9. Day6-2(It takes two to tango)



 信頼には応えてやれ。


 故郷で、自分たちを教えていた教官が言っていたことだ。


 突入部隊は味方の援護を信じている、だから一分の隙もなく援護をしろ、という意味だ。

 好き好んでお前に背中を預けているわけではない、と余計な一言も常々言われたが。


 その信頼を重いと思ったことは今まで一度もない。自分ができることは、任務を全うすることだけだからだ。



         *



 カーテンのない窓から見える空は、薄く白んできている。4時頃だろうか、と自分のスマートフォンに目を落とすと、4時16分だった。


 自分もフチノベ ミチルも、夜通し起きている。自分は不眠不休で任務にあたることが多く慣れているが、そんな経験もないはずのこの女は、いまだに眠そうな素振りも見せないのが、不思議だった。

 

 感情の見えない黒い眼は、こちらの一挙手一投足を見逃さないように見つめている。


 その視線に落ち着かなくなり、深く息を吸い込んだ。

 それから言葉を吐き出す。

スコルーピェンがいつから、軍の下部組織に入れられたのかは知らない。あいつの出自もいろいろ噂があったが、興味がなかった。将来有望な才能のある子供がきた、と思っていた」

 まだ子供だが、このまま育てていけば、いずれ『六匹の猟犬シェスゴニウス』配属になり、前線で大きな成果を挙げられるだろうと思っていた。

 

「いつからかは知らないが、少なくとも10歳ころには、あいつは元帥マーシャル……ジェセカの玩具だった」

 それを聞いたフチノベ ミチルが、眼を見開いた。

「ジェセカって前に言ってた、サバちゃんの育て親の人? その人が、性的虐待をしてた?」

 少し震えたように見えた唇から、掠れた声が小さく聞こえた。頷くのも億劫で、何もリアクションはしなかった。


「あいつが言ってくるまで、俺はそんな話を誰からも、一度も聞いたことがない。あの人は、俺にはそんなことをしなかった」

 煙草の煙を眺めながら、胸から湧き上がってくる苛立ちの混じった不快感をどうしたらいいのか考える。


 自分のことならまだしも第三者の身の上に起きたことを、当時を知らない人間に語るのは、こんなに不快なものだとは知らなかった。


「あまり考えたくない想像だが、あいつは昔から綺麗な顔だったし、最初からその目的だけに引き取られた可能性もあるだろう」

 フチノベ ミチルが露骨に顔を顰めた。

 文化も言語も異なる異国でも、それこそ世界中のどこでも、児童虐待は忌み嫌われる。だが一向に無くならない。


 戦争と一緒だ。


 発生する構造は全く異なるにしろ、なくせと皆が声高に叫んでいるのに、この世から消えた試しがない。


「それを、本人から告白されたのが、8年くらい前」

 蠍は10歳かそこらだった。


 声変わりもしていなかったし、顔つきは男性的になるどころか、まるで少女のままだった。

 フチノベ ミチルは忌々しそうな表情を浮かべる。

 

 対等な力関係の下には、いじめや虐待といったものは存在しない。それらは、圧倒的な力関係の差があって成立するものだ。

 

「蠍が言ってくる直前に、一回だけ現場を見たことがある」

 それは全く偶然に、覗き見てしまったものだ。蠍は唇を噛み千切る勢いで噛み、それに耐えていた。涙の溜まった青い瞳と眼が合って、思わず顔を背けた。


 頭が真っ白になった。


 そして自分は、元帥を制止することもせず、目の前の出来事を正視すら出来ず、逃げるようにその場を立ち去った。


「その後、蠍から打ち明けられた」

 自分が現場を見ていながら、何もしないで消えたことを知っていて、打ち明けてきたのだろう。

 元帥の前では涙を溜めるだけで耐えてきた少年が、次から次へと涙を流しながら、救いを求めてきた。

 自分はその姿をじっと見つめて、どうするべきか考えあぐねた結果。

 

 お前なら抵抗できるだろう。忘れた方がいい。

 

