11. Noisy boy
*
故郷の道路は、ところどころ穴が開いて、道端の舗装はガタガタになっていた。だから、走り心地が悪かった。
この国は、そういう道があまりない。
少なくとも、今まで走っている中で感じてはいない。
トンネルに入ると、オレンジ色の光が車内をぼんやり照らす。
こちらから流れてきた煙草の煙を、端正な面立ちの若い男は、嫌そうに手で払う。
「ところでおっさん、何者だよ」
このマナトという男は言葉遣いが悪い。
育った環境のせいだろうが、この態度がささくれた神経に障ってくる。
「俺自身もよくわからない」
クガの家にあった車のうち一台を拝借して、助手席にマナトを乗せていた。
「は⁇ もしかして記憶喪失系?」
こういう言い回しに腹が立つ。
背丈はフチノベ ミチルより10cm以上小さい。眼が大きく、黒目が際立って見えた。
「国籍も名前もない。何者と聞かれても答えようがない」
「意味わかんね」
随分苛々した顔で、マナトは視線を窓の外に向ける。
流れる景色にどんどん緑が増え、街灯が減り始めていた。夜の闇が色濃く見える。
重苦しい無言の時間が続く中、マナトは時々、手元のスマートフォンでヒナカワやフチノベ ミチルの番号をコールしていた。何回目かの繋がらない電話に、深々と溜め息をついた。
「みちるとヒナの携帯、まだ圏外だ」
「だろうな」
自分は、端から繋がるなど思ってはいない。隣に座る青年がしているのは無駄だ。
「どこ向かってんの?」
マナトが少し不安げに尋ねてきた。
今は、対向車もまばらな、カーブの多い山道を延々走っている。
「ヒナカワの別荘」
灰皿代わりにしていた空き缶に、煙草を捨てる。
「お前はヒナカワを確保したら、家にでも送ってやれ」
新しい煙草を咥えて、手持ちのライターで火をつける。
他人の車を借りると面倒だと思うのは、カーステレオにチャイコフスキーが入ってないことだ。
聞く気もないラジオを流して気を紛らわせる。
「ヒナだけ? みちるは?」
マナトが幼馴染を心底心配しているのが、よくわかる。
「これからの話だが、ヒナカワの別荘に着いたら、30分以内に確保しろ」
いよいよ、別荘が立ち並ぶエリアに近づいてきたらしく、山の中にちらほらと家々の影が見える。
だが、長期休暇の時期ではないせいか、灯りがついている家は見当たらない。
「何だよ、その制限時間」
マナトは眉間に皺を寄せて、苛立った様子を剥き出しにする。さっきから整った顔立ちが台無しだ。
「それを過ぎたら、ヒナカワが巻き込まれて死んでも、文句言うな」
本当はヒナカワ確保に30分もかけたくはない。
たとえば、曲がりなりにも訓練を受けてきた経験のある
だが狐は前線には出たがらない。
情報だけで状況を管理するのが、あの男のやり方だ。
蠍の居場所の話をしにきた時に、この少年の話も出したのは、狐の代わりに使える駒として差し向けようとしたからだ。
だが、マナトら訓練も受けていない素人だ。任せるのなら、時間は多めにとらなければならない。
「はぁ?」
当然、マナトはあからさまに嫌悪や抵抗のこもった眼を向けてくる。
素直な子供は、映画のようなハッピーエンド、囚われのヒロインを必ず助けると、疑わない。
現実は、救い出す方もただの人間で、最大限の努力をしても、期待を裏切る結果になる方が多い。
「ヒナカワの彼氏は、穏やかなヤツじゃない。恐らく、派手な撃ち合いか、ナイフでの近接戦になる」
「ちょっと待ってよ、ヒナを助ける時に俺が撃たれる可能性もあるじゃん」
「刺される可能性も考えろ」
「やだやだやだ、怖すぎなんだけど、どうすんのこれ⁈」
溜め息しか出ない。マナトのうるささは狐に似ていて、聞いていて疲れる。関わりたくないタイプの人間だ。
ダッシュボードに隠しておいた
フチノベ ミチルから譲ってもらった、武器商人時代の在庫が役に立った。
「ないよりマシだろう」
膝に乗った拳銃を手にして、マナトは引きつり笑いを浮かべた。
「あのー、俺、ヤクザの息子だけど、まだヤクザじゃないし。こんなん渡されてもさ」
「じゃあ返せ」
自分の言葉に、マナトはさらに口元を引くつかせて、苦い顔を見せた。
「つか、これでどうしろっつの」
