に渡したのであろう拳銃が置いてある。


「騒がなければ殺さない」

 まるで悪役みたいな言い方だと我ながら思った。

「何度も言うが、殺す気はない」

 反抗する気も失せているだろうヒナカワに、銃口を突き付けるのは申し訳なかったが、状況が手加減を許してくれないのだ。

 観念した様子のヒナカワは、さっきまで見つめていた方向へ視線を遣る。

 

 ヒナカワが見つめていた方向には、白い靄のかかった空間に二つの人影が見え隠れしていた。

 一つのその影は身軽に宙を舞い、もう一方の影が動くたびに身を翻しては飛び跳ねる。

 煙の中で垣間見える様子は、まるで空手か何かの拳法の組み手だ。


 ナイフがぼんやりと光を弾いたのが見えて、ナイフを持った人間の場所がわかった。


 あのナイフの捌き方は蠍だ。

 訓練で得た技術を、勝手にアレンジしたやり方だから、見ればすぐわかる。

 蠍が目の前の相手に気を取られているうちに狙いをつけて撃ちたいが、今はヒナカワをの制止を優先するしかない。


 言い聞かせた通りじっとしているヒナカワを注意しつつ、自分の視線もヒナカワが見ている方へ向ける。


 あの身軽に跳ね回って、蠍と近接戦をこなしている人影は、フチノベ ミチルなのだ。

 あの女がここまで動けるとは、聞いていない。

 

 ほんの僅かな隙を突いて、蠍の背後にフチノベ ミチルがポジションを取った。この立ち回りは見事としか言えない。


 フチノベ ミチルの右腕が背後から蠍の首を絞め、左手の拳銃は蠍の頭に狙いをつけた。

 咄嗟に蠍は、ナイフをフチノベ ミチルの右肘から下を刺した。

 それと同時に発砲音が響く。


 ヒナカワの甲高い悲鳴が、口を塞いだ手をも通り越していき、耳をつんざく。

 

 フチノベ ミチルは右腕にナイフが刺さったまま、蠍の首から手を離さない。

 刺された弾みと、蠍がもがいて狙いがずれた銃弾は、それでも蠍の右肩を撃ち抜いた。


 フチノベ ミチルの左手の拳銃が蠍の頭を再度狙おうと動く。

 ナイフが刺さったところからフチノベ ミチルの血がぼたぼたと垂れ、蠍のシャツを濡らしていた。

 蠍はナイフの柄を掴み、引き抜く。

「渕之辺さんっ」

 蠍とフチノベ ミチルの姿を確認したヒナカワが叫んだ瞬間、フチノベ ミチルの注意が逸れる。そのせいで引き金を引き損ねた。

 この女は詰めが甘い。


 すぐに身を翻した蠍は、フチノベ ミチルの腹部に蹴りを入れ、左手の拳銃を払い落とす。

 フチノベ ミチルが体勢を崩して膝をついたところで、その頭を掴んだ蠍は、フチノベ ミチルの首筋に血がついたナイフをぴったりと突きつけた。


「久しぶりだな、フチノベ」

 痛みに顔を歪ませながら、名前を呼ばれた女は蠍にニヤッと笑ってみせた。

「会えてうれしいよ、"蠍"」

 フチノベ ミチルは、蠍と言う時だけリエハラシア語で呼ぶ。発音が上手いのは、自分が話すのを耳で聞いて慣れたからだろう。


 ヒナカワは口を塞ぐ手を引き剝がそうと爪を立てて引っ掻いてもがく。それでもびくともしないのを悟って、噛みついてきた。

「じっとしろと言った」

 大して痛くもなかったが、このまま暴れられても面倒臭かった。突き付けた銃口を強めに押し付けながら言うと、大粒の涙をぽろぽろと流しているヒナカワがビクッと肩を揺らす。