「あいつの言ったことを全部、否定した」

 何故、と無言の黒い瞳は問いかける。

「信じたくなかった」

 現場を見ていながら、自分は「理想の親」だった元帥を守ろうとした。


 優しく、時に厳しく子供達を指導し、この人と、この人の理想のためなら命を懸けてもいいと思っていた。それを全て否定するような事実は、受け入れられなかった。


「蠍が言った言葉を、嘘だと言った」

 現場を見ていながら、加害者を庇い、被害者を嘘つきと呼んだ。

「蠍が決意を持って打ち明けたことを、封殺した」

 言い終わると、重苦しい空気が肺に入り込んでくる。

「元帥は身寄りのない俺にとって、理想の親だった。今だって、育て親として尊敬しているのは変わらない」

 こちらを射抜くような強い眼差しが向いている。何も言わずに、その黒い眼は責め立ててくる。


「それきり、あいつはそのことについては何も言わなくなった」

 それからというもの、蠍は自分に何かと執着し続け、殺意と愛情の混じり合った憎々しい感情をいつもぶつけてきた。自分は罪滅ぼしのために、それを甘んじて受けてきたつもりだ。


「俺の謝罪は、何の意味もない」

 何をしたところで、いまさらもう遅い。




      *****



 見てたでしょ。

 汚い手で触ってきたジェセカを。

 

「お前なら抵抗できるだろう。忘れた方がいい」


 なら、あんたは抵抗できるの?

 あんたは自分のすべてを否定されても、生きられるの?


 

      *****


 

「そんなことを言われても、まだその人のことが好きなの?」

 ベッドに腰かけている白雪は納得いかない顔で、隣で同じように座っているクランに問いかける。

「何でだろうね」

 クランは意味ありげに微笑んでみせた。白雪は、真意が読み取れずに、少し不安げな眼をした。


 ホテルのベッドに埋め込まれたデジタル時計の表示は、4時21分。

 カーテンの隙間から漏れた光で、少しずつ空が開けてきた気配がする。この夜が明けたら、動き出さねばならない。


「多分、何の感情もなく接してくれたのって、あいつだけなんだよね」

「何の感情も?」

「綺麗とか、ムカつくとか、そういう感情を向けてこない。あいつの前じゃ、俺は手のかかるガキでしかない」

 故郷で、自分のことを面倒臭そうに対応している時も、負い目があるから構っているだけなのがありありと伝わってきた。今でもそうなのだ。


「それくらい徹底して無関心だと、逆に爪痕を残したくて必死になる。絶対に消えない傷の一つや二つ残してやりたい、って思う」


 サヴァンセのことをこんなにも覚えているのに、梟の記憶に自分は残らないのかもれない、と思うと悔しくて、爪痕を残したいと思っている。


 白雪はクランの手に自分の手を重ね、そっと握った。

「シラユキはなんで、フチノベのことが好きなの?」

 いまさらだがクランは、白雪が渕之辺 みちるを慕う理由を聞いていなかった。

 白雪は少し気まずそうに目を逸らしたが、すぐにクランに視線を戻す。

「……私、学校に入学してすぐ、ある先生にセクハラされるようになって」

 高校1年の時だった。担任になった教師が、白雪が入学して早々、やたらとボディタッチしてくるようになった。

「放課後の教室で、二人きりになっちゃって、すごく怖くて、どうしようって思った時」

 夏休みに入る直前、白雪がたまたま委員会活動で帰りが遅くなった日のことだ。

 帰宅しようと、一人で校内の廊下を歩いている時に、担任に声をかけられた。本能的に危機を察知して、白雪は挨拶だけして帰ろうとした。

 だが、担任は仕事を手伝ってくれ、と粘ってくる。明日配るプリントを教室に運ぶだけだ、と説得され、白雪は渋々手伝うことにした。

 大した量でもないプリントを、なぜか担任と二人がかりで運び終え、やっと解放されると思った瞬間、担任は白雪に抱き着いてきた。

 大声を上げようと思っても、恐怖で体が強張って声を上げられない。そうこうしているうちに、無遠慮な手が尻をなぞってくる感触がして、体は勝手に震え出した。

 誰か助けて、と願った瞬間。

 

 教室のドアを勢いよく開けて、スマートフォンを向けながら入ってきた、背の高い女子生徒。

 切れ長の黒い眼に流れるような長い黒髪。色白で整った顔立ちをしていた。

 

 忘れ物取りにきたんだけど、教室間違えちゃったみたーい。ついでに動画も撮っちゃったー。

 

 そう言って、颯爽と現れた女子生徒は、つかつかと歩み寄り、担任の胸倉を掴んだ。

 怯え切った担任は、なす術もなく、白雪から手を離した。

 