「撃たれる前に撃て。それだけの話」
これは自衛のために渡すものだ。攻撃は自分の仕事であって、この少年にはヒナカワの身柄確保しか任せていない。
「だからさぁ」
半ば呆れた声で、何か言い返してこようとする。
「使い方はわかるか」
どうせわからないだろうな、と思いつつ尋ねた。
「……わかんない」
ヒナカワも、マナトも、
「日本は平和だな」
自分が彼らの歳の頃は、息を潜めて覗いたスナイパーライフルのスコープ越しの世界が、全てだった。
「おっさんの常識が、こっちに通用すると思うなよ」
その通りだ。
東京のジャパニーズマフィアは、滅多に路上で撃ち合いになったりはしないらしいし、そもそも銃の所持が違法になる社会だ。
故郷との落差が激しすぎる。
*
お前にやるよ。こういうの好きそうだ。
訓練場の裏は喫煙所だった。
寄宿舎の自室に居なければ、喫煙所に居ると言われたほど、自分はよくここに居た。
そこには、自分が指導を受けていた教官も時々、一服しに現れた。
浅黒く日焼けした、故郷では人口が多くないアジア人の、本人曰く「両親ともに日本人」だという男。
笑うと眉毛が下がって、その時だけは人が良さそうに見えるが、普段は鬼のように厳しかった。
喫煙所で顔を合わせる機会は多々あったが、そこで大した会話をするでもなく、配給品の煙草の不味さを話すくらいだった。
だが、その日だけは、何故か突然そんなを言われた。
何を渡す気かと訝りながら手を出すと、その男の掌に握り締められて暖かくなった、猟師の守護聖人・エウスタフィの描かれたメダイを渡された。
『
エウスタキウスだっけ?
正教徒でない教官は守護聖人エウスタフィを、エウスタキウスと呼ぶ。
任務だから標的たるものを撃っているだけなのに、「死神」などと呼ばれるのは納得がいかない、と言い返したが聞いていないフリをされた。
教官は、生徒の習熟の経過は見ず、一方的に課題を突き付けて、クリアできなければその後は見捨ててしまう。
他人の意見など気にしない男だった。だから、自分の話など聞くわけがなかった。
結局その教官は、ある日突然、自分たちの前から消えて、その後どこで何をしているかもわからない。
いなくなる直前に、まるで形見のように渡されたエウスタフィのメダイは、捨てられずにコインケースの中で鈍い光を放っている。
*
「ほら、おっさん」
マナトが不機嫌そうに車のドアを開けて、手にしていた缶飲料を渡してくる。
「コーヒー買ってきた」
偶然見つけた飲み物の自動販売機の前で車を停め、マナトに買いに行かせた。
そのためにコインケースを出した時に、懐かしのエウスタフィの姿が見えて、マナトが戻ってくるまで、しばし思い出に耽っていた。
「つくづく平和だな」
「何が?」
「夜中に自動販売機が動いてても、荒らしにくる人間がいない」
治安が良い国と言われるだけあって、防犯カメラもないであろう山奥の自動販売機は、荒らされずに夜道の中で煌々と光っている。
「まー、何もない山道だし? 確かに自販機荒らし放題かも」
「ジャパニーズマフィアは、そんなしょぼい悪さはしないんだろう」
「わかってんじゃん」
マナトは一瞬、こちらを射抜くような眼をしたが、すぐにいつも通りの生き生きした眼にもどる。
「おっさんて、時々みちるみたいな嫌味言うよなー。似た者同士だから気が合うんじゃね?」
「カフェオレか。甘いのは苦手なんだ」
薄茶色が基調のパッケージデザインを見て、嫌な予感はしていたが、やはりそうだった。
ペットボトルのコーラを手にするマナトへ、飲みかけの缶コーヒーを突き返す。
「おっさん、話聞いてねぇだろ」
「どうせロクな話じゃないだろう?」
「ムカつくなぁ」
否定しないのは、本当にロクな話じゃなかったらしい。
箱から取り出した新しい煙草を咥え、信号が変わるのを待つ。その合間に話しかけた。
「その幼馴染の母親と、お前の父親は元恋人だったと聞いた」
「もう昔の話だよ」
苦笑いを浮かべ、マナトは顔の前で小さく手を振る。
「親父と優子……みちるの母親は、ヤクザとヤクザに武器を売る人、ってだけ」
「その割に、やたら介入してくる」