「シラユキ、やめとけ」

 フチノベ ミチルを跪かせて、圧倒的に優位になった蠍は、こちらを見る余裕ができていた。だが、自分に視線を向けてこない。

 ヒナカワを殺すわけがない、と足元を見られているようで、腹が立つ。


 フチノベ ミチルは一瞬、視線だけをこちらに向けた。ヒナカワと、そのヒナカワに手を噛まれている自分を確認して、口を開いた。

「ねぇ蠍」

 運が悪いことに、フチノベ ミチルの拳銃ベレッタ92は、蠍の足元側に落ちている。

 ヒナカワの座っている場所のそばに一丁転がっているが、足で蹴とばしてフチノベ ミチルのもとに運んでやるにも、体勢的に無理がある。ヒナカワがここにいるからだ。


「ヒナちゃんだけは帰らせてあげようか?」

 蠍の表情が、曇る。フチノベ ミチルからの提案に、明らかに動揺していた。


「あんたの悪ふざけには、その後でいくらでも付き合う」

「嫌です」

 だが、ヒナカワは口を押えられながらもはっきりと拒否を表し、首を何度も大きく横に振る。

 蠍の顔がヒナカワに向く。それを見たフチノベ ミチルは自らの腰に手を伸ばし、何かを手に取る動作をした。

「クランと一緒に行く!!」

 くぐもった声になりながら叫ぶヒナカワの口を押えるのを諦め、胸倉を掴んだ。何も知らないお嬢様は、現実がわかってない。無知とは罪だと苛立ってしまう。


「ガキどものお遊戯に付き合ってやる暇はない」

 ヒナカワに対して放った自分の言葉に、蠍はさっと顔色を変えた。フチノベ ミチルの首筋に当てたナイフの刃を立てると同時に、蠍は右手手首をナイフで切られた。首を掻き切る力が入らず、蠍のナイフは床に転がった。


「”てめぇ”」

 蠍は、隠し持っていたナイフで反撃を仕掛けたフチノベ ミチルの顔を蹴り上げた。

 蹴られた瞬間、大きく傾いだ体は、すぐに元の位置に戻った。


「……痛くしないでってば」

 痛みで眉間に皺を寄せている癖に、へらへらと無理して強がっていた。

 傍観者になるしかないヒナカワは、泣き叫んでいる。

「"趣味が悪い"」

 思わず母国語で吐き捨てた。

 蠍が始める気分の悪いショーの観客になる気は、さらさらない。

 この不愉快な状況を見るくらいなら、自分以外の全員この場で死んでもらいたい。


 蠍がこちらを見て、静かに笑みを浮かべた。とても楽しそうな、輝いた笑顔だった。

「"面白い顔してるじゃん"」

 母国語。自分に向けた言葉だ。

「気が変わった」

 蠍はそう言って、またフチノベ ミチルの顔を蹴る。

「あんたと話がしたい」

 ナイフを持っていたフチノベ ミチルの左手を捻り上げ、蠍はにこやかに微笑んで見せた。


 それを見たフチノベ ミチルは鼻で笑った。

「いいね、あの日の話の続きをしよう」

「おい」

 声を荒げた。何を言い出している。今日この場でのフチノベ ミチルの役割は、ヒナカワを連れて帰るだけだ。

「バケモノはそうでなくっちゃ」

 蠍は満足げに顔を綻ばせ、フチノベ ミチルの左手の人差し指を本来曲がらない方向へ曲げ、折る。微かに漏れた悲鳴はヒナカワではなく、フチノベ ミチルだ。

 

 どこまでも気分が悪いショーを見せられている。

 

「人質が増えたよ」

 蠍がにっこり笑いかけてきた。ヒナカワにでなく、自分にだ。

「ね、どうする?」

 この趣味の悪い子供に言い聞かせるためには、ヒナカワを目の前で殺してやるのが一番効くだろう。引き金にかけた人差し指に力を込めようとした。


「サバちゃんはここで帰って」

 フチノベ ミチルの声は焦っていた。目を見開いてこちらを止めようとする顔は、威圧感すら覚えた。

 相手への威圧がこもった、殺気立った様子。大統領府で見た姿に近かった。


 当初の計画から大幅に軌道が外れていった今、もはやヒナカワを押さえつけている意味もなく、拳銃を下ろす。


 そもそも自分からすればフチノベ ミチルもヒナカワも、助けてやる義理はない。

 