「その場で私を助けてくれた。その先生は、渕之辺さんが撮った動画が証拠になって、処分されて学校辞めて。渕之辺さんはその後も何かと気にかけてくれて」

 白雪にとって、その瞬間から渕之辺 みちるはヒーローだった。


「シラユキは、助けてもらえたんだ」

 クランは静かに笑う。

「ごめん」

 白雪はすぐにすまなそうな表情を浮かべたが、クランは小さく手を振る。

「違う。それで良かったと思って、ほっとしただけ」

 白雪とクランの経験は近いようで遠い。

 二人とも同じように助けを求め、クランを守らなかったのは梟、白雪を守ったのは渕之辺 みちる。


 だが、自分と同じ思いをする人間は一人でも少ない方がいい、とクランは白雪を見ながら心の底から思えた。

 白雪は守られた、その事実が自分の鬱屈した思いをほんの少しだけ軽くした気がした。気のせいだとしても、それでいいと思った。

 

「全部カタがついたら、シラユキとゆっくり出掛けてみたいな」

 白雪の柔らかな手の感触と温かい温もりにしがみつきたいという衝動を抑えながら、クランはぼそりと呟くように言う。

 隣にいる白雪はいたずらっぽく笑ってみせた。

「どこに行きたい?」

「シラユキが行ってみたい場所は?」

 どこに行きたい、と問われ、答えに窮して質問し返した。白雪は逡巡するように室内に目を遣り、クランの顔を覗き込む。

「クランが育った場所」

 白雪の茶色い瞳に映る自らの姿は、子供のように頼りない。

 まだ、10歳だったあの時から何も成長していないのではないか、と思うほどに。


「それは無理だよ。内戦が続いてて、連れていくには危なすぎる」

 そしてクランにとって、白雪を連れて行きたいと思える場所ではない。染み付いた記憶と血が、きっと自分と白雪を汚してしまう。

「でもいつか、行きたい」

 白雪は優しく、しかし、しっかりと、言う。

「クランが見てきたものを、知りたい」

「つまらないものばかりだよ。何も楽しくない」

 廃墟、土埃、墓標、腐敗した臭い、砲弾の音。

 この足と手、目と鼻と耳、すべてで感じ取って刻み込まれた故郷の風景。

「じゃあ、もっと綺麗な海が見える場所に行こう」

「いいね」

 白雪と、さらさらとした白い砂浜を歩く自分の姿を想像する。

 

 一面に青い海が広がっていて、水平線と煙のように立ち上っている形の白い雲。

 その場所は晴れていて、気温が高い。

 砂浜に埋もれた貝殻や流木を拾いながら歩き、白雪と実のあるような、ないような話をする。

 

 夢を見る権利は誰にでもある。それを現実にする自由がないだけだ。


「透き通った青い海を見てみたいな」

 砂浜、貝殻、流木、潮の香り、波の音。

 この足と手で、目と鼻と耳で、その風景を感じてみたい。

 