フチノベ ミチルが養子だと知るまでは、実の父親はマナトの父親ではないかと疑ったほど、マナトの父親はこちらを執念深く探ってきている。
「恩と義理、って言ってわかるかわかんねぇけど」
「なんとなくは」
恩と義理。
要は助け合いの精神みたいなものだと思う。厳密に言うと、もっと細かい違いはありそうだが、自分が把握している意味は、こんなものだ。
「親父はさ、面倒見がいいんだよ。いっときは、みちるをうちで引き取るつもりだったし。母さんがそれは無理、って却下したけど。勘違いすんなよ? 母さんも、みちるを大事にしてる」
マナトの父親は、フチノベ ユウコにそこまでの恩を感じているのだろう。もしくは、まだ愛しているのか。
それを、息子であるマナトに聞くような残酷な所業はしない。
「フチノベ ユウコがリエハラシアに行く前、お前の父親に何か言っていたとか、聞いていないか」
「それが何も。誰も知らないうちに出発してた。それで帰ってきたのは……みちるだけ」
困り顔からしんみりした顔に。マナトのころころ変わる表情を見ていると、嘘をついているとは思えなかった。
「フチノベ ユウコはどんな人間だった」
「みちるの性格を10倍濃くして、すごい酒飲む人。でも明るくて大らかで楽しい人だったよ」
「聞いているだけで、厄介なのはわかる」
自分が関わりたくないタイプの人間だったのは、伝わってきた。
「優子さん、いつも絡み酒で、しんどかったなぁ……」
マナトが少しくたびれた顔をしながら、懐かしそうに話す思い出。それはもう増えない思い出だ。
「おっさんのおかげで、みちるは帰ってこれたって聞いた」
マナトはそう言って、何か言いづらそうに唇をもごもごさせる。そしてゆっくり、言葉を吐き出した。
「そこは、ありがとうな」
ありがとう、という言葉は、ザラザラしたヤスリで自分の何かを削っていく気がする。
耳障りはいい言葉だけに、「ありがとう」は自分の何かを削りながら、遠慮なく脳の中に入ってくる。
マナトの言葉に対しては、相槌すらしなかった。
「なぁ、軍人ってやっぱ強いの?」
「何の話をしたいんだ、お前は」
「え、世間話」
この少年は肝だけは据わっていると思う。妙なところで自信たっぷりだ。
「おっさんと、おっさんの友達のチャラいオヤジって、なんとかかんとかって国から来たんだろ?」
「そこまで調べてあるなら、国の名前くらい覚えられるだろうが」
そうやってマナトやマナトの父親たちが調べた結果がフチノベ ミチルに伝わり、自分は再び遭遇する羽目になった。
正直、現状を思うと苦々しい気持ちにもなる。
一方、マナトはマナトで言いたいことがあるようだった。
「でも、おっさんたちは優子さ……みちるの母親が死んだ時のこと、何か知ってるんだよな」
この青年は、フチノベミチルの母親と繋がりが深かったと言われるジャパニーズマフィアの男の息子だ。
今後、あの日の出来事について、ジャパニーズマフィアまで出張ってくるような事態は避けなくてはいけない。
「無関係な人間が出しゃばるな」
マナトを牽制すると、
「関係ある!」
勢いよく言い返してきた強気な眼差しは、並々ならぬ生気が漲っていた。
「どう関係しているんだ」
今、隣から向けられる視線は、酷く燃え滾っていて、暑苦しいほどの勢いで相手を引きずり込む。
自分が知っているもう一人の黒い眼は、冷たく暗く、にこやかに相手が近づいてこないように線を引く。
同じ黒い瞳でも、印象が真逆だと思う。
「えっと、あの、あれだよ、ほら、その、みちるの幼馴染み!」
マナトが何処か憎めないのは、フチノベ ミチルと違って舌足らずで、はっきり言ってしまうのも気が引けるが、こういう大真面目に馬鹿なところだろう。
「幼馴染だからって、こっちの事情に気軽に口を挟むな」
燃え尽きかけた煙草を空き缶に捨てるのと同時に、吐き捨てる。
「じゃあ、おっさんはみちるの何なんだよ」
注意していないと見逃しそうな脇道を前方に見つけ、ハンドルを切った。
「知るか」
急にガタついた道になり、ボディが大げさに揺れる。自分の言葉は、その音に掻き消されたような気がした。
「じゃ、おっさんから見たら、みちるは何なの」