 この例えようのない不快感に目を瞑れるのなら、の話だが。

 

「行くよ」

 蠍が声をかけると、ヒナカワが蠍のもとへ一目散に駆け出していく。

 美しく若い二人の抱き合う姿は、さながら映画のワンシーンに見える。


「どこに」

 その二人のそばで、溜め息混じりに立ち上がったフチノベ ミチルは蠍に尋ねる。

 蠍はヒナカワを大事そうに抱き締めてから、真顔で答えた。

「海だよ」

 その次の瞬間、蠍は発煙手榴弾を再度投げる。


 蠍とヒナカワ、そしてフチノベ ミチルの姿はそこで消える。追いかけるのも馬鹿馬鹿しいと思った。


 蠍が進んでいるのは袋小路で、何もしなければ、痺れを切らして向こうから来るはずだ。


 クソが。

 

 とりあえず、煙草に火をつけて、目の前の白煙がある程度引くのを待つ。



        ****



 エレベータの中、スマートフォンでネットニュースを眺めていると、女のコから電話がかかってきた。

 でも、応答に出るわけにもいかなくて、ジャケットの胸ポケットに、スマートフォンをそっとしまった。


 蠍の待ち合わせは17時って言っていたけど、18時にはサヴァンセから「家に来い」と連絡が来た。

 だからあっさり片付いたのかと思ったら、事態はもっと厄介になっていた。

 

「フチノベ ミチル、あいつは何者だ」

 玄関のドアを開くなり、舌打ちで迎えられる。ドアチェーンを掛けたままで、どうやら入れてくれる気はないみたい。


「いきなり何だよ?」

 不機嫌全開の顔で急に聞かれても、なんの話をしたいのか、見えない。

「あの女は、どういう育ち方をした?」

「育った環境の話?」

 明らかに苛立った言い方に、ますます要領得ない。今日のヒナカワ救出作戦は大失敗に終わったわけで、その話からスタートすると思っていたのに。


「ただの武器商人にしては戦闘慣れしている。途中まで蠍と対等に戦えていたのが不自然すぎる」

 たしかに蠍は、近接戦では非凡な才能を持っていた。

「へぇ? 調べておく?」

 だがいかんせん、人生経験が足りないから、抑えも利かないし、衝動的な行動ばかりする。

 俺の中では、決して有能だとは評価してないのだけど、梟の中ではまた違う評価なのかもしれない。


「むしろ、なんで調べておかなかった」

「そんなの、言われてないもん」

 俺に聞けば何でも情報を引っ張れると思われているのは癪だな、と苦笑いしたくなる。

「クソが。どう考えてもあれは、ただの武器商人じゃない」

「そんなにー? 買いかぶりじゃないのー?」

 適当に答えたら、ドアチェーン分の隙間から苦々しい顔を覗かせている男が、また舌打ちしてくる。

 そろそろ本題に入らないと、期限を大幅に損ねて、今日の出来事の詳細を話してくれないかもしれない。


「で、居場所の情報要る?」

 バタン、と玄関のドアが閉まる。締め出されたか、と思ったら、チェーンを外しただけだったらしく、すぐにドアが開いた。

「要るから呼んだんだ。何回も言わせるな」

 やっと玄関に入れたところなのに、苛立った声が飛んでくる。

 こういう時の梟は、もう本当に扱いづらくて嫌。


 ドスドスと大袈裟な音を立てて歩いて、リビングのソファの真ん中に座った男は、煙草を咥えた。俺を絶対隣に座らせないという確固たる意志が強すぎる。


 床に放置された空き缶に山盛りになっているのは煙草の吸殻。

 同じように床に置かれているのは、手入れと調整を済ましただろう狙撃銃レミントンM700拳銃ハンドガン数丁。ここにあるのは、ミッチーがクガの家に移動させた在庫の一部なんだろう。