 脳裏に、この世の美しいものを寄せ集めた光景を描きながら、クランはベッドの上に投げ出されていた白雪のスマートフォンを手に取り、白雪に渡す。

「フチノベに電話してくれる?」

 途端に白雪の顔が曇る。

 これから何を話すか、それは今までクランと打ち合わせしてきた。白雪が電話をかけ、用件を伝えるのも二人で決めたことだ。

「……わかった」

 白雪は意を決して、着信履歴の中にある見慣れない番号へ電話をかける。クランが隣で、少し心配そうに見守っている。

 2コール後、相手が出た。


『もしもし』

「……渕之辺さん」

 久しぶりに聞いた、憧れの存在の声に白雪は心拍数が跳ね上がる。

『大丈夫? 元気にしてる?』

 言葉では心配そうにしているが、電話の相手の声は至って平然としている。感情のブレが察し取れない。

『って、詳しく話せる状況じゃないよね。イエスかノーで答えてくれればいいよ』

 こちらの緊張をほぐすように、少し笑ってみせているのがわかる。電話の相手に向けた言葉を出そうとするたびに、スマートフォンを握る白雪の手に力が入った。

「もう、私達の居場所、わかってますよね。狐って人が調べていたから」

『うん』

 電話の相手は動じない。

 クランと打ち合わせていた通りの内容を、白雪は口にする。

「夕方の5時に、そこで会いましょう。来るのは、渕之辺さんだけで」

『わかった』

 言い切る前に、少し食い気味で了解の返事がくる。まるで、ここまで織り込み済みだったかのようだ。


 白雪は眉間に皺を寄せ、心臓の音がうるさいほど全身に響く中、何秒もかけながら口を開く。

「渕之辺さんは、彼を……殺すつもりですか?」

 言葉に出すことも恐ろしい、その単語を必死に絞り出した。


『そうだね』

 相手はさらっと言葉を返してくる。そこに何の躊躇いもない。

「彼と渕之辺さんの間に、何があったかは詳しく、知りませんが」

 厳密に言うと、白雪はそこまで聞き出せていない。

 クランと梟の過去の話を聞いて、それだけでもう白雪の頭の中はいっぱいいっぱいだ。


 電話の相手が、どのようにクランと、そしてクランの因縁の相手である梟と繋がっていくのか、聞き出せる余裕もない。


「もし……彼の身に何かあったら、私は、絶対に渕之辺さんを許さないです」

 電話の相手がクランをなぜ敵視するのか理解できない。

 クランにひどい対応をした相手と行動を共にしているのかも理解できない。


『許さなくていいよ』

 そんな白雪の心の内を見透かしたのか、電話の相手はきっぱりと言い放つ。

『今日、出会い頭に殺してくれもいい。殺されても仕方ないって思ってる。たとえ生き延びたところで、これからも友達でいようなんて言わない』

 電話の相手にだって、きっと事情がある。言外にそのニュアンスを匂わせておきながら、こういうことを平気で言う。

『ごめんね』

「なんで、なんで、謝るんですか」

 白雪の眼から涙が零れ落ちていく。

 この「ごめんね」は、クランを亡き者にしようとしているとはっきり認めているではないか。


『謝っても許されないことをすると思うから』

 お互いにしばらくの沈黙の後、電話の相手は呟くように言った。

「勝手すぎます!!」

 白雪は声を荒げた。隣で様子を伺っていたクランが驚く。

 勝手に連絡を絶って、勝手に連絡をしてきて、勝手にクランを殺そうとする。電話の相手がやることは、すべて身勝手で、怒りと悲しみが同時に襲ってくる。

『……そうだね』

 相手は困ったような顔で小さく笑っている。見えなくても白雪にはわかる。その笑みすら憎たらしく思え、白雪は電話を切る。


 そのままスマートフォンを床に投げると、白雪は膝に顔を埋めるようになりながら、項垂れて声にならない声を上げて泣く。クランはその背中をきつく抱き締めた。

「大丈夫、これが終わったら海に行くんだから」

 クランは優しく囁く。しゃくりあげる白雪の背に頬をつけ、目を閉じながらクランは想像する。

「一緒に海へ行こう、シラユキ」

 青い海を見て、白い浜辺ではしゃぐ白雪が、自分に笑いかけてくる瞬間のことを。

 


          *

 

 

 フチノベ ミチルは床に置いたスマートフォンの画面を見つめている。

 電話が切れる直前まで浮かべていた、困り顔は消え、無表情になっている。


 ツーツーと通話終了後の無機質な電子音が、スピーカー越しに部屋に響いていた。


 フチノベ ミチルに代わって、スマートフォンの通話終了のボタンをタップして電話を切る。

 そのスマートフォンを持って、フチノベ ミチルに差し出すと、ゆっくりとした動きで左手が伸び、受け取った。

 

「サバちゃん」

 手にしたスマートフォンを握り、深い溜め息をついた後、名前を呼ばれる。

「一つだけ聞いても」

 否定を許さない疑問の投げ方だ。何を言われるのかと身構える。

「ジェセカって名前、聞いたことがない。元帥ともあろう人物なのに」

「前にも言った。表舞台に出てきていないと」

 なんだそんなことか、と安心している自分がいた。

「名実共に軍の最高トップだが、本人たっての希望で記録上には何も残していない」

 アステラ・エジュキセンゼ=ジェセカ。

 リエハラシア国軍のトップ。

 政治中枢、軍部中枢で絶大な権威を持つにも関わらず、存在は秘匿され続けた。

 彼は元帥として、対クルネキシア戦争の戦略指揮をとっていた。

 

 クルネキシアと一つの国だった頃から、リエハラシア独立運動にアヴェダと携わり、政府内ではアヴェダと同等の影響力を持っていたが、表立って政治活動しなかった。

 言わば、縁の下の力持ちといったポジションにいた人間。

 