カーナビゲーションがルートを外れた、と喧しく注意してくる。音声案内が無くとも、表示されている地図が読めれば問題ない。
「おっさん、話聞く気ゼロじゃん」
マナトが大袈裟な舌打ちをする。
*
暖炉の周りにあるソファ。
床には柔らかな絨毯が敷かれ、白を基調にしたインテリアは、余暇を過ごすにはぴったりな、穏やかな空間を演出している。
こんな状況で来なければ、さぞ優雅な時間を過ごせたはずだろう。
クランはそう思いながら、ソファに背を預け、吹き抜けになっているリビングの天井を見上げる。
キッチンでは何かを拵えているような物音がしている。クランは胸ポケットから出した煙草の箱を握り締めた。
「シラユキ、もう帰って良いよ」
クランは、キッチンにいる人影に優しく声をかける。
途端に、キッチンから物音が途絶える。
どんな顔をしているか、簡単に想像がつくからこそ、クランは面と向かって白雪には言わない。
「嫌」
キッチンから聞こえた声は、予想通り涙声で、クランは居た堪れない気持ちになる。
クランが見上げている天井には、天窓がある。ゆっくり確実に進み続ける暗い色の雲から落ちる雨粒が、ぽたぽたと音を立てて窓に当たる。
「このままだと死ぬよ」
「クランだって死んじゃう」
金属が陶器に当たる甲高い音が、二人の間に響いていた。
白雪が持つスプーンは、濃褐色の液体の中を宛てもなく泳いでいる。
「シラユキ、ここまで付き合ってくれたことは、すごく嬉しいよ」
クランはガラス越しの雨粒に向かって、微笑んだ。
「シラユキを死なすために、ここまで来たつもりはないんだ」
白雪の涙は、キッチンに二つ並んだマグカップの一つに零れ落ちる。
「まだ警察も来てない、あいつも来てない。今が帰れる最後のチャンスだと思うからさ」
「嫌だ」
クランが淡々と他愛ない話をするように言うのに反して、白雪は鼻を啜りながら嫌だと言い続けている。
「梟は、敵とみなせば誰だろうと容赦しない。シラユキが相手だって容赦しないよ」
クランの言葉に、白雪はぐっと拳を握り締める。
マグカップをキッチンに置いたまま、駆け出すようにクランの前に現れると、中腰になって彼の体を抱き寄せた。
「私があなたを守るから」
戸惑って固まるクランの耳元に、しっかり囁いた。
「一緒に」
けれど白雪は、次の句を口に出せなかった。
白雪には、どれも現実味がない言葉だった。
そして、実現できない空想を口約束できるほど、白雪は幼くなかった。
クランが白雪の背に手を回すと、白雪は体重を預けるように寄り掛かる。
クランは、自分よりも線の細い白雪の肩に、そっと頭を寄せた。
思っていたよりも冷たい温もり、柔らかな手触りを、意識に刻みつける。
「一緒に……」
なおも言い淀む白雪に、クランはクスクスと笑いながら尋ねる。
「じゃ、あの女を殺して?」
白雪の眼が見開かれる。
「あの女、今なら無抵抗で、素直に殺されるはずだ」
この別荘の納屋に閉じ込めてから、騒ぐでもなく何の動きも見せない、フチノベ ミチル。
時々様子を見に行って、ナイフで刺したり殴ったりはしたが、とどめは刺さなかった。
梟の目の前で、苦しみもがいて死んでいく様を見せてやりたい、とクランが思ったからだ。
青褪めた白雪は、クランから少しだけ身を離し、両手の拳でクランの胸元を叩く。
「できないって知ってる癖に‼︎」
腕の中で小さく暴れる白雪を、もう一度強く抱き締める。
「そう。だから、好きなんだ」
震えながら泣く白雪を、幼子をあやすように抱き、頭を撫でながら、クランは呟く。
クランにとって白雪は、絵空事でしかなかった良心を塊にした存在、美徳を体現したような存在だった。
穢せない、穢れない、真っ白な存在。慈しみ、尊ぶ存在。
「それは、梟って人を好きな気持ちと、一緒なの?」
白雪は鼻声で、『好き』の意味を問う。
クランは困ったような顔をしてから、静かに微笑んだ。その微笑みは、困ったような笑みの方が近いかもしれない。
白雪はその笑みを見て、クランの目の前に見えない壁を作られた気がした。
白雪が力なく項垂れると、突然、固定電話が鳴る。その音に二人してビクッと肩を揺らした。
この別荘の固定電話は、リビングの壁際に設置した背の低い棚の上にある。