 狙撃銃を手に取ると、あまりに持ち慣れないものだから、手にずっしりと重みを感じる。

 梟にとっては、拳銃よりも使い慣れたアイテムだ。


「いくら出せるのかなー?」

 銃口を窓の方に向けて置き、腹ばいになってスコープを覗き込みながら、東京の夜景を眺める。遠目から見た時はキラキラしている光の正体が、ただの車列のライトだったりネオンだったりで、一気に味気がなくなる。


「今回は大きいニュースになってたねぇ」

 灰色の眼が、こちらを睨むために動く。

 蠍と梟、そしてミッチーの大立ち回りは、夕方のニュース番組の放映時間と被っていたから、速報として世間を駆け巡った。

「日本の警察は優秀だし、公安に情報リークしたし、クソガキに関してはすぐ手配されるよ」

 公安の女のコには、ミッチーの名前は伏せた。ミッチーは今のところ、こちら側の人間だ。


「公安にもネットワーク作ったのか。相変わらず仕事だけはできるな」

「仕事以外も順調よ? その言い草ひどくない?」

「いくら欲しい?」

 ボトムスのポケットから長財布を取り出しながら、咥え煙草の梟は不機嫌そうに言う。


「こっちの言い値で。こういう時じゃないと、お前から搾り取れないからね」

「金に汚い」

 吐き捨てられるのと同時に、分厚い財布が頭に向かって投げられた。


 ものすごく感じの悪い挙動をしているけど、梟にとっては「取りたいだけ取っていけ」の意味の行動だ。

 俺は付き合いが長いからそれを理解しているけど、初対面でこんな仕打ちをされたら、二度と関わりたくないと思われるだろう。


「機嫌悪すぎて怖い怖い」

 日本円とドルとユーロが、整然と分別された札入れを覗き込む。

 あるだけのドルとユーロを抜き取りながら、悪知恵を吹き込んでみる。


「でもさ、あのコが蠍と仲良く刺し違えてくれれば、俺たちは手を汚さずに面倒臭いのを一気に片付けられる」

 こいつは少しくらい、狡猾になればいい。じゃないと、俺ばかり悪者になる。


「そうしようと思っていた」

 蔑むような眼で口元だけ笑っていた。梟の笑顔はいつも怖い。

「そう思って、追いかけるのをやめた」

 ただ笑っているだけなのに、邪悪になる笑顔はどうやったらできるのか。

「へぇ」

 俺が相槌を打つのを聞いたのか怪しいくらい、間髪入れずに梟は喋り続ける。

「待っていれば、あいつから連絡が来るのは目に見えている」

 なのに、梟がこうやって武器を揃えて準備しているのは、

「いつも向こうから来てもらっているから、たまにはこちらから行くべきだ」

 何があったか知らないけど、梟の逆鱗に触れたんだ。


「まぁ、今回はがっつり民間人が一人巻き込まれちゃったから、早く動いた方がいいよ」

 ヒナカワという人間がどういう性格なのか知る由もない。

 瞬間的に生まれた恋愛感情で人生を棒に振るには、まだ若すぎるとは思う。


 梟は無言で、燃え尽きかけた煙草を吸殻が山盛りになった空き缶にさらに乗せる。

 崩れそうで崩れない奇跡的なバランスで乗っているのが、妙に面白かった。


「つか、目の前にいたのに何もできなかったの?」

 しかし意外だ。あっさりさっぱり、あのクソガキなんか殺すと思っていたのに。


「ヒナカワが邪魔だった。民間人に手を出せない」

 ライターで煙草に火をつけながら喋るから、声がくぐもっている。

 煙草に火をつけるのを理由に、わざと目を伏せているのには、気づいているけど気づいてないフリをしておこう。


「昔は、民間人だろうが問答無用で蜂の巣にしてたじゃん」