「つまり、どんな悪いことしても、記録にない人間だから何も残らない」

 半分呆れた顔で、フチノベ ミチルは鼻で笑う。

「許されるなんて思ってないでしょ」

 誰に、とは言わない。

「サバちゃんは、蠍のために死んでやる気はない。俺がお前を死なせてやる、って思ってる」

 こちらが黙って聞いていれば、随分な言いようだ。

 燃え尽きかけた煙草を捨て、新しい煙草に手をかけたところで、さらに言葉は続く。

「どうすれば良かったか、って私に聞いたけど」

 煙草の火をつけている間に、反論の言葉を考えてみたが思いつかない。この女が言っていることは、おおよそ合っている。


「その場でジェセカの脳幹を撃ち抜いてやるべきだった」

 どうして、自分にそんなことができると思ったのだろうか。

「そんなことができるわけなかったでしょう? 蠍だって、そう」

 この話は、結局そこに辿り着く。


 逃げようとすればできた、と言うのは簡単だ。それができるような、身体的な、精神的な自由があるならば、の話だ。虐待は、そういった自由を奪った上で起きる。

 

 当時の自分と蠍は、抵抗する手段を持っていなかった。

 

「蠍は、サバちゃん以外の人間には打ち明ける気はなかったと思う。事実を知っている唯一の証人で、何より口が堅そうだし」

 少なくともシャロちゃんよりは信頼できたと思う、とフチノベ ミチルは付け加える。

 会ったこともない割に、フチノベ ミチルの狐への信頼感はかなり薄いようだ。


「自分に一番近い保護者が、自分を守ってくれない。なのに、そこが自分にとっての最後の砦と思い込んでるから動けないっていう」

 フチノベ ミチルは感情のこもらない黒い眼で、感情を込めずに話す。

「虐待って、人それぞれ誰一人として同じ痛みじゃないから、完全に分かり合えることはないけど」

 蠍とこの女自身の経験は、重ならないだろう。そして自分には、想像すらできない。

「足を踏まれた痛みは、足を踏んだ人間よりはわかる」

 わかりやすい例え方だと思った。

 同時に、この女が蠍に同情していることが伝わって、話の雲行きが怪しくなってきている。


「サバちゃんがしたことは、あいつの息の根を止めるには十分だった。サバちゃんはそれをわかっていて、今まで何もしてこなかった」

「俺があいつを慰めて抱いてやれば良かったのか? 謝罪と許しを乞えば良かったのか? 何ができたって言うんだ?」

 苛立ちのあまり、早口で畳みかけるようになった。そこでフチノベ ミチルと数秒、睨み合う。


 そのうち、フチノベ ミチルの鋭かった視線が、まるで憐れまれているような眼差しになり、しまいには困った顔をされる。

「私は、蠍のことが憎くてしょうがない。けど、事情は理解する」

 思った通りだ。痛みの経験を重ね合わせるうち、この女は蠍に肩入れしはじめたのだ。


「あなたを庇わないよ」

 庇わない、という言葉の意味を測りかねている。蠍が今までの自分の行動を糾弾したら、そこに乗っかって責め立てるという意味なのか、蠍と戦闘する際は助け合うつもりがないという意味なのか。


「なんなら蠍に手を貸すつもりか?」

 蠍に肩入れするようなら、この女は自分の戦力にはならない。そう思ったが、そもそもこの女を戦力として見なすこと自体、無理がある。

「それはない」

 そう言ってフチノベ ミチルは、また鼻で笑った。


 フチノベ ミチルは、スマートフォンを操作して、狐からもらったホテルの構造図を開いた状態でそのスマートフォンを差し出してくる。

「今こうして、蠍から連絡がきた。だから、これからどうするかを考えましょう。

 呼び出し場所に、まず私が行くとして、サバちゃんとどう合流するか」

「俺と手を組む気は、まだあると?」

 自分でも言っていて、意味がわからない発言だと思った。


 この女がいようがいまいが、自分は蠍を殺しに行く。共闘などしなくてもいい。


「蠍のことはサバちゃんが一番詳しい。こういう時、どんな行動を取るのかは、サバちゃんに聞くのが最適解ですよね?」

 フチノベ ミチルが最優先にしているのは、後輩の確保だ。そのためなら、肩入れするところがない自分につく。

「それに、言いたくなかったのに蠍のことを話してくれた。その行動には応えようと思いますから」

 後輩のために不本意でも手を組む覚悟をしたのだと思ったが、フチノベ ミチルから意外な言葉が出て、一瞬固まる。

 


 信頼には応えてやれ。

 


 行動に応えるという言葉にも、近しいものはある。

 この女が、自分の行動に対して応えたいというのなら、自分もそれに応えてやるべきなのだろう。


「無駄に義理堅いな」

「そうなんでしょうね」

 義理堅いのは、自分なのか、それともこの女か。

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