着信を知らせるランプが煌々と点き、二人は甲高い音を鳴らす電話機とお互いの顔を交互に見やった。
「……俺が出る」
ソファから立ち上がり、クランは受話器を持ち上げた。
*
夜間の別荘地付近の
ワイパーが忙しなく動くが、それ以上の勢いで雨粒が叩きつけてくる。つけていたFMラジオの音声はノイズ混じりになっていた。
車を、ヒナカワの別荘からは死角になる位置に停め、狐から聞いたヒナカワの別荘の固定電話にかけた。
何コールか待った後、音の質が変わって通話に出たのがわかる。
「ガキのお遊びに大人を巻き込むな。余計な手間をかけさせやがって」
母国語で捲し立てると、マナトが少し驚いた顔をした。
なんとなくだが、この電話は蠍が出るという確信があった。
『来てくれたんだ』
くすくすと笑い声を漏らし、あの少年は言う。
『もっと早く来てよ。シラユキが強情すぎて、今困ってる』
「知るか」
そのシラユキを巻き込んだのは他でもない、蠍自身の癖に。呆れながら煙草を一本取り出して、火をつけて咥える。
『あんた、面白い顔してた』
何の話かと思ったが、思い出すまでもない。
今日の夕方。
自分の顔を見て、蠍は満足そうに言っていた。
「面白い顔をする」と。
『あのさぁ、訓練所にいた頃、"クレヴェラ"って犬がいたじゃん。あんたがかわいがってた犬』
その犬は軍用犬だった。
銀色に見える薄い毛色と黒い毛色が混ざったシェパード。従順で、教えたことをすぐに覚える、聡明な性格の犬だった。
かわいがっていたと言うが、そこにいたら撫でてやるくらいの関わりだった。
『クレヴェラを
そう、この少年はクレヴェラを殺した。
ただそこにいただけの犬に向かって、衝動的に暴力を振るって殺した。その時は、蠍と殴り合いの喧嘩になった記憶がある。
『やっぱりあんた、あの女をそれなりに気に入ってるんだって思ってさ』
舌打ちが出た。思わず煙草のフィルターを噛む。
「だろうな。少なくとも、お前よりはかわいい」
この子供は、自分に注目してもらいたがって、わざと人を怒らせる。
明確な悪意ではなく、ただ構ってほしいから悪戯をするような、子供じみた悪意。
「今から30分でヒナカワを連れ出す。やり合うのは30分後からだ」
『30分もかかるの? 随分ゆっくりしてるじゃん』
蠍は拍子抜けした声を出す。
それもそうだろう、『六匹の猟犬』だったら、敵軍に囲まれているわけでもないのに救出に30分も時間を取るわけがなかった。
「年寄りだから、お前ほど機敏に立ち回れねぇんだよ」
苛つきながら適当に言うと、蠍はおかしそうに笑っていた。
『わかったよ。30分は何もしませーん』
「お前が手を出したら、そこからスタートだ。その時の標的はヒナカワだ」
こんな口約束は守られるわけがない。その時のために牽制をする。
『相変わらず、
蠍も自分も、故郷で教えられてきたやり方しか知らない。
電話を切ると、マナトにスマートフォンを返す。隣に座るマナトは、こちらの顔をまじまじと見つめてくる。
「何だその眼は」
さっきまでの電話と隣からのまっすぐな視線に苛立ちが最高潮になり、マナトに当たってしまう。
「おっさん、なんちゃら語話す時、早口すぎて何言ってるのか聞き取れなかった。ネイティブって感じ」
当たり散らされたのに、マナトはこちらの気も知らず、のほほんとしている。
こうして空気を読まないのも、時には美点になるのだと、マナトを見て初めて実感した。
やはりこの少年は、肝の据わり方が普通じゃない。
「あ、そういえばさ、銃って濡れても平気?」
窓の外の猛烈な雨に視線を向けて、両手で大事そうに抱えている
「問題ない」
そんな
「じゃあ、今から30分以内にヒナを連れてくればいいんだよな?」
「もう1、2分経過したから28分以内」
「細かい」
ドアを開け、車を降りようとしたマナトが、もう一度こちらに顔を向けて尋ねる。
「ヒナカワとこの車で待ってればいいんだよな?」
「そう。なんならもう帰っていい」
ヒナカワとマナトにこの車を渡すと、自分の移動手段はなくなるが最悪、狐に任せればどうとでもなる。
帰り道の心配は蠍を殺してから考えればいい。
「オッケー」
気楽な返事をして、マナトは車のドアを閉める。