「蜂の巣は言い過ぎだ。必要最低限の弾数で仕留めてきた」


 梟には梟の美学がある。


 蠍みたいな派手なやり方は好まない。ただ静かに確実に、そして徹底的に、邪魔を排除するのがポリシー。

 任務中に偶々出食わした民間人は、例え女子供でも、邪魔と判断したら撃ち抜いた。だから大統領府突入時に、こいつがミッチーを助けたのが不思議でならない。

 任務遂行の邪魔になる、排除されるべき対象だろうに。


 無論、それは母国だから成り立つ理屈で、

「平和な国だと、俺たちみたいな血生臭いやり方は浮いちゃうよね〜」

 日本なんかでやったら、快楽殺人犯と言われかねないから、やりにくいね。


 咥え煙草の男は、心底嫌そうに顔を顰めた。

「勝手に仲間扱いするな。馴れ馴れしい」

 何故か俺の後輩はみんな、何年経っても懐かない。悲しいほど後輩に恵まれていないのは、なぜだろう。


「あぁ、そうだ。アドバイスだけしておくよ。移動に車が要ると思うから、協力頼んでみたら?」

 日本円も半分くらい抜き取る。これは、アドバイス代。


「誰に」

 俺が人のいい笑顔を浮かべたら、梟の顰めた顔が更に険悪になった。これ、言っちゃいけなかった?

「ミッチーが、ちょっと困った時に頼るオトコ」

 フチノベ ミチルが本当に困った時じゃなく、少し不自由を感じた時に頼る少年。何一つ不足がない生活をしている、ジャパニーズマフィアの息子。

 だが梟はピンとこないらしく、眉間の皺が少し減った。


「ミッチーの名前を出したら、すぐ協力してくれるはずだよ。あのは」

 ここまで言って、やっと誰のことか見当がついたらしい。


「何を考えてる」

 警戒を隠しもしない口調で、煙草をふかす男はこちらを見てくる。

 疑念と不審、嫌悪と一縷の望みを込めた眼は、こいつに初めてミッチーの情報を伝えた時以来だったかな。


「あのクソガキが足掻いているのを、派手にぶち壊すのが楽しみなだけ」

「そのクソガキと同じくらい、お前も趣味が悪い」

 悪態には返事はしないで、だいぶ薄っぺらくなった財布を投げ返す。


「おい、ぼったくり過ぎ。半分返せ」

「なら最初から出せる金だけ出せよな! 気前いいフリしといて、このケチ!」

 わかってたけどね、このケチが素直に金を渡さないのは。



         *



 今日の夜半過ぎから雨が降り、風が強まると予報が出ていた。

 見上げれば、黒い雲が夜空を侵食し始めている。

 漂う濃い湿気は、人々に、これから降り出す雨がきっかけで梅雨入りするのではないかと思わせた。



 最近、といっても、昨日から、マナトは煙草に手を出した。

 しかし、まだ未成年であるため、夜中にこっそり自室のベランダで吸う。


 大っぴらに吸うようになった時、煙を吸い込んでむせる姿など見せられない、と一所懸命に練習しているのだ。

 マナトは家庭環境とは裏腹に、やたら小市民的なところがある。


「おい、クガの息子」

 不意に、知らない男の声がした。しかも名前ではなく、「息子」呼びだった。


 眉間に皺を寄せて、マナトは周囲を見回す。

 違和感はベランダの手摺り。黒い手袋をした手が柵を掴んでいた。その次の瞬間、黒い影が物音一つ立てずにベランダへ滑り降りてくる。

 マナトはそれを見て、ベランダにへたり込んで絶叫しようとしたが、眼前に真っ黒な銃口を見せつけられ、硬直した。


 暴力団の若頭の息子とはいえ、「チャカ」や「飛び道具」と呼ばれる代物を面と向かって向けられるのは、初めてだった。

 