バシャバシャと足音を立てながら別荘に向かっていく後ろ姿は、戦線で死んでいった数えきれないほどの年下の兵士に似ていて、縁起でもない想像をしたと思った。
*
納屋には窓が一つだけある。
その窓にも雨は吹きつけていた。
クランが乱暴に納屋のドアを開けると、床に座っているフチノベ ミチルは、怪訝そうに首を傾げる。
「なんでそんな驚いてんの」
クランは女の視界を塞ぐように、前に座る。
フチノベ ミチルを両手を後ろ手に結束バンドで縛り、両足首も同じく結束バンドで縛った。
多少はもがいたらしく、手首足首に擦り剥けた痕がびっしり残っている。
「何かあったでしょ。だいたい一時間ごとに様子を見にくるルーティンを崩したから」
顔には殴られたか、蹴られたような痕がいくつもある。喋れば口の中の傷が痛むだろうに、フチノベ ミチルは淡々と言葉を発した。
「へぇ? あんたって、時計なくても時間測れるんだ?」
フチノベ ミチルに状況を言い当てられて、不快だった。
手にしたナイフをちらつかせ、クランはフチノベ ミチルの脇腹や手足の刺し傷を眺めた。急所はわざと避けたが、出血は多い。
「梟から連絡でも?」
「その通り」
無表情で何もかも言い当てる姿に苛立ちを隠せず、フチノベ ミチルの顔にかかっている長い前髪を鷲掴み、できるだけ無様になるようにナイフを小刻みに動かして切り刻む。
「ヒナちゃんを早く逃して」
髪を切り刻もうが、刺して痛めつけようが、フチノベ ミチルは動揺を見せない。その佇まいがまた、クランの癪に障ってくる。
「だから、そのために今、時間作ってやってる」
「あんたにしては珍しく、まともな判断したね」
白雪とは違う、冷たい黒い眼の女は薄く笑ってみせた。クランはその笑みが憎たらしくてしょうがない。
どこまでも腹が立つ女だが、とどめを刺せない理由がある。
梟の目の前で、苦しんで死んでいく様を見せるためと、もう一つ。
「あんたはシラユキを守ってくれた、それだけは感謝してる」
フチノベ ミチルは、何を言われたかわからない顔を一瞬して、すぐに思い当たったようで、一回頷いた。
「あぁ……それね。有名なセクハラクソ
「シラユキを助けたのがあんたじゃなかったら、もっと感謝できた」
でしょうね、とフチノベ ミチルは目を伏せた。
「俺は守ってもらえなかった」
クランがぼそりと呟いた言葉に、フチノベ ミチルは神妙な顔をする。
「聞いただろ、俺の話」
「さぁ」
「否定しないし、食いついてこないんだ?」
明確に否定しないのは、肯定でしかない。
フチノベ ミチルは何も答えず、感情を見せない黒い眼が、じっとクランを見つめている。
「まぁいいよ」
クランは、自身でも意外なほど冷静になっていた。思い出すたびに感情を乱されてきたはずなのに、今はもう、どうでもいいと思えていた。
どんなに呪詛を吐こうが、もうすぐ決着がつく話なのだから。
フチノベ ミチルが、口元をにっこりと笑う形にした。何かを言おうとしている、と察した。
「梟なんか、もうどうでもいい」
フチノベ ミチルから突然出た言葉に、クランは眉間に皺を寄せる。
「白雪と生き延びる世界線を夢見ている」
そこでやっと理解した。この女は、自分の心の中を言い当てようとしているのだ、と。
言い当てて満足そうに笑みを浮かべるフチノベ ミチルを見て、クランは頭に血が上った。
クランはフチノベ ミチルの首をナイフで掻き切ろうとして、
そのまま、クランの手からナイフが滑り落ちた。
クランは信じられないような顔で、自身の両手を見つめる。その手は小さく震えていた。
フチノベ ミチルがその光景を前に、ゆっくりと瞬きを繰り返している。
一番恐れていた事態が起きたと、クランは思った。
白雪の言葉と存在が、自分の行動を制御していると、気づいたからだ。
震える手でナイフを拾い上げ、クランはゆらりと立ち上がる。そしてフチノベ ミチルを一瞥した後、踵を返した。
納屋のドアが再び閉まるのを見送って、フチノベ ミチルは床に倒れ込む。そしてそのまま、微動だにしなかった。
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