「お前に危害を加える気はない」

 だが、危害を加えないと言いながらも、銃は離さない。


 銃口を向けてきたのは、背の高い男。長い手足。目つきの悪い灰色の三白眼。

 ウェーブのかかった黒い髪を一つに纏めて結って、髪はさっぱりしていたが、季節外れの薄手の黒いコートに、くたくたに縒れたシャツ諸々、決して清潔感は無い佇まいだ。


「え、と、あの、なんとかシアの誰……?」

 この男の名前は知らないが、幼馴染の母親が死んだの人間なのは調べがついている。


 舎弟を動員して調べさせた時に見た写真では、髪を下ろして眼を隠していたせいか、こんな射抜くような威圧感のある眼をしているとは思わなかった。

 しかも、ここまで日本語を話せるのも知らなかった。


「頼みがある」

 男は灰色の眼を細め、突然言い出した。

「な、何を?」

「ヒナカワ シラユキを知っているだろう」

「ひ、ヒナ? 知ってるけど?」

 知っているも何も、雛川白雪は、マナトと幼馴染みが通っていた高校の後輩だ。

 あまり周囲と深い付き合いはしない幼馴染が、例外的によく可愛がっていた、一学年下の少女の名前だ。幼馴染と一緒に居る時間が長かったマナトも、結果的に雛川 白雪と仲良くなった。


「ヒナカワとその連れに、お前の幼馴染が拉致された」

「へ⁉︎」

 男からさらっと出てきた言葉に、マナトは一瞬首を傾げ、次に裏返った声を上げた。

「ヒナカワがお前の幼馴染の居場所を知っている。もしくは監禁している」

 淡々と無表情に、声音に一分の乱れもなく、男は喋る。

 話の内容の突拍子なさに反比例した、静かな語りは、マナトには不気味だった。


「これからヒナカワのところに行く。車を貸せ」

 マナトはぶんぶん、と大きく首を横に振る。

「ちょっと待て、意味が、あと、経緯がわかんねぇから、そこ説明しろよ」

「簡単に言うと、お前の幼馴染の仇は、俺の知り合いだ。

 俺の知り合いが癇癪を起こして、お前の幼馴染を拉致した。俺の知り合いはヒナカワと恋仲で、ヒナカワが唆されて拉致にも関わった」

 いつの間にか煙草を咥え、銃をしまい込んだ男は、ざっくりすぎるほどざっくり説明する。


「おっさんの知り合いがヒナの彼氏で、ヒナの彼氏がおっさんの知り合いで、知り合いの知り合いがみちるを拉致って?

 みちるの仇って、あれ、誰の知り合い⁇ ん? 仇が誰?」

 ざっくりすぎた説明では、残念ながらマナトには話を正確に理解出来なかった。


 男は、一瞬困惑したような表情を見せてから、また無表情に戻った。

「すまなかった。まさか、ここまで頭が悪いとは思っていなかった。今の説明は忘れてくれ」

「今、すっげぇ馬鹿にされたのはわかったからな、クソオヤジ‼︎」

 あまりの言い草にマナトが吠えると、男の腕が素早くマナトに伸びてきた。

「こちらとしては、今夜中に収拾をつけたい。お前も幼馴染が心配だろう?」

 自分より30センチは背が高い、目つきの悪い男に胸倉を掴まれた。

 抵抗する間もなく、そのまま持ち上げられ、マナトの足は宙に浮く。


「お前に任せる仕事は、車を用意だけだ」

 マナトは必死に、男の手に爪を立てたり、足をバタバタもがいてみる。だが、男は表情を変えず、大木のように動かない。

「なら、俺もついていく‼︎」

「上手く立ち回る頭がないなら、留守番してる方がいい」

「おれがついていくのがっ! 車貸す条件!」

 マナトは必死に喰らいつく。男はマナトを睨みつけ、舌打ちをする。

「煙草の吸い方も知らないガキは、チョコレートでも食ってろ」

 咥え煙草のくぐもった声で、吐き捨てられるのと同時に、乱暴に胸倉から手を離された。

 マナトは派手にベランダに尻餅をつく。

 

 暗闇の中で獲物を仕留める獣の如く、気配も隙もない男に見下ろされて、マナトは思わず後ずさる。が、背中に窓が当たって下がりようがない。


 目の前で煙草をふかす男のプレッシャーのかけ方は、武闘派の「若頭」として権勢を振るう父親の姿とよく似ていた。直感的に、この男が苦手だと思った。